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自己紹介
一時保護された当時、私はまだ15歳でした。
このようなサイトをたちあげるのにはとても勇気がいりました。
あまりにもひどすぎる虚偽告発や報道に子供一同、怒りを覚え、本当の真実を伝えられるのは、私たちしかいないと思い、開設に踏み切りました。
よく、「保護された児童は小学校低学年…。」と報道されていますが、
それは、私は当日、ホームオブハートの社長のJ.Kさんと一緒に出かけていたため、妹たちが保護される現場にいなかったからです。ニュースなどで報道されている事と、事実は信じられないぐらい違っているのです。詳しくはこちら→事件のおさらい!
私たちは当然のこと、幸せに暮らしていたので、話せばわかるだろうと思い、私はJ.Kさんと共に児童相談所に向かい、相談所の課長さんに説明したのですが、力及ばず、私も一緒に保護され、2ヶ月間も外に出れなくなってしまいました……。
2ヶ月間もの長い間一時保護所に保護されていたのは、私たちだけでしたので、なぜなのか、しかもなぜ自分たちだけがなんの連絡もこないのか、ずっと疑問の日々を過ごしていました。
やっと、保護所を退所する日が決まり、出てきてみれば、J.Kさんをはじめとしたホームオブハートでお世話になった人たち全員が、[児童福祉法違反]とか[監禁罪]などというまったく事実無根の無実の罪を着せられ、インターネットを開けば、紀藤弁護士がベラベラと自説を語り、ある掲示板では事実を知りもしない人たちが、井戸端会議をしているという惨状でした…。
このことを知った時は、胸が張り裂けそうでした。しかし、すべての事実が、紀藤弁護士をはじめとした大人たちに捻じ曲げられている以上、一番の被害者である私たちが、真実を明かすことで、すべての疑いを晴らしたいと強く思い、ホームページの開設を決心しました。
あの一時保護された日から、私たちの人生も、幸せも、自由もすべて奪った紀藤弁護士をはじめとしたYy・Kk・Caの犯罪性や、私たちがどれだけ幸せに暮らしていたか、発信し続けていきます。
この事件が無事に終わるまでの期間、よろしくお願いします。
一緒に保護された子供達
私の一番目の妹。
事件当時は中学一年生。保護されたのはホームオブハートのオフィスから。
(詳しく言うと、オフィスとスタッフルームが併設されている)
背が低いことで、ご飯を食べていないのでは?というあらぬ疑いをかけられてしまいました。(実際はめちゃめちゃ食べるが、伸びない。食ったモノは果たしてどこに行くのか?さっぱりわからない。)
現在は私と同じく児童相談所の勧めで株式会社ホームオブハートのスタッフとして働いています。
特技はキャラデコケーキ制作。
2番目の妹。当時は1歳の赤ちゃんでした。
帰ってきた当時はもうどうなるか、と思いましたが、すくすくと明るい子に育ち、ほっとしています。
最近は、かわいい盛り<うるさい盛り です(--;)
トシオフィスから保護された女の子。当時は小学6年生でした。
現在は、児童相談所の方の勧めもあり、トシオフィスの関連会社にお勤め中!
