子供たちからの声

このサイトは、紀藤弁護士・HTPのメンバーたちのために、言われもない虐待の疑いをかけられた子供が、
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第一 はじめに

1.私は、平成16年4月7日、突然、児童相談所(以下、児童相談所、或いは「児相」と書きます。)に児童虐待通告をされて、私と2人の妹、それに大切な友人や知り合いの幼児達と、県の児童一時保護所(以下、「保護所」と書きます。)に保護され、そこで2ヶ月間の特異な時間を過ごしました。そして私よりもっと小さな、自分で十分に自分の考えを言えない、私の妹を含む二人の幼児に至っては、8ヶ月を超える期間、完全に親と引き離されました。

2.これが子供と幼児の心にどのような影響をもたらしたか。
この時の実体験、毎日のことを、お話したいと私は考えています。
もしかしたら、この書面をお読みの方は、私たちの件について、先入観をお持ちかもしれません。
でも是非、子供や孫をお持ちであれば、ごく普通に暮らしてきた子供、そして幼児が、突然、親の元を離され、見ず知らずの人(そしてそれは子供を心底好きで、育てた経験があるかどうかも、実はわからない人かも知れません。)と、時を過ごすことになった、こういうつもりでお読みいただきたいと思います。

3.私がなぜ不登校になっていたか、順々にこれからお話しさせて頂くことにしますが、これが仮に「非」であるとして、私たちや、私たちの親に、これ以外に実は何も非はないのです。百歩譲って、子供との家庭生活において、多くの親、そして子供達が経験すること、その範疇を大幅に超えることはない。その程度のことに過ぎません。ましてや、「不登校」となることさえ全く出来ない幼児に、何の罪や非を被せることができましょうか。   それを、私たちは、軽率で、窮極的に何も子供が最大の保護対象であるなどという考えとほど遠い人達に利用され、闘争の道具にされてしまった、未だに何も謝られることもなく、平然とまだ子供達は保護対象であるなどと嘯かれている、そのように思っています。
私のお話を、我慢して最後までお読みいただいた人にはきっとおわかりいただけると思います。

第二 私達姉妹の身に降りかかったこと

1.私の上の妹(当時12才)、下の妹(当時1才)は、突然知らない大人たちに拉致同然に連れ去られました。私の母は、仕事の関係で鹿児島県屋久島にこそおりましたが、私達姉妹の父代わりで、家族同然に思っていた倉渕透さん(以下、「MASAYA」さんと書きます。私の父がスキルス胃ガンで亡くなってからの、私たちの父代わりでした。)、私たちの大好きなホームオブハートの社長のぶたママさんの許から、無理やり引き離されました。

2.「一時保護所」では、誰一人として私たちの事を知っている人などおらず、頼れる人もない、完全に外界から遮断された生活を過ごしました。窓やドアには開閉センサーがついていて、勝手に開けるとそれを逃亡として報せます。生活の殆どを施設内で、監視の下に暮らさざるを得ない監禁のような生活を、何ヶ月間にもわたり余儀なくされたのです。悪夢のような生活から母のもとに戻っても、児童相談所による監視、制限は続きました。
このような経験をした者としては、またいつなんどき、紀藤弁護士による申立による「通告」がなされ、自由が奪われるか、この平和で自由だと思っていた日本で起きたことへの恐怖感から、以前のように心から幸せを感じるような生活をすることは出来なくなりました。
胸の悪くなるようなことに、潔白が証明された筈であるのに、今も尚、この紀藤弁護士は、私たち子供の味方だ、などという欺瞞の態度を続けています。
あの過ちを、私たちの誰に対しても、一度も謝ろうとすらしない人間が、平然と私たちにメッセージを送るフリをして誤魔化そうとしている。そんなことでしかありません。

3.反省もしなければ、人の心の痛みを何とも思わないこの弁護士に対して、多くの人々から「虐待された子供」、「虐待した親」と見られ続けた屈辱、そして長期間の精神的な虐待により、この事件の最大の被害者である私たちからすれば、未だに正義漢ぶった紀藤弁護士こそが最大の加害者でしかありません。
このような人間、人をいたぶり、貶し、間違いがわかっても、別のことを言い募って誤魔化そうとするばかりで、何とも思わないその感性。
紀藤弁護士、そして、山口貴士弁護士、あなたたちのような、自分にとって、自分の依頼者にとって都合の悪いことは、自分たちが正義だとばかり大声を出して、何でもいい絡めてしまうような者が、救世主面をしていることだけは、私は許せません。
一方、番組作りになれば、コメンテーターと名付けられた者に、弁護士の与えた一方的な情報と、身勝手な録画から、言いたい放題のことを言わせる、報道によるリンチとしか言えない、本当に白痴のような番組が横行しました。これは、一時保護所から出ることができてから自分の目で確認し、愕然としたことでした。
これが日本という国だったのか。

第三 その日から

1.平成16年4月7日、これが事件の起きた日です。
父との死別や、学校での虐めなど、…沢山の壁を乗り越えて、心身ともに安定してやっと手に入れた、豊かな自然に囲まれた中での生活、正しいことが何なのか、自分で自発的に学び、考える、そんな自由な暮らしをしてきた合計4人の子供(私、ブーちゃんマン、私の上の妹、シャーマンさん、MEさん)と、2人の幼児(私の妹、T君)の自由は、瞬く間に奪われました。

2.裁判官の皆様、どうか自分の身に起こったことと置き換えて、この私の陳述書を読んでください。私からの切なる願いです。
もし、お子様がいらっしゃるのならば、日々平穏に幸せを感じて暮らしていたわが子が、突然身に覚えのない通告により連れ去られたとしたらどうだろうか、とお考えをいただきたいと思います。

3.子供達が、虐められたり虐めたり、蹴落としあう、信じ合わない、終いには悩んで自殺してしまう、そんな戦場のような学校での戦いに、たまたま巻き込まれた私は心身共に疲れ果て、自らの意思で学校に行かないことを選びました。
私の妹や、シャーマンさんにしても、学校でのストレス、自分の思いや違和感を押し殺しての表面的な生活、喧嘩や競争に疲れ果てて、悩んだ末に自ら、学校に行けなくなりました。
私達は、最後、自分で学校には行かないことを選択しました。

4. 学校に行こうとしない私と妹のことで、母が何よりも心配していたのは、自分が働いている間の私たちの安全です。虐待とは正反対です。
そして母は子供を蔑ろにしたり、逆に子供を教育から遠ざけ軽んじようとしたり、私たちの労働力を無償で誰かに提供させるなどのことからも最も遠い人間です。
また、自分の考えを押しつけられたこともありません。
寧ろ、私と妹が虐めに会っている間、母はただただ、「学校へ行かなければならない」、そういう状態を求めて、私たちにその考えを押しつけていました。子供の精神が危機のとき、そうした態度自体が虐待であり、時に子供の自殺を招いてきたことを、おわかり下さい。
子供の気持ち、子供の教育のことなど、何も紀藤なる弁護士がわかってなど居ない、考えているのは依頼者の、そしてただただ自分の利益と、勝つことでしかない、そのための道にあるものは全て、自分の主張する人権の名のもとに、全て刈り取っていくことでしかない。これは私がこれまでに彼が私たちに対して行ってきたことの総括です。たった一人の子供、たった何人かの子供の生活、気持ちを踏みにじって平気な人に、世の中の何を、どのようにできるというのですか?
一時保護所、児童相談所には最終的に私たちのしてきた生活の全て、誤って伝えられていたセルフトレーニングのことを受け止めて貰って初めて、理解してもらえたと思います。

5.MASAYAさん、ぶたママさんたちは、私たち親子の心の状況を知って、母や私たちとも何度も何度も議論をして、学校に行かない分、母のもとで安全に暮らせ、教育の面でも劣ることのないように、そして本当に正しいと自分で思えることを、自分の力で学べるよう、好きなところで暮らすことを提案してくれました。誤解されないように申し上げておきます。
どんな親でも、多分私も、子供を持てば同じようにすると思いますが、母やMASAYAさん、ぶたママさんたちも、折々に私たちが学校に通う道を選択することが出来るように、努力をしてくれていました。
そんな気持ちになっている私たちですから、このことは痛いほどによくわかるのです。
しかし、学校にはもう行きたくないという私たちの気持ちを感じているので、無理やり学校に行かせるようなことはしないでくれている、ただそれだけのことだったのです。「なぁ、学校はいいのか?」とは、MASAYAさんからの時折の声掛けです。

6.私たちは沢山のスタッフの方々に愛され、温かく見守られながら、まるで家族のように暮らしてきました。
そんな安全な暮らしを脅かされ、紀藤弁護士達の手により、大切な人達のもとから引き離されました。沢山つらい思いをし、心に沢山の傷を持ちました。
人のことを何も知らないで批判すること、言及することはいけない、そのことも本当に実体験として学びました。
だから、人の言うことによってではなく、自分で何をされたのか、きちんと自分で調べてから、そしてそれが紀藤とYyの仕業であるなら、この人たちを、そしてもって多くの人が、平気で私に何かをしようとしていたのなら、そしてそれが事実ではないことを知っていた筈と私が思える相手なら、きちんとそれらの人に責任を取って貰いたい。そう思いたちました。

7.今はこうして、不良になることもなく、そして何度も頭をよぎったことのある自殺をすることもなく、明るく、幸せに暮らしていられるのは、MASAYAさんやぶたママさん、沢山のスタッフの方のおかげでした。
こんなに辛い時期を過ごしながらも、曲がらないですんだのは、最終的にこの事件の真相をわかってくださった、児童相談所の方、調べながらも励まして下さった黒磯警察署の方々です。
この、弁護士の資格なんかもっていない方々がわかってくれたこと、人によっては元気づけて下さったことに、どれほど勇気づけられたでしょう。このことを、裁判官の皆様には、思い起こしていただきたいのです。
私たちを、私たちの親を、私たちの親が勤めていたところの人たちを、直接対話の形で調べた方々には、おわかりを頂いたのです。
私達子供は、自分たちが、「保護」されたとは、決して思っていません。逆に、私達は紀藤弁護士達に「人質」にされ、その卑怯な裁判で「利用」されたと思っています。私たちはただ「拉致」され、「監禁」され、「口封じ」をされ、彼の事件処理でちょうどよい時期に、大々的に取り上げられ、全国放送をされた。この事件の最大の被害者であると、思っています。

8. 今回の事件で、私達が体験した全ての真実、そうです、紀藤弁護士達に「拉致」され、「監禁」され、「口封じ」されて、「利用」された全ての事実をここに記します。これはとても長い話になります。
今から3年前の4月7日、紀藤弁護士らの手によって「拉致」された私達の身に何が起こったのか、読みにくいところ、わかりにくいところもあるかもしれません。でも、精一杯書きました。

第四 平成16年4月7日

1.「ちょっと部屋に来て!!」
いつもは冷静なぶたママさんが、突然悲鳴のような声で私に内線をしてきました。
私は何が起きたかと、急いで2階のぶたママさんの仕事部屋へ駆け上がりました。
私はこの日の前日6日から、栃木県那須郡にある、株式会社ホームオブハート(以下、「ホームオブハート」と書きます)の配送センターにいました。
そこは、ホームオブハートの商品や、レコードの音源や原画などを保管している倉庫で、ここからMASAYAさんのCDや、松田賀江さんの絵やポストカードが、日本全国のレコード店、百貨店、書店などに出荷されていました。この場所はホームオブハートの社長のぶたママさんが普段仕事をしている場所でもあります。

2.私がなぜホームオブハートの配送センターにいたのかは、後で詳しく書きますが、私は小学校五年生の頃から、学校には通えない、不登校児でした。
ホームオブハートの周りの大人たちから、「学校に行かなくていいのか」と、折々に声を掛けてもらっていましたが、私にはどうしても、もう一度あの「学校」というところに通う気にはなれませんでした。
けして、勉強が嫌いだからではありません。とにかく、学校で暮らすことがとても辛かったのです。
しかし、行きたくないからと、学校に通わずにただずっと家に引きこもることが、いいことだとはけして思っていません。私は自分自身が成長したいし、いろいろなことを知りたいと思っています。私は、自分が役立てることはないかと、ぶたママさんはじめホームオブハートのスタッフの方々にお願いしていました。皆が、忙しく仕事をしている中で、とても迷惑だったかもしれません。
しかし、私の積極性、自発性を尊重してくれて、私にできること、外の人と接触できること、家の中でやれることなど、ほんのお手伝い程度のことですが、手伝わせてくれていました。
学校に行けない状態の子があるとして、子供が家でお手伝いをすることは何か悪いことでしょうか。私は本当にそうお聞きしたいです。そうすることによって人と話し、社会と交わり、気持ちをつないでゆく、多分私の周りの人はそうした考えで辛抱してくれていました。児童相談所の方もこれを全く否定などしていません。
仮にあなたのお子さんが、不登校になっていたとして、それが引きこもりでもなんでもよいですが、一日中部屋に入りきりになっていることが理想でしょうか?
学校に行って毎時間傷つきながら苦しい時間をやり過ごすか、自分の部屋でじっとしていることしか、許されないことでしょうか。
もし、そう思われるなら、恐らくそのような単純さ、無神経さ、乱暴さ、無頓着さが虐めを生んでいる元凶だと思います。弁護士ですから、自分が訴訟に勝てるなら、どのようにでも言いくるめ、言い募って何も感じないでしょうが、私は一人の人間であり、私の人生であり、事実であって、勝手に創造されるいわれはありません。誰かに評価してもらわねばならないものでもありません。
そして、将来は経営者になりたいと思う私に、実際に将来に役立つ経理や、会社の経営について、パソコンの使い方などをぶたママさんに教えて貰ったらどうかと、MASAYAさんからのアドバイスもありました。私は「それは是非やりたい!」と自分の意思で、教わることを決めました。実際には当時の私に出来ることは、まだまだ簡単なお手伝い程度であり、領収書の振り分けや、郵便物の封開け程度のものでしたが、私は水を得た魚のように嬉々として引き受けていました。
大好きなぶたママさんのもとで、お仕事をまかされ、やらせてもらえる、一人前として扱ってもらえることが、とても嬉しいことであり、誇りでした。 そして、私は料理を作ることが大好きですから、大人のスタッフの方たちと一緒に作ったりしていました。時には、自分でみんなの食事を作って驚かせることもありました。
スタッフのみんなに喜んでもらえて、まるで自分が一人前になったようで、とても嬉しいことでした。

3.私がこうした生活になる経緯は後ほどお話しますが、決して、「働かされ」たり「労働を搾取されている」ものではありません。すべて私の意志によるものですし、何より私が社会に接し、成長する場があるようにとの配慮でもあります。
不登校になってしまっている子に、その子が本気で学校に行きたくないのに、無理矢理学校に行かせようとするのではなく、自然と学校に行く気持ちが芽生えてくるのを待ってくれた大人だということです。子供の声に真剣にむきあって声を掛けてくれている大人だということ、学校へ行くか、行かないかの2者択一しかなく、行かないことは悪いことであって、行ってさえいれば安心などというものではないことを十分に承知している大人だということ、これが全てです。
何度もいいますが、不登校であっても、決して不勉強な訳ではありません。自分自身が成長してゆきたいと、私は思っています。
逆に、学校に通っている同じ世代の子供達が今は学べないようなこと、経営のこと経理的なことなどをぶたママさんから実践を通して学ばせてもらい、そのことを誇りに思っていました。その思いは、今でもまったく変わっていません。
那須での暮らしは、学校でいじめを受け、母にも打ち明けずに暗く毎日をやり過ごしていたのがウソのように、毎日が新鮮、幸せで、自信が湧いてくるものでした。そんな幸せな生活を、見事に断ち切ってしまったのが、今回の紀藤弁護士らによる事件です。

4.ぶたママさんからの内線を切った私は、2階のぶたママさんの部屋に入り、わけを尋ねました。
「今、ハイランドに児童相談所が来たんだって。そして児童虐待の疑いがあるから、子供達を連れて行くって!」
「えぇっ!?そんな、一体誰が!? どうして?!」
私は何のことだかさっぱり判らず、目を丸くしました。
だって、私たちは児童虐待などとは、一番かけ離れた、平穏な日々を暮らしていたのですから!
「ハイランド」とは、ホームオブハートのオフィスとスタッフの方の寮がある建物のことです。テレビ報道で、放送された建物です。
「妹1」とは、私のすぐ下の妹の(当時12歳)のことです。同じ場所には、一番下の妹(当時1歳)もいました。
当時、母は、仕事の関係で鹿児島県屋久島におりました。母は私たちを捨てて屋久島に行ったというなら、まだわかります。しかし、心配する母を説き伏せて当時東京にあったホームオブハートのMASAYAさん、ぶたママさんのところに出てきたのは、私と妹1です。
私や妹1にとって、ぶたママさんやMASAYAさんは家族同然の人でした。私たちの大好きな人たちから無理やり引き離され、何かとんでもない出来事が起こっていることだけは、普段は冷静なぶたママさんが激しくうろたえている様子から、わかりました。

私は妹たちの無事を案じ、とても不安で、いてもたってもいられませんでした。


5.そのうちにわかってきたことは、ホームオブハートに勤務している人の子供に児童虐待の疑いがあるという通告がされており、児童相談所が大勢の警察官を連れて、私達を保護しに来ているということでした。そして何故か朝からハイランドにはマスコミらしき人たちや、テレビカメラなども大勢来ていたとのことでした。
誰がそんな嘘の通告をしたのか、何の目的でやったのか、ましてテレビまで一緒になぜ居るのか、まったくわかりません。そのようなことをする人がいること自体、信じられませんでした。
一体誰が、何の目的でそんな嘘をつくのか…何でこんな大事(おおごと)になっているのか…何故これまで平和に暮らしていた私たちの身に、そんなことが起こりうるのか…さっぱり訳がわかりませんでした。
ハイランドのスタッフからの電話では、「児童相談所の職員は頭からホームオブハートでは子供に虐待がされていると信じ込んでしまっている。」という連絡が入っていました。
1人の子供の母親でもあるスタッフの一人、MEmamaさんが「いったい何なんですか!子供達を連れて行かないで下さい!」と言っても、「抵抗するなら、業務妨害であなたも逮捕しますよ。」と、今にも逮捕しそうな勢いで言われたそうです。沢山の警察官が取り囲んでいる中、もうこれでは何も出来ないと言っていました。

そしてハイランドだけでなく、TOSHIさんの事務所のトシオフィスにも、同様に児童相談所職員・警察と大勢のテレビカメラと報道陣が来ているとの連絡が入りました。TOSHIさんは、昔XJAPANというロックバンドのボーカルだった人で、今はMASAYAさんの曲を歌っている人ですが、あちらはオフィスばかりではなく、オフィスと同じマンション(賃貸マンションであり、TOSHIオフィスとスタッフ住宅はその内のごく一部に過ぎません)内の自宅の両方に来て、オフィスにいるお母さん達が自宅に戻ろうにも廊下を埋め尽くしたテレビカメラや報道陣のために、戻ることも出来ません。必死に止めようとしても「親が一緒にいても駄目です。邪魔をすると逮捕せざるを得ませんよ。子供の前で逮捕されてもいいんですか。抵抗して子供を渡さないと親権を剥奪することにもなってしまいますよ。」などと言うばかりだったそうです。
一体何を、どんなことを吹き込まれて児童相談所は臨場したのでしょうか。
トシオフィスのスタッフであるShamanmamaさんの自宅には娘のシャーマンさん(当時11歳)がちょうどお昼ご飯を食べに部屋に戻っていて、一人でいたところに児童相談所が来たのでした。シャーマンは自宅で一人で児童相談所職員の質問攻めに遭っているみたいだと、トシオフィスのスタッフのTmamaさんから連絡が入りました。

6.こうしてだんだんとわかってきたことは、「ハイランドのホームオブハートに住んでいる子供と、トシオフィスに親が勤務して、トシオフィスと同じマンションに住んでいる子供は全員、連れて行く」ということでした。
話を聞けば聞くほど、「どうして私たちがこんな目に逢うのか???」という疑問は大きくなる一方でした。
この日、私は偶々ぶたママさんの元に来ていましたが、2人の妹とハイランドで生活していましたし、未成年ですから、何れは見つけられて連れて行かれるかも知れない、ということもわかりました。

私とぶたママさんは、どうしたら真実を理解して貰えるのか、どうすれば誤解が晴らせるのか、ずっと考え続けました。ぶたママさんは、いつも法律相談をしている、弁護士の佐藤先生を電話でつかまえて、
「先生っ! 子供達が連れて行かれちゃう。何とかならないの?みんな母親がちゃんといるし、その親が駄目って言っているのに、連れて行くなんて…ひどすぎる…。」と泣きながら助けを求めていました。
さすがに突然のこのような事態に、佐藤先生も面食らったようですが、とりあえず落ち着いて対処するよう、ぶたママさんに今、できる限りの対処法を伝え、ぶたママさんは、佐藤先生からのアドバイスをハイランドとトシオフィスのお母さん達に連絡していました。
配送センターに来ている私には、どうすることもできないまま、ハイランドの現場では、児相の職員と、お母さん達のやり取り、子供達と児相職員の必死のやりとりが続いていました。

「児童虐待」という言葉の意味は、当時の私にもわかります。一体誰が何のためにそのようなことを言ったのかわかりませんでしたが、決して私達に「児童虐待」の事実はありません。
私は、
「私が妹達の傍に行ってあげられれば、私が代わりに話して、そんなことは全部嘘だってわからせられるのに!…可哀想に。ねずみも下の妹もMEちゃんも、今頃怯えているのでは…」と、大変、大変悔しく思いました。 一緒にいてあげられず、みんなが、ひどい目に遭わされ、どこかに連れ去られようとしているのに、何もしてあげられない無力さに涙が止まりませんでした。
ぶたママさんが児相の人と電話が取り次いで貰えたのか、「やめてください!お願いです。一体私たちが何をしたって言うんですか、連れてなんか行かないで下さい!」と、泣きながら何度も何度も絶叫していました。

7.最初にぶたママさんに呼ばれてから1時間半くらい経ったでしょうか、連絡が途絶えている間は、私とぶたママさんは、考えつく限りいろいろな作戦を練りました。もうどうにもならなくなったら、私とぶたママさんで児童相談所に乗り込んででも直談判しよう。そんなことも考えました。
また、ぶたママさんといろいろ考えてゆくうち、こんな通告をするのは、あの紀藤弁護士とYy達ではないのかという考えに行き着きました。

午後6時頃になって、ハイランドからまた電話連絡が入りました。私は息を飲んで、どうか子供達が連れて行かれたりしませんようにとぶたママさんの電話に聞き耳を立てました。

次の瞬間、ぶたママさんの表情は一変しました。
「えぇ!!!!子供達が連れ出されたぁ?!だめ!止めないと!誰か、止めて!止めてよぉ!」と叫んでいました。
しかし、数秒後には「…もう車に乗っちゃっていて、だめだったって。」
というぶたママさんの声がしました。私もぶたママさんもその場に泣き崩れました。

8.「あれはもう完全に人攫(さら)いのようだった」と、後に現場に居合わせたホームオブハートのスタッフからは聞きました。
私の下の妹は、ハイランドにミーティングに来ていたトシオフィスのTOSHIさんの奥さん、出山香さんが抱いて、あやしていたところを無理やり引き剥がされて、連れて行かれたそうです。

実はこの4月7日の前日にTOSHIさんのイベント先にJTVが取材に突然現れ、唐突にTOSHIさんに対して「TOSHIさん、虐待についてどう思うんですか」と聴いてきたということがあったそうです。これまでTOSHIさんは「洗脳事件」でマスコミにひどく扱われたことがありましたので、「洗脳とかじゃないの?」と、聞き間違えたのかと思ったくらいだったそうです。

下の妹は、突然家に押しかけてきた児童相談所の人たちの手によって、無理やり引き剥がされ、連れて行かれたそうです。
出山香さんは下の妹を抱きながら、「この子達のどこが虐待されているんですか!!!虐待されている子供達を見たことがあるでしょう?この子達が虐待されていないことくらい分かるでしょう!?」と泣き叫び、下の妹を連れて行かれるのを拒み続けていると、児相の人は「あなたを逮捕することもできるのですよ。」と言ったそうです。
出山香さんは下の妹のことを守りきれなかった、やっぱりあの時、手を離さなければと、今でも出山香さんはこの時の悔しさを、涙を溜めて話しています。
当時たった1歳2ヶ月の子供が、姉である私たち、それからいつも、自分たちの子供のように可愛がってくれるスタッフや出山香さんのもとから、騒然とした雰囲気の中、まるで動物が連れて行かれるように、連れ去られたこと、満面の笑顔を振りまいていた妹が、本当に無表情な子になってしまって帰ってきたこと、このことは、私は一生涯、忘れませんし、この騒動を生み出した人間全てを許しません。
この事件を自分の欲望のために仕立て上げ、子供達の笑顔を奪った人間を、一生涯、恨み、仇をとる。国がそれを法律を盾に拒むなら、私は自分自身でやる、そのようにさえ思います。
何が子供達の人権救済?冗談じゃない。おまえこそが刑務所に入り、心底反省しろと私は思います。
どのような頭で、どのような顔で、未だにしゃあしゃあと、「子供達へ」などという、反吐の出るような文章を書いて自分の失敗を偽り、擁護し続けるのか。
自分の誤った仕事により、どれほどの人間が傷ついたのか、たったそれだけの想像力もない者がテレビ屋を扇動し、自分もテレビにでて、嘘ばかりを言うのか。誰が見てきたのか。おまえが一体見たのか。それを見たとまで偽って、人を縛り上げるのか。勝手な憶測で仕事をするな。弁護士の仕事の仕方は、それだけで人の人生を、左右してしまう、そのことに懼れを持ったことはないのか。間違ったら、直す。謝る。その姿勢すらもてないのか。どうして、そんな人間が弁護士になれるのか、と疑問に思います。

9.また、オフィスの周辺にはマスコミの大群が待ち受けていました。
ホームオブハートの会長のBOBOさん(もともと保母さんであり、私達のピアノの先生でもありました。)は、児相の人に「こんなに沢山の報道陣の前をあなた達は子供を連れて出て行くつもりなんですか?」と聞いたら、
「はい。」
と、端(はな)っから、児童虐待がされている現場だと信じ切っている職員達は、当然のように答え、子供達は職員の上着で、そう、まるで犯罪者が護送されるみたいに隠されながら、マスコミのカメラの中を通っていったそうです。
その光景に、BOBOさんは
「本当になんて無神経な人ばかり集まってきているんだ。」と、胸を切り裂かれる思いと、謂れの無い仕打ちに怒りのやり場もないまま、すぐにMEちゃんのお母さんのMEmamaさんを連れて、子供達を追って児童相談所へと、車を走らせたそうです。

トシオフィスからも、ホームオブハート同様、お母さんと一緒に住んでいたにもかかわらず、子供達は皆連れて行かれてしまったという悲しい知らせが入りました。

10.私の上の妹、妹1は、体も小さく、おとなしい子です。
「沢山の見ず知らずの大人に突然囲まれ、きっと怯えているだろう・・・震えているに違いない。一体、あの子は今何を考えているだろう・・・今日はどうなってしまったんだろう。せめて私がいたら、どうにか出来たかもしれない。そばにいてあげればよかった。」
と、こんな日に限って、ぶたママさんのところに来ていた私は自分を責めました。
しかし、どんなに悔しくても、どうにもなりません。

児童相談所は、かの弁護士らの通告から、私達に対して、無理矢理働かされているとか、ご飯を食べさせて貰っていないなどの「児童虐待」があると信じ込んでいるらしい、だったら、少しでも年上の私が行って、本当の私たちの生活を話して、それは間違いだと事態を覆す以外に、子供達を助ける方法はない。私は、いよいよそうとしか思えないようになりました。
こうしている間にも、今度は私を対象者として、探しに来られてしまう。
「そんな後手に回ってしまうのでは遅い。その前に、正々堂々と私から動かないと却って誤解される。こんなところでじぃっとしてなんかいられない。子供達が待っているんだ!」
と、自分から動くことに決めました。
私は、泣いているぶたママさんに
「児童相談所に行こう。そして子供達を取り返したい!」そう言いました。
ぶたママさんも顔を上げ、「そうよね、わたし達が頑張らなきゃね。」と気を取り直し、身支度に取り掛かりました。
11.読んでいる方は、私達姉妹の母親はどうなっているんだ、と思われると思います。
私の母は、鹿児島県にあるホームオブハートの屋久島のホテルに勤めていました。これは、母の陳述書にも詳しく書かれていますが、父を亡くした私達は、MASAYAさんのパートナーの松田賀江さんの病気が、父と同じスキルス性胃ガンであったこと、母子家庭となった私達家族が、勤務に明け暮れる母との間に私たち子供との溝が出来たり、私も妹もいじめにあって不登校となってしまっていたこと、母が転職を考えてもうまくいかないことなどから、ホームオブハートの屋久島ホテルでの勤務に空きがあるからと雇って貰って屋久島に居たのです。
でも私たち子供は、屋久島にいつまでも落ち着いてしまうということが出来ず、何度か行ったことのあるホームオブハートの本社でいろいろ勉強させてもらいたいと母を説得して、本社に来ていたのです。決して育児放棄されたり、見捨てられたりしているわけではありません。
この平和が勝手に崩されたのが4月7日の事件でした。

話を戻しますが、母は、妹達が児童相談所に連れて行かれた午後6時頃、ハイランドのオフィスから、
「子供達が児童相談所に連れて行かれてしまった。すぐにこっち(本社)に戻るように!」
という連絡があり、急いで飛行機の手配をして、那須に向かったそうです。

12.これも後から整理してみるとわかったことですが、実はこの事件の前日、母の勤めるホテルにも、日本テレビの女性レポーターがお客に成りすまして、泊まりに来ており、大変なことになっていました。
母の話では、その人は6日の朝9時半から10時ぐらいに、
「休みが取れて、東京からなんだけれども、今日ホテルに宿泊したい。」
と予約の電話をかけてきたそうです。
支配人のBOBOさんは仕事で那須の本社へ出かけていたため、母が応対したそうです。よく考えれば、あの屋久島に女性の一人旅で、以前からの予約なくして宿泊する人も珍しいことだったのです。
母はその人(以下、Aさんと書きます)に、ホテルのチェックインは午後3時からであること、到着したら、空港までお迎えにゆくので、到着時間が決まったら連絡下さいと伝えて、予約手続きを済ませました。でも、一体何時に到着するのかまったく連絡がないので、おかしいなと思っていたら、3時ごろにAさんはタクシーで、ホテルに直接来ました。
母とホテルのスタッフのKさんは、
「東京を10時過ぎに出て、3時に屋久島に到着するなんて、ちょっと早すぎるのではないか?一体Aさんはどうやってきたんだろう??それに、お迎えのことをお伝えしていたのに、なんで連絡がなかったんだろう。」と疑問を感じたそうです。
実際のところ、10時には既に機上の人になっていてようやく、屋久島空港に午後1時30分ころに着けるに過ぎず、10時に思い立ってどうになるものでもないからです。
また、AさんにアロマトリートメントをしたKさんの話では、
「Aさんは頻りに『BKさんは?BKさんは?』と言っていた。(注:母のことはBKさんと書いています。)知り合いでもないのに、どうしてBKさんのことに拘るのかしら。今までのお客様と違う。なんだかおかしいな。」
と、母にぼやいていたそうです。

夕食の際も、母に「子供さんはいらっしゃるの?」と質問をしてきて、母は一応笑顔で答えたそうですが、一体どうしてこの人はそんなことを聞いてくるのだろうと、ますます不審に感じたそうです。
あまりにAさんが母に注意を向けるので、翌日のAさんの応対はすべてKさんが対応することにしたそうです。
翌日の7日、Aさんに接触しないで済むように、母は裏方での仕事に徹底し、Aさんの応対はすべてKさんが受け持ち、なるべく早くに帰ってもらおうと母とKさんは打ち合わせをしました。
前日に、Aさんは母のガイドで屋久島を観光で回るオプションを予約していましたが、Aさんがホテル内を無断でカメラで撮影したり、母に私たちのことやプライベートなことを質問してきたりと、普通のホテルでのお客様とは到底思えないものでしたから、とにかく、この人と関わらないようにと、早く帰ってもらうことにしたそうです。

Kさんから、「BKが急用でオプションに出られない。あと、空港への送迎もできないから、お帰りはタクシーでお願いします。」とAさんに伝えると、AさんはこちらがAさんを不審に思っていることを察したような顔を浮かべ、了承したそうです。
とにかく、Aさんは、ホテル内で、ビデオカメラを片手に建物やホテル内の様子を隅から隅まで撮影し続けるという、観光で来られたお客様とはとうてい思えない異様な行動であり、何度も「内部での撮影はやめて下さい」と、注意しても、一向構わず撮影し続けていたそうです。
Aさんがチェックアウトし、タクシーでホテルを発った後、ようやく母はいつもどおりフロントに立ち、仕事を始めたのですが、そこに突然!Aさんがタクシーに乗って現れ、フロントに来てしまったそうです。母がAさんを避け始めたことに気付き、フェイントをかけたのだと思います。
「あら〜、BKさんじゃないですか!」と、いやに親しげに笑顔を向け、部屋にヘアブラシを忘れたから、探してほしいと言われたそうです。
母は内心、「しまった、やられた。油断してしまった。」と思いながら、「私が見る限りは、ございませんでしたが、もう一度探してまいります。」と言うと、
「そうですか、それではもう一度探してみて下さいね。」
と、笑顔で返し、足早に去っていったそうです。
最後に母を見て、「してやったり」の笑みを浮かべたAさんの顔が、今でも目に浮かぶ、本当に悔しい。と、母は今でも悔しさをにじませながら話します。
この出来事は、妹達のもとへ児童相談所が現れる、ほんの1時間前の出来事だったそうです。

13.このように、めまぐるしく私達の状況が変わる中、私とぶたママさんは急いで支度を済ませ、1階に下りました。
支度を済ませた私にスタッフのYさんが心配して
「ブーちゃんマン、出かけるの?」と声をかけてくれました。
Yさんも、元々は幼稚園の保母さんをされていた方で、私達子供のお世話をとてもよくしてくれた一人です。
子供を喜ばせることが大好きで、私達の誕生日には、必ず手作りのかわいらしいバッグやお洋服をプレゼントしてくれた方でした。
私は、
「ちょっと子供達を連れて帰りにいきます。大丈夫、すぐ帰ってきますから。行ってきます!」
と、まるで桃太郎が鬼退治にでも出かけるような気持ちでYさんに別れを告げ、ぶたママさんと児童相談所に向けて出発し、猛スピードで車を走らせました。

そうして車で移動する道すがらにも、ぶたママさんと私は子供達をどう取り返すかを考え続けていました。
ぶたママさんは、「とにかく、どんなに幸せにあんた達が暮らしていたか、これがしっかり伝えられたら、児童相談所の人たちなら絶対わかってくれると思うよ。」と言っていました。
私も本当にそれはそうだと思いました。
いったいどうして、こんな誤解を招いたのかわかりませんが、周りの大人が言うのでなく、当の本人である私が、子供を代表して暮らしぶりを言えば、絶対に児童相談所の人達はわかってくれる、普段子供に接している人達なんだから、誤解だってすぐにわかってくれるだろうと思っていました。
実際のところ、児童相談所がどんなところなのか、詳しくは知りませんでしたが、児童相談所はその名のとおり、私達の味方になってくれるんだばかり信じていました。

母は母で、会社からの連絡に、急いで那須に帰るため、飛行機の手配をしていましたが、どうしても明日になってしまうが、朝一の便が予約できた。という連絡が入りました。
この日、お母さんと一緒ではない子供は、私と妹1と下の妹だけでしたので、もしかしたら、私達3人姉妹だけは、真実を伝えても、お母さんがいないという理由で、保護されるかもしれない。でも、実際には、私達の家は母のいる屋久島であり、那須には遊びに来ているぐらいの気持ちでいましたから、全員、親と一緒に暮らしている、そう言っても過言ではありません。この事実までも、しっかりと伝えれば、一時保護なんて誰もしないだろう。すぐに帰ってこれるだろう。いずれにせよ、事の真実をしっかりと当の本人である私の口から伝えることが先だと、私もぶたママさんも思っていたのです。

14.実際は、あの弁護士とYyのでっちあげた話は、そんな甘い考えも吹き飛ばすもののようでした。児童相談所は何を吹き込まれていたのか、紀藤たちの話を完全に信じ込んでいたようで、いくら当事者である私が普通に暮らしていたと伝えても、全くこちらの言い分を聞きませんでした。彼らはアイランドセルフトレーニングで何か変な考えに染まり、変な教育観を持っているのだと理解していたようでした。
実際に私たちが屋久島のホテルで母と暮らしている姿、那須でも幸せに暮らしている姿を知っている筈のYyよ。その事実を知りながらも、お前はビジネス(彼らはこの事件のことを「ビジネス」と呼んでいます。)のためになら、子供までも利用する、そんな人間なのだ、今はそんな思いで一杯です。

15.移動中、私の携帯電話には、MASAYAさんからも連絡が入りました。
ハイランド・トシオフィスから、子供達が全員無理やり連れ去られた状況下で、唯一残った私のことを心配して、
「ブーちゃんマンは大丈夫なのか?!」と電話をかけてくれたのです。
不安と怒りで焦燥しきっていた私は、思わず泣きそうになりました。自分が乗り込んで、子供達を取り返すんだ!と息巻く傍ら、内心ではものすごく怖く、不安で仕方が無かったのです。
そんな私に、MASAYAさんは落ち着いた声で、「いいか?ブーちゃんマンが一番年も上だし、今まで本当に幸せに暮らしていたこと、心豊かに暮らしていたこと、そのことをしっかり言って、わかって貰って来るんだぞ。いいね、事実を伝えれば大丈夫だから。」
と言いました。
この言葉を聞いて、「あぁ、こんな騒ぎを起こされて、MASAYAさんの運命、ぶたママさんの運命、子供達の幸せまで、すべて私にかかってる。本当にわかってもらえないと大変なことになる」そう思いました。
私は更なる決意を固め、「はい、ちゃんと言ってきます。」と答えました。
MASAYAさんは、最後に「がんばれよ。」と言って、電話を切りました。
その言葉には、お父さんを突然のガンで亡くし、そのお父さんの代わりとして、これまで自分の娘のように大切に育ててきてくれた私達への思い、言葉では表現しきれない深い思いが籠められていたと思います。私はその言葉に勇気付けられました。

16.まもなく児童相談所に着こうかという頃、これまでぶたママさんの車の助手席に座っていた私は、後部座席に移動しました。児童相談所の周辺にはすでに、マスコミ関係らしき人物、カメラを構えた人物が沢山彷徨いていたためです。
私とぶたママさんは、こうして午後7時頃、ようやく児童相談所に辿り着きました。既に児童相談所建物近くで私たちを待っていた児相の人が裏口へと誘導してくれて、私達は建物の中へと入りました。
「ついにここまで来た。」私の胸は更に高鳴りました。
一体この建物のどこに子供達はいるんだろう。今はどうしているんだろう、と建物内を見渡し、子供達のいる気配がないか、探りましたがわかりません。
職員の人に案内され、部屋のドアを開けると、そこには妹1と、MEちゃん、係の女性らしき人(この人は心理判定員だったことが後からわかりました)が座っていました。
妹もMEちゃんも真っ青に青ざめて、絶望的な表情でしたが、部屋に入った私達を見上げ、突然現れた私たちにやっと安心したような顔をしてくれました。
後に妹1に聞きましたら「この時とても安心した、これまで心細かったから、すごく勇気付けられた」と言っていました。

17.私は係(心理判定員)の女性に、「私はこの子(妹1)の姉のブーちゃんマンです。」と言い、そして妹1とMEちゃんには、
「ごめんね。遅くなって。怖かったでしょう。もう大丈夫だからね。」と言いました。
女性は私に「どうして来たの?」と質問しました。私がぶたママさんに連れられて息せき切って来るのは、彼女には変なことに思えたのでしょう。
「虐待だなんて嘘だから、妹達を返してもらいにきました。」と、答えました。
ぶたママさんは部屋に入る直前に別の職員に呼ばれてしまったため、一瞬、妹1とMEちゃんの顔を見、違う部屋に行ってしまいました。
私は部屋のソファーに座ると、心理判定員の女性から
「ご飯は食べた?これ、食べる?」と、妹達が食べていたコンビニのおにぎりなどを差し出されました。
私は児童相談所へ向かう途中、今晩はどうなるか判らないし、腹が減っては戦はできぬと、ぶたママさんとコンビニに立ち寄って、腹拵えはしていたので、断りました。

続いて、女性は「ご飯はけっこう食べるほう?」と聞いてきました。私は「食べますよ。おかげで最近ちょっと太っちゃって〜。痩せたこともありましたけど。」と、つい見栄を張って言ってしまいました。
すると、その心理判定員の女性は驚いたような顔をしています。
「痩せたって、これぐらい?」と、頬に両手をあて、げっそりやせたジェスチャーを見せました。
「えぇ?!まさか。そんなんじゃないですよ、本当に少しだけ。」 と答えました。
その時、私は初めて、「ああ、この人は、私達のことを、ご飯を貰えない、虐待された子供だって思ってるんだ。」と、かの弁護士、Yyらの策略の酷さを思い知りました。こんな些細な話しですら、過剰に反応するこの人達の誤解を、私一人で今晩どうやって解けばいいのでしょうか。ただ違うといっても、虐待されているから必死に否定するんだと、余計疑われるばかりなんだろうと思いました。
この人達は、私達の発する言葉・一挙手一投足すべてを観察しているんだと考え直して、くれぐれも要らぬ誤解を招かぬよう、慎重に言葉を選びながら、会話をするように気をつけるようにしました。こんなことって、子供が大人にしなければならない配慮だったのでしょうか。

18.一番下の妹と、トシオフィスのTmamaさんのお子さんのT君(2歳)は、大田原の日赤病院に連れてゆかれていて、会うことは出来ませんでした。
また、こちらに来ているとばかり思っていた、シャーマンの姿も見えませんでした。シャーマンはきっと別の部屋にいるんだとばかり思っていましたが、後でシャーマンは、「一時保護所」に直行で連れて行かれてしまったことが判りました。

19.そうこうするうちに、部屋の扉がノックされて、今度は私だけが呼ばれて、別の部屋へ移動しました。私が通されたのは、ちょうど職員室の隣の部屋で、これまでよりも広い部屋でした。一体、何を言われ、何を聞かれるのかと思いながら、部屋に入ると、そこで私を待っていたのは、児童相談所の課長のAKさんでした。AKさんは、今回妹達を保護した理由について話し始めました。

「あなた達が虐待されている、という通告がありました。」
「児童相談所は、虐待ありとの通告があったら、すぐに子供を保護するように動かなくてはならないことになっています。だから、今日はこちら(児相)に泊まり、いろいろ検査を受けて欲しいんです。それが済んだら、家に帰れますから。」
ということでした。私は内心、「なんて人たちだ。完全に紀藤やYyらの作り上げたでっち上げの通告を信じきっている。どうにかして誤解を解かないと。」という怒りと屈辱感から私は、「そんな『虐待』通告は、すべて嘘、虚偽のものです。私達はまったく虐待なんかされていません。私たちは互いに助け合いながら、自由に暮らしてきました。だから、妹達を家に帰してください。」と大きな声で言いました。
また、私自身の生い立ちについては、「もともと私は不登校です。小学校5年生の時から、虐めにあって、学校には通っていません。でも、今学校に行っていないのは、私の意志で決めていることです。私の父は、ガンで亡くなりました。その父の遺志を継いで、母は株式会社ホームオブハートに就職しました。私達姉妹は、スタッフの方々から大変かわいがられて育っています。もう家族同然の存在です。おかげでお父さんの死への辛さも乗り越えることが出来たんです。」、「明日、私の母が屋久島からこちらに来ます。それからでもいいじゃないですか?!今日は一旦帰ります。帰して下さい」
と、精一杯の私の想いを伝えました。とにかく、事実を伝えるしかありませんでした。
まさか、国家機関が嘘の話をそのまま信じ切ってしまうとまでは、とても思い至りませんでした。
事実をすべて伝えればきっとわかってくれる、と私は無我夢中で話し続けました。

20.ところが、終始、AKさんは手を組み、うつむき加減で私の話に耳を傾けながらも、「いや、だから、通告があったら、たとえそれが嘘でも保護しなくてはならないんです…。」と言うのです。
私は絶句しました。「嘘の通告でも保護しなきゃいけない?」そんな法律だったなんて。
じゃあその法律を悪用して、わざと嘘をついていたらどうするのよ?という疑問がよぎりました。
さらに続けて、AKさんは
「ダメなんだ。どうしても。今日はここ(一時保護所)に泊まって欲しい。これは法律で決まっていることです。変えることは私たちにも出来ません。 「お母さんが来て、お母さんと話をしたら、帰してあげるから、ね。」
そう諭されました。実際には私たちが同意しようがすまいが同じなのです。私は悔しくて、悔しくて、唇を噛み、手を握り締めました。
そんな馬鹿なことが。 どうして、事実が、真実が通らないのか。私は、妹達を家に帰すために児童相談所に乗り込んだのに、自分まで一緒に「保護」されて自由を失ってしまう結果に身が震えました。虐待なんてその欠片もない。だから、当事者である私が、きちんとどんな生活かを話し、理解してもらえればすぐに帰してもらえると信じていました。
児童相談所の人は子供の味方、きっと私たちの思いをわかってくれると思っていたのに、まさか、その児童相談所の方が、自分たちの喝上げや私怨のために嘘をついた人たちの言った、事実無根のことを信じてしまう。それが嘘でも構わないのだ、とまで言う。全く信じられないことでした。
21.私が何を言おうと、頑として変わらないAKさんとのやりとりに、私はため息をつき、遂に根負けをしました。
「だったら、私達を調べればいい。私達は虐待なんて本当にされていないのだから、それを証明します。でも、一日だけ、一日だけにして下さい。」
と、AKさんに言いました。
AKさんは「『一日だけ』になるかはまだわからないから、約束はできないです。」と言って退室しました。
代わりに妹1が部屋に入ってきました。
妹を連れてきた女性の職員さんが、「ちょっと2人で待っててね。」と言い残して、部屋を出て行きました。

 私は入ってきた妹に、AKさんとの話の内容を取り敢えず簡単に伝え、今日は一時保護所に行くことになったことを言い、連れて帰る筈だったのに、ごめんねと謝りました。自分が妹達のことを助けるはずだったのに、打ち負かされてしまった、その無力が本当に情けなく、腹立たしくて、憤りはどうにも収まりませんでした。
それでも妹は、「来てくれて本当にうれしかったよ。本当によかった!」と言ってくれたこと、それだけが、私にとっては本当に僅かな、唯一の救いでした。
それから、30分ほども、私と妹1は担当者が帰ってくるのを待ち続けました。
その間、私も妹1も黙ったままでした。突然連れてこられ、これからいったいどうなってしまうんだろうという不安で、お互いに会話をする余裕もありませんでした。
ようやく、先ほどの職員が来て、
「もうすぐ(保護所に)行くから、お別れに。」と、ぶたママさん、BOBOさん、MEmamaさんがいる部屋に案内されました。
そこには、黒いスーツの男性5〜6人に取り囲まれて、目を真っ赤に腫らした、ぶたママさん達がいました。
ぶたママさん達は、私達が来るまで、ずっと児童相談所の人達に子供達を帰してほしい!と、何度も深く頭を下げたり、土下座したり、泣きながら頼んだけど駄目だったと後から聞きましたが、その経過は目を真っ赤にして泣き腫らしたぶたママさん、BOBOさん、MEmamaさんの顔から、もう何をしても駄目だと言われていることが知れました。

22.この部屋の中の様子を目にして、私は涙が溢れてきて、ぶたママさん達のところに駆け寄って、「保護所になんて行きたくない。みんなのところに帰りたい!」と大声で言いました。ぶたママさん達は私達を強く抱きしめて「この子達を連れて行くんですか!?」、「これが、これって本当に法律なんですか!?むごすぎます!」、「子供達を返して下さい!!お願いです!!!」と、泣き叫びました。
しかし、そんな声も空しく、すぐに私と妹1は、取り囲んでいた男達に肩を引かれ、引き離されるようにして別の部屋に無理矢理連れて行かれました。
私と妹1は、部屋から引き離されながら、「やっぱ会わせない方が良かったんだよ。ああなっちゃうからさぁ。そのまま連れてっちゃえばよかったのに。」と軽々しくも話す男性の声を聞きました。
私は、この言葉には本当に怒り、憤りを感じました。
「ぶたママさん達がこんなにまで『子供達を返して』と泣きながら頼んでいるのに、冷たく突き放して、それをまともに聞いてもいない。そして、私達はただのモノのような扱いか。あんたたちは何も本当の事実をわかっちゃいない癖に、何を偉そうに。この大馬鹿野郎!」と思い、「離して!」と大きな声をだして、何とかして、ぶたママさん達の方へ戻ろうとしましたが、男4人に囲まれて、全く駄目でした。

AKさんと部屋に戻り、こんな突然の仕打ちに諦め切れない私と妹1は2人で
「私達を家に帰せ!何にもしていないのにっ!何にも悪いことしていないのにっ!」と訴えました。
しかし、AKさんは「いや、これは法律だから、仕方が無い」と言うばかりで、全く聞いてくれません。なんていう、不条理なんだ。どうして、本当のことが通らないんだと、口惜しくて、最後にもう一度、「私達のことを調べさえすれば、帰してくれるんですよね?長くても3日ぐらいなんですよね?」、「私達を通告した人のこと、多分知っていますよ。紀藤っていう弁護士ですか?それともYyっていう女ですか?もしそうなら、全部嘘ですよ!騙されてます。何を言っているのか知りませんが、どうか信じないで下さい!!」とAKさんに言いました。
AKさんは少しの沈黙の後、「…通告した人がどんな人か、それは言ってはいけないことになっている。でも、ブーちゃんマンさんの気持ちはわかったから。」とだけ言いました。
誰が何を言ってこうなったのかも、きちんと知らされることなく、私たちの身柄は拘束された、これでは日本海での北朝鮮の拉致とどう違いますか?
これが日本の国家機関が、日本の弁護士の資格をもった者に言われて、平気でやることなんでしょうか?

23.児童相談所の裏口にタクシーが着いて、私と妹1は私たちが本当に虐待されたということを微塵も疑わない心理判定員のITさんという女性と、宇都宮にある一時保護所に向け、ぶたママさん、BOBOさん、MEmamaさんやMEちゃんに、さよならの一言を言うことも出来ないまま、私と妹1は児童相談所を後にしました。このとき、時刻はもう7日の0時を過ぎていました。
私の母の話では、母はホームオブハートのスタッフから、この日「子供達を守ることが出来なくて、本当に申し訳ない。」という連絡を貰ったそうです。
妹1はこの日の目まぐるしい出来事にすっかり疲れ果てて、タクシーに乗った途端、眠ってしまいました。
そんな妹1の姿を見て、子供達を家に帰してあげられなかった悔しさ、怒り、自分を今取り巻いている大人達への不信感が募りました。涙は止まらず、「決してこの人達のことは信じないぞ。」と思いました。

お母さん代わりだったぶたママさんたちと引き離され、MASAYAさんからもみんなからも引き離された私が、眠っている妹1の髪を撫でながらどんな思いでいたのか、知ろうともせず、同乗していたITさんは、実にあっけらかんと、「妹さんと仲はいいの?普段何をするのが好き?いつも何してる?」なんて声をかけてきました。
私は懸命に口惜し涙をこらえながら、 「家の手伝いをするのが大好きです。あとは勉強したり、パソコンいじってたり…。妹1は大切な妹です。私は妹1を守るために相談所に来ました。」、「早く家に帰りたい。虐待なんて、全くの嘘です、明日が待ち遠しいです。」そう答えました。
「突然こんなことになっちゃって不安でしょ。ごめんね。すぐに終わるからね」というような励ましの言葉もありました。
でもそれも彼女の今見ている視点、間違った情報からのものに過ぎず、私の気持ちとは全くかけ離れた、遠いところの話でした。突然闇夜に強い力で引きずり出され、自分たちがどうなっているのかわからない、そんな私の気持ちには、何の慰めにもなりませんでした。
私達を取り囲む大人たちは皆、私達のことを本当に虐待された子供だと思い込んでいる。そんな人が、私達の「心理」を「判定」してくれるのです。

この事の重さをひしひしと感じざるを得ませんでした。

24.その日の後のことを続けてお話しする前に、私の生い立ち、そして私の母が何故、株式会社ホームオブハートに就職するようになったかをお話しておきます。
それなくしては、なぜ母が屋久島にいたか、私達が母と離れてでもホームオブハートに来ていたか、今回の事件のことはやはり語れないと思います。
一時保護の間にも、これまでのホームオブハートでの生活についてをお話して来ました。
実際に私たちが体験した真実を語って行く事、実際の私たちの姿を見てもらうことで、すべてを最終的には理解していただきました。けれど、私たちは結果的に2ヶ月もの時間(下の妹、T君に至っては8ヶ月を超えます。)を、児童保護所で過ごす事になりました。
「青春を返せ」、「失われた時間を返せ」とは、まさに私たちの言葉だと思っています。
私は一時保護を脱した後、就職をする年齢になり、今はホームオブハートに就職しています。しかし、これは児童相談所から、それが私にとって一番よいでしょうとお墨付きをいただいての結果でもあります。
私達に虐待があったとしたら、ホームオブハートが本当に変な思想を持っていたのだとしたら、そこへの就職を児童相談所が勧めたりなど、決してしないでしょう。
妹1の出入りも堅く禁じることでしょう。
ましてや下の妹が最終的にそこに帰ることなど、あり得ないことです。
それが、今回の全ての答えです。そう私は自信をもって申し上げたいと思います。
一時保護所、児童相談所同様に真実をわかっていただくには、直接私たちの姿を見ていただくことが、やはり何より1番単純明快、何よりの動かぬ証拠でした。
たとえ時間がかかったとしてもです。「虐待」の通告をしたら児童相談所がその通告に従って保護しなければいけないという法律を悪用され、その犠牲者となった子供達の真実の声を、まずはこの場をお借りして、お伝えしたいと思います。

第五

1. 私は、平成元年4月2日生まれ。父母双方の祖父母にとって、私は初孫でした。
それこそ目の中に入れても痛くないほどに、祖父母らからは可愛がられ、父母、祖父母皆から大切にされてきました。

2. 私の記憶にある父は会社員でした。しかし、私が生まれた当時の父は、T大学理学部の文部教官で、有機化学の理学博士号をもっていた化学者でした。父は平成3年3月末でT大学を退官して、M化学株式会社(つくば研究所)に就職しました。

3. そんな化学者の一方で、父は高校生の頃から福島の雄大な山を油絵で描いたり、ウルトラマンやゴジラなどの特撮が大好きで、自分でプラモデルを買い集め、部屋に飾って喜んでいました。お酒を飲んだり、煙草を吸うこともなく、いたって真面目、純粋な父でした。また、大変な読書家で、特に「老子」や「荘子」についての本を愛読していました。小さい頃の記憶ですが、私はそんな父のことが大好きでした。

4. 父母の「セミナー」との出会い
私が1歳ぐらいの頃、母が友人の結婚式に出席する時に新幹線で知り合った「木下」さんという方との偶然の出会いから、私の父母はワーナーエアハードの「フォーラム」というセミナーに参加するようになったそうです。
仙台から茨城県のつくばに引っ越してからも、父と母はワーナーのフォーラムに足を運んでいました。私も母とは何度か一緒に東京の会場に行ったことがあったと思います。そのときには大勢のおじさん、おばさんが席に座って、話を聞いている会場で、母に「しぃっ!静かに。」と注意されながら遊んでいたり、会場の片付けで慌しくしている人々の間を走りまわっていた微かな記憶が残っています。
当時のことは、まだ私が1〜2歳の頃ですから、あまりよく覚えてはいません。でも、母はその会場で親しくなったおじさんやおばさんと、とても楽しそうに話をしていましたし、父も帰ってくる時に、満面の笑顔で帰ってきましたから、私は子供心に、「お父さんとお母さんがお友達に会える、とても楽しい集まりなんだなあ。」、という風に思っていました。
母が私を連れて行くたび、親しい人たちは皆、私のことを自分の子供のように可愛がってくれました。来るたびに「また大きくなったねー。」と、頭を撫でて貰ったり、手をつないで一緒に遊んで貰ったりしたこともあり、私も母のフォーラムについていくことは苦ではありませんでした。

5. 父は主に一人で参加していましたので、父とそうした場に行ったことはありません。
しかし父が帰ってくる日、私は母と上野駅までお迎えに行っていたのを覚えています。駅のホームで父を待ち、父が新幹線から降りてくると、私は決まって「お帰り!」と大きな声を出して父に駆け寄っていました。
母が妹を妊娠して、だいぶお腹が大きくなって移動がつらくなってきた頃から、母はセミナーに通うのをやめたそうです。自然に私も会場に行くことはなくなりましたが、父は継続して、フォーラムに通っていたそうです。

6. 翌年2月17日、妹の妹1が生まれました。私も父も、妹1の誕生をとても喜びました。
父はすっかり妹1を溺愛し、いつも私と妹1を連れて出て、近所の人に声をかけられては嬉しそうに照れていました。
私はどちらかというと標準よりも少し大きめな子供でしたが、妹1は、逆に小さい頃からずっと人よりも小さめな子でした。この原因はおそらく母方の曽祖父や高祖母がとても小柄な人でしたし、母も小柄な体格ですから、おそらく遺伝的なもので、本人の健康に問題があるとか、病気ではありませんし、ましてや食事が少ないためなどでは一切ありません。実際、妹1は身体は小柄ですが、見かけによらず、本当によく食べる子で、時には私以上に食べることもありました。妹1自身も、背がなかなか伸びないことを気にして、ご飯をたくさん食べれば大きくなれると思って頑張っていたようですが、食べた分だけ背がぐんぐんと伸びた私に比べ、一向に背がどんどんとは伸びてゆかないままでした。
母は妹1の成長に関して特に心配はしていなかった。と話しています。
一口に小柄、といっても標準ラインの中で小柄だったわけで、よく食べよく寝、めったに風邪もひかない健康優良児でしたので、この子の個性として、今は小柄だけれども、そのうち伸びる時期が来るだろうと、見守っていたそうです。