生き方を自分で決めてきました
私達5人(2人の赤ちゃん含めて)は、生まれも育ちも別々で、今回のことがあって初めて深く知り合った仲ですが、それぞれいろんな出来事が人一倍ある人生を生きてきました。
何度も、自分の生き方について深く考えるチャンスにめぐり合い、そのたびに落ち込んだり、悩んだり、時には自殺を考えたり、反発したこともありましたが、真剣に自分の生き方を選び、決めてきたのです。大きくなってからも、自分が生きてきた道が、誇りに思えるようなそんな生き方を選んできました。私達ほど自分の人生を自由に選択している子供はいないと、思います。この事件で失ったものはもう取り戻せないものばかりです。
そんな私の素性をここに明かします。
ブーちゃんマンの歴史
私の両親は、仙台市で暮らしていました。私は、平成1年4月2日にいわき市で生まれました。私が1歳の頃に、母の友人から「ワーナー・エアハード」のセミナーを紹介されて、父が参加しました。その後つくば市に引越し後、母がワーナー・エアハードのセミナーに参加しました。妹Tが生まれて、父の転勤のために、新潟市に引っ越しました。その頃にワーナーのセミナー仲間から、倉渕さんのセミナーを紹介されて、父も母も参加しました。その当時は、私は4歳で妹Tは1歳でした。倉渕さんのセミナーで父のアシスタントをしていたNさんと父は、生涯を通して連絡を取り合っていて、倉渕さんが、「MASAYA」として、CDをリリースし始めた1995年当時からMASAYAさんのCDを車や家で聞いていて、父は、MASAYAさんの音楽を何よりも愛していました。
私が小学校2年生の秋ごろ遠足で見た大きな杉の木の絵で、賞を取り、学校の生徒全員の前で表彰された後、続けて工作でも賞をもらい、(このときは絵のときのようにみんなの前で表彰されたわけではありませんでしたが。)このことで誰かに妬まれて、当時スニーカーを履いていたのですが、帰るときに履こうとすると靴紐が抜かれていて先生と一緒にあちこち探した結果、片方はゴミ箱、もう片方は窓からグランドに出されていました。それ以外にも、体操着が袋ごと消えていたこともあり、悲しい思いを体験しました。
誰かが私のことを、妬んでいることは自分でも分かったし、友達からうわさを聞いたりしたので、分かっていました。
ただ、秋の終わりごろからはそんな目に遭うことは、もうありませんでしたので、学校の先生や両親に、そのことを話すこともありませんでした。でも、あまり学校に行く気にはなれず、少し風邪をひいただけでも休もうとしていました。この頃に、父が体調が悪いため、人間ドッグの診察を受けました。1月に父が手術してから、スキルス胃癌に犯されていたことを知りましたが、絶対に治ると信じていました。その頃、学校に行くペースは、月に2回休むぐらいになっていました。 父のお見舞いに行くと、ベットの横には必ずMASAYAさんのCDとCDプレーヤーが置いてあり、私達がいない間はずっとMASAYAさんの曲を聴きながら過ごしていました。
父が亡くなる1ヶ月ぐらい前からは、夏休みと言うこともあり、母が泊りがけで父の看病にあたるようになり、福島の祖父母の家に泊まっていました。その前にもちょくちょく泊まりに行っていましたので、学校を休むことに抵抗はありませんでした。そのときには学校の先生に、「お父さんの具合が悪いのでしばらく学校を休みます」と連絡していました。2週間に1度は新潟に帰り、父のお見舞いに行っていました。お見舞いに行くと、いつも父はうれしそうに迎えてくれて、私はいつも「ひょっとしたらお父さんは治るかもしれない。」と思っていたほど元気でした。父の病室のほうにアシスタントのNさんから電話が来たときはうれしそうに話し、母は「父が自分で電話を取るなんて初めてだ。」と驚いていました。亡くなる1週間前の出来事でした。8月の末にお見舞いに行ったその日の夜に、突然容態が悪くなり、父は亡くなりました。最後に父が遺言として言い残してくれたことは、「MASAYAさんやToshiさんのような生き方を、自分は勇気が無くて、出来なかった。こんな体になって賀江さんの気持ちが本当によくわかった。無我を学ぶことは大切なことだとよくわかった。子供たちは、自分の好きな道を生きなさい。」ということでした。