…しかし、本当に悲しく、屈辱的なことですが、妹1はこの身体の小ささから、「ご飯を食べさせて貰っていない」という虐待の証拠を疑われました。
妹はただ人より身体が小さいという理由だけで、虐待児を見る目にずっと晒され続けたのです。どんなに妹1が説明しても、食事が満足に与えられていないと、本気で疑った目にさらされ、疑った言葉を浴びせられたのです。私も妹も本当に人一倍食べて皆を驚かせていたのが事実であるのに、ただ身体が小さめなだけなのに、嘘を本気で真に受けて、信じ込んで、精密検査まで受けさせられています。本当に心外甚だしいことです。
父にも、母にも、私にも、妹1には自明のことですが、児童相談所から連れて行かれた医大の教授は、一体どこに目を付けているのでしょうか、妹1は低身長症の可能性があるという結論を出してしまったそうです。
一体何を診ていたのか、恥を知れと言いたいところですが、実際には予断と偏見、そして放送局の番組作りによる報道、或いはこれ以外の結論を出すことが単に周りの状況から憚ったのではないでしょうか。馬鹿も休み休み言って欲しいところです。
私達姉妹だけでなく、いつもご飯をお腹一杯、ご飯を好きなだけ食べていたシャーマンも、保護所の少ない食事で、毎日毎日、本当に「ひもじい」気持ちを味わいました。
シャーマンは、食べる時には、一回にご飯を7杯も食べることもある子です。育ち盛りの日々を、とても辛い気持ちで過ごしました。保護所では、食事の量が年齢別に分かれており、一番食べるシャーマンに、小学生用のとても小さなお椀で食事があてがわれていました。一応、お代わりは出来たのですが、他にもシャーマンのように食べ盛りの子が沢山います。だから、シャーマンはいつもお腹を空かせていました。
私たちにいろいろな家庭の事情があるように、体も人それぞれ、どれくらい食べるかも個人差があります。今までは自由に、いっぱいご飯を食べて育ってきた子が、とても食べたいのに、食べられない。そんな生活を、誰が強いたのでしょうか。
これがどんなに辛いことなのか、好きなだけ食べて太っている人たちには判らないでしょう。

7. 一時保護所での生活で、私達はこれまで手にしていた自由、食事、恵まれた自然の中にある家から引き離され、完全に隔離された空間内で、沢山の大人たちに、その動向が監視されながら、暮らしていたわけです。
私達の自由と幸せは全て、奪い去られました。以前の暮らしと比べてどちらが、自由を剥奪しているのでしょうか。紀藤弁護士、Yy、Kk、あなた達のやったことは、人権侵害そのものでしかない。
…話が脱線してしまいましたので、戻します。

8. 平成4年、父の転勤で、私たちは新潟県新潟市へ移り住みました。
その年の冬、父と母はワーナーのセミナーで知り合った人から、MASAYAさんのセミナーを紹介され、MASAYAさんがトレーナーを勤めるセルフトレーニングのセミナーに参加したそうです。母がどれくらい参加していたか、まったく印象に残っていませんが、父は何度か足を運んでいました。
セミナーから帰ってきた父は、目をキラキラと輝かせながら、「MASAYAさんのアイランドセルフトレーニングは、本当に素晴らしかった。我の強い自分にも「本質」っていうのがあるんだなって思えた。僕の中にも本質があるって。あれが一番うれしかった。」と母に言っていたそうです。
そして父はMASAYAさんのセミナーで、父のアシスタントをしていたNTさんという人から、よく電話をもらっていました。NTさんから紹介してもらって、やはりセルフトレーニングのトレーナーでもある松田賀江(のりえ)さんのポストカード、MASAYAさんのCDを買っていました。
父はそのCDを部屋や車の中でずっとかけていました。母にはいつも、「MASAYAさんの音楽はとてもすばらしい。だけど、僕はセミナーでのMASAYAさんのほうがMASAYAさんらしいと思うんだよな〜。」と嬉しそうに笑いながら言っていたそうです。
父の車には、MASAYAさんのCDをダビングしたカセットテープや、MASAYAさんのラジオ番組「素直な自分に戻りたい」のカセットテープが、沢山積まれており、車を運転するときは必ず聞いていました。音楽もそうですが、父は本当にしょっちゅうMASAYAさんのラジオを聴いていました。MASAYAさんのラジオの中で、何か共感するところがあるたびに、「う〜ん、本当にそのとおりだな〜」としみじみと運転しながら独り言を言っていました。
そんな父ですから、テレビでMASAYAさんの音楽が流れるたびに父は「おー!!MASAYAさんの○○(ここで父は曲名をしっかり言い当てます)が流れてるー!!」と叫び、つられて母もやってきて「おお〜!」と叫び、私と妹1は、お父さんが喜んでいるから一緒に喜ぶという、本当に単純ですが大変な騒ぎによくなっていました。
私もそうでしたが、妹1は本当にお父さんっ子で、父が家にいるときはべったりくっついていました。
普段、父は7時頃に家に帰ってきましたが、「ただいま〜」と言いながら父が入ってくるなり、私と妹1はすかさず玄関に行き、妹1は思いっきり父に抱きついていました。私は朝に弱く根っからの寝ぼすけでしたので、仕事に行く前の父に会えることは、数えるくらいしかありませんでした。
しかし、妹1は父と同じぐらいの時間に起き、仕事に出かける父を見送り、後から起きてくる私に「あのね、今日はね、お父さんとバイバイしたんだよ〜」と嬉しそうに話しかけていました。

9. 親子4人で幸せな生活を送っていましたが、平成9年秋の終わり頃、突然父が胃ガンだということがわかりました。
私自身、「父がどこかおかしいのでは?」と感じたことがありました。
私が小学校2年(平成9年)の秋頃、初めて回転寿司に連れて行ってもらった時のことでした。とにかく食べることが本当に大好きで、沢山ご飯を食べた後にもチョコレートやアイスクリームなど、甘いものを欠かさない父が、たったの4皿でお寿司を食べるのを止めてしまったからです。
「もう食べないの?」と私が聞くと、「うん、もうおなかいっぱい。」と答える父の様子を、とても不思議に思った記憶が残っています。父はその後人間ドックを受け、胃ガンと診断されました。その時点では既に時遅く、スキルス性胃ガンだったそうです。
翌年(平成10年)1月、母から父が入院することを伝えられ、あの時食べられなかったのは、ガンのせいだったんだと思いました。

第五-2

  10. 平成10年1月4日、父は入院して手術をし、胃を全部取ってしまいました。そのため、あんなに食べることが大好きだった父は、元のように食事をする事が出来なくなってしまいました。
父のお見舞いに行くたび、母はプリンやヨーグルトを買って、父に食べさせていました。
胃を取ったことを母から聞いていた私は父に、「お父さんのお腹は良くなるの?胃が無くなっちゃったんでしょ?」と聞いたことがあります。
父は「胃は使っているうちに伸びてくるから、そのうち元通りになるよ。」と答えていました。
まだ小学2年生だった私は、父の言葉を本気で信じ、胃をよく使えばいつかお父さんは良くなるんだ!とばかり思っていました。しかし、今、父はきっと私を安心させるために、そう言ったのだと思います。実際には、どんなに食べても父の体は拒絶し、すぐに吐き戻してしまう日々でした。
私は父の胃は「使っていればもとに戻る」という言葉を信じ、胃を使い続ければ、いつか良くなる!と、父の看病も積極的に手伝い、お見舞いに行くたび、父が吐いた入れ物を洗剤でしっかり洗った後、よく水気をふき取り、父の部屋に戻すことや、腰が痛いという父に、マッサージをして痛みを和らげる等々、出来ることは本当になんでもやらせてほしいと母に頼んで、出来る限り母の手助けをしていました。
でも、父が入院してから1ヵ月位経った2月の上旬頃だったと思います。突然家に父が帰ってきました。私と妹1はとても驚きました。
子供の私でさえ、父はまだ家に帰れる状態ではないと思っていた筈なのに、父が家に帰ってきたからです。信じられないことでしたが、とても嬉しかったのを覚えています。
帰ってきた父に、妹1が「お帰り!」といつものように抱きつこうとしたら、「お腹が痛いからやめて!」と父が大きな声をだしてしまい、妹1は呆然と立ちすくんでいました。
私も妹1も、今までに見たことの無い、父のそうした姿に動揺しました。でも、家に帰ってきてくれたことは、何よりの喜びでした。

11. 家に帰ってからの父は、何を口に入れても、やはり吐いてしまうばかりでした。
何とか、お腹に入れなければと、必死でフルーツのピュレやプリンなど、食べられるものを食べていました。具合が悪くさえなければ、いつもの明るい父でしたから、学校から帰るとき、父が起き上がっていればいいなと楽しみに思いながら家に帰りました。
私は「お父さんは、きっと治る。」と、ずっと信じていたのです。父方の祖母も、私が幼稚園の頃、大腸ガンを患いました。でも回復し元気に暮らしていました。ですから、父も祖母のように治るんだと、信じていました。父の体がよくなるように、全力を尽くそうと、子供ながらに決心して、父が喜ぶことは何だろう、父の病気が治るものは何だろうと、模索する毎日でした。

12. 後からわかったことですが、病院の治療方針が納得できず、母と父は、なんとか、自然な物でガンがよくなるようにと、家に浄水器を取り付けたり、アガリクスのお茶を毎食後に必ず飲んだり、時にはいいエネルギーが出ると言われているペンダントを身に着けたりと、ガンが治ると言うものは藁をもすがる思いで何でも集めていました。同じガンでも、スキルス性のものが実は更に大変なものだというということを、わからなかったのです。
まともに食事ができない父は日に日に悪化するばかりで、3月の末、ついに父は再入院することになってしまいました。母が父を病院に連れて行った日のことは、今はあまり覚えてはいませんが、その翌日にそれまで父が寝ていた部屋が空っぽになってしまった寂しさは、未だに忘れられません。
どうして、父は再入院してしまったのか、父の身体に何があったんだろう…。と、私は心配で胸が張り裂けそうでした。もしかして、私がお父さんに何か嫌な思いをさせてしまったのかと、自分を責めることもありました。

13. 父が再入院し、大分時間が経った頃だったと思います。
家に一つとても大きな荷物が届きました。母から「お父さんから、「最後のプレゼントだよ。」って。ブーちゃんマンと妹1に買ってやれって言われた。」と言われました。
どうして「最後」なんて、お父さんは言うのだろう、と思いながらも、大急ぎで封を開けると、中身は20冊の絵本でした。その絵本のところどころには、父が家中に飾っていた松田賀江さんの挿絵がありました。この絵本は全て松田賀江さんの書いた絵本だということを知りました。その日か翌日、父の病室に行き、「お父さん、ありがとう!」と言いました。
前々から、私と妹1におもちゃを買うたびにニコニコと嬉しそうに笑っていた父でしたが、このときが一番、嬉しそうな顔を浮かべて、「気に入ったかな?」という父でした。その日から寝る前に1話、その本についているカセットテープを聞きながら、絵本を読みました。宿題のようにお話のことを考える毎日になりました。

14. 「目から鱗が落ちる」、という喩え方がありますが、その時の私はまさにそうだったと思います。
「よろいを取った桃太郎」というお話、「ともに勝った本当のうさぎとかめ」のお話を読んだ時、これまで私が知らなかった、新しい世界が書かれていると思いました。
「よろいをとった桃太郎」は、鬼退治に来たはずの桃太郎が、鬼達のあまりの善良さ、素朴さに心を打たれて、自分は本当に間違っていたと、よろいを脱いで、鬼に謝りに行く。そんな桃太郎を手厚くもてなす素朴な鬼さん達、醜い人間の戦いが見てられなくて、宝を捨てに行ったのだが、驚かせてしまって申し訳ないと謝る鬼さんたちの姿を見て、更に驚く桃太郎…というお話です。
「ともに勝った本当のうさぎとかめ」は、通常の物語では、カメのことを見くびったウサギをカメが負かす、というものです。「うさぎとかめ」では、カメがどんなに足が遅くても、純粋に一生懸命走る姿に、心を打たれたウサギは自分のやったことがとても恥ずかしくなって、カメを先に行かせるために、寝たふりをしています。そんなウサギに、カメはこんなところで寝ていたら風邪をひいてしまう、君は足が速いのだから、がんばろうよ。と声をかけるのです。ウサギはカメに、もう競争はやめよう、一緒にゴールを目指そうと、2人手をつないで、ゴールにたどり着くのです。私が知っていたウサギとカメのお話のようにではなく、そうやって隔たりなく、素朴に、純粋に生きていく道があることを初めて考えさせられた絵本でした。
父が、外の何もいらない、これだけを読んでおくことと母に言ったことから、これが父の何気ない、ただただ商品を選んだだけのプレゼントなどではないことは、よくわかりました。
当時、学校で辛い思いをしていた私たちだけに、そのお話は、本当にそうだったら、どれほど嬉しいことだろうと思えたことでした。父が最後のプレゼントとしたこの絵本の世界は、それまで自分が知っていた世界のものではありませんでした。
学校で口ではいわれているものの実際には通用していない価値観です。まったく違う世界でした。
私は、昔から本を読むのが好きな子供でした。でも、ただの絵本なのにこれほどの衝撃、感銘を受けた本はありませんでした。父は、とても素晴らしい絵本を与えてくれたと、読めば読むほど、そう感じて、お見舞いに行くたび、感想を父に話すのでした。時には、気に入った物語の絵本を病院に持っていき、父に見せてあげることもありました。

15. 父から与えられた松田賀江さんの絵本に、小さかった私があれほどまでに感銘を受けたのは、当時既に学校での虐めのことで非常に悩んでいた時期だったことが、影響していました。
そのころ私は、通っていた小学校で、描いた絵が偶々表彰されてしまったことをきっかけに、靴や体操着がバラバラにされて隠されるなど、誰がしたかわからない形でとても陰湿な虐めを、繰り返し受けていました。
私自身、これまで学校で普通に行われていた、出来る子・出来ない子、抜いた子抜かれた子、勝った子・負けた子とするような、どちらにしても人と自分を比較したりする見方にどっぷりと浸かっていました。友達との間でも、競争を基準に見るような、何処か余裕のない見方が、実はとても貧しいのではないかと、初めて知りました。
私はどちらかというと勉強が出来るタイプでしたから、学校は普段居心地がよいところでした。いわばそれを武器にして先生のお気に入りになることも、友達の間で優越感に浸っていることもできました。学校の勉強がよくできる子というのは、そうなってしまうことが多いと思います。
でも、そうではない子はどうだったんでしょうか?私は学校の中で、優越的に、えばりくさって生きてきたのでは?逆だったら、居心地はどうだったのでしょうか。表彰されたことをきっかけに私に降りかかってきたのは、喩えようのない虐めの世界でした。
学校でのそんな戦いの中にあるような価値観を、ひっくり返してしまった松田賀江さんの絵本は、子供ながらに何処か今自分がしていることはおかしいのではないかと深く感じてしまうところがあり、考えさせられる絵本でした。
誰かを蹴落として生きて行くこと、いわば外からの価値で自分を作るのではなくて、一緒に行こうよと、自然に手を差し伸べられる気持ちを持つことができること、自分の価値は自分が決めるもの、自分の内側に価値を見いだせること、自分の欲しい結果のために、脇目もふらずに、人が困難にあっているのを素知らぬ顔でいつづけることの居心地の悪さ、その正体がこういうことだったのだとわかりました。
誰かを蹴落とすことで自分の価値を見いだすのではなく、誰もが目標に向かって生きてゆける、それぞれの力を出し合って、共に生きていくことが出来る。それで実は何も過不足はなかったのではないか、そんな大切なことを、私はこの絵本で学んだのだと思います。こうしたことを子供の頃から教えずに、子供の教育が成り立つ得るものではないのではないか、と私は強く思っています。
幼稚園の先生であった松田さんの考えは、小さい時に、こうした感じ方が出来るようになっていることが子供達の未来にとってどれほど大切なことか、感じておられたのではないでしょうか。とても小さいころからの気持ちや感じ方、人との接し方、人や社会との関わり合いの持ち方は、自分の最初の出発点がどこにあったかで、大きく影響を受けると思います。裁判官の方も弁護士の方も、自分の気持ちは、自分が一人の人間として今も過去から止まることなく、しかし昨日の自分の上に、今日の自分として意識を継続させて生きている以上、一つの積み重ねられてきた自分の意識の歴史の中にあることはお分かりいただけると思います。その時に、人が小さいときから教えられる物の見方の中に、このような観点がきちんと現れていたならばと切実に思いました。

第五-3

16. 再入院により、父は家にいたときよりも、容態が安定しました。私は再び、父の看病を積極的に手伝いました。
私達がお見舞いにゆくと、父はいつも、売店や屋上に連れて行ってくれ、お菓子を買ってくれたり、屋上で遊ぶ私達をニコニコと笑いながら、眺めていました。それは、まだ元気だった頃、必ず日曜日には公園やデパートに連れて行ってくれた父が、病院の中だけれども、せめて私達が喜ぶのであればという精一杯の思いから、きつい身体を引きずりながらも、連れて行ってくれたのだろうと、今の私にはわかります。
平成10年7月末、ついに父は個室の病室に移ることになりました。その7月末に私たち姉妹が習っていたバレエの発表会があり、父も見に来てくれると言っていましたので、張り切って練習していましたが、発表会の数日前、お見舞いに行った時、父から「ごめんね。やっぱりお父さんは見に行けない。でも、しっかり頑張ってくるんだよ。お父さんはあとでビデオで見るからね。」と言われました。私も妹1もとてもがっかりしましたが、父の言葉通り、一生懸命これまで練習してきた成果を出しました。その矢先に、父が個室に移ることを、母から聞いたのでした。

父の看病のために母も病院へ泊まることが多くなることから、私と妹1は福島県の祖父母の家に預けられることになりました。
私も母と一緒に泊まりこみ、父の看病をしたいと、母に何とか一緒に泊まれないかと頼みました。
でも、病室は狭く、母一人分のスペースしかないからと言う母の答えに、しぶしぶ祖父母宅に行くことを呑み、身支度をしました。

17. このようにして、父の実家も、母の実家も同じ福島県にあり、お互いの距離も近かったので、母が父の看病に病院に泊まり込んでいる間、私達はそれぞれの家を行ったり来たりして過ごしていました。
父方の実家にいた時は、祖母と私と妹1の3人でした。父方の祖父は入院していたのか(祖父母の中で、私が一番大好きだったのは父方の祖父でした)、一緒にいた記憶がありません。祖母は大変厳しい人で、家に来た私達に、「子供だけでの外出は危ないから絶対禁止!必ず、ばーちゃんと出かけましょう。」と言い、その他、箸の持ち方から姿勢まで、厳しくしつけられることが沢山ありました。
でも、祖母は日中出かけていることが多かったため、私と妹1は2人でよく外を出歩いていました。
祖母宅の近くにあった、よく昔父と遊んだ覚えのある小さな公園で、コンビニで買ったジュースやお菓子を食べながら「お父さん、早く良くならないかな〜。」と妹1と話しながら、遊んでいました。
母方の祖父母の家では、祖父母が畑に連れて行ってくれたり、軽トラックの荷台に乗せてくれたりしましたので、どちらかというと母方の祖父母の家にいる方が好きでした。
そんな生活をしながらも、父の見舞いに、2週間に1度、新潟に帰ることにしていました。
その間、何か楽しいことがあれば、父宛に手紙を書き、父からの返事を楽しみに待っていました。

18. 当時は本当に小さな子供でしたので、父の容態について、何もわかっていませんでした。
まさか父の身にいつどんなことが起こるかわからない、などという状態にまで至っていたとは、知りませんでした。
私には、自分がお父さんの看病をしてやれなくて、悔しい。なんでお母さんばかりがするのか、ずるい、という思いがありましたが、妹1は本当に幼くて、まだ小学校1年生になったばかりでしたから、父の病気のこと、まさか父が死んでしまう病気にかかっているということは私以上にわかっていませんでした。
そんな妹に、私が話していたのは、父から教えられた、「お父さんは胃を取ってしまったから、ご飯が食べられなくなってしまったし、お腹が痛くなってしまった。でも、胃を使っていればいつかは元通りになるんだ。」ということでした。妹1とは、お父さんが元気になるように2人で頑張ろうねと、話していました。

19. 一方、父は母に「子供達は、僕が死んでも充分生きていける。あの子達は、一生可愛がられて育つ。子供達は、僕の自慢の娘だ。」と話し、「自分は弱虫で、勇気がなくて、MASAYAさんのような生き方ができなかった。こんな身体になって、初めて賀江さんの気持ちがよくわかった。無我を学ぶことがどれくらい大切なことか、ようやくわかった。僕が死んだら、MASAYAさんのところに行ったらいい。だけど、本当にどうするかは、あなた(母)が自分で決めなさい。子供達にも、好きな道を歩ませなさい。」、「本当は、僕は化学者なんかじゃなくて、もっと人と関われる仕事がしたかった、福祉の仕事とか、MASAYAさんのCDや松田賀江さんの絵本を売る、ショップを開きたかった。」そんな話を、母に言っていたそうです。
今、母はこれが父の遺言であり、一番心から願っていたことだったと、父の様子を振り返り、話してくれます。
父は本当にMASAYAさんの生き方・松田賀江さんの生き方を尊敬していました。父は、自分もMASAYAさんや賀江さんのように生きれたらと、常々願っていながらも、そうは生きられなかったと、病室でMASAYAさんの音楽を聞きながら、涙を流していたそうです。
そんな父の姿を思うと、父の夢を叶えてやりたかった、父が本当にやりたかったことを、元気なうちにやらせてあげたかった、と悔やんでも悔やみきれない思いで一杯です。

第五-4

20. 父が受けたMASAYAさんのセミナーで、父のアシスタントをしていたNTさんは、病に倒れた父の事や、私達のことをとても気にかけてくれていました。母はよく父のことでNTさんと電話で話していました。
ある日、偶々母が病室におらず、私と妹1と父の3人だけだったとき、病室の内線電話が鳴ったことがあります。この時の電話は実はNTさんだったのですが、父は「よいしょっ」とベッドから降り、受話器を取り、とても嬉しそうな顔で話し込んでいました。
ひととおり話して受話器を置いて、「NTのヤローからの電話だったよ。」と、更に嬉しそうな顔をして笑っていました。
後日、母にこの話をすると、「お父さんが部屋の内線を取ったのは初めてだわ!」と驚いていました。父は内線が鳴っても自分では取らなかったそうです。
電話の他にも、NTさんは沢山の手紙を書いて、父に送ってくれていました。個室に移った父は刻々と近づく死を覚悟していたようで、母に「MASAYAさんはじめ、沢山の方々に本当にお世話になった。NTさんに『ありがとうございました。』」と伝えてほしい。」と頼んでいたそうです。

21. 母は父の病室にテレビデオを持ち込み、過去のMASAYAさんのコンサートビデオを父と一緒によく見ていました。
父の調子さえよければ、その年の9月にある、渋谷オーチャードホールでのMASAYAさんのコンサートに皆で一緒に行きたいねと、話していました。
父はトイレまで自力で歩いていましたし(最期までそうでした)、何度か先生から外出許可が下りることもありましたから、9月のコンサートまでに、体調が整ってほしい。そして一緒に出かけたい。私はそう心から願っていました。でもその願いはついに叶いませんでした。
8月29日、この日は、2週間に一度の福島の祖父母宅から新潟の自宅に帰り、父のお見舞いをする日でした。祖父母と共に車で出発し、暫くしてから、母方の祖母が真剣な目をして「ブーちゃん、びっくりしないでほしいんだけど、お父さんね、今朝血圧が60を切っていたの。」と言われました。当時の私は、この血圧が60を切ったということの意味が全くわかりませんでした。今日はお父さん少し具合が悪いのかな、という程度の理解でした。
病院に着き、父の病室に入ると、父はいつもどおりの笑顔で私たちを迎えてくれました。いつもと何も変わらずにベッドから起き上がり、「あのさ、ちょっと腰が痛いんだ。揉んでくれない?」と俯せになることも出来ました。
そんな父の様子に、朝の祖母の話は一体何だったのだろうと思い、悪いって聞いたけれど、ひょっとしたら父はこれから治っていくんじゃないかと、思っていました。
私たちが着いてから少し経った頃、父の姉(私から見れば叔母さんです)が見舞いに来ました。叔母さんはある女子大学の助教授をしている人で、毎日とても忙しくて、なかなか父のお見舞いには来られませんでした。
この日はたまたま休みが取れ、父方の祖母も、叔母さんの予定に合わせて、私達のお見舞いの日程を組んでいたそうです。
母は、親子3人水入らずで話せることなんて滅多にないだろうからと、一旦私と妹1を連れて、家に戻ることにしたそうです。
それじゃあまたあとで来るからねと、父に別れを告げ、ひとまず家に帰りました。まさか、この数時間後に父が死んでしまうとは夢にも思いませんでした。

22. この日の夕方6時頃、久々の新潟の家でのんびり過ごしていたところへ、病院から電話がかかってきました。
夕飯の支度をしていた母が電話を取り、びっくりした声で、「えぇ!!わかりました。今すぐに行きます。」と答えて受話器を置き、「ブーちゃんマン!妹1!お父さんの病院に行くよ!」と大声で言いました。
リビングにいた私も妹1も祖父母も目を丸くして母の方を見て、「どうして!?」、「いったいどうしたの?」、「何があった?」と口々に言いました。母は私と妹1に身支度をするように急かし、祖父母に電話の内容を口早に伝えました。祖父母も仰天し、母は「まずは私達3人が先に行きます。お母さんたちはとりあえず食事をしたら、すぐに来て!」と、夕食の支度を手早く済まして、母と私と妹1は飛び出すように家を出ました。
マンションのエレベーターの中で、母は目に涙を浮かべて、「今日でお父さんとお別れかもしれない。」と言いました。
父の病気がガンとわかってから、ただの一度も、それが治らない病気だなんていう言い方を、決して私達にしなかった母が、初めて口にした「お別れ」という言葉に、私と妹1は唖然としました。「まさか。あんなに元気だったのに、死ぬわけない。絶対治る。絶対治る。絶対治る…。」と心で願いながら、私は病院に向かいました。

第五-5

23. 病室に入ると、そこでは担当のお医者さんと看護婦さんがいて、父を診ていました。
ベッドに寝ている父は、病室に入ってきた私たちに気づき、顔を向けました。
母が話しかけると父は何の変わりもなく頷き、話もしていました。一見、元気そうな父でしたが、父の手を見ると真っ白で、触ると冷たくなっていて、まったく動きませんでした。
そんな父をひっきりなしに診る先生の顔は険しく、看護婦さんに次々と指示をして、父の周りには様々な器具が配置されてゆきました。
暫くして祖父母と父の姉が到着し、皆で父の最期を看取ることになりました。死んでゆく顔なのに、その顔はあまりにも嬉しそうな笑顔でした。
母は「何か、言いたいことはないの?」と父に問いかけました。「いや、もう何もないよ。」父は笑顔で答えていました。私と妹1は、どうにかしてこの冷たくなってしまった父の手を温めようと、必死で手を握り、さすっていました。
私は、奇跡が起これば・・、魔法が使えれば・・、どうか先生の薬が効いてくれば・・、今ここにいる皆の思いが伝われば・・、こんなことはどうか夢であってほしい、神様仏様どうか助けて、と藁にも縋る思いで、涙を堪えながら必死で手を握り締めていました。父は、最期まで目を開けたままでした。いつ死んでしまったのか、全くわかりませんでした。

まるで時が止まってしまったように思いましたが、先生が父の胸に聴診器を当て、腕時計の時刻を見て、初めて父が死んだのだということがわかりました。午後7時40分頃でした。
母方の祖母は「もういいよ、お父さん。目を閉じて。ゆっくり休んで下さい…。」と言いながら父の目に手を当てて居ました。
父方の祖母は人が変わったようにおいおいと泣きはらし、父の遺体にすがって「本当に立派だった…強い子だった…気持ちの良い子だった。よかったね、やっと楽になれて。本当によかったね。」と言っていたのが、印象に残っています。私はといえば、目の前で父が死んでしまったという信じられない現実に、唖然としているばかりでした。
どうして、お父さん死んでしまうの、あんなに元気だったのに。一緒にコンサートに行こうって約束したのに。と、溢れる涙を止められませんでした。
これで、病院でお父さんにしてやれるお手伝いは最後と、私と妹1は泣きながら、父の身体を拭いたり、母が家から持ってきた、一番父に似合っていたポロシャツとジーンズに着替えるのを手伝いました。
旅立つ父に着せてあげた服が白装束ではなかったことが、今思えば唯一の救いです。
なぜなら、死んでしまっても、いつもの父でいてくれた、それも一番父が気に入っていた、一番かっこよかった父の姿でしたから。
今にも「ああよく寝た!」と言って、起き上がってきそうなほどの、いつもの父の姿でした。

24. しかし、現実は、どんなに願おうが、どんなに泣こうが、父はもう帰ってきません。
父は病室から、病院に来た霊柩車へと移されました。母と祖母、叔母さんも一緒に霊柩車に乗り、福島へと出発しました。
父の車を追って、私と妹1、母方の祖父母も福島へと向かいました。父が亡くなったのは新潟の病院なのに、どうして、わざわざ福島へ向かうことになったかについては、またあとでお話ししたいと思います。
福島の祖母の家に到着し、和室に静かに横たわっている父のところに、私は何度も何度も近づいて、本当に死んでしまったのかしら、気を失っているだけではないかと、諦め切れずに様子を見にいきました。
しかし、父はもう近寄ってきた私のことに気づきません。私は仕方なく部屋を出るしかありません。

翌日から、母と祖母は父の訃報を聞きつけて、駆けつけた人たちの応対に追われ、一日中バタバタと慌ただしくしていました。
私も、父が死んでしまった今、私がしっかりしなきゃと、お客さんにお茶を出したり、お菓子を用意するなど、母と祖母の手伝いを一挙に引き受けていました。
そんな応対をしている私の姿を見た親戚の人たち、父と親しい人たちは、「お姉ちゃんは、しっかりしてて偉い子ね。」、「お母さんのことを、これからも支えていくんだよ。」と、口々に私のことを褒めてくださいました。
でも、大好きな父が死んでしまったショック、悲しさに、何も言えませんでした。
ますます、私が支えるんだと、必死になるようになり、父にしたような喜びからお手伝いをしていたのではなく、私がやらなきゃという義務感から、お手伝いをしていたように思います。

第五-6

25. 父の葬儀は、福島県の葬儀屋さんで行われました。
お葬式のBGMには、父が生前一番気に入っていた、MASAYAさんの「森と風の旅人」、「風にふかれて」、「Sweet Farewell Melodies」などを式場の方に流してもらいました。
生前、父はMASAYAさんの音楽を、「どれが一番いいか、選べない。どの曲も本当にすばらしい。」と、母にしみじみと言っていたそうです。
その中でも、特に気に入っていたのは、「森と風の旅人」「遥かなる道」「Sweet Farewel Melodies」でした。
父が聞くことが出来た、MASAYAさんの最新のアルバムだった「Sweet Farewell Melodies」は、「特に最初の4曲が素晴らしすぎる。」と言って、ずっとCDプレイヤーで聞いていたそうです。
この「Sweet Farewell Melodies」は、平成9年4月25日に、父と同じスキルス胃ガンで亡くなられた、松田賀江さんに捧げる詩として、MASAYAさんが作ったアルバムです。同じ状況下にいた父には、誰よりもその詩が心に深く響いていたことと思います。
葬儀で、その曲を流し、MASAYAさんの音楽にのせて、父を見送れたことは、私達が父に出来る、精一杯のお見送りだったと、思います。葬儀には、父の勤務先の会社の方々にも沢山来ていただきました。
皆涙を流して、父の死を悲しんでいました。とても印象に残ったのは、父の会社の方を代表して、多分一番父と親しかった方だと思いますが、その方が、「どうして君が先に逝ってしまうんだ。君が抜けてしまった穴はどうやって埋めたらいいのか」と、おいおいと泣きながら弔辞を読んでいる際に、生前の父が一番大好きだった「森と風の旅人」が流れ、「この地球をパラダイスにしたい。」、「僕が扱っている研究材料は、砂漠の緑地化に使えると思う」と、夢を語っていた父の姿が目に浮かんで、夢を叶えきれなかった、父の無念さ、会社の方々の無念さが伝わってきました。
私は堪えきれず、わんわんと泣いてしまいました。
父が大好きだった、「森と風の旅人」と「すべての中に君を見ている」の詩を記しておきたいです。
この詩を読んでいただければ、この詩を愛した父の思い、この詩を生み出したMASAYAさんの思いが伝わると思います。

森と風の旅人
すべての中に君を見ている

第五-7

28. MASAYAさんの曲がバックに流れる中、葬儀は終わりました。父を火葬するときが、遂に来てしまいました。
火葬場へ向かう前に、もう二度と見ることの出来ない、父の顔をしっかりと見つめ、死んでも忘れないよう、目に焼き付けました。
いよいよ火葬場に到着し、父の入った棺は、機械の中へ運ばれていきました。
もう本当に、二度と、父を見ることが出来ないと、私も妹1も、わんわんと泣きながら、父を見送りました。
火葬が終わるまで、別の建物で待つよう、火葬場の方に案内され、参列にきた人々は次々と移動していきました。皆が歩いてゆく中、母は一人立ち止まり、雨の降る中、父を燃やしている建物の煙突を見つめていました。そんな母を見かね、父方の祖母が、「何をしているの、風邪をひいてしまうよ。」と母に声をかけていました。母は、「けむりを見ているの。」と静かに答え、傍らにいた私も、母が見ている煙突を見つめました。
「けむり」というより、かすかに空気が揺れて見えるだけでしたが、それだけでも、十分でした。
最後まで父と共にいたい。という母の思いを感じ、更に涙が溢れました。
あれほど厳しかった祖母もきっと泣いていたのだと思います。
俯いて、顔を向けぬまま、「でもね、寒いわ。中へ入りましょう。」と母の肩を抱き、とぼとぼと、建物のほうへ歩いていきました。

29. それから、何時間たったのか、私や妹1は待ちくたびれて眠ってしまったぐらい、長い時間が経ちました。
ようやく火葬が終わったということで、私たちは元の火葬場に戻り、そこですっかり変わり果てた父の姿を見ました。
所々からすすり泣きが聞こえました。私は本当に小さかった頃に、母方の曾お婆さんのお葬式に立ち会ったことはありましたが、父の変わり果てた姿は、衝撃でした。
最初に母と私と妹1の3人で、父の骨を骨壷に入れました。太く、しっかりとした骨で、母は泣きながら、「お父さん、骨太だったね。」と言いました。
あんなに大きかった父が、私でも持てるような、驚くほど小さな壷に収まってしまう。骨になってしまった父を悲しみました。

30. 父が亡くなってから1ヶ月間ぐらいは、お墓のことや父の職場の荷物整理などが立て込み、新潟の自宅と福島を慌ただしく行ったり来たりの生活でした。
父の職場だったM化学新潟研究所には、母がゆくのに私と妹1も一緒についていきました。
父がどんなところで仕事をしていたのか、初めて知ることが出来ました。
几帳面だった父は、机の中もきれいに整頓していました。机の中には、不思議な顕微鏡写真、難しい資料などの仕事道具のほか、松田賀江さんのポストカードが数枚、大切に仕舞われていました。
本当に物を大切にする人だった、父の面影を思いながら、それらの品々を大切に引き取りました。
そして父の研究室に案内され、父が作ったという、巨大な機械を見せてもらい、父がどんなことをやっていた人だったのか、その時にようやくわかりました。
父の「地球をパラダイスにする」という夢は、「化学者として生きる中で、世界中の化学者達が犯した過ちの責任をすべて僕が取り、地球をパラダイスに変えること」と母に話していたそうです。
父は、高校生の頃から、「老子」や「荘子」の本を読んでいて、感銘を受けており、人の愚かさ、そこから来る地球破壊に心を痛め、この地球をパラダイスにしたいと言っていたそうです。
母と結婚し、ワーナーエアハードのセミナーに初めて参加し、自分のことを観たときに、化学者である自分がこの地球を破壊している、自分には責任があるんだ、ということに気づいた。これまでは「夢」として思っていたけれど、「自分自身に責任がある」という現実を知り、よりいっそう、「地球をパラダイスにする」ことへの願いが深まった。と母に話していたそうです。
それから数年後に、MASAYAさんのセミナーに出会い、「MASAYAさんの生き方は愛とロマンに満ち溢れている。あんな生き方を自分はしてこなかった。自分が化学者になったのは、天才のような頭脳を持つ姉に負けないようにと、化学者になり、戦ってきた。僕はMASAYAさんのことを心から尊敬する。」と、セミナーを受けて、これまでの人生を見つめる中で、父が見出したのが地球をパラダイスにするという夢であり、これがセミナーでの父の生きる目的だったそうです。
父の職場はとても広く、一部の場所には「危険」という立て札が立っていたり、大きな機械がモクモクと煙を上げている、まさに「化学工場」でしたが、そんな中で、いつか、地球をパラダイスにするんだと、夢を持ちつづけた父のことを改めて、本当に素晴らしいお父さんだった。もっと一緒にいたかった。そう思うのでした。

父とゆければと思っていた、東京のオーチャードホールでのMASAYAさんのコンサートも、あまりの忙しさに行くことが出来ませんでした。
私は、父が元気だった頃から、父があまりにMASAYAさんに傾倒していましたので「マサヤさんって一体どんな人だろう。」と思っていましたし、母に言い残した父の遺言から、ますますMASAYAさんという人に会いたくなり、本当はこのコンサートに行きたかったのですが、どうしても忙しく、行くことが出来ませんでした。

第五-8

31. 最後まで父のことを気に掛けてくれていたNTさんにお礼を言うのに、NTさんが当時勤めていた、屋久島のホテルへ、私たち3人は行くことにしました。
生まれて初めて飛行機に乗り、父がずっと行きたがっていた屋久島へ私達はゆくことになったのです。
屋久島は生憎の悪天候で飛行機が着陸できず、鹿児島に1泊することになってしまいましたが、やっと辿り着いた屋久島は、想像していた以上に美しいところでした。
島中が鬱蒼と生い茂る森に囲まれていて、本当に緑溢れる風景、そして真っ白いコテージが立ち並ぶ姿も美しいホテルでした。
ホテルに到着すると、真っ先にNTさんが迎え出てくれました。
母は、NTさんに深々と頭を下げてこれまでのお礼を言っていましたが、そのあとも長い間、母とNTさんは話しこんでいました。
きっと父の最期の様子や、父が最後までMASAYAさんのことを尊敬し、感謝していたこと、そんな父とMASAYAさんの橋渡しをNTさんがしてくれたことを、父は常々感謝していたこと、それをNTさんに伝えていたんだと思います。

私と妹1はホテル内を探検することにして、建物のところどころに残された、松田賀江さんが描いたイラストを見つけては、妹1と「あ、こんなところにも!かわいいー!」と宝探し気分で歓声をあげていました。
母とNTさんとの話が終わり、私達は当時屋久島に勤めておられたSOさんのガイドで、あの白谷雲水峡へ観光に出かけました。
びっくりするほど、森の中は瑞々しくて、都会育ちの私達は大変驚きました。
また、海辺にも行って、濃いブルーの海に、「新潟のあの緑っぽくて濁った海は一体何だったの??」と私は驚きました。
楽しい旅行の帰り道、私と妹1は「また、屋久島に行きたい。」と言いました。微笑みながら母は頷いていました。今思い返してみると、父が亡くなってからは、こんな風に3人揃って笑いあうようなことは一度もありませんでした。この旅行で本当に久々に、笑顔を取り戻すことができました。

32. 平成11年1月、母は父が勤めていたM化学の関連会社に就職し、私と妹1は、いわゆる「鍵っ子」状態になりました。
この後、私は学校に通わなくなりました。
私達が不登校になっていることをよいことに、それが私の母やMASAYAさんから私達への児童虐待なのだとして、紀藤弁護士、Yy達は、母やホームオブハートが、私たちを学校に通わせないなどとしてこの事件をいわば肴、というよりも頭のおかしな連中のセミナーなどという印象づけに使われたのが、今回の事件です。
私たちの話は、おかしな宗教みたいなものだとして、裁判で使われ、私達は私たちで長らく自由が奪われました。
その間(かん)の、そしてその後の幸せを、全てもぎ取られました。
事実を陰湿に言い換え、捻じ曲げ、言葉尻で無実の人を陥れるなどという、人間のやることとは思えない、全くもって信じ難いことなので、全ての誤解が解けるよう、私がどのようにして不登校になったのか、詳しく述べておきたいと思います。
少し話が前後しますが、我慢して読んでください。
なぜ、父の最後のプレゼントを私や妹1が読んで感動したのか、なぜ学校なんかに行きたくなかったのか、それこそ自分が車で送り迎えをしてでも学校に行かせようとしていた母の態度が変わったのかも、わかって貰えると思います。

でもこれは、人の痛みを無いものとして、言いくるめてでも生きていけるような人には決してわからない事かも知れません。
いや、全く理解はできないことでしょう。

第五-9

33. 私が不登校になった始まりは、平成9年の夏(当時小学2年生)に、県の絵のコンクールで私が賞をとったことがそもそもの原因です。
事の流れは、その年、春の遠足で何千年も生きていると言われている大きな杉の木を見に行き、後日、図工の授業でその杉の木をテーマに絵を描きました。
そして、夏休みの始まる前に、担任の先生からコンクールに私の絵を出していたこと、「特賞」を取ったことを告げられました。
夏休みの真っ最中に、そのコンクールの表彰式がありました。私は、母と担任の先生、妹1と一緒に出向き、表彰状を頂いて帰りました。
ところが、夏休みが終わり、久々に学校に行ったら、担任の先生から「コンクールでもらった表彰状を貸してほしい。」と言われました。
私が通っていた小学校では、毎月1回「全校朝会」という集まりがありましたが、その中の1コーナーにコンクールなどで受賞された人に、校長先生から表彰状を渡す、というものがありました。
そのときは私が朝会での表彰を受けるのに、一度表彰状を先生に預けることになったのです。
こうした表彰も普段ならは、何人かはいるのですが、そのときは、あいにく私以外の受賞者はいませんでした。逆恨みに思う人がいたのでしょうか。
実際、妹の友人のお兄ちゃんが、「あいつ、一人で受かっててムカつく。」とその子のお母さんに言っていたみたいだと母から聞きました。
9月の終わり頃の日です。授業が終わり、帰ろうとしたところ、下駄箱にあるはずの靴が無くなっていました。
何かの手違い、誰かの間違いで他の場所にあるんだろうと、あちこち探し回りました。でもどこにもありません。担任の先生にもお願いして、他の何人かの先生も一緒に探してくれましたが、なかなか見つからず、グラウンドに放り出されていたのをついに見つけました。ところが、それも靴紐が抜き取られている状態で、それでは履くことができません。今度は靴紐を探しました。やっと両方の靴紐を見つけた時は、もう夕方5時を回っていました。
先生は、「見つかって本当によかったね。もうこんな時間だから、寄り道しないで、早く帰りなさい。」と言って、職員室に帰っていかれました。
私は、ホッとしたのも束の間、靴紐をどうやって靴に通すのか、全くわかりません。
その日、取り敢えず脱げてしまわない程度に縛り、泣きながら家に帰りました。
この日の出来事を家に帰って母や父に言ったかどうかは、覚えていません。でもこの日始まった嫌がらせは、止まることなく、続きました。
大体は同じパターンでしたが、次の標的は体操着でした。体操着は廊下に置いてありましたからやりやすかったのでしょう。その次は傘でした。使っていない教室のロッカーに入れられたり、グラウンドに投げ出されていたりと、いろいろでした。本当にショックだったのは、雨の日にまたしても靴がグラウンドに放り出されていたことでした。すっかり雨に濡れてずぶぬれになった靴を履いて帰りました。
当時、私はクラスの女の子の中でも一番体が大きくて、女の子に意地悪をしたり、ちょっかいをだすような男の子には注意するような子でした。そんなところも反発を買ったのかもしれません。
この陰湿な意地悪に心を痛め、友達に打ち明けました。友達は一致団結して、犯人を洗い出そうよと、頑張ってくれました。でも、とうとう、誰が犯人なのかは、わからず終いでした。

第五-10

34. 私の性格上、こんな辛いことがあっても表面上は平気に、気丈に振る舞ってきました。
親にも打明はしませんでした。
しかし、この一連の嫌がらせが続くことで受けた精神的なショックは相当なものでした。この虐めの事件から数ヵ月後、先ほどお話しした父のガン発見、入院、手術、そして死亡に至っています。
入院している父、看病にあたっている母に、いらぬ心配をかけぬよう、私がしっかりしなきゃという思い一筋で、何とか必死で学校に通っていました。そんな無理をずっとしてきましたから、学校が楽しいとか、行きたいから通っている、そういう状況には程遠いものになりました。
その頃にはもう、学校に行くことの楽しみ・喜びというものより、勉強ができる・できないなど、その比較のために同じ仲間同士でも蹴落とし合う、戦いのようなムードが醸成されていることにうんざりしていました。私への虐めも、こうしたことさえなければ、絶対になかったのです。ならば私が表彰されなければよかった、そうなのでしょうか。それはそうではないと思います。その時には、別に私のような目に遭う人がでたでしょう。誰かはいつも表彰されているからです。誰かはいつも妬み、つまらない思いをする。誰かが出来なかったこと、失敗したことによる反対側のものとして意識されるのだとしたら、その表彰される誰かは、同じ目に遭うのです。でも更に、私が感じたのは、虐めた誰かだけが悪いのではない、ということだったのだと思います。
後に父からもらった絵本から、本当に目から鱗が落ちるように、このことは思うようになりました。

35. 父の死は、それまでずっと、「私がしっかりしなきゃと」、張り詰めていたものが一気に崩れた大きなきっかけでした。
父が亡くなってから、親戚だけでなく、本当に沢山の人たちから「お姉ちゃんがしっかりするんだよ」、「お母さんを支えるんだよ」と言われ続けました。
私は私で、気丈に振る舞い、私がやらなきゃと、その声に答えるように、闇雲に、手伝いをする毎日でした。
でも、私にはもうこれ以上踏ん張り続けることはできませんでした。当時、9歳の子だった私にとって、父がいない疎外感・喪失感は、突如世界が崩れ落ちてしまったように、絶大のものでした。私の友人達も、子供ながらに非常に気遣ってくれて、とてもありがたかったです。でもその気遣いが余計に辛い気持ちを思い出させることになり、大好きな友達と一緒にいることが、それもとても辛いと思うようになりました。
そして学校へはますます行きたくなくなっていきました。

第五-11

36. 私の母は母で、父の8ヶ月の闘病期間中(母は早期に、絶対に治ることがなく、進行が早いものと知っていました)、父の体の具合さえ良ければ、せめてMASAYAさんのコンサートや屋久島のホテルに連れて行きたいと願って、必死に看病を続けていました。
刻々と衰弱してゆく父の病室に、小型のテレビデオを持ち込み、昔のMASAYAさんのコンサートビデオを父と一緒に見、父が喜んでくれることが、当時何よりの幸せな時間だったそうです。父は意識を失わず、苦しむ表情も見せずに、笑顔のままの穏やかな最期を迎えました。
現実の死へとなったとき、母のショックも相当なものでした。精神的なよりどころであった父を喪い、これからは女手一人で娘2人を育てていかなくてはならない、という現実的な不安。それに加え、祖母との関係もあり、母は相当に心細い思いをしていたと思います。
祖父母との関係については後に詳しく書きますが、この頃の母は、そうした境遇の変化により、私達にこれまでよりもっと厳しくなり、私と妹に、「学校に行きなさい、しっかりしなさい。」と強く言うようになりました。その一面母は、普段の生活の中でも父を思い出してしまうのか、写真の前で泣いてしまう人でもありました。
そんな生活の中、私は、学校を休みがちになってゆきました。気持ちの上では、母をこれ以上心配させたくない、父の写真の前で泣いている母の力になりたいという思いから、何とか学校に行かなければと思ってはいましたが、もうこれ以上自分の気持ちに蓋をし、我慢をし続けてまで、学校というところには行きたくないという気持ちの方が強く、週に何度か学校を休むようになりました。母は母で、何としてでも私を学校には行かせようと、あの手この手を尽くしていました。

37. 父が死んでから、母は祖父母からは人が変わったようだと言われたことがあるそうです。
学校を休みがちになっていた私たちを見て、母は祖父母を心配させまいと思い、娘達が学校に行っていれば、祖父母は安心するだろうということから、私たちをなんとしても学校に行っていて欲しかったのだと後に母から聞きました。そんな母を見ての祖父母の感想なのでしょうが、祖父母は祖父母で、学校に行かないのはお前の責任だ、父がいなくなったばかりに・・・と、これも誰もが考えがちのことでしょうが、責めていたのです。
母は女手一人になったプレッシャーから、一人で何でもやりきることに躍起になっていて、どうして私が学校に行きたがらないのか、私の真意はいったい何かを、わかる余裕は余りにありませんでした。
私は私で、自分が混乱している中、母に「何故学校に行きたくないのか」をなかなか伝えることが出来ずにいました。その半年ほどの間に、母と私の間にはとても大きなすれ違いが生じていたように思います。
妹の妹1にしても、学校に通わなくなった理由も、私と同じく、学校で背が低いことをからかわれて、そのことでやはり虐められていたことが原因です。私の妹は遺伝の関係があり、もともと背丈が小さいのです。
その事実を知っている母や私は、妹1の背の低さのことを特に気にも留めず、妹1のことを育ててきました。そのうち、大きくなるだろう、という気持ちでした。
実際、妹1は特にアレルギーもなく、病気にもならず、大変丈夫な子に育ちました。一生懸命に食事もしています。食べないなどということではないのです。しかし、妹1本人は、自分が背が低いということを誰よりも悩み、気にしてきました。妹1は自分でも、人と違うということに気づいていますし、そんな子が人から、からかわれてしまいます。すると余計に、妹1は自分の背丈のことを気にします。妹1は、自分が小さいことを気にしだし、いじめられた日は泣きながら家に帰ってきていました。妹1も、父が死んだ後、何とか母の力にならなきゃと、思っていました。妹1は、私にも増して本当にお父さんっ子だったのに、その父が突然いなくなってしまった寂しさと、学校でのいじめに耐え切れず、学校に通うことをやめてしまいました。子供にするならば、義務として学校に行かなければと思いつつも、わざわざ心を傷つけるために通うという矛盾です。
そんなある日、ついに私は母に「私が学校に行かないのは、いまの学校の現状が、比較と戦いに明け暮れた戦場でしかない現実、そのため、世の中で少年犯罪が増えていて、ちょっとでもむかつくことがあれば、それこそナイフで刺しかねない状態だからだ!お母さんは何もわかっちゃいない!」と、心情をすべて打ち明けました。私の言葉は、相当のショックだったのでしょう、母は泣き崩れて「本当にごめんなさい、ごめんなさい。」と、私や妹に頭を下げて謝りました。私たちが、不良だからとか、不真面目だからとか、勉強をしたくない、怠けたいからなどでは全くないこと、学校という集団の中で、私も妹1も、標的にされていたこと、そんな中私たちが通学をしなければという思い、母に心配を掛けたくないという思いとで引き裂かれるような気持ちで苦しんでいたことをわかってくれました。
これは今もそうだと思いますが、ある虐めの存在を指摘して、やるなと言ったからと言って解決するものではありません。
母が学校に行って、私たちをいじめた犯人捜しや、注意を先生からして貰ったところで、終わるような問題ではないのです。
仮にかたどおり、そのようなことがされたとして、私たちがにこにこと笑って同じ学校に通うことができるでしょうか。母も少なからず、単純にその学校だけの問題ではないこと、手術をするように、問題を簡単に解決することが出来るものではないことを理解してくれました。それからの母は、無理矢理に学校に通わせようとすることは二度と言いませんでした。
母は、自分が働きに出ている間、困ることがないように、冷凍食品を買い込んだり、働きに出ている母といつでも直接連絡が取れるよう、携帯電話を購入するなどしました。
こうして、私と妹1は新潟にいる頃から、普段家にいることが多くなったのです。
このように、私や妹1が不登校になったのは、母が株式会社ホームオブハートに就職する遥か以前のこと、そして私達が学校で受けた心の傷から来ていますし、これが子供と子供の関係の築かれ方に深く関係しています。これまで信じていた学校を基準とした生き方への失望にあります。これは、私と妹1という人間が自分を守るために決めたことです。ですから、株式会社ホームオブハートであれ、MASAYAさんであれ、このことには誰一人として関与してなどいません。
私は私の意志で、学校に通わないことを選択していた、それだけのことです。
勘違いしていただきたくないのは、自分が怠けようとしたり、勉強が嫌いだったり、不良のような生活をしたいからでは決してありません。

第五-12

38. 家にいるばかりではあまりに退屈なので、私は毎日、自転車に乗って出かけていました。
私が出かけている間、妹1は自転車に乗れなかったので、留守番をさせていました。私と一緒に出かけたいあまり、妹1は頑張って練習をして、そのうちに当時住んでいたマンションからすぐ近くのコンビニまで、一人で自転車に乗っておやつを買いに行くこともできるようになってしまいました。
その姿を、会社帰りの母が目撃したのですが、家の近くは車通りの激しい場所で、しかも薄暗い夕方会社帰りの車が行き来する中でしたので、母は「私がいない間にあなた達が事故にあったらどうするの!!」と顔を真っ赤にして目に涙を溜めて、私達を叱りつけました。
母は折角の父のいた会社の勧めで就職させていただいたところでしたが、私たちのためにその勤めを辞め、今度は死んだ父がずっと夢見ていたMASAYAさんのCDや松田賀江さんの絵本を扱うショップを始めよう、そうすれば、自分が働いている間も、子供達の面倒を見ることができると思うようになり、仕事の合間を縫っては店舗探しを始めました。
この母の親としての姿勢のどこかに私たちの「虐待」につながるようなものがあるのか、教えていただきたい、そう私は思います。
母の姿勢は今日まで全く変わっていません。

39. 私も何度か母と一緒に物件を見に行ったことがあります。何軒か気に入った店舗もありました。
契約をしたい、と母が不動産業者の方に問い合わせても、お店を借りるには「保証人」が必要だと業者の方から言われ続けました。父が亡くなってしまったので、業者の方は、親に保証人になって貰えばよいでしょう、と母に言ってくれました。
しかし、父が死んでから、祖父母との関係が悪化し、ショップを開こうとする母のことを、祖父母は全く快く思っていなかったようです。保証人がついに出来ず、母はショップ作りを断念することにしました。

第五-13

40. なお、この祖父母達も、今回の事件で、紀藤らに脅しをかけられた被害者です。
本当に信じ難いことですが、児童相談所に私たちが連れて行かれる半年ほど前に、紀藤弁護士らは、私の祖父母までも、声を掛け、事件を依頼するように話していました。
Yyが父・母両方の祖父母に電話をかけ、東京の紀藤弁護士の事務所に来るようにと言ったそうです。あまりに突然の話に、祖父母は戸惑いながら、「とりあえず、行ってみるか。」と出かけたらしいです。事務所に行った祖父母に紀藤はおどろおどろしい作り話を散々聞かせました。「このままだと死人が出ることになる」とまで、紀藤は祖父母に言ったそうです。
そんな話を聞かされて、祖父母は本当に驚いたことでしょう。
しかし、祖父母らは最終的に「この人たちは単なる金取りだ。いったい何のためにわざわざ東京まで来たのかわからない。」と話しながら、事務所を後にしたそうです。祖父が翌日、紀藤に「私達は協力をしませんよ。」と電話で断った途端、「あんたは見殺しにする気か!!!」と怒鳴られたそうです。
こんなことが弁護士のやることでしょうか。
それでも、祖父はひるまずに断り、ますます紀藤たちに対し、「やっぱりあの人たちはお金取りだったね。」とつくづく思ったそうです。
こんなことこそ、恐喝であり、犯罪ではないでしょうか。
こんな弁護士を放っておいてよいのでしょうか。
今回の「児童虐待騒動」で私たちを助け出したい、などとテレビで言っていたり、ホームオブハートやトシオフィスでは子供を段ボールに入れて育てているなんていう馬鹿なことを言ったKkと母が出会ったのは、平成11年7月のことです。
少し話が飛んでしまいますが、ショップに関連する話として、ここで書かせてください。

事の始まりは平成11年3月末、母と私と妹1で新潟市にて開催されたTOSHIさんのコンサートに行った時のことです。
このコンサートには新潟のとあるレストランの奥様(お店でMASAYAさんのCDを販売されていました。以下Cさんと書きます)と、当時新潟県に住んでいたKkも来ていました。私達はKkの存在など、全く気がつきませんでしたが、偶然Kkの目に私達3人の姿が止まり、Cさんに「あの親子と連絡をしたい」「連絡先を知らないか」というようなことを執拗に聞いてきたそうです。
そんな見ず知らずの他人に、執拗にコンタクトを取ろうとする行為自体、へんな行動だなと、私は思っています。たぶん、いいカモだ、とでも思ったのではないでしょうか。
4月の末頃、Cさんから母に電話が来て、「Kkさんという方があなたと連絡をしたいと言っています。電話をかけてもらえませんか。」と話したことから、Kkとの関わりが始まったと聞いています。
なお、私自身は母とKkとCさんのやり取りなど、全く知りませんでした。私自身がKkと初めて会ったのは、平成11年9月15日東京でのTOSHIさんのコンサートに行くために、新潟駅で初めて会ったときです。