9月中は、お葬式とかお父さんの会社の荷物まとめがあって、学校をほとんど休みました。
会ったこともない親戚やお父さんの友達や知り合いの人たちから、
「これからは、お母さんや妹さんのことをしっかり支えるんだよ」とか
「お姉ちゃんは、しっかりしているから大丈夫」と言われました。
妹Tは「こんなに小さいのにかわいそうに」とか「これからも辛いけど頑張ってね!!」と言われていました。父が死んだ直後は、私たちのこれからの生活についてのプレッシャーがかなりあって、とても辛かったです。
9月末に久しぶりに学校に行きました。学校に通う日は少しずつ減っていました。朝寝坊をした朝は、あわてて学校に行かずにそのまま休んでしまうような感じで、休む日が増えていきました。父が死んだ精神的なショックがありました。母は教育熱心な人で、「学校に行きなさい。」と、いつも私に言っていましたが、私は断固として行きませんでした。ところが、母も断固として譲りませんでしたから、一時は自殺したい、とまで思っていました。私の本心を母に告げたとき、母は、深く私のことを理解してくれて、それ以来、「学校に行け。」と私に言うことはありませんでした。母は、「自分の教育熱心さが娘を傷つけてしまったと深く気づかされた。本当に申し訳なかった。」と私に言ってくれて、和解しました。
父が死んで1年後に、当時東京都にあったレムリアアイランドレコードで開催された自分を見るアイランドセルフトレーニングに、母と姉妹で参加しました。このトレーニングは、参加している人数も数人で、世界共通のマニュアルを、より小規模の研修程度に縮小した内容になっていました。3日間だけの期間、自分のことを観ることを実習を通してやっていくのですが、その間に何度もトレーニングを降りるチャンスがあります。今回、Yy、Kk、Caはセミナーをやらされているとか無理矢理受けさせられたと言っていますが、そもそもトレーニング自体が、受けたいという強い希望がなくては受けさせてもらえません。トレーニングというのは、自分の意思で受けるものですから、受ける意思が無い人は、当然のこと受けさせてもらえません。トレーニングの途中でもこれ以上続けたくない人は、参加を断ることも可能なのです。あのジョン・レノンもアメリカで同じマニュアルを使ったトレーニングに参加し、あの名曲の「イマジン」を作り出すきっかけになるほどの素晴らしい内容のトレーニングである、と、母から聞きました。YyやKkやCaは結局違う目的の参加者でしたが、YyやKkやCaが初めて受けた当時は、(私が受けた約3年後ですが)自分の心を治したい、と真剣に思いながら、このトレーニングに参加し、関わっていた人全員が、彼女達の心の痛みを治したい、助けたい、と真剣に願い、そこから彼女達とかかわってきたのです。でも、YyやKkやCaたちの金銭取得目的のために、このような騒ぎを起こされ、多大な被害を受けたのが、真相です。
私がトレーニングに参加したのは、これが最初で最後であり、これ以来、一度も参加していません。MIちゃんをはじめとした他の子供達は、トレーニングには、一度も参加したことがありません。
その後、母がホームオブハートに入社し、屋久島のホテルで働くことになり、屋久島の土地を買い、引っ越しました。私達姉妹の家も屋久島にあり、いまだに残っています。
屋久島の学校に学籍もちゃんとありましたが、元から登校拒否でしたので、挨拶をしに1度行っただけでした。学校の先生は、住んでいた屋久島のホテル内の美術館にも訪れたり、またMASAYAさんのコンサートにも来てくださったりしていました。私達の不登校については、「行きたくないのであれば、来なくてもいい、来たくなったときに来ればいい」と言って、見守り続けてくれました。屋久島は、本当に自然の豊かな島で、車で少し行けばきれいな砂浜のビーチがあり、沢山の貝殻や流木を拾いに行き、林に入ればキイチゴが沢山生えていて、かごいっぱいに赤やオレンジ色の実を収穫し、そのまま食べたり、ジャムにしてパンに塗って食べたり、ホテルで飼っているアヒルや猫や犬や馬のお世話をしたり、一緒に遊んだりと、大自然の中、遊ぶ場所も学ぶ場所も豊富にあるところでした。母は、将来は屋久島のエコツアーのガイドにもなれるといっていましたが、私にはどこか引っかかるものがあり、納得できませんでした。もう少し、「自分の能力を生かせるようなことをやりたい。」と思っていましたが、何をやればいいのかわかりませんでした。