母自身は、TOSHIさんのコンサートに行く気はさらさらなかったのですが、Cさんから「本当は一緒に行きたいけれど、どうしても自分は行けない、代わりにあなたが一緒に行ってもらえないか」と強く頼まれ、気乗りしないまま、仕方なく付き合うことにしたのだそうです。
実際、TOSHIさんのコンサート会場にはいわゆるビジュアル系のコスプレをした、TOSHIさんのファンが沢山来ていました。
当時、小学3年生とはいえ、V系なんてまったく知らなかった私はすっかり怖くなってしまい、「どうしてお母さんとKkさんはこんなコンサートに来たんだろう」と思いました。見上げると母も「やっぱり断ればよかった」というようなしかめっ面を浮かべていました。
そんなTOSHIさんのコンサート会場で一番はしゃいでいたのはKkでした。
私は怖くてすっかり引きつっていましたから、「この人、よくそんなにはしゃいでいられるな」と思い、幻滅しました。
それから、Kkの家に遊びに行ったこともありました。と言っても回数でいえば2回ぐらいですが、そこで初めてKkの娘のDちゃん(当時幼稚園ぐらいだったと思います)に会いました。
Dちゃんに手を引かれて、お部屋を案内されているうち、階段の前で突然Dちゃんが怯えたような顔をして、「ここでは、静かに歩いてね。」を、声をひそめて私と妹1に言うのです。あまりにも普通でない表情で言うので、通り過ぎてから、Dちゃんに聞いてみると、「あそこは、おじいちゃんとおばあちゃんのお部屋だから、静かにしないとダメなの。」とあっけらかんと言う彼女でしたが、何かいざこざがあって、おばあちゃん達とうまくいっていないのかもしれない、それをこの子は恐れているのかなと思いました。

ようやくここで、「Kkさんは母と一緒にホームオブハートのCDなどのショップを開きたい人なんだな。」と理解しました。
最初は、一体どうして、Kkと母が関わるようになったのか、全く知りませんでしたから、彼女のことを警戒していました。Kkと母は、一緒に松田賀江さんの美術館や、新潟での店舗探しにも一緒に行きましたから、母とKkはお店を開くことで完全に意気投合し、協力し合っていて、いいコンビなんだとばかり私は感じていました。

第五-14

41. 話は前後しますが、平成10年12月、私は生まれて初めて、MASAYAさんのコンサートに行きました。
家を出る前に、母は父が一番よく写っている写真を選び、「これで、お父さんも一緒だね。」と大切にハンドバッグに仕舞っていました。会場は沢山のお客さんで一杯でした。
ステージには、綺麗なお花や可愛らしい縫いぐるみと共に松田賀江さんの写真が飾られていました。
コンサートはTOSHIさんの歌で始まり、吉田弥生さんのピアノソロの後、いよいよMASAYAさんが出てきました。
ずっと、声だけは父のCDで聞いていたのに、どんな人なのかずっと知りたかったMASAYAさんの姿は、目を凝らしてよく見ると、何だか父に似た雰囲気を持った人で、大変驚きました。
その時、MASAYAさんの新曲「青空のように」を聞いて、青い空がよく似合っていた父を思い出して、「お父さんにも聞かせたかった。一緒にこのコンサートを聞きたかった。」と泣いてしまいました。
コンサートが終わってから、ホームオブハート(この頃は、レムリアアイランドレコードという名前でした)のスタッフのOMさんと初めてお会いしました。
母が父から私達への最後のプレゼント(例の絵本20冊です)を注文した時、電話を受けて、急いで絵本の手配をしてくれたのはOMさんだったそうです。
OMさんをはじめ、ホームオブハートのスタッフの方は、母から父がスキルス胃ガンであったことを知り、父の存命中に届くようにと、急いで手配を済ませ、どの荷物よりも優先して出荷してくれたそうです。私達はOMさんに感謝の気持ちを伝えて、コンサート会場を後にしました。
平成11年3月には、アメリカ・ロサンゼルスでのMASAYAさんのレコーディングツアーに私達は参加しました。
このツアーは、私が現在に至るまでの間で、もっとも重要な出来事がありました。
この出来事をきっかけにすべてが動き出したのだと思っています。
レコーディングの見学が終わり、私達はビバリーヒルズにある、有名なレストランに行きました。
私達はMASAYAさんと同じテーブルの席に着席しました。
MASAYAさんと話をする中で、父はスキルス性胃ガンで死んだことを母が話しました。
MASAYAさんはとても驚いて「賀江も同じだった、スキルスガンで、ガンがわかってから8ヶ月だった…。僕達は仲間だね。」といいました。
父も同じ8ヶ月間の闘病期間でした。
ちょうどその頃、ディレクターのMさんが同じテーブルに座られましたので、私と妹1とMASAYAさんは、「それでは、クイズです。私達にはある共通点があります。一体何でしょう。」とクイズを出しました。
「えー?わかんないよ〜。」というMさんに、私達はヒントに「切なさ」、「はかなさ」、「MASAYAの音楽の世界観」、「愛しさ」をいうキーワードを出しました。
私達とMASAYAさんはすっかり和気藹々と、「『かなしさ』なんて言っちゃったら答えが分かっちゃうよ〜」などと言いながら、クイズを楽しんでいました。
ディレクターのMさんはとうとうわからずに降参したので、いよいよ答えを明かしました。

『私達は、ともに愛しい人をガンで亡くしました。』

これが、答えです。
答えを言った途端、周りが静まり返ってしまったのですが、その後はすっかりMASAYAさんと打ち解け、食事を楽しむことができました。
レストランからの帰り道、MASAYAさんは、「実はうちにも「ME」っていう子供がいてね…家が2階にあって、1階が事務所になっているから、いつも「しゅっしゃしまーす!」って言って降りてくるんだよね。」、「事務所でスタッフが営業の電話をかけているのをみて、真似をしたがるから使えない電話を渡したら、ちゃんと大人がやっているのを真似て、電話掛けして遊んでいるんだ。」と、話していました。
このMEちゃんが、後に児童虐待騒動の時に、ホームオブハートで虎のぬいぐるみを来て四つ足で生活しているなどと隠し撮りされたビデオで馬鹿馬鹿しくも公共の電波で紹介されてしまった子です。


このツアーの後の、平成11年4月25日の松田賀江さんの命日に、葛飾シンフォニーヒルズ モーツァルトホールで、MASAYAさんの大きなコンサートがありました。
母はボランティアスタッフとして参加を申し込み、母と私と妹1でMASAYAさんのコンサート作りの手伝いをさせてもらいました。
楽屋裏で、パンフレットの束にホッチキス止めをしたり、舞台に飾る花に紙を巻いたりと、いろいろなお手伝いをさせてもらいました。子供ながらに一人前の仕事ができたように思え、とても嬉しかったです。
こんなことまで書くことも馬鹿馬鹿しいことですが、私と妹1は一切、大人の人たちから「手伝いなさい」と言われて手伝ったのではありません。私の母すら、私達に対して「お手伝いしなさいよ」などと言いませんでした。むしろ、「子供なんだからその辺りで遊んでなさい」という様なことを言われました。
実際お手伝いの手を離れて遊びに行くこともあります。しかし、大抵数分経てば飽きてしまうものです。
ですから、よっぽど皆のお手伝いをすることのほうが、何より魅力的でしたし、とても楽しかったです。また、このコンサートには私の祖父母3人(母方の祖母・祖父、父方の祖母 父方の祖父はこの年の1月に父の後を追うように亡くなってしまいました。)も招き、父が最後まで聞いていたMASAYAさんの音楽とはこういうものだったのかと、深く感銘を受けていました。
また、父が受けたMASAYAさんのセミナーで、父と同じセルフトレーニングの参加者だったTmamaさん(8ヶ月以上もの間、紀藤、Yy、Kkらのせいで実の親子なのに引き離されたT君のお母さんです。)も、ボランティアスタッフで来ていたので、母は祖母に「この方は、NAO君(父の事を母はそう呼んでいました)が受けたMASAYAさんのセミナーで長いこと一緒だった方です。私よりも、NAO君のことをよくよく知っている方です。」と紹介していました。
Tmamaさんは「私は、MASAYAさんのセミナーでずっと一緒に参加していた者です。とても素朴な方で、セミナーに誠実な姿勢で参加されていたのをよく覚えています。それ以来、ブーちゃんマンや妹1ちゃんの事も、まるで自分の子供のように思ってきました。」と言うと、祖母は「あら〜、そうでしたか。そうだったんですか〜。本当に、ありがとうございました。お世話になりました。」と深く頭を下げ、Tmamaさんにお礼を言っていました。
そんな祖父母に、私は「いっぱいお手伝いさせてもらって嬉しかった。このお花は私が作ったんだよ!」と誇らしい気持ちで言いました。
そんな私に、祖父母は「そうかい、そうかい」と嬉しそうに笑ってくれました。コンサートの後、母と祖父母が親しげに話しているのを見て、なんとなく、よりが戻ったように思え、子供心にとても嬉しく感じました。
平成11年5月24〜31日には、母が、MASAYAさんと行くトンガ王国でのツアーに参加しました。
私と妹1は、父方の祖母に家に来てもらい、3人で留守番をしていました。私と妹1が、ツアーに参加できなかった理由は、トンガは南の国だから、おなかを壊してしまうかもしれない、という衛生面上から、大人の人向けのツアーなんだ。と聞いています。
祖母は、私と妹1の「子守」を喜んで引き受け、3人そろって笑顔で母を送り出しました。
一方、母はMASAYAさんから、「子供達はどうしたの?」と聞かれたそうです。「夫の母が面倒を見ています。」と答えると、「ああそうでしたか。」と、MASAYAさんは答えたそうです。
このツアーが何故「トンガ王国」だったのかというと、亡くなった松田賀江さんが保母さんを目指したきっかけが、テレビで見たトンガ王国の子供達が瞳を輝かせている姿を見て、いつか、トンガ王国で幼稚園を開きたいと思っていた、というエピソードから、彼女を偲んで、企画されたものだそうです。
後に、このツアーでの様子を取ったビデオを見ましたが、本当にトンガ王国の子供達は大きなキラキラした目で、訪れたMASAYAさんやツアーに参加した人たち全員を歓迎し、歌を歌っていました。
同じ子供なのに、育つ環境でここまで表情が、変わってしまうのだなぁと、私は本当にショックを受けました。
この子達のように、大自然の中で素朴に暮らしていたいなと私は子供心に強く思いました。

麻布の松田賀江さんの美術館へ一度行ってみようよ、ということになり、3人で新幹線に乗り、出かけたこともありました。
途中、道に迷いながらも、やっとの思いで辿り着いて美術館の中に入ると、そこは別世界でした。絵本で見たことのある松田賀江さんの挿絵が沢山飾られる中、MASAYAさんの音楽が静かに流れていて、それはそれは、東京の喧騒の中にあるとは思えない、とても心落ち着く場所でした。
しばらくすると、平成10年12月のコンサートで会ったOMさんが、小さな女の子を連れてきました。その子はまだ3歳だった、MEちゃんでした。
MEちゃんは、OMさんにしがみ付いて、恥ずかしそうにニッコリ笑っていましたが、すぐに妹1と仲良くなってしまい、2人で美術館中をぐるぐる走り回って遊んでいました。
私達はこの美術館で毎月行われるMASAYAさんのホームコンサートに、必ず足を運ぶようになりました。ホームコンサートとは、美術館内に30席ぐらいの椅子が並べられた、とてもこじんまりとした、アットホームなムードの中、行われるコンサートです。私達は、毎月このコンサートを楽しみにしていました。大好きなMASAYAさんの歌が間近で聞けること、MEちゃんと一緒に遊べることが、とても待ち遠しかったのです。

第五-15

42. そんな風に、新潟から、東京麻布に通う日々が続く中で、OMさん、私の母から、「アイランドセルフトレーニング」に参加してみたらどうか、という話がありました。
本来のトレーニングより、だいぶ縮小した形で行われるので、正式なセミナーというのとは少し違う、ということでしたが、このトレーニングは私にとって初めてのものです。
死んだ父や母が受けていたセミナー、父があれほど感動していたセミナーがどんなものか、父の死後、母からある程度聞きました。
私の記憶にも残っているのですが、父がMASAYAさんのそれを受けた時、父は「本当に目から鱗だった。」と晴れ晴れとした顔で帰ってきました。死の直前、父は何よりも「“自分を見つめること”から自分は逃げてしまった。」と言って悔やんでいた。という話を母から聞いて、父も受けて感動したものなら、自分も受けてみたいなと思ったことがこのセミナーに参加する大きなきっかけでした。
私は、母と共に申込書を書き、参加申し込みをしました。妹1はまだ小さいからということで、セミナーに参加させず、別の場所でMEちゃんと遊ばせるつもりでした。
でも当日に急遽妹1も同席していいよと言われ、親子3人で参加することとなりました。
日程は、平成11年8月末からの3日間でした
。当時、私は学校のこと、友達のこと、勉強のことであれこれと悩んでいました。
本当は行きたくない。という気持ちを持っているのに、この気持ちをうまく母に伝えることが出来ずに、しぶしぶと学校に行く生活をしていました。
母の「学校に行きなさい!」という声に、はっきりと「自分は行きたくない。」こと、その理由をきちんと言わずに、ムッとしながら、母の要望に答えているように過ごす自分に、本当に嫌悪感を抱いていました。
そのために、悩みに悩んで一時はもう死んでしまいたい、自殺してしまいたいとまで思っていました。私は母の希望を思って、自分の気持ちは脇に追いやって生きていました。
母の希望を入れたいというのも自分の気持ちですから、自分の気持ちを全て殺していた、とまでは言いませんが、私の本当の気持ちは母の希望する「学校に通い、良い子になること」ではありません。もう学校には戻りたくない。あの戦いの人生はもういい加減にしたい!というのが本音でした。
相反する2つの気持ちの葛藤に、悩み続けていました。

43. 3日間のセルフトレーニングを受けて、私が感じたこと。
それは、私は小さい頃から大人の目を気にして、認められるように生きてきたことでした。
そのために競争をして、勝ち負けでの順位付けを信じ、大人も負かすほどの戦いを作り出すような人間になってしまったのではないかということでした。そして、自分と比べて、小柄で可愛らしく生まれた妹1のことが羨ましく思い、自分の弱さ、出来ないところを責めて、勉強が出来るようになれば、父や母、祖父母に認めてもらえる、私が頑張っていた理由は、そういうことだったのではないかと気づきました。
これが誰かに示された結論ではありません。自分のことは、自分でしか見つけることは出来ません。自分が自分を偽り、或いは真の方向に導いていく、誰にとやかくいわれてどうできるものではないと思います。
最終日に、何かの反面としての在り方や、誰かの希望や誰かへの義務感からなどではなく、私は人として、本当はどう生きたいんだろう。どう生きたいと思ってきたんだろうと考えました。その時、父の最期の言葉が浮かびました。父が最期に残してくれたもの。無我を学ぶことが、人生で何よりも一番大切なことと言っていた、父の言葉の本当の意味に、初めて気がつきました。最終日、私は大きな紙に、私の「生きる目的」を大きく書きました。
「私は、父の死や、沢山の痛みを許して、抱きしめて、生きていきます。」とマイクの前で宣言しました。
そのトレーニングはほんの数人の参加者でしたが、共に3日間を共にした参加者の方たちは、私のそれまでの悩みがどのようなものであったのか、もう既によくわかっています。
参加者の方に抱きしめられる中で、私はこのセミナーの「卒業証書」を受け取りました。セミナーを終えた翌日は、ちょうど父の一年目の命日でした。父が出来なかった分まで、自分を見つめて生きよう、そう思いました。
その後も、私たちは本当にホームオブハートの様々なイベントに参加しました。
おそらく、皆勤賞だったのではないかと思えるぐらい、本当にたくさんたくさん、参加しました。
こうした多くのイベントで、私はホームオブハートの社長のぶたママさんや、当時17歳だったBさんと知り合い、本当の家族のように親しく過ごしました。

参加したイベントの内容は、当時伊豆と那須にあった、ホームオブハートの美術館にお花を植えに行きながら、皆で釣りに行ったり、キャンプをしたり、時には貸し別荘に泊まることもありました。
MASAYAさんの運転する船に乗って海へ釣りに行って大量の魚を釣って、キャンプ場に持ち帰り、皆で焼いて食べました。
もの凄く大量に釣れてしまったため、参加者と、MASAYAさんたちで分けて持ち帰りましたが、それでももの凄い量の魚でした。
ほかにも、伊豆の海辺にある生簀で、大量のアジや鯛を釣って、貸し別荘でMASAYAさんがおいしい骨せんべいを作ってくれて、MEちゃん、私と妹1は、大喜びで食べました。現在の私の特技の一つに、魚料理があります。特に魚を綺麗にさばく腕前がプロ並みなどと、ホームオブハートのスタッフの方から好評なのですが、上達した理由は、この釣りあげた大量の魚をBさんと一緒に、大急ぎでさばき続けたことがいい練習になったのだと思います。

泊まり先がキャンプ場だったときは、ホームオブハートの社長のぶたママさんが、私と妹1とMEちゃんの3人分の水鉄砲を買ってくれて、3人でキャンプ場の脇にある川へ行って遊びました。夕食のあとに、皆で花火大会をしたり、温泉に入りに行ったりもしました。
こういったイベントの最後に、MASAYAさんのコンサートが入ることもありました。
会場は大体美術館や、近場でMASAYAさんのCDを売っているお店などでした。
会場の準備もお手伝いさせて貰えましたが、皆で大騒ぎをしながら、コンサートの準備をするのも、とても楽しいことでした。
今でもすごく印象に残っているエピソードは、那須に行った時、コンサートを終えた後、MASAYAさんが突然「ラーメン食べに行く人〜!」と言い出したことがあります。
皆疲れきっていましたが、私は夜型人間でまだまだ元気いっぱいでしたので、「は〜い!」と手を上げて、MASAYAさんとMEちゃん、Bさんと私の4人で、ラーメンを食べに行きました。
4人でラーメンと餃子を食べながら、Bさんが「実はね。私はあなたのお父さんのこと、知ってるんだよ。」と言われて、私はビックリ仰天してしまいました。偶然にも、Bさんは父が受けたMASAYAさんのセミナー(セルフトレーニング)で、父と同じグループになった女の子でした。
実習の中で、父は涙で顔をぐちゃぐちゃにして、おいおい泣きながら、自分は本当に間違っていた。とBさんに伝えていたそうです。
父は、途中からセミナーに通うのをやめてしまいましたが、Bさんはそれからも続け、MASAYAさんの子供として育てられていました。こんな不思議な出会いがあるんだねと、私とBさんは気が合い、私はBさんのことを本当のお姉さんのように慕うようになりました。

第五-16

44 Bさんは、もともとはお母さんがホームオブハートのスタッフで、お母さんが働いている間、MASAYAさんやスタッフの方々の見守る中、育まれていたそうです。
Bさんのお母さん(以下、Sさんと書きます)は、松田賀江さんのポストカードが発売されたときには、「賀江さんのポストカードが、発売されましたよ!」と父に電話で知らせて、送ってくれていた方だったそうです。私は会ったことがありませんが、母は何度か、Sさんに会ったことがあります。
私や妹1のことも、Sさんはコンサートで見かけて知っていましたから、「私は、BKさん(父のことです)に、賀江さんのポストカードが発売された途端、電話して送ったんですよ。娘さんは、本当にお父さんに似て、かわいらしい子ですね。」と母に言っていたそうです。
その後、Sさんはホームオブハートのスタッフを辞めてしまったそうです。Bさんは、MASAYAさんやスタッフの方に家族同然に可愛がられて暮らしていましたので、Bさんをぶたママさんに預け、会社を退社してゆかれたそうです。
Bさんは、私と違って不登校ではなく、シュタイナーの学校に通っていたそうです。
シュタイナー教育の学校と言えば、ホームオブハート自体が、東京から那須に移った理由は、シュタイナーの学校が那須に出来そうだと聞いたからでもありました。
しかし、Bさんの話では、彼女も私と同じように、クラスの子からいじめられたことがあり、たとえそれがシュタイナーの学校でも、子供達の間の戦い合いは変わらないとBさんは言ってくれました。
今でも、私とBさんとはどこでも一緒です。彼女は、とても夢があって、アイディアマンで、私の憧れの存在です。彼女と一緒に仕事をこなす中で、私は彼女のサポート役として、機能的なことを担って、2人1組で精一杯がんばっています。
後にも書きますが、ホームオブハートのビッグベアークラブハウスは、初め通りすがりで見つけた空き家だったのですが、あまりにも彼女がその家を一目で気に入り、あそこでお店が出来たらどんなに素敵なお店になるだろう、と私に熱をこめて語っていた様子を知ったMASAYAさんが、それなら叶えてあげようと、彼女にプレゼントした施設でもありました。
たとえ方はあまりよくないかも知れませんが、親が何処かに行ってしまった子を、我が子のように(MEちゃんにしてもそうですが)育てているMASAYAさんが、何で段ボールで子供を育てたり、テレビを見せない、食事をさせない、ただ働きをさせて搾取する、その子に一切の自由を認めないような人だといわれなければならないのでしょうか。私には、このようなことを真顔で言う人が全く信じられません。

45 父死亡後、MASAYAさんのコンサートやツアーに参加する、そんな生活が続き、父亡き後、私と妹1は、すっかりMASAYAさんたちのことを家族のように思っていました。
ある時、MASAYAさんをはじめとして、ぶたママさんから、母に「スタッフになって、屋久島で働かないか。」という声をかけてくださいました。
屋久島のホテルにいた、NTさんも退社してしまったのでスタッフを募集していたのと、夫を失い、子供が不登校になってしまって悩みに悩んでいる母の沢山の思いを汲み取って、子供達と一緒に、安全に暮らせるようにという思いから、母に声をかけてくれたのだと思います。
お声を掛けていただいたのは、2度目のようでしたが、さすがにショップを開こうにも不動産業者のところで躓いてしまう母を見るに見かねて、再度声をかけていただいたというのが真相のようです。
母は喜んで、研修のために東京に出向くようになり、私と妹1も一緒についていきました。母の用事が済むまで、私と妹1は、MEちゃんとBさんと一緒に遊んでいるようになりました。その話を母が持ち出したときのことはよく覚えています。
確か、平成11年秋の終わり頃だったと思います。母は家にいる私と妹1を近くのファミリーレストランへと誘い、そこで夕食を食べながら、「あのね、屋久島で働いたらいいよって話があるんだけど、あなた達はどう思う?」と、話を切り出しました。
「へ?!や・く・し・ま?!」と、私と妹1は呆気に取られてしまい、暫く目が点になっていました。
まさか、あの屋久島に引っ越すことになるとは夢にも思いませんでした。
このときの私の返事は、まったく気持ちの整理はつかず、「…もうちょっとしてからにしたい。」とだけ答えました。
家に帰って、私は部屋を見渡しながら、母の突然の質問への答えを考えました。父と暮らした思い出のある新潟を離れるのは寂しいという気持ちがあります。
でも、このまま新潟に留まり続けたところで、学校に通う気がない私に、出来ることなどひとつもなく、毎日が退屈で仕方がありませんでした。BさんやMEちゃんに会うこと、大人の人の手伝いをすることの方がよっぽど楽しいことでしたから、屋久島に行ったら、いままでとは違う、もっと新しいことが始められるかもしれない。父がやりたかったこと、私が本当にやりたいことをやろう。という決断に収まりました。

第五-17

46 母は平成12年の3月末から、屋久島に就職することになり、私達は引越しの準備を始めました。
祖父母には、きちんと「自分は屋久島で暮らすんだ。」ということを話しました。母に対しては相変わらず剣呑な態度を崩せない祖父母でしたが、それが私達孫も希望していることなんだとわかると、少しは安心したのでしょうか、「頑張ってね。」という声を掛けてくれました。
屋久島に発つ2ヶ月ほど前から、私は親しい友達に、屋久島に引っ越すことを伝えて、残りわずかな期間を一緒に過ごすために、1週間に1度行くか行かないかだった学校に、週に3〜4度ぐらいは通うことにしました。
私がいじめられて鬱々と悩んでいるときも、助けてくれた友達に感謝せずにはいられなくて、あれほど行きたくなかった学校に通ってゆきました。責任感が強い子供だったのだろうなと、今では思います。
久々に行った学校で、私と一番親しかった親友も、私と同じ3月末に転校してしまうことがわかりました。
転校してしまう前に何か出来ないかと思った私は、家に沢山あった松田賀江さんのポストカードをクラスの皆にプレゼントすることにしました。NTさんやOMさん、Sさんは何かの折につけて、松田賀江さんのポストカードを父に送ってくれていましたので、家には大量のポストカードが集まっていたのです。
母に手伝ってもらいながら、「プリントゴッコ」で屋久島での住所と、「いままで本当にありがとう!いつかまた会えたらいいね!」という私からのメッセージをプリントしました。詳しい日付はもう忘れてしまいましたが、たしか平成12年3月22日だったと思います。
この日は、学校の終業式の日でした。私からのお別れとして、メッセージつきポストカードをクラスの皆と先生に配りました。カードを配りながら、このポストカードの絵とメッセージは、生前の父が好きだった大切なもので、私もこの絵やメッセージが大好きなこと、母はホテルで働いているから、いつでも遊びに来て欲しいということを伝え、私は学校を後にしました。

47 当時、MASAYAさん達は1〜2ヶ月に1度ぐらいの間隔で屋久島に来て、そのたびにコンサートを行っていました。
私達が屋久島に引っ越してから初めてMASAYAさんが屋久島に来る日は、朝から着くのを心待ちにしていました。MASAYAさん達が到着し、私と妹1は笑顔で出迎えました。
妹1は、昔父によくそうしていたように、MASAYAさんに駆け寄り、抱きついていました。私と妹1は、屋久島のA小学校に転校しました。
しかし、学校には通わず、屋久島の自然の中で過ごすような毎日を過ごしていました。新しい学校に通って心機一転してみたら?と、母や、MASAYAさん、ぶたママさんその他みんなから何度も意見されました(学校に行くな、と言われたことは、一度もありません。念のため記しておきます。)。
しかし、別に勉強は家でもできるし、友達と仲良く遊びたいというような気持ちも、ここでは特にありませんでした。
そんなことをするよりも、何かためになるような新しいことを早くやりたいと思っていましたので、まずは学校に行くことよりもそちらを選択しました。
A小学校の校長先生・教頭先生・担任の先生とは、引っ越してから数日後に母の勤務している屋久島のホテルでお会いし、これまで不登校であったことをお話ししました。
これまでのことをお話しして、先生方は、「学校は、行きたくなったら来ればいいのだから、好きなように過ごしていて下さい。」と言ってくださいました。先生達はホテル内の様子を見て、「いいホテルですね。」と目を細めてくださいました。母からは「いつでもいらしてくださいね。レストランもやっていますから。」とお話ししていました。その後屋久島で行われたMASAYAさんのコンサートには教頭先生が来てくださり、私と妹1の様子に笑顔を向けながら、MASAYAさんの歌に聞きいっていただけました。帰りがけに、教頭先生は母の元に行き、「いやー、本当に癒されました。ありがとうございました。」としみじみと感想を述べられて帰られたそうです。

第五-18

  48 MASAYAさんと話した私の学校のことについて、ここでもう少し詳しく書いておきます。
多分母はMASAYAさんに私たちの学校のことは相談していたのだと思いますし、他のスタッフの方も、ずいぶんと私達の学校のことについて心配されていたのだと思います。
屋久島に訪れたMASAYAさんは、私達の学校のことを気にしていて、「学校は行かないの?」、「たまには学校行ったほうがいいんじゃないの?」と、来るたびに何度も聞かれていました。
私は、校長先生も教頭先生も私達の気持ちを理解してくれていると思っていました(心配だったでしょうけど)ので、「今は行かないです。」と、私の考えを答えていました。
私があんまりはっきり答えるので、とりつく島もなくなったのだと思いますが、「そうか・・。」と答えるMASAYAさんでした。
屋久島のホテルには、牛・馬・鶏・ウサギ・犬・猫・アヒル・ニジマスと、さまざまな動物がいて、新潟にいた頃には味わうことのなかった充実した毎日を過ごしていました。
毎朝、鶏が卵を産みますから、こわごわ手を伸ばして温かい卵を手に取ったときの感動。鶏に手をつつかれて痛い思いも何度もしました。
鶏達の卵を狙う蛇に頭を悩ませることありましたし、怪我をしたウサギの看病も体験しました。
何もかもが初めての体験でした。優しい目をした馬の世話、母方の祖父母が酪農家だったので、久々の牛とのふれあいも懐かしく思いながらの世話は、とても楽しいことでした。
ホテルから歩いて15分ぐらいのところには、小さな商店がありましたから、妹1と一緒にお菓子などを買いに行くこともありました。また、天気が良い日には皆でタイドプール(干潮の際に現れる潮溜まり)に遊びに行き、大きな熱帯魚を見つけて驚きました。
当時、屋久島のホテル支配人をしていたBOBOさんは、ピアノの先生でもありました。BOBOさんからは、譜面の読み方、簡単な練習曲を教わりました。他にも、BOBOさんには、丁重な物腰、敬語の正しい使い方など、礼儀作法など教えていただきました。BOBOさんのお客様に対する心遣いは、ため息が出るほどで、ホスピタリティにあふれた、素晴らしいもので、感動しました。
また、屋久島のスタッフのKさんは、英会話とパソコンに詳しい方でしたので、Kさんの仕事が空いている時には、英語とパソコンの使い方を教わりました。もともと私は機械が好きでしたし、いつか自分にもパソコンがほしいと思っていましたので、すぐに覚えてしまいました。この時のことが今は大変役立っていて、今はパソコンのことが会社の中でも1番詳しいくらいになりました。この書類作成でも、ホームページ制作もすべて、Kさんから習ったことが、活きています。

49 私と料理についてお話をしておきたいと思います。
未成年の私がホームオブハートで、「料理を作らされている」と紀藤、Yyに主張されているらしいからです。
私は、小さな頃から料理をすることが大好きで、父が生きていた頃から、毎週のように父と一緒にカレーライスを作ったり、母が働きに出かけている間も、お腹を空かした妹1に何か食べさせたい、疲れて帰ってくる母の喜ぶ顔が見たい、という思いから自分で材料を集めては、妹1や母が喜びそうな料理を作って帰りを待っていました。私は、大好きな人が、食べるとおいしくて幸せになり、嬉しさで疲れも飛んでしまうような料理を作りたいと思いながら、作っています。
ですから、ホテルのオプションで忙しいスタッフの方にも、お弁当を作っておいたらきっと喜ばれるだろうなと思い、簡単なおにぎりを作ってお渡ししたり、スタッフの方と一緒にスタッフの食事を作ったりもしていました。
Kさんに教わったインターネットで旬のフルーツを使ったお菓子のレシピを見つけて、自分で作り、うまく出来上がったら、東京にいるMEちゃんやBさん宛に「皆で食べてね。」と、クール宅急便で送ったりもしていました。BさんやMEちゃん、ぶたママさんから「おいしかったよ。ありがとう!!」というメールが届き、「またいつか遊びに行きたいね。」と、いつも妹1と話していました。

第五-19

50 東京へ、そして那須へ
屋久島に引っ越してから半年以上経った、平成12年9月頃だと思います。
屋久島を訪れたMASAYAさんから、「そんなに学校に行かないなら、こっち(当時東京にあった本社です)に何日か来て、いろいろ勉強したら?」と、お話がありました。
私は「行きたいです!!!!!」と大喜びでした。これを労働を無償で提供させるため、などと思う人があるでしょうか。
学校に行かない子達が、ただ自習する、行かないということはなく、何か社会に結びつくこと、人間として成長できるようにと声を掛けて貰えたこと、なのではないでしょうか。まともな人なら、わかる話だと思います。
でも母は、私と妹1が東京に遊びに行くことを、快く承諾などはしてくれません。母には、父から預かった大事な娘なんだから、自分のもとに置いておきたい、なんとか私と妹1と一緒にいたい、そう思っていたのです。まあ、考えてみれば当たり前の話です。
しかし、私と妹1の、どうしても東京に行きたい、という気持ちからの説得と、東京にはぶたママさんやMASAYAさんもいるからと、ようやく母はOKを出してくれました。私と妹1は、早速身支度を済ませ、東京へ旅立ちました。羽田空港まで、ぶたママさんとMEちゃんとBさんが迎えに来てくれていました。
こうして東京に私と妹1は出てきたわけですが、後に母が話してくれた、面白いエピソードがあります。私ももう11歳でしたから、屋久島から飛行機に乗れば、後は自力で会社まで向かうことぐらいはできると思っていましたし、母もそうでした。
でも、MASAYAさんは、「年頃の女の子にそんなことは絶対にしちゃ駄目だ。」と言って譲らず、私たちだけになったのは、飛行機の中(鹿児島での乗り換えもありましたが)だけでした。こんなMASAYAさんが、私や妹1、そして私の母との間の子供である下の妹を、どうやってスポイル、虐待するでしょうか。

51 東京に移ってから、当時那須にあった松田賀江さんの美術館の引越しの準備のため、新しい美術館のお花植えに週に何回か、何人かのスタッフの方、それからMEちゃん達で出かけていました。
「一緒に行く?」とぶたママさんから聞かれた私達は「一緒に行きたーい!」と言い、一緒に連れて行ってもらいました。私達は広い敷地に沢山のバラの樹を植え、道沿いに色とりどりのパンジーを植え、美術館の飾り付けをしました。ぶたママさん、BさんとMEちゃんと一緒に泊まったパステルカラーの可愛らしい貸別荘の前では、MASAYAさんが作ってくれた「うどん」がものすごくおいしく、やっぱり皆のところに来てよかったと、つくづく思いました。何ヶ月かに1度、私たちが屋久島に帰ったり、逆に母が研修のために東京に来ることもありましたので、特に母と離れていて寂しいとは思いませんでした。
東京の本社では、いつもBさんのお手伝いや、ぶたママさんのお手伝いをして過ごしました。MASAYAさんとは、しょっちゅう外に遊びに行きました。MASAYAさん、MEちゃん、Bさん、私と妹1で、多摩川にハゼを釣りに行ったこともありました。はじめてのハゼ釣りに私と妹1は大興奮でたくさんハゼを釣って帰り、釣ったハゼはBさんがおいしくフライにしてくれて、私と妹1とMEちゃんはおなかいっぱい自分で取ったハゼを食べました。
こうしたことで私が魚の扱いがうまくなったのだと思うのは先に書いたとおりです。

第五-20

52 那須での暮らしぶりについてですが、平成13年8月ごろ、株式会社ホームオブハートの本社は東京から那須へ移転しました。
その頃、シュタイナー学園が那須に移転するという話を聞いて、MASAYAさんとしてはシュタイナーの学校に子供達を行かせたい、ということからそれならと会社ごと那須の方に移ることに決定したそうです。この機会に、私達は「ブーちゃんマン達はどうする?」と聞かれました。
屋久島よりも、ぶたママさんや、MASAYAさん、Bさんや、MEちゃんがいて、お手伝いをさせてもらえるこちらでの生活のほうが楽しかったので、そのまま、那須に一緒に付いて行くことにしました。那須に移ってからも私達は相変わらずスタッフから、簡単なお手伝いをもらい、子供ながら一生懸命手伝ったつもりになっていました。スタッフの方からしたら迷惑だったのかもしれませんが、私としては仕事の手伝いを任せて貰えることが一人前の大人として扱ってもらえたようですごく嬉しかったです。最初は、夏休みや冬休みを利用して、1ヶ月ぐらいで屋久島に帰るような日々でしたが、学校ではけっして教えてくれない、大切なことを学んでいる、そんな気持ちが私の気持ちの中にはあり、屋久島の中学に所属はしていましたが、やっぱりどうしても学校に通う気にはなりませんでした。

53 那須に移転してからは、オフィスが主に営業を担当する方(移転当時はまだ那須ハイランドの建物が建設中だったため、黒磯の仮のオフィスです)と配送センターの2つに分かれましたが、どちらのオフィスも自然に恵まれた、景色の美しい場所にありましたので、MEちゃんを含めた私達子供は、自由気ままに行きたい場所に連れて行ってもらい、本当に幸せに暮らしていました。
特に、忘れもしない平成16年4月7日に私がいた配送センターは、田園風景の広がる森の中にあって、私達子供にとっては、最高の遊び場になる場所でした。4月7日の日は、たまたま私しか来ていませんでしたが、妹1もMEちゃんもしょっちゅう配送センターに遊びに来ていました。
そこは、すぐ近くに大きな川があり、夏場は飼っている犬を連れて、皆で川遊びをしました。
子供達の安全を一番に気にしていたぶたママさんが、その川が子供達にとって安全かどうか役所に問い合わせたところ、ぜんぜん問題が無く、子供が水を飲んでしまっても大丈夫なくらいということがわかりました。
裏山には、木登りをするのにちょうどいい木が沢山立っていたので、私達はトムソーヤー気分で、地上から遥か高いところまで登り、山々が広がる絶景に目を丸くしました。終いには、崖っぷちに生えていた一番高い木に登って、夕日を眺めました。
そんな冒険の後、ぶたママさんから「そんな崖っぷちの木に登って、木ごと崩れ落ちたらどうするの!!」とこっぴどく叱られてしまいましたが、とてもとても楽しい冒険でした。
秋には自生している栗やアケビが沢山実をつけるので子供達でこぞって収穫し、おいしく食べました。時には酸っぱかったり、虫が入っていることもあり、そのたびに私達は大騒ぎをしていましたので、相当騒がしかったろうと思います。
栃木県とはいえ、標高の高い那須ですから、冬は雪が大量に積もります。そこで、私達はスキーウェアやそりを買って貰い、雪遊びを楽しみました。配送センターもハイランドも、家の周りに坂道が多い上、田舎ですから車もほとんど通らなかったので、私達は思う存分、そり遊びを楽しんでいました。思いっきりつるつるに踏み固めた坂道を、一気にそりで滑り降りる爽快感は格別でした。時々、スタッフの人も誘うと、すっかり童心に帰って私達と一緒にそり遊びを楽しんでいました。

そんな楽しい冒険のような生活の傍ら、私は最初に書きましたように、ここで社長のぶたママさんの手伝いをしながら、経理的なこと、会社の経営のことを教えてもらっていました。
私たちがどんなに大事にされていたか、もう少し書きましょう。
桜の花が咲く中、スタッフの人と私達子供とMASAYAさんで、那須塩原市にある、鳥の目公園にお花見に行ったこともあります。みんなでお弁当を持って行き、美しい芝生が広がる公園で、MASAYAさん達と楽しくサッカーをしたこともあります。
これは、私達が「保護」される1年前の出来事です。
これまでの話でお分かりいただけると思いますが、お父さんを亡くした私、妹1にとって、MASAYAさんはお父さんのような存在でした。
私たちが大好きなお父さんを亡くしても不良になったりもせずに済んだのは、母がしっかり見守っていたこと、そしてMASAYAさんがいたからでした。
それだけでなく、スタッフの誰もが家族同然で、皆で幸せに暮らしていました。18歳になったBさんはスタッフになり、初仕事として羽鳥湖のホテルの支配人になりました。
前にも少し書きましたが、Bさんが羽鳥湖のホテルの支配人になった理由は次のとおりです。
9月にMASAYAさんとBさんとMEちゃんと私と妹1で、福島県の猪苗代湖に遊びに行く予定を立てていました。
しかし、家を出るのが遅くて、これでは着く頃には日が暮れてしまうということで、急遽行き先を羽鳥湖に変更しました。羽鳥湖周辺は霧がかかっていて、とても幻想的な風景が広がっていました。
そんな中、たまたま通りすがりに見つけた建物が、羽鳥湖のホテルでした。前の席に乗っていたBさんが「あっあそこに何だか素敵な家がある!」と言ったので私達は車を止め、降りてみるとその家は空き家でした。Bさんと私・妹1・MEちゃんは建物の近くに駆け寄り、中の様子を覗き見ました。外見も素敵でしたが、室内も暖炉があり、とても素敵なお部屋でした。
Bさんはその建物をとても気に入り、その日以来、私に「あそこの建物で、お店が開けたらどんなに素敵だろう」「あそこで皆でバイオリンを演奏したい、そして、MASAYAさんのコンサートが開けたらいいな。」と熱く語っていました。かれこれ1ヶ月ぐらいでしょうか…。
あんまりにもBさんがあの建物のことを話題にするのでMASAYAさんは、彼女のためにその建物を「プレゼント」したのです。MASAYAさんはBさんのことを小さい頃から、自分の娘のように育て、そんな彼女が18歳になり、立派にやっていけるよう、ホテルの支配人を彼女に任せようとしたわけです。
長女で、お姉さんが欲しくてしょうがなかった私にとって、Bさんは本当のお姉さんのような存在でしたので、よく遊びに行き、食事をし、手伝うこともありました。
Yyと私が知り合ったのも、この羽鳥湖のホテルでした。これまで、屋久島のホテルで、Yyという人の存在は知ってはいましたが、そこまで親しくはありませんでした。

第五-21

54 平成14年1月頃、羽鳥湖のホテルの立ち上げの時に見学につれていって貰ったことがあります。
そこに丁度そこにYyがいて、縫い物をしていましたが、彼女は「こんな手伝いが出来て、本当にうれしい。」と言っていました。Yyは私に「ブーちゃんマンは、こんな小さい頃から、こんな暮らしが出来て、本当に幸せだね。」と、話しかけてきました。
聞けばYyと私は幼い頃の境遇が似ていて、私に「スパルタ式の母を持って、知識を身につけて戦ってきた。母の口癖は「攻撃は最大の防御なり」で、その言葉を信じて戦い続けてきた。その生き方が本当に空しかった。今では自分の甥っ子が、厳しい姉にしつけられて育っている。その姿が本当にかわいそうで悲しい。」と言っていました。
また、Yyのお母さんもガンで亡くなっていて、亡くなる直前にやっと、幸せをつかんで亡くなったこと、その幸せを自分も学びたくて、ここに来ているんだとも、Yyから直接聞きました。
私は、自分と同じような過去を持ったYyに、「今からでも遅くない。どうか、その思いを甥っ子さんに伝えて、甥っ子さんも、Yyさん自身も幸せになってほしい。」と思ってそういったのを覚えています。実際に、この思いをYyに伝えたことはありませんでしたが、私は本当に彼女のことを信頼し、応援していたつもりです。それなのに今回の事件の代表が、彼女らしいと知り、愕然としました。あの時、あの日のYyが、しみじみと、私に語ったことは、すべて嘘だったのでしょうか、私達のすべてを知っていながらに、私達の幸せを奪ったのかと思うと、辛く、悲しく、憤りが止まりません。

私達は自分用のバイオリンやチェロを持っていました。
私はチェロを持ち、妹1とMEちゃん、Bさんはバイオリンを持っていました。
ことの始まりは、私と妹1がまだ屋久島に引っ越してきたばかりの時です。小さい頃、私と妹1はバレエを習っていましたが、楽器を演奏することにも興味がありました。
ですから、お小遣いでオカリナを買って独学で練習したり、父方の祖母宅にあったピアノを送ってもらい、基本的な譜面の読み方など母に教わりながら弾いていましたから、屋久島に移ってからも、支配人のBOBOさんにピアノを教わり、練習していました。

その様子を知った、MASAYAさん、ぶたママさんから「せっかくだから、バイオリン教室に通ったら?」という案がありました。MEちゃんとBさんは東京のバイオリン教室に通っているから、将来一緒に弾けたら楽しいのではないか?ということ、学校に通っていない私達に何かもっといい方法で勉強する方法はとれないか、というところからだと思います。
私も妹1はとても喜び、早速屋久島で一番近い、バイオリン教室を探しましたが、何しろ田舎ですからピアノ教室すらほとんど見当たりませんでした。
鹿児島まで行けば、いくつかあったのですが片道30分のトッピーに乗らなくてはならなかったので、とりあえず「BOBO先生のピアノ教室」でピアノを練習することにしました。でも、MEちゃんとBさんと一緒にバイオリンを弾けたら、という夢は諦めず、いつか自分達用のバイオリンを買って、独学でもいいから練習したいね。と妹1と話していました。
東京に遊びに行くようになってから、MEちゃんとBさんがバイオリンを練習している姿を見て、ますますバイオリンを習いたくなりました。そこに、ちょうど2艘、バイオリンが余っていたので、私と妹1も一緒に練習するようになりました。だいぶ上達してきて、私達4人でMASAYAさんやぶたママさん達を呼んで、演奏会を開いたりするようになりました。
当然、子供ですから演奏できるのは簡単な「キラキラ星」程度ですが、突然のサプライズと、子供達の頑張っている様子に皆喜んでくれました。「せっかくだから、みんなで四重奏をしたらいいんじゃない?!」と、MASAYAさんやぶたママさんたちが絶賛したことから、「それはいい!」と私達も嬉しくなって、頑張って練習しました。
今では普通の身長ですが、当時の私は大柄なほうでしたので、私がチェロを担当することにし、インターネットであれこれ「品定め」をしていました。
そして、平成15年5月、やっとちょうどよいチェロが見つかり、母に買ってもらいました。ずいぶん長いこと探し続けたので大変でしたが、私はやっと念願のチェロを手に入れることが出来、感無量の思いでした。

それ以来、私達はいつか、MASAYAさんのコンサートを自分達の演奏で開きたい、と夢見ています。
その夢を応援してくれていた一人であるはずのUTさんが、どうしてYyたち側にいるのか、私には全くわかりませんし、信じがたいことです。
UTさんのほうが、よほど私達の暮らしぶり、真実について、わずかではありますが(Yyなどよりよっぽど)知っているはずなのに、どうしてあの嘘つき集団に入り、嘘をついているのでしょうか…。


最後に、MASAYAさんとの暮らしぶりについて、じゃあ実際どんな頻度でMASAYAさんは私達に会っていたのだろう、と感じられている方も多いと思います。私達が屋久島に住んでいた頃(平成12年)は1ヶ月から3ヶ月に1回、コンサートツアーもかねて、屋久島に来ていました。
私も妹1もすっかりMASAYAさんのことを、「お父さん」として、とても慕っていましたから、この1ヶ月から3ヶ月という期間は、次に来る日が待ち遠しくて仕方がありませんでした。本社が那須に引っ越してから、MASAYAさんが那須に来るのは時々仕事のために来る、という感じでしたが、平成14〜15年あたりからは比較的頻繁に、那須に来ることが多くなってきたように思います。
割合で言えば那須が3分の2、東京に帰るのは3分の1、といったところです。
MASAYAさんが東京都に住所がある、ということはなんとなく知っていました。それでも、私が「一緒に暮らしていた」という理由は、これまでお話してきたように、父の死からつながる、母が就職するまでの経緯をすべて読み、理解していただけた方には、わかることだと思っています。

第五-22

55. 平成16年1月17日 東京 中野ゼロホールでのMASAYAコンサートの帰り、私と妹1は何人かのスタッフと共に、地下駐車場の車の中で他のスタッフを待っていました。
すると、向こうから見覚えのあるYyと思われる女性とスーツ姿の男がMASAYAさんの車(当時、トヨタのマジェスタに乗っていました)に近づき、写真を撮り始めました。気がついた私達は、「Yy? 一体何をやっているんだろう?」、「もしかして、あれはYyさんじゃないの?」、「一体何をしているんだろう?」と不思議に思い、何人かのスタッフが見に行こうと車を出た途端、その2人はさっと姿を消しました。暫くすると、2人は車に乗って、私達の目の前を通り過ぎてゆきました。私達は人に隠れるようにMASAYAさんの車の写真を撮ってゆく、そんな2人の様子に、「あれは一体何だったのかな。」と私は、目を疑いました。あの女性は本当にYyさんなのだろうかと訝りました。
私の知っているYyならする筈のない、隠し撮りのような、敵そのもののような行動でした。
それから1ヵ月くらいたった2月のある日、夜中の1時頃に、突然私の携帯電話に、私の知らない番号から電話がかかってきました。私は、「誰?こんな時間に。知らない番号だ。こんな夜遅くだから、出ないほうがいいかな。」と思って、しばらく無視していると、コールはやみました。
しかし、また同じ番号から電話がかかってきます。こんな時間に気持ちが悪いなとちょっと怖くなりましたが、「間違い電話かな?」と思い、また暫く放っておくと、コールがやみました。しかし、また暫くすると同じ番号からコールが鳴り響きます。
「しつこいな。いったい何のつもりなんだろう。怖いな。」と思った私は近くにいたスタッフの方に電話に出たほうが良いか、相談しました。危ないから、しばらく様子を見たほうがいい。とのアドバイスを受け、私はマナーモードに切り替え、様子を見ました。
しかし、コールはまったく止みません。鳴っては止み、鳴っては止み、を異常に繰り返します。
怖くなった私は電源を切りました。10分ほど経って、「そろそろ大丈夫かな?」と思った私は電源をONにしました。すると、またしても同じ番号から着信がありました。もう、30回以上ものコールが続いています。これは尋常ではありません。
「なにこれ!私に何の用だって言うわけ?!?!?!」と動揺する私に、周囲の大人の人達は心配して、とりあえず番号を控えて、母の知り合いではないかと、明日確認することにしました。最後の着信は、もう午前3時を過ぎていました。
翌日のお昼頃、またあの番号からの着信です。頭にきた私はついに電話に出ました。あんな非常識な時間帯に何度も何度もかけてくる輩ですから、どんな変質者かわかりません。だから、私はドスの効いた声で「はい。」とだけ言いました。
電話の相手は「…あれ?BKさんですか?これ、BKさんの携帯ですよね?」と、素っ頓狂な声をあげるKkでした。私の携帯電話は、以前母が持っていたものでしたので、Kkは母と間違えて電話をしていたようでした。母と連絡がとりたかったようです。「Kkさん??ビックリしたじゃないですか、あんな夜中に。一体どうしたんですか??」、「いや、お母さんと話がしたくってね。どこにかけたらいいかなー。と思ってかけたんだけど。そっか、いまこの番号はブーちゃんマンが持ってるんだね。」
Kkは母の連絡先を聞いてきたので、母からかけなおしますと言って、電話を切りました。私は、この出来事を母とぶたママさんに伝えました。母は、昨晩のKkの異常な時間の電話に驚いて、「ちょっと連絡してみるわ。心配かけてごめんね。」と言いました。
ぶたママさんは、Kkの怪しい言動に「他に何も聞かれなかったの?」と聞いてきましたので、私はKkと話した内容をぶたママさんに伝えました。
私は、なんだか最近、変なことが多いな、一体どうしたんだろうと、心のざわめきを感じていました。
Yyにしても、Kkにしても、少なからず知り合いでしたから、そんな人がいったい何を考えているのかなと思いました。
まさか、これが、自分達や大切な人達の幸せを奪う、大きな事件へ発展する前触れだったとは、その時夢にも思いませんでした。

そして、平成16年4月6日、事件の始まる前日を迎えます。私はホームオブハートの配送センターに一人でぶたママさんと一緒に来ていました。理由は、ぶたママさんのところで、お手伝いをするためです。普段は大体妹1も一緒に来ることが多いのですが、今回はいかない、とのことでしたので、妹達とMEちゃんはハイランドのオフィスにいました。
夜、母の勤める屋久島のホテルに、不審な客が泊まっていたと、母とスタッフのKさんから本社に連絡が入り、気持ち悪がっていました。それと同時にトシオフィスのTOSHIさんのイベント先にも「虐待についてどう思うか」と乱暴に取材をしようとする記者が来たという情報も入っていたようでした。
ぶたママさんも、スタッフの皆も緊急ミーティングを開き、外に人がいないか警戒し、見回りに行く人もいたそうですが、私はいたって普通に過ごし、いつもどおりに休みました。そして、4月7日の朝を迎えることになります。以上が、私達家族と株式会社ホームオブハートとの出会い、そして一時保護所へ連れて行かれる日までの、私が知っていることです。

第五-23

56 それでは、話を一時保護された日に戻します。私は不安と怒りから、疲れ切っているのに一睡もできないまま、宇都宮市の一時保護所に到着しました。私達がタクシーから降りると、「それじゃ。」と言って伊藤さんはそのままタクシーに乗って帰っていきました。
あまりに呆気なく彼女は帰ってしまったので、ポツンと取り残された私と妹1はとぼとぼと「保護所」と呼ばれる建物の中に入ってゆきました。時刻はもう真夜中の12時を過ぎています。玄関先は真っ暗で、唯一職員室から漏れる光だけが煌々と室内を照らしていました。職員室の戸が開き、保護所の職員さんが出てきて面会室に案内されました。職員さんと嘱託員のお姉さんから、保護所での暮らし、時間割などについて、説明を受けました。
「ここは、虐待されたり、家出をするなどの、ちょっとお家に問題がある子供達が来るところよ。」という説明を聞いて、私はとんでもないところに来てしまった。こんなところに長居は無用。早く帰らないといけないという思いが強くなりました。
携帯電話まで預けなくてはならないと知り、母やぶたママさん、MASAYAさんと連絡が取れなくなると思った私は「トイレに行きたい。」と言って、面会室を出て、私の母・ぶたママ社長さん宛にメールを打ちました。
内容は、[今保護所へつきました。携帯が使えないようです。(預けなくてはならない)早く帰りたい…]と、とても短いメールですが、せめてこのメールで私達の様子を知り、恐らく今も泣き腫らしているだろう彼女に、直接連絡が取れなくなってしまうこと、そして、私の精一杯の気持ちを知らせて、少しでも安心してくれたら、という思いで送信しました。

57 トイレから戻り、私は携帯電話と財布を施設の人に預けました。そして、着ている洋服をパジャマに着替えさせられ、服も預けさせられました。身長と体重を量り、保護所での服装(ジャージ2着・パジャマ1着・その他タオルやブラシ類)を手渡されたあと、「お風呂、どうする?」と聞かれましたが、心身ともにくたくたで、もうこれ以上誰とも関わりたくない、誰の顔も見たくない、誰とも話したくないという精神状態でしたので、断りました。
そして私と妹1は居室へ案内されました。居室の広さは、大体畳8畳ぐらいだったと思います。すでに中学生の女の子が4人ぐらい寝ていたので、足の踏み場もない状態でした。妹1はすぐに布団にもぐり、まるで死んだように眠ってしまいました。

58 私もへとへとに疲れていましたので、バタリと布団に倒れこみはしましたが、なかなか寝付けず、今日起こったことを冷静に順に思い出してみました。マスコミが大騒ぎで取材をしていたけれど、ぶたママさん達は無事に帰っただろうか、妹1以外の子供達はどうしているんだろう、MASAYAさんや、スタッフのみんなはどうしているだろうか、母は無事に那須に来れたろうか、この先、私達は一体どうなってしまうのだろうか、一体自分たちの身に何が起きたんだろうか、と考えているうちに、疲れで眠ってしまいました。

第五-24

59 翌朝、目を覚ますと、既に同室の子達はみんな起きていました。
「あ、起きた。昨日夜中に来たんでしょ。よろしくね。」という彼女らに、私は回りを見渡して「よろしく・・・。」と挨拶しました。
部屋の掃除を済ませて、廊下に出ると、そこにはなんとシャーマンがいました。
シャーマンはトシオフィスでスタッフから金品を誤魔化し、泥棒ばかりを働いていたKkの娘のDに、自分のピングーのバッグや小物入れを盗まれたりした子です。彼女は、Dが盗んだことを誤魔化そうと、バッグに「もえへ」と書かれてしまったバッグと小物入れを、Kkが退職する直前に返されました。でもまだ戻らないものもあります。平気で人のものを持ち去っていたこの親子の嘘を暴くため、このバッグを動かぬ証拠として写真をとり、シャーマンは証拠に出します。絶対に見てください。
この泥棒親子が、トシオフィスの子供を虐めていたに過ぎないのを、トシオフィスで児童虐待があったとして、テレビで涙まで平気で流せる人間でした。シャーマンは、トシオフィスで働くお母さんと一緒にトシオフィスのあったアパートの部屋に暮らしていた子です。そのアパートには他にも多くの人の部屋がありますが、まるでオウムの施設のように紀藤やYyからは言われました。一度も行ったことのない人間(Yy)がよく言うわねと思いますが。
シャーマンは私より4歳年下ですが、私達と同じように、お父さんをガンで失ってしまった子です。
そして、私達と同じように、元々住んでいた福岡にいるころから、不登校だった子です。シャーマンには弟も居ましたが、Kkの娘Dの悪辣な虐めに、どうしてもここには居たくないと言って、おじいちゃんのところに一人で帰って行ったのです。
このことも、まるで責任が逆にして、紀藤とYyはでたらめを言っています。一体、T君のお母さん、シャーマンのお母さん、そしてその子供達が、Kkとその子供のDにどんな仕打ちをされていたのか、あなたたちは知ってなおこんなことをしているのでしょうか。だとしたら、泥棒と同罪でしかないと思います。そして児童虐待は、Kkその人です。
T君のお母さん、シャーマンのお母さんが、実際に自分たちの子供にどんなことがされていたのかを、あの騒動の後に知り、胸が震える思いでいます。多分、Kkを八つ裂きにしても足りない、そんな思いでしょう。そしてその話を適当につなぎ合わせて事件をでっちあげて平気な人間が居たら、そしてこの者のおかげで何ヶ月も幼児が親と引き離されたら、これも腑が煮えくり返る思いでしょう。
段ボールなどというもので子供を育ててゆくことなど、MASAYAさんの考えにも、TOSHIさんの考えにも、どこにもありません。仮に万が一それに近いことがあったとしたなら、Kkがやった行為に他なりません。これはシャーマンがきちんといえることです。
KkはTOSHIオフィスできちんと仕事をせずに、子供達の面倒を見るからといってはオフィスから下がり、その実、子供の面倒をまともに見ることもなく、たばこを吹かしては横になってテレビを見ていたといいます。
Kkその人への復讐をしなければ私たちの気はとうてい済みません。
幸い、T君のお母さんは可愛いT君の写真を自分の携帯電話のカメラ機能で沢山撮ってありました。普通のベビーサークルと変わりのない柵の中で、にこにことこちらを向いて笑っているT君の写真や、サークルに入っていない(実際のところ、ベビーサークルは子供を保護するために、一時的に入れるためのものではないでしょうか。
使わないと危ないことこの上ないと思うのです。
Yyには子供がないからそんなことは知らないとしても、紀藤も子育てはしたことはないのでしょうか。)写真や、その表情から結局、普段どんなふうに愛情を注いで育てていたか、警察でも理解され、全く呆れた申立だ、これでは虚偽告訴ではないのかとさえ、警察の中では言われながら捜査は終わったのです。