そんなときにホームオブハートの本社に母の研修もかねて親子3人で遊びに行きました。本社には、友達でもう既にスタッフになっていたH.Mさんや、MEちゃんがいて、一緒に遊んだりしました。
そして、楽しそうに美しいCDや松田賀江さんの絵本や絵を売っている会社のスタッフの人たちを初めて見て、いままですっきりしなかった自分の将来がはっきりと見えました。「ああ私はあんな人になりたいんだ。」と思い、将来はホームオブハートのスタッフになると、決心しました。
屋久島に戻り、またいつもの生活に戻りましたが、いつまでもホームオブハートの本社のみんなのことが頭から離れず、このまま屋久島に住んでいたら、母が言っていたようにツアーのガイドさんになるだけだと思い、母に本社にしばらく遊びに行きたいと言いました。最初は母も納得してくれませんでしたが、最後には了解してくれて、姉妹で本社に遊びに行くことになりました。
スーツケースに衣類を詰め込んで、集めていたピンバッチコレクションやぬいぐるみコレクションなどは屋久島に置いたままホームステイに行くような気持ちで出発しました。その後は、たまに屋久島に帰ったり、母が研修をかねて東京に来たり、を繰り返す生活を続けていました。
本社での生活は、本当に楽しいことが屋久島に負けないぐらい、沢山あって、みんなでキャンプに行ったり、お花見に行ったり、近くの川に犬を連れて遊びに行ったり、H.Mさんと原宿でショッピングをしたり、山で取れるアケビやきのこや栗を取りに行ったりしました。中でも、うれしかったのは、大量に降る雪でした。もともと私は雪国育ちなので、冬は雪が降らない屋久島よりも那須のほうが好きでした。
新潟に住んでいた頃に比べて、今の私は信じられないほど明るく活発になったと、母やJ.Kさんによく言われます。それはこの自然の中、自由に暮らせたおかげだと思います。
新潟と言っても、住宅地に囲まれた市街地だったので、自然の中での生活はとても新鮮で、本当に幸せな暮らしでした。
ところが、あの日…そう、平成16年4月7日。突然、妹Tと妹UとMEちゃん、トシオフィスではMIちゃんとK君が、児童相談所に連れて行かれ、ホームオブハートの社長さんと外出していたために難を逃れた私が説明しに向かいましたが、なぜか私も保護され、紀藤弁護士やHTPのメンバー達が計画したとおりにさんざん利用されて、今でも大切な人とも友人とも離れ離れの生活を余儀なくされているのです。
私が言いたいこと
「本当は、全てがひとつの世界なのに、人というのは、みんな自分達の信じている観念やトラウマに囚われて幸せな人生を生きずに、競争と戦いで一生を終えてしまいます。でも、そんな苦しい自分の人生に気付いたときにだけ、人は幸せな人生を歩むことが出来る。」とMASAYAさんは言っている人です。このことはMASAYAさんのCDや本のすべてのメッセージに書かれていることです。
人はみんな、よいところも悪いところもあり、自分の悪いところを責め立てて、無理やり直す、ということよりも人それぞれの得意なところを活かし合い、苦手なところは補い合って、共に幸せに暮らしたらいい、と思い生きてきました。MASAYAさんやホームオブハートの社長のJ.Kさんに、このことを学び、私もこんな生き方がしたかったから、精一杯自分の出来ることは担い、将来ホームオブハートの本社スタッフになったときのために、学んでいただけなのです。
それに、自分が出来る事というところから、人のお手伝いを率先してすることは、素晴らしいことだ、と小さい頃に誰もが教わったはずです。なぜ、お手伝いをすることが[強制労働]などと言われなくてはならないのですか?私は、なんの不自由もなく暮らしていたのに突然、一時保護所へ強制的に連れて行かれたり、マスコミに追いかけられたりなど、精神的に被害を受けました。物理的にも多大な被害を私達も私の大切な人たちも受けました。
なぜ、こんな目にあわなくてはならないのでしょうか?