第五-25

60 私は、シャーマンはお母さんの勤め先のトシオフィスが同じマンション内の別階でしたから、私達と異なりお母さんと暮らしていたとしてきっと家に帰れただろうと思っていましたので、大変驚きました(ただ、後日聞くと、マスコミがトシオフィスのあったマンションの廊下に溢れかえり、お母さんはオフィスから自室に戻れない状態だったそうです。一体、誰がそれほどまで多くのマスコミを、あそこに、あの時間に連れて行くことが出来たのでしょう。)。
シャーマンはこれまでたった一人で心細かったのでしょう、シャーマンは妹1と抱き合い、会えたことをとても喜んでいました。
私はシャーマンはお母さんと一緒に暮らしていたというのに「保護」されていることにとても驚きました。私はさっぱりわけがわからなくなりました。そうなるとMEちゃんも、お母さんのMEmamaさんと一緒にいたのですが、こないで済んだかどうか不安になり、MEちゃんはどうしただろう、と探してみましたが、どうやらMEちゃんは来ていません。ますます、わけがわからなくなりました。お母さんと一緒に暮らしていたMEちゃんが連れてこられず、やはりお母さんと暮らしていたシャーマンが保護所に連れてこられているなんておかしい話に思えました。でも、よくよく考えれば、伊藤さんのところも同じですし、私たちにしたところで、下の妹はMASAYAさんの子供であり、一緒に私たちも住んでいたのです。いったい児童相談所の人たちは何を考えているのだろうと、何かを誰かが企んでいるのかしらと、本当に不審に思いました。

61 暫くすると、保護所の職員さん(以下、「先生」と書きます。)が、プレイルームに入ってきて、私達の入所式が始まりました。プレイルームに掲げられた黒板の前に、私達3人は並び、自己紹介をしました。当時、保護所には20人くらいの子供達がいました。先生と子供達全員の自己紹介が終わり、子供達での朝のミーティングが始まりました。保護所に居る期間が長い、一番年長の子が「班長」さんを務めることになってるらしく、班長さんの司会の下、「今日の目標」や掃除の担当場所、その他先生からの報告事項をまとめるミーティングでした。保護所に着いたときに、「一時保護所は、虐待されたり、家出をするなど、ちょっとお家に問題がある子供達が来るところ。」と聞いていましたので、一体どんな子がいるんのだろうと、もの凄く不安でしたが、皆和気藹々としていました。でも、何故私たちがそんなところに来なくてはならないのか、夢なら早く覚めて欲しいとも思いました。
ミーティングが終わると、児童保護課の課長さん(以下、「課長さん」と書きます。)から「ブーちゃんマンさん達、ちょっと来てくれるかな。」と、私達は給食室に案内されました。課長さんからは、「突然こんなところに来ることになっちゃって、とてもビックリしていると思うけど、ここでは安心して過ごしてほしい。ただ、課長さんからのお願い(自分のことを課長さんと言っていました)なんだけど、しばらくは外に出ないでほしい。知っているように、変なカメラマンとか、そういう人がいるかも知れませんから、申し訳ないけど、ちょっと我慢していて欲しい。」という話でした。実はこの日は、週に一度の「所外活動」の日に当たっていて、他の子供達は外へ出かけていきました。でも、私達3人は、カメラマンなどマスコミ関係の人が彷徨しているので、施設内で過ごしていてほしいということでした。

第五-26

62 「保護」された子供達が、「一時保護所」という場所でどんな暮らしをしていたかについて、お話しておきます。
この一時保護所は、栃木県中央児童相談所の併設施設でした。中の様子が見えないように、背の高い植樹で囲われています。
栃木県の県南、県北、中央の各児童相談所に「保護」された子供達が、「措置」が決定するまでの期間、過ごす場です。私の記憶では、一番小さい子で3歳、最高で17歳までの子が保護されていました。
子供達が普段過ごすのは1階の大きなプレイルームで、外で遊びたければグラウンドもありました。体育の時間は2階の体育館で行い、食事は給食室で食べます。夜は2階の居室で休みます。居室は男の子用に2部屋、女の子用に2部屋で、どの部屋も大体8畳ぐらいの広さだったと思います。保護所にいる子供達は、朝6時半に起きて、グラウンド内での散歩をして、朝のミーティングを行います。
そして、平日は午後3時ごろまで、それぞれの年齢に合った自由勉強をします。
毎週木曜日だけ、「所外学習」として、アスレチックや博物館を見学に行ける日になっていました。その後の時間はフリータイムとして、テレビを見たり、グラウンドや体育館で遊ぶなどして過ごしていました。夜7時に日記を書き、小さい子から順にお風呂に入り、午後9時から10時までに2階の居室で休むことになっています。
でも、中学2〜3年生ぐらいの子は居室に移っても、おしゃべりしたり、ふざけたりして0時過ぎまで起きていました。また、2階の入り口と男の子部屋・女の子部屋の境目には鍵がかかるようになっていて、1階に行ったり、お互いの居室に出入りすることはできなくなります。土曜日、日曜日は、少し起床時間が遅くなり、勉強もなく、終日フリータイムを過ごします。プレイルーム・グラウンド・体育館で遊ぶ以外に、保護所にあるDVDを、一人一日一枚ではありましたが、借りて見ることは出来ました。日中は、児童家庭科の課長さんはじめ、数名の職員さんが隣の職員室にいて、勉強時間は勉強の手伝いをしたり、小さい子達の面倒を見ています。
夕方からは嘱託員の学生さん2人が加わり、職員さんは一人になります。テレビ以外の外部からの影響は、徹底的に排除されていて、保護所にいる間、誰にも電話をすることが出来ません。
手紙はこちらから出すことは可能ですが、親からの手紙などはほとんど届きません(状況・内容にもよるのだと思いますが)。
施設内には監視カメラがいくつもありました。また、窓という窓、ドアというドアにはセンサーがついていて、少しでも開けると、職員室のブザーが鳴り響きます。このセンサーは時間ごとに先生が必要に応じて解除するようになっていて、夜にはすべてのドアのセンサーが働いていました。子供の誰かがいたずらしたり、誤ってドアに体当たりしてしまい、ブザーが鳴ったことが何度かありましたが、職員室のモニターで、どこの窓が開いたかが一目でわかるようになっていて、先生がセンサーを止めに走っていったりしていました。厳しく言えばまるで囚人のようだと思ってください。勝手に抜け出すことはできないのです。

63 こうして「一時保護」された子供達は、殆どの時間を施設内で過ごし、外部の影響から完全にブロックされた中で生活するのですが、その間に児童相談所の心理判定員が訪れ、これまでの生活がどんな生活だったのかなどを聞き出したり、知能テストや心理テストの調査結果から、家に戻る、施設に行く、里子に行く等、今後の判断が決まり、家に帰ることに問題があれば、施設に行ったり、里子に出されていくわけです。大体、1週間から2週間で、子供達は措置が決まり、一時保護所からは退所していきます。
普通の大人がされたなら、監禁されたと思うでしょう。私もシャーマンも、妹1も、全く身に覚えのないことですから、嘘八百をつかれて監禁をされてしまった、そのように理解しました。自分たちは普通に、そして幸せに、自由に暮らしていたのに、どうしてこんなところに閉じ込められなきゃならないのか、そう思いました。この原因を作った者を私は一生許しません。間違ってしまったなどということではないからです。
こんな生活が、そのあと2ヶ月も続くことになろうとは、夢にも思いませんでした。

64 私達3人は、外にはマスコミがいるということもあって、他の子供達が所外学習に出かけている間、保護所内でひっそりと本を読んだり、絵を描いたりして過ごしました。
「私達の検査っていうはいつ始まるのかな?」
と、私は自分達が呼ばれるのはいつかいつか、と待ちわびていました。
しかし、一向に呼ばれる気配はありません。そうこうしている間に、皆所外学習から帰ってきました。
木曜日はこれで勉強が終わりなので、あとはフリータイムです。
保護所の先生達に比べて、保護所に居た子達と打ち解けるまで、さほど時間はかかりませんでした。プレイルームで突然、腕相撲大会が始まりました。部屋の隅で退屈そうにしていた私は腕相撲に誘われました。私が躊躇している間にも腕を引っ張られて、なぜか歓声が上がりました。私は腕力が強かったのか、あっという間に皆降参してしまい、すっかり人気者になってしまいました。あんまりの騒ぎに、保護所の先生達もどうしたの?と様子を見に来て、一緒に歓声をあげていました。そんなことをしている間に、最初の日が終わってしまいました。
「明日には検査が始まるだろう。検査が終われば帰れる。」という期待と不安でいっぱいの思いを胸に、今日もまた疲れ果てて眠りました。横では女の子達が騒いでいましたが、その子たちと一緒に騒げるような心境ではありません。
とにかくこの誤解を解くにはどうしたらいいのか、どうやったら帰れるのかで、頭の中はいっぱいでした。

第五-27

65 予測どおり心理判定員のITさんが保護所を訪れました。彼女は私の担当になったそうです。
「よろしくね。」という彼女に、私は
「『よろしくね。』と言われても、いったい私と何をよろしくしたいのだろう…。私は真実を伝えて早く家に帰りたい。あなた達なんかとは本当はよろしくなんかしたくないのに。」と思いましたが、「どうも。」と軽く会釈しました。
妹1の方は、ONさんという女性が担当になりました。彼女は、私が児童相談所に乗り込んだ際、妹1とMEちゃんと一緒に座っていた女性です。
シャーマンは、NKさんという女性が担当になりました。
私とITさんはプレイルームを出て、面会室へ入りました。「ここの生活には慣れたかな?よく眠れてる?」という彼女に、「まぁまぁかな。でも明日には帰れますよね?検査とか、いつやるんですか?」、と私は答えました。
本当の気持ちは、「まぁまぁ」なんていう甘いものではなく、「最低最悪」の気分でした。事実無根のことで、こんなところに連れて来られたわけだから、最悪に決まってるじゃないかと内心では思いながらも、早く検査を終わらせて、家に帰ることをとにかく楽しみにしていたのです。家に帰ること、それだけが、唯一の希望の光でした。
私の答えに、一瞬表情がこわばる伊藤さん。「…外に出れなくてつまらない?」と聞かれました。
「いえ、特に大丈夫ですけど…。なんか(マスコミ)結構いるそうですね。」と、私は答えました。
こんな事件に巻き込まれるまで、私は自由に暮らしていたのだから、今日ぐらい外に出られなくてもかまわない。そんなことよりも、まずは自分の身の回りがどうなっているのか、状況をつかみたいと思いました。
ITさんは「ちょっと覗いてみる?」と言って、そっとブラインドの隙間を拡げ、外を見せてくれました。窓の外は一時保護所の駐車場でしたが、カメラを肩から提げ、腕に腕章をつけた男が一時保護所に向かって三脚を立てていました。明らかにマスコミです。
私は目を丸くしてITさんの顔を見つめました。
ITさんは席に着いて、「万が一でも、あなた達は撮られないように気をつけていてね。」といいました。まるで私たちが虐待された子供のように扱う、その言葉に、私は思わず「私は撮られたって平気ですよ!虐待なんて作り話ですから。マイクに向かって『この事件はうそだー!』って言いたいくらいです!」。もう、どんな形でもいい、とにかく真実を伝えたい。と心底思っていた私はITさんに言いました。
ITさんは「いえ、もしマスコミにあなたが知られたら、間違いなく(状況が)あなたの望まない方向に進んでしまう。」と、深刻な顔で答えました。この人は一体何を深刻に思って言っているんだろうと・・・と疑問に思っていると、ちょうどそのとき、面談室のドアの向こう側から、声が聞こえてきました(一時保護所の玄関に入ってすぐ横に面談室があったので、玄関の声は筒抜けです。)。私とITさんは声を潜め、耳を済ませました。声の主は、課長さんで「ここには、該当する子供はおりませんから。早く帰ってください!」と言っています。これに知らない男の声が、何かブツブツと話しています。また課長さんが「いえ、ダメです。プライバシーにかかわります。とにかく帰って下さい!」と更に強く言います。私はITさんに顔を向けました。私は相当驚いた顔をしていたのでしょうか、ITさんは黙って、真剣な顔で頷き、小声で「マスコミよ。」と言いました。私は自分を取り巻く状況の凄さ(一体何が起きたって言うの?)に暫く声が出ませんでした。ITさんは最後に、「この期間、自分のことだけを考えていてほしい。自分は何が幸せか、どんな生き方をしていくか、この機会に考えてみてね。」と言い、外に誰も居なくなったことを確認して、私達は面会室を出て、別れました。

66 私はITさんのこの最後の言葉に本当に腹が立ちました。完全にこのITさんという人は、私が虐待された子供だと思い込んでいたからです。
こんな屈辱的な言葉をかけられたことはこれまでにありません。「私の幸せ、それは今まで通り、MASAYAさんやぶたママさんたちのところで暮らすこと、そもそも、それを奪ったのはあなた達じゃないか。何が『考えてみてね。』だ。何もわかっちゃいないくせに。この馬鹿野郎」と憤慨しながら、プレイルームに戻りました。
プレイルームに帰ってきていた課長さんを見つけたので、「課長さん、さっきの声聞こえました。本当にありがとうございます。しつこいヤツですね。」と、お礼を言うと、「いや、全く酷い奴らだね。ブーちゃんマンさん、安心して下さいよ。ああいうやつは私が必ず追っ払いますから。」と嬉しそうに課長さんは笑ってくれました。
このときに、何となく心理判定員の人達と、保護所の人達とでは私たちを見る目線が違うような気がしました。何といえばよいのでしょうか、児童相談所の人達の視線は、私たちを「哀れみ」の目で見ている、そんな感じを持ちました。一人の人間の子供として意見を聞くのではなく、虐待を受けた社会的弱者に、今まさに手を差し伸べている、そんな感じでした。
そういう意味でも、私は、児童相談所から来る人たちと顔を合わせることが大嫌いになりました。
見ず知らずの人から、「まぁかわいそうに」とも言いたげな視線を送られること自体、屈辱的なことでした。
その一方で、保護所の職員さんたちは、本当に何も知らないようで、そんな嫌な視線は、欠片も感じませんでした。
むしろ、保護所の人達は、子供の意思を尊重しない児童相談所のやり方に腹を立てている一面もあり、あの日突然自由を奪われた不安から、この事件の関係で出てくる大人に強い不信感を抱いていた私も、徐々に「あぁ、こちらの人たちは私たちのことを色眼鏡で見ていない。」と感じるようになりました。
そして、この事件の最大の諸悪の根源は、私たちのことを無理やり保護した児童相談所なのではなく、彼らを騙した、紀藤弁護士らで、児童相談所も、彼らに騙されている被害者、だから態度が違うんだろう、という考えに傾きました。

第五-28

67 4月10日 あの事件から3日経ちました。
いよいよ児童相談所のAK課長さんとの約束の日です。
保護所に心理判定員のITさんが来て、私を呼びました。
私は彼女と面談室へ行き、「いよいよ検査かな?」と胸を躍らせていました。
しかし、彼女の言葉は、「もう暫く、ここ(一時保護所)にいて貰うことになりました。」という、まるで逆のものでした。
私は、顔面蒼白になりました。
「なぜ? どうして! 約束が違うじゃないか!」と私はその場でITさんを問い詰めました。
ITさんは少しの間黙り、それから「いまね、これからブーちゃんマン達がもっと幸せに暮らせるように、みんなで決めているところだから、ここにいる間、ブーちゃんマン達は自分のことを考えていてほしい。」などとまたいいます。私は「そんなことできない。今すぐに帰りたい、早く帰してほしい!」と私は泣きじゃくりました。
冗談じゃない、この人達は本当に何もわかっていない。本当に私達が虐待されていると信じ込んでいる。すぐに帰してくれるということを条件に私は保護所に行くことを決めたのに。
私は、悔やみました。騙された、とも思いました。3日後には帰れると思っていたのに。なんて人達だ。こんな人達を信じた私が馬鹿だった。あの時、無理矢理にでも家に帰るべきだった、と悔しくて、悔しくて仕方ありませんでした。
そして、自分の不甲斐なさに、涙が止まりませんでした。私は膝に顔を伏せて泣きました。10分ぐらい経ったでしょうか。どんなに泣き、喚いても、状況が変わる訳ではありません。
今、目の前には心理判定員のITさんがいる。今からでも、ここからでも覆していかなければと、私は涙をこらえ、顔をあげました。
私が泣き止んだのを見て、ITさんはこれまでの生活について、詳しく教えてほしいと言いました。私は、「私はハイランドと配送センターを行ったりきたりして暮らしていました。時々、家に帰ることもありました。」と答えました。ITさんは私が言うことをノートに書きとめ始めました。次に詳しい1日の動きを聞かれました。
「朝9:00にスタッフの方達のミーティングがあり、その時までには起きて、その後は犬の散歩や本を読んだり、お手伝いをしたり、パソコンをいじったりして過ごしています。」と答えました。
「それだけで飽きないの?」と聞かれましたが、「いえ、毎日必ずではありませんよ。」と、答えました。すると、「じゃあ、何をやっているの?」とまた聞かれました。「え、だから、さっき言ったように、そのときそのときで、自分で決めた、やりたいことをやるんです。」、「特に何をすることが多かった?」、「…そこまで言わなきゃいけないんですか。」と、言えば言うほどまるで空をつかむようで、何の覆しにもなりませんでした。毎日の暮らしなど、到底一言では括れないものではないでしょうか。そのすべてを今語れと言われてもそうそう出来ません。
それに、相手が気の知れた知人ならば、もう少し気軽に話せるかもしれませんが、自分達のことを問答無用で「拉致」した側の人間になど、なかなか心を開いて話せるものではありません。
まして、彼女らは「色眼鏡」を通して、私のことを見ていました。どんな言葉もそこから解釈していました。
いったいどうすれば真実が伝わるというのでしょうか。
それでも、何とか事実を理解させようと、私は一つ一つの言葉を選びながら、慎重に答えました。私達が虐待児童なんかではないことを、まずはITさんら心理判定員が理解できない限り、私達はとうてい児童相談所を出られない、ということがわかったからです。
しかし、ホームオブハートのオフィスから妹達を連れ去りに来たあの時、現場にいたスタッフから電話で児童相談所は児童虐待があると頭から信じ込んでしまっていると聞いていましたし、児童相談所で最後に聞いたあの男性の声が忘れられず、絶対に児童相談所の人達は私達を母やホームオブハートの人達から引き離したいのだと、確信のようなものを持っていましたので、事実は事実として話すけれど、絶対にこんな人たちに心を開くものかと思うようになってしまいました。心理判定員のITさんとの面会では、この人達は、本当に私達の言う事を信じてくれるのだろうか。私達に虐待なんかないことを、ちゃんと伝えてくれるのだろうかという不安がありました。
私は、自分達が、洗脳されている、働かされている、という嘘を言われているらしいということを知っていました。
ですから、自分達の身振り素振りに気を使い、どこから見ても虐待だとか、洗脳されているなどと誤解されないように、敢えて「家に帰りたい。」という、この本音をいうのも懸命に我慢しなければ、と思うようになりました。
私達の言動、特に年齢が上である私が色眼鏡をかけて、何もわかっちゃいない大人達に、きちんと真実を理解させられるかどうかがすべての運命を握っている、そんな風に感じていました。
ITさんが帰った後、張り詰めていた緊張は解け、私はぐったりとしてしまいました。

第五-29

68 妹1もシャーマンも、それぞれの心理判定員から、私と同じように、「もう暫く保護所にいることになった」ことを聞き、大ショックを受けていました。
妹1はあまりのショックに普段とは別人になってしまい、この日から毎晩、布団の中で泣いていました。同じ部屋にいる、他の子達には聞こえないように、声を押し殺して泣いていたので、私も最初はまったく気づきませんでした。妹1が毎晩泣いていたことに気づいたのは、3日ほど経ってからでした。泣いているわけを聞くと、「もう、みんなのところには帰れないんじゃないか、もう会えないじゃないかと思うと、悲しくて仕方が無い。何故こんなことになってしまったの?あんなに幸せだったのに。」と、泣きながら話す妹1に、私は「そんなことない。私が、必ずあなた達を家に帰すからね。そのために私は来たんだから。どんな手でも使うから、安心して。万一、施設にでも連れていかれそうになったら、その時には逃げ出そう。何としてでも家に帰ろうね。」そんなことを言って慰めることしか、私には出来ませんでした。私は、妹1の姉として、そして他の子供達のお姉ちゃんとして、必ずや、全員を早く家に帰し、日本中に蔓延したこの嘘っぱちを覆してやる、そう決意を固めていました。

69 4月11日。この日も、心理判定員のITさんが来て、昨日の続きを話すことになりました。
生まれた場所・年月日から始まり、どこに住んでいたか、父が病気になったこと、父の死・そのあと不登校になったこと、屋久島に引っ越すようになった流れ、屋久島での生活、東京の本社に遊びにいったきっかけ、那須への移転という、この書面に既に書いた一連の流れを、一通り話しました。
その後、私の生活について、もう少し詳しく話して欲しいということで、私の趣味・好みなどを聞かれました。
「彼氏っているの?」から始まり、「性体験はある?」という質問の流れには面食らいました。「私の事を何だと思っているんだ!」と、怒りに燃えながらも、我慢して冷静に「いません。」、「知りません。」、「ありません。」と、きっぱり否定しました。その後のMASAYAさんについて話している最中に、「ね、MASAYAさんのこと好きなんじゃないの?」と、からかうように言う彼女に、「はぁぁ?違います。そんなこと、全くありません。ふざけないでよ!」と睨み付けることもありました。本当に屈辱的なことでした。
こっちは人生がかかっているのに、ふざけやがって。人の人生を何だと思っているんだ。
そもそも、なんで全く知らない人達にこんなことを根掘り葉掘り聞かれなくてはならないのか、と学校で昔虐められた時よりも、遥かに屈辱的な思いを味わいました。
面談が終わった後、「何でこんなことまで他人に話さなきゃいけないんだよ!」と、私は「私達を助ける」などとほざいているらしい紀藤弁護士らのことが本当に腹立たしくなり、悔し涙を流しながら、施設の廊下の壁をどんどんと殴り付けました。そうでもしなければ、私の怒りは収まり切りません。
この壁がこの事件をでっち上げた弁護士達だったら、どんなに気持ちがよかったでしょうか。
誰も、何もしていない。何故、こんな目に遭わされなければいけない?誰を助けたいって??お前がやったことが監禁、拉致だ。
今思い出しても悔しくて、悔しくて涙が止まりません。

第五-30

70 4月12日ごろだったと思います。こんなことがありました。
私と同い年の女の子の一人が、プレイルームのソファーに座って泣いていました。向かいに座った子と保護所の職員さんが話を聞いているようです。
この子は、児童自立支援施設「N学園」へ行くことが決まり、「A学なんか、行きたくない。」と言って、泣いていたのです。その子は私と同い年とは思えないほど、おとなしいし、品のいい子なのに、一体どうしてだろうと疑問に思いました。
当時は、A学園(上記のように、「A学」と言われていました。)が一体どんなところなのか、名前すら知りませんでしたが、この子のことで、保護所にいる子供達は、「A学園なんて、行ったら人生終わり。」「あんなところで青春を潰したくない。」と口々に言い、その子に対して、励ましの言葉や慰めの言葉の他に、「いいか、行ったらすぐに脱走してこいよ!」なんてことを言う男の子までいました。
4月14日、彼女は保護所からいなくなりました。笑顔は見ましたが、果たして彼女は本当に幸せだったのか、彼女の真意はどうだったのか、未だにわかりません。
児童相談所は、たとえ子供本人の意向に反していても、どんなにその子が望まないものだったとしても、強制的にその子の運命を決めてしまうことができる。「実際にその道を歩むのは、児童相談所ではなく子供達なのに、その本人の望み・思いを汲み取ることもしないのだな。」と、この現実を目前で見てしまった私は、改めて今自分が置かれた状況の危うさ、恐ろしさを感じました。
「あの日」から、私達にはまるで違った人生が勝手に描かれているし、今後どんなに書き換えられていってしまうか、まるでわからない。それを自分で決定することができない。その前提となる事実が、全くわかっていない人が決める、としたら・・・。
私は正義が正義として通用しない、事実が事実として通らない現実を、本当に恨めしく思いました。
そして、まったくの非力で、何の力にもなれない自分が、とても悲しくなりました。どうして、当の本人である私達の声よりも、社会的な権威を笠に着た悪人の言うことを「事実」とするのか。
その彼女のこと、私達のことを考えては、この社会は本当に間違っている…、と痛切に感じました。

第五-31

71 4月13〜18日ごろ、 県北児童相談所のケースワーカーのTNさんが来て、少しだけ話をしました。
ケースワーカーとは、簡単に言えば私たちのこれからについて、一緒に考えて、場合によっては手助けをするような役目だ。ということをTNさんから聞きました。
私は、自分の希望するように、事が進まず、とてもショックを受けていること、ホームオブハートのぶたママさん、MASAYAさん、母達は無事なのか、どうか教えて欲しい、とTNさんに尋ねました。
「ぶたママさん達は、元気だよ。」とTNさんは答えてくれました。
「ブーちゃんマンは人の事をよく気遣う。それはとてもいいことだけど、今は自分のことだけを考えていてほしい。」とまたITさんと同じような事の繰り返しを言われ、別れました。
「やっぱりそうだ。児童相談所の人たちは、皆、紀藤弁護士のでっち上げを信じきっていて、それこそ「洗脳」されてしまっている。これから、どうやってこんなにも紀藤の言うことを信じているこの人達の誤解を解いていけばいいのだろう」と、私は本当に絶望の淵にでも立たされているような思いで、私に何ができるのかしらとTNさんを見送りました。

72 4月16日、この日は心理テストが始まりました。心理テストの内容は、ロールシャッハのテストです。ロールシャッハのテストとは、インクの絵が何の絵に見えるのかを問うテストです。
無造作に描かれた様々な柄の絵を見て、それが何に見えるのか、たとえば「人の顔」に見えたとします。どうして「人の顔」に見えたのか、その理由を話します(たとえば「ここが「目」に見える。」とか。)。そして、他には何に見えるのかと聞かれて、思ったことを言い、次の絵に進みます。カードの種類は20種類程あったので、かなり時間がかかりました。この後、「男の子の絵」、「自分の絵(女の子の絵)」、「人・家・木を描いた絵」を描きました。「人・家・木」の絵のことは昔テレビで見た記憶があり、有名な心理学のテストであることは知っていました。
私は懐かしいホームオブハートのスタッフの皆が働くオフィスと、住む家をイメージして、大きな木が立ち並ぶ中に、オレンジ色の大きな家、その家の窓から手を振っている自分の姿を描き、心理判定員のITさんに渡しました。
きっと、この絵を見ても、児童相談所の人たちは、私のことを何にもわかってくれないだろう。何も伝わらないだろう、とうすうす感じていました。
紀藤らに、テレビに洗脳されきった人達が、ニュートラルに私達のことを見ることなど、決してできないということを、これまでに散々思い知らされていました。
次に、知能テストです。内容は、おそらく一般的な知能テストと同じように、見本と同じ図形を似たような図形の中から探し出したりするのに何分、例題を出して、答えを出すまでに何分というような内容です。心理テストでだいぶ時間が経ってしまったので、知能テストは途中で終わりました。絶望的な気持ちで、ITさんを見送ったのは、これで何度目でしょうか。
そもそも、何でこんなテストを受けなくてはならないのか、私の人生は本当にどうなってしまったのか、と何度暗く思い、嘆いたことでしょうか。このテストを受けるまでの面会で、私は散々、ITさんに真実を話したつもりです。
それだけでも十分な筈と思いましたが、今度はテストです。心理判定員の人が現れるたびに、「今度こそは。」と期待しても、すぐにその期待は裏切られ、失望の中、プレイルームに戻る。そんな生活の繰り返しで、私は「もうこうなったら、テストだの検査だの、どんなものでもいい。私が虐待されていないことを証明してやるぞ!」と、自棄(やけ)になっていました。

第五-32

73 4月19日、私達は、紀藤弁護士らの作り上げたこの事件のせいで、身体的にも、精神的にも大変なダメージを受けて、見る見る間に体調を崩しました。
ホームオブハートの皆と幸せに暮らしていた時は、何の病気もせず、健康優良児だったはずの私と妹1は、どんどん、気持ちが暗くなり、もともと、色白だった顔が、ますます青ざめるようになりました。
毎日、ご飯を山盛り食べて、どんなに寒くても自転車で町中を駆けずり回っていたシャーマンは、生まれつき足が悪く、時々痛みを感じていて、そのたびにお母さんからマッサージされていたそうです。
保護所での生活で、精神的ダメージからか、その痛みがもっと激しくなってしまったそうです。
しかし、保護所には誰も、シャーマンの身体のことをよく知る人などいません。
そのたびに、シャーマンはこれまでお母さんにされていたように、自分でマッサージをして、痛みを和らげようとしていたそうですが、一向に痛みはやまなかったそうです。
私自身も、この事件以来、本当にひどい便秘に悩むようになり、3年経ったいまでも全く直る兆候はありません。
私が、この身体の異常を知ったのは、4月19日に一時保護所での健康診断があり、身長・体重・脚気・色覚などの検査をしたことで、わかりました。この健康診断は、他の子供達と合同で、保護所の隣の建物(中央児童相談所)で行われました。私は、保護所に連れてこられてから、食欲不振になり、食事がのどをなかなか通りませんでしたが、おかしいことに、体重が保護所に来たときよりも、増えていました。一体どうしてだろう。と疑問に思ううちに、はたと気がついたのは、そういえば、保護所に来てから、ほとんどトイレに行っていないということに気がつきました。7日に来たのですから、12日目になります。
あまりにひどい不安に苛まれ、どこにも落ち着ける場所が無い、ストレスの中で暮らしていることが原因で、そうなっているのだろうと思いました。
こんなでっちあげの事件で体調を崩してしまいたくなかったので、この地獄のように辛い気持ちの日々を呪いつつ、なるべく水を多く飲むことにしました。それでも一向に良くなりません。
22日過ぎには、ついに激しい腹痛に襲われ、苦しくて、苦しくて私は保護所の先生に薬を貰い、やっと収まりましたが、実に私は2週間以上も便秘をしていました。それからというもの、本当に慢性的な便秘症になってしまいました。こんな苦しみを味あわせているのは、誰か。
私達子供の味方面(づら)をしている、あの弁護士です。
この後に、妹1も遂に高熱を出し、倒れてしまいますが、そのことはまた後ほど書きます。

74 4月22日、宇都宮の大学付属病院へ身体検査に行きました。
しかし、いまだにマスコミらしき人間がうろついていました。
ちょうど、私と妹1、シャーマン3人と保護所の先生1人がタクシーに乗り込み、正面から出ようとしたときに、駐車場にカメラを持った男が現れました。一体、何がおもしろくて、何をしたくて、私たちの写真を撮りたいのでしょうか。
保護所の先生は「急いでUターンして、裏口に回ってください!」と運転手さんに大声で言い、運転手さんはハンドルを切り、裏口へ向かいました。私達3人は目の前で起きた出来事に唖然としました。
保護所を出発し、だいぶ離れた頃、「なんであんなところにカメラマンがいるんだ?!」と口々に言いました。シャーマンはこのときに始めてマスコミのカメラマンを見たそうで、本当に驚いていました。
病院へ到着すると、TNケースワーカーが待っていました。私達3人は、それぞれ、身長・体重のほか、血液の採血・心理テストとして絵を3枚、描きました。妹1だけが、手のひらのレントゲン写真を撮りました。私は付き添いのTNケースワーカーに、レントゲン写真を撮る理由を尋ねました。骨の成長具合を見るためのレントゲン写真とのことでした。
私は内心で「そうか、妹1の体の小ささが『ご飯をもらっていない。』という嘘に使われているんだ。児童相談所の人は完全に騙されているのだろう…。なんて、自分に都合のよいことばかりを取り上げてつなぎ合わせる、ひどい人達だろう。」と思いました。

第五-33

75 4月23日、途中になっていた心理テストの続きを受けました。
すべてのテストが終わり、「お疲れ様。」というITさんに、「やっと、終わりましたね。早く結果を出して、早く私達をここから出してくださいね。」と言い、面会を終えました。

76 4月29日、この日、私は久々に夢を見ました。夢の中で、私は妹1とシャーマンを連れて保護所の前に立っていました。外は真っ暗で夜のようです。また、保護所での普段着であるジャージ姿ではなくて、保護されたときの服装をしていました。夢の中で、私は2人を連れて歩き出していました。途中、カメラマンに見つかりそうになり、そのたびに私達は必死で逃げました。夜通し歩き続けて、夜が明けてきた頃、なんと私達3人はあの懐かしい株式会社ホームオブハートの家の前に立っていました。ドアが開き、母やぶたママさん、MASAYAさんが驚いた顔で出てきました。私達は急いで駆け寄りましたが、そこで、目が覚めてしまいました。もっとその夢の中にいたかった。
私は夢だったことに愕然としましたが、たとえ夢でも、皆のもとへ帰ることが出来たことに希望を持って、妹1とシャーマンにこの夢のことを話しました。そうでもしないかぎり、私達には何の希望も喜びも無い毎日でしたから、このような些細なことですら、希望を持てる一筋の光でした。
妹1もシャーマンも「ひょっとしたら予知夢じゃないの?」と、とても喜んでくれました。 私は、この間、A学園に行ってしまったあの子のように、自分達もどこかに連れて行かれる前に、「この夢のように、皆で保護所を脱走して帰ろうね。」と言うと、2人とも大賛成し、監視カメラ・センサーが働いている保護所をどうやって脱出するか、必死に皆で探し回ったりもしました。そんなことは、笑われることかもしれません。できないことかも知れません。
しかし、私たちのことを調査する、肝心の児童相談所の人たちの全員が私達のことを虐待された児童だと信じ切ったところから調査をしている以上、私たちは本気でしたし、私たちが正義でした。そうしないと事実無根のことでこのままではA学園に行くことになってしまったりするかもしれない。こちらから討ってでない限り、家に帰る道は開けないと、真剣に思っていました。

77 4月30日の朝、私達3人は課長さんに呼び出され、今日母と面会できることを告げられました。
前日の夢が現実になってきた!と、私達は喜びました。
母がシャーマンのお母さんと児童相談所のAK課長、ケースワーカーのTNさんと共に保護所へ到着したのは夕方過ぎ、夕食の直前でした。私と妹1は、久々の母との対面に、涙がでて止まりませんでした。ぶたママさん、MASAYAさん、スタッフの方々の様子や、みんなからの伝言を母から教えて貰い、また涙が出ました。
しかし、母は悲しい表情で、私の祖父母が、あの紀藤弁護士に会いに行ったらしいんだよと、私達に言いました。
私も妹1も、今私たちをこんな目に遭わせている紀藤弁護士に、祖父母が会いに行っていたなんて、と信じられませんでした。
私のことを何とかして自分の手元に連れてゆこうとした祖父母のことです。
私と妹1を自分達のもとで暮らさせることが出来るならと、何か企んでいるのかも知れない、それに児童虐待などありもしないのにあると言っている人です、祖父母に何と言って誘い出したのか、祖父母が信じ込んでしまうこともあるかも知れないと、私は深い深い溜め息をつきました。何にもなくても、私たちを保護させてしまう嘘を、平気で押し通す者達です。
あの、にやけた顔の弁護士が、祖父母を言いくるめることくらいは、訳はないかも知れません(でも、後から祖父母達は会った後、あの弁護士達はただの金取りだよと、誘いには乗らずに冷静に実は帰ってきていたことを聞きました。じいちゃん、ばあちゃん、よくやったと言いたい私でした。)。
30分ぐらい経った頃、私達が話している間にも、頻りに腕時計を見ていたTNケースワーカーが、「じゃあ、BKさん、そろそろ行きましょう。」と言い、立ち上がりました。母は、この後に下の妹が入れられている「乳児院」に行って、下の妹と会うそうです。
「このままいっしょに帰りたい。」そう、私はTNケースワーカーに言いました。
私は、一時保護されてから一度も下の妹に会っていません。下の妹と一緒にいた妹1から、児相の人に連れて行かれる直前までTOSHIさんの奥さんが抱いてあやしていたこと、児童相談所の女性職員に下の妹を渡すように言われ、出山香さんは「あなた達はこれまでに実際に虐待されている子供達を見ているのだから、この子達を見て、どんなに幸せに暮らしているか位、わかるでしょう!」と言い、決して下の妹のことを離さずにいると、職員達から「あなたを逮捕しますよ。」とまで言われて連れて行かれたこと。ホームオブハートのスタッフの人から、「警察や、児童相談所が悪いことをするわけが無い。誤解が解ければすぐに帰ってこれるだろうから。」と下の妹を渡すように言われ、出山香さんは下の妹は自分の子供でもなく、自分の会社でもないしと、泣き腫らしながら、下の妹を渡したそうです。あんなに可愛がってくれた出山香さんです、その後何ヶ月も帰ってこれない結果に、どれほど傷ついたことでしょうか。
妹1が車に乗せられるとき、児童相談所の職員に抱かれた下の妹は、不安な顔をして、「クスン、クスン」と泣いていたそうです。
そんな下の妹を見て、妹1は何とか車の中で下の妹を元気付けようとしたが、途中で下の妹とT君は検査のために日赤病院に連れて行かれてしまった、自分は何にも出来なくて、下の妹がとても可哀想だった。ということを聞きました。
皆の輪の中で育ってきた小さな妹が、一人だけで、突然知らない人に連れ去られて、一人ぼっちで病院の検査を受けさせられていること、きっと、私たちと同じように母やぶたママさんたちとの面会なんてさせてもらえないんだろう。
下の妹はあの小さな目で周りの大人たちをどんな風に見ているだろう。
きっと怖がっているのに、何もできないお姉ちゃんで本当にごめんねと、常々悔やんでいました。
ですから私も母と一緒に下の妹に会いに行きたかった。そして早くつれて帰りたかった。
せめて、「絶対におうちに帰れるからね。」と声だけでもかけたかった。

でも叶わない。

「いやいや、ブーちゃんマンたちはまだ帰れないよ。」とTNケースワーカーは手を振り、「それでは、BKさん。」と母を促しました。
母は暗い表情で、渋々立ち上がり、私と妹1を強く抱きしめて、「頑張ってね。」と声を掛けました。
せめて、母の思いに答え、ここで精一杯がんばろう。そう思って、母達を見送りました。
この思いこそは、いつか、きっと、正々堂々と晴らしてやる、そう思って、です。

第五-34

78 5月上旬からの保護所での暮らしぶりについてお話を致します。
これまでの生活についての聞き取りも、心理・知能テストも終わった5月上旬は、4月ほど頻繁に心理判定員が訪ねてくることはありませんでした。
5月1日に心理判定員のITさんが来て、昨日の母との面会の感想を聞かれました。
当たり前のことですが、「本当にうれしかった、本当は一緒に帰りたかった。もっと長く話していたかった。」と、私はITさんに話しました。
その他、心理テストの結果がわかってきていて、なかなかいい結果だった。というITさんの報告に、「やっと、他の子供達のように話が進んできた。」と、やっと見えた進展にため息をつきながら、答えました。実際のところ、ITさん達が思い込んでいるような問題など、かけらも抱えていないのだから、結果がよくて当然。それが何な訳?と思いましたが。
この頃には、私が保護された時にいた子供達は全員、保護所からいなくなっていました。
もともと、長い期間の逗留はここにはないのです。
そして私に「班長」の役割が回ってきました。
私は、「班長さん」として他の子供達の指揮を取り、何かあっても先生に言えずに戸惑っている子を見つけては、手助けするような毎日を過ごすようになりました。また、私と同じ居室の女の子に、お父さんに髪を引きずられるなどの虐待を受けて、一時保護された子がいました。
そんな生活のためか、他の子に嫉妬して、キレて暴れたり「ムカつく」「大嫌い!」と言って、拗ねたりすることの多い子でした。私はその子の姿を毎日見ていて、その子がとても辛そうに思え、いつも心が痛かったのです。
ある日、ついに私は我慢できずに、いつものように他の子と揉めているその子の手首をつかんで、「AA!いい加減にしろ!もうやめて!」と怒鳴ってしまいました。その子は、ハッとした顔で私の顔を見ました。しばらくして、その子は泣きながら私に謝ってきました。それからは、他の子と揉めるようなことはありませんでした。
班長さんになって、一番大変だったのが、子供達間での喧嘩でした。保護所での子供達は一見仲がよさそうでも、実際は些細なことでの揉め事、喧嘩が絶えません。
「こんなところでは、普通に幸せに暮らしていた妹1やシャーマンが、いやな思いをしてしまうのではないか。」ということが、妹1とシャーマンの「お姉ちゃん」としの私が一番心配なことでした。
でも、妹1もシャーマンも、どんな子にも隔たりなく遊んでいたためか、一度も保護所に居た子供達から虐められるようなことはありませんでした。
むしろ、2人とも一目置かれていたというか、すごく大切にされていたようにさえ思います。
保護所に来て、1週間ぐらい経った頃から、私達のそんな暮らしぶりを日々見ていた保護所の先生達は、「ブーちゃんマン達は、ここにいる他の子達とは違う。」と確信を持った顔で、私に言ってきたこともありました。
保護所の先生と嘱託員の方は、日替わりで代わるのですが、全員私達の心情、思いをよくわかってくれるようになり、「ブーちゃんマンの前向きさ、周りの子のことを考えられる気持ちが、とてもうれしいよ。」、「ブーちゃんマン達は本当にいい子。どうしてこんなところにいなきゃいけないんだろうね。」なんて言われたり、また、当時つけていた日記帳には、「ブーちゃんマン達は、なかなか決まらなくて不安だろうけど、慌てずゆっくり考えていこうね!」、「班長歴がだいぶ長くなりそうだけど、班長としてこれからもみんなを引っ張っていって欲しいです。ほんとうにいろいろなことが起きて大変だろうけど、なんとか乗り越えていこう!」と、私が持っていた焦り・不安な心に対して、先生・嘱託員の方々からの応援コメントが沢山書かれています。
一時保護所の職員の方々は、紀藤弁護士らの嘘の通告の内容を知らない、要は「洗脳」を受けていない人たちだったからこそ、私達のことをニュートラルな目で見てくれて、感じたとおりそのままに、この子達は虐待された子供じゃないと判断してくれたのでは?と思います。
返す返すも偏見、先入見というものがどれほど恐ろしいものかと思います。
事実、一時保護所の課長さんから、課長さん自身は、県北児童相談所のAK課長さんから、少し事情は聞いているけれども、他の先生はまったく、私たちの事情を知らないから、安心していいよと、一番最初の日に話がありましたし、課長さん自身も、早く家に帰りたいと、痺れを切らす私に、「AKさんに伝えておくから、言いたいことを言ってほしい。」と話を聞いてくれて、後日どうだったのか、課長さんに聞くと、「なんか、『ぜんぜんまだだ。もうちょっと待ってくれ。』って言ってたよ。ったく何回目だろうね。いい加減にしろよ、児相め。」と、紀藤の言っていることをまだ信じ切っているらしい児童相談所の反応を、教えてくれました。このように県の職員でもものすごい温度差が生じているのです。その証拠に、おそらく、紀藤弁護士の通告をダイレクトに聞き、信じ込んでしまった人たちを覆すことは、かなり困難でした。もう色眼鏡でしか、私達の事を見てくれなくて、最初の方に書きましたとおり、些細な事で過剰に反応し、「やっぱり虐待だ。」と短絡するのです。
そんな大人たちの洗脳をとくべく、私は必死に事実を伝えてきました。
一体誰が洗脳団体なのでしょう。

第五-35

79 ここで、少し長くなりますが、一時保護所に保護された子供達についてのエピソードを書いておきたいと思います。
児童虐待を受けた子供達にとって、一時保護所の存在は、生命(いのち)を取り留められる唯一の存在になり得ると思います。
しかし、一時保護された子供が、皆幸せな暮らしを取り戻して、保護所を出て行ったかというと、残念ながらそうではないように思います。
妹1がいちばん仲良くしていた子に、お父さんが拘置所にいて、実のお姉ちゃんとは離れ離れ、唯一お母さんと暮らしていた子がいました。ある日学校に行ったら、お母さんは精神病だからという理由で、学校からまっすぐ保護所に連れて行かれてしまったそうです。
その子はある日の夜、布団の中で泣きながら、「本当は、お母さんと一緒に暮らしたい。確かにお母さんは病気で、病院にも通っているけれども、普段は普通だもの。たまーに、おかしくなるだけで、いつもその後、「ごめんね、ごめんね、またあんなこと言っちゃって…本当にごめんね…」って謝ってきて…本当はやさしいんだよ。それに…お母さんがいなくなっちゃったら、私にはもう誰もいないから…。」と話してくれました。保護されることに、それはそれで理由はあるでしょう。
でも、その子の「お母さんがいなくなっちゃったら、私にはもう誰もいない」という言葉は、私の心にぐさりと刺さりました。
その気持ちは、とても切ないものでした。この世で、自分のお母さん以外にはいない、そんな気持ち、痛いほどにわかります。結局、その子は、家に帰ることはなく、児童養護施設に行くことになってしまいました。
そのお母さんとは、一度も会えないまま、行ってしまったのではないかと思います。

5月の下旬、私と1歳しか違わないお兄さんが保護所にやってきました。その子はお父さんに暴力を振るったために、保護所に連れてこられた、と言っていました。
そのためか、ある時間になると保護所の先生から精神安定剤をもらっていました。ところが、髪を金髪に染めた、いかにもヤンキー風な見かけに寄らずに気さくな性格で、小さい子達からの人気は絶大なものがありました。
その子は既に就職していたので、勉強時間には頭にタオルを巻いて、一生懸命グラウンドの草取りをしていました。
保護所に来てから1週間が過ぎる頃、些細なことから課長さんを殴ってしまい、すぐさま現れた警察官にとり囲まれて、保護所から出て行ってしまいました。彼の普段の姿を知っている保護所の子供達は、突然起こった出来事に驚きました。私は、警察官に囲まれた姿が、児童相談所で最後に見たぶたママさん達の姿のようにダブってしまい、本当に胸が痛くなりました。

私が保護所にきたばかりの頃、茶髪で、いつも腕を組んでソファーに座っている、ちょっと怖そうな雰囲気のお姉さんがいました。
そんな彼女の姿を見た私は、あまり関わりを持たないようにしようと、なるべく離れた場所にいました。
しかし、初めての給食の時間、席順は2人向かい合わせでした。そして、誕生日順に並ぶことになっていましたのが、そのお姉さんは17歳で一番年上、その次に年上なのが私でしたから、なんと一緒の席で向かい合ってご飯を食べることになってしまいました。私がおそるおそる「よろしくね。」と言うと、彼女も、「よかった。今まで人数が奇数でさあ、一人で寂しかったんだよねー。よろしくね。」と笑顔で答えてくれました。見かけと実際のギャップにちょっと面食らいましたが、あの思い出したくもない、私達を家から引きずり出したあの4月7日の騒動のために、どんな人に対しても不信感を持つようになってしまった自分のことをとても恥ずかしく思いました。しかし、彼女は一向に食事を食べようとしません。と言うより、本当に少しずつ、押し込むように食べているのです。私自身もあまりの精神的なショックで、まったく食事がのどを通りませんでしたが、彼女はそれ以上の食べなさ加減でした。あまりの彼女の様子に、「どこか、具合が悪いの?」と彼女に聞くと、「…いや、食べられないの。」と答えました。なんと彼女は拒食症だったのです。
どんな事情か知りませんでしたが、おそらくは、よほどのストレスの中で暮らしていたのでしょう。保護所に来てから、少しは食べられるようになったとは言ってはいましたが、ほんのわずかしか、食べていません。
逆に保護所に来たことで、これまではあんなに食べていたはずの食欲が、ほとんど失せてしまった私には、信じられないことでした。
よく見ると、彼女の顔はこけていて、身体もガリガリに痩せています。
同じように、食事が食べられなくて、痩せてガリガリになって死んでいった父のことが思い浮かび、なんとか彼女の身体を治さないといつか死んでしまうと、とっさに思った私は、彼女のサポートをすることを決めました。次の食事の時間、彼女に「これだったら食べれる。というものは無いか。」とたずねました。ひとつでも彼女が食べられるものがあれば、自分の分を分けてでも、食べさせるつもりでいました。幸いにも、彼女はマヨネーズが大好きで、それさえかければ大分食べられるようになるとのことでしたので、給食のおばさんにマヨネーズを借り、彼女はようやく、半分ぐらいまでは食べられるようになりました。
しかし、数十分後、「やっぱり吐いちゃった。」と暗い表情でトイレから帰ってくる彼女の姿に、ますます死んだ父の面影が浮かびました。私達はこれまでの家に戻るという、自分達の幸せを取り戻すのに必死でしたが、食事の時間は彼女が無理なく食べられるように、必死でサポートを続けました。
ある日、給食のおばさんからマヨネーズを借りることが禁止されてしまいました(これも、なにもなければ自由にできることですよね。)。
でも、私と彼女でどうにか陰で給食のおばさんを説得し、こっそり分けてもらうことに成功しました。命に関わることですもの、問題はないと割り切りました。それから2週間ほどで、彼女は家に戻ることが決まり、保護所を退所していきましたが、最初の食の細さが嘘のように食べられるようになり、吐き戻す回数も少なくなりました。今でも、彼女は元気でいるかしら、ちゃんとご飯を食べれているだろうかと、ふと思い出すことがあります。

当時自分達のことで頭が一杯の私が、どうして見ず知らずの人のサポートに全力を尽くさずにいられなかったのかと言うと、父を亡くした時の辛い体験もありますが、MASAYAさん、ぶたママさん、松田賀江さんの絵本から学んだ、「共に生きること」はどんな逆境の中でも貫きたい、そんな思いだったと思います。当時は、あまりよくわからなかったのですが、無意識にも彼女のことを助けずにはいられなかったのだと思います。
逆に言えば、父との生活、父への思いがなければ、彼女のことなどどこ吹く風で、自分が先に保護所を出ることだけに躍起になるような人になっていたと思います。私は、父との体験、父への思い、父の私に対する思い、そしてホームオブハートに来て、沢山のことを学んでいること、そしてこの人生を選んで本当に良かったと思いますし、私達が、ホームオブハートと出会うきっかけを創ってくれた父のことを、心から誇りに思っています。

このほかにも、小遣い稼ぎにシンナーを売っている子、小学生の頃から暴走族に入っていた子、お父さんに髪を引きずりまわされるなどの虐待を受けた子等々、この2ヶ月間には、本当に沢山の人生を生きてきた子供達と出会いました。子供達は夜、居室に帰ると必ず「自分がどうして保護所に来ることになったか。」を話題に、おしゃべりをして盛り上がっていたので、いろいろな子がいること、いろいろな家庭があることを知りました。保護所のルールとして、自分の生い立ち、住んでいる場所などを話すことは「保護所だけの関係」として禁じられています。
でも居室には先生がこないので、ここぞとばかり、「ねぇ、どうしてここに来たの?」、「私はね〜。」と話し始めるのです。
私は、同じ居室の女の子達の話を聞いて、先ほどの拒食症のお姉さんだけでなく、それぞれの子供達が皆、余りにも凄い過去を背負いながら生きている、その現実に本当に心が痛くなり「それは本当に辛かったね。今度は幸せに暮らせたらいいね。」としか、言えませんでした。「ブーちゃんマンってさあ、なんでここにいるのか、本当にわからないよねえ。家出したことなんか、ないでしょ?」、「警察に捕まったわけじゃないんでしょ?」、「いいなあ、ブーちゃんマンは。私、ブーちゃんマンの妹に生まれたかったよ。」と、女の子達に羨ましがられてしまいました。

第五-36

80 私は本当に、心の底から一刻も早くこの保護所を出て、家に帰りたいと、願っていましたから、他の子供達も早く一番望みの場所に、たどり着ければと、常々願っていました。
ですから、退所が決まる度に、「よかったね。」と手を叩いて喜んだり、逆に望まない結果だったときは出来る限りの励ましの言葉をかけていました。
しかし、一緒に暮らしてきた子達が、次々に退所してゆく度に、私達だけが取り残されていくように思える、その渦中の辛さ、焦りと不安はとても言葉では言い尽くしがたいものがありました。
保護所の外で私たちを嵐のように巻き込んでいる騒動は一体どうなるんだろう。退所してゆく子達の退所式の後、私は課長さんを見つけては決まって、「一体、私達はいつ退所できるんですか!他の子は皆、話がどんどん進んでいるのに、どうして私達だけ、何も話が進まないんですか!いくらなんでも遅すぎる。せめて、決定していなくてもいいから、状況を知りたい!課長さん、私がこんなに待っていること、児相のAKさんに伝えてください!」と、詰め寄りました。課長さんは、「わかった。AKさんにはしっかり伝えるから。もう少し待っててほしい。」と、答えていました。

でも、この頃、実は私達は自立支援施設「A学園」に強制的に入れられることが、実はほぼ確定していたことなど、全く知らず、私達は、家に帰れることばかりを信じて毎日を過ごしていました。
私は、他の子供達のように、外に遊びに行かず、ずっと施設内で過ごしていました。
「外にはマスコミがいる。」という恐怖心から、外に出ることがとても怖くなっていました。
3年経った現在でも、どこかの影から誰かが見ているんじゃないかという恐怖心が沸き、ついつい見張られたり、撮影されたりはしていないかと回りを見渡してしまうほどの強烈な体験です。また妹達のことを連れ去られてしまうんじゃないか、そうなったらどうしよう、と思うことすらあります。私は、「皆は本当に無事なんだろうか。もういつまでも児相に任せていても埒があかない。早くここを脱出しないと、MASAYAさん達が、悪人に仕立て上げられてしまう。」と、焦燥感に駆られ、食い入るようにテレビを見つめる毎日でした。
しかし、見るタイミングが合わないのか、一度も株式会社ホームオブハートに関するニュースを見たことがありませんでした。
児童相談所の判断を待っていても、何の進展もありませんので、私達3人は、自分達の自由は、自分達の手で取り戻すしか、手立てが無いと思い、何ヶ所かの乗り越えられそうな塀を見繕い、最悪の場合には、いつでも脱走できるように本当に作戦会議を密かに開くようになりました。私たちはただの人質だ、そうしか思えませんでした。早く出て、違うってことをいわなけりゃ、そういう気持ちが先走ります。

私の焦る気持ちを察したのか、保護所の先生達は、以前よりはよく私達に話しかけてくるようになりました。
私自身も保護されたばかりの頃と違い、一時保護所の方々には、少しずつ信頼感が持てるようになりました。自分達だけが何も進展がなく、保護所に取り残されている疎外感、閉塞感を感じていること、自分は虐めのある学校というものに行きたくなかっただけで、とても幸せに暮らしていたことなどを打ち明けるようになりました。

第五-37

81 5月6日、5月に入ってから、なんとなくぐったりとしていた妹1が、疲労と精神的なショックのあまり、遂に熱を出し、寝込んでしまいました。
40度を超える高熱で、保護所の先生は救急病院に妹1を連れて行きました。妹1は薬をもらっても、何も食べることが出来ず、ずっと寝込んでいました。
私には、「こんな思いをさせて、本当にごめんね。お願いだから、安心して。私が絶対に、妹1を皆のところに連れて帰るから。もう皆に会えないなんて、思わないで。」と声をかけ、所外学習の森林公園で摘んだ四つ葉のクローバーを枕元に置くことくらいしか、出来ませんでした。

82 5月13日、久々に心理判定員のITさんが面会に来られました。
やっと心理テストの結果が出たのでその報告に来た、とのことでした。
聞けば、結果は、私は内向的で、コツコツと事をやり遂げるが、自分の世界に浸りやすい性格を持っている。学校に通っていないために数学的な事が苦手。IQは高め。という結果が出たそうです。
ITさんはなんだか嬉しそうに、「すごいねブーちゃんマンは!もっと勉強したら将来すごい才能を持つのでは?」と言っていました。
私はそんなITさんを見て、「ああ、この人達はこんなテストの結果で、私のことを知ったつもりになっているんだ・・・。」と、本当にまた寂しい気持ちになりました。
突然、覚えのないことで連れ出された妹達を助けようと向かった挙句に、私まで家にも帰してもらえていない、この状況下で、そもそも普段と同じ心理状態を保てるはずがありません。違うでしょうか。
それでも、私は今までの、幸せだった自分がどんな考えを持っていたか、どんな思いを持っていたかを、精一杯伝えてきました。
でも、実際に児童相談所の人達が信じていたのは、私の言葉ではなく、こんなテストの結果でしかなかったのか。少なくとも、面談中に私の過去を聞いて、彼女がこれほど喜んだことはありません。
私は愕然としました。あなたは私の話を本当に聞いてくれたの?私の言葉はどうなったの?一体何をわかったつもり?私の運命を握っているどっかのお偉いさんには、一体全体、私の何を報告したの?誰を何といって説得してくれたの?私が優秀?だからってそれが何になる?そんなこと全然関係ないじゃないか!虐待があったかどうかを調べたいんじゃなかったの?虐待があったかどうかは全く気にならないの?そんなもん、なにもないだろうが!

ニコニコ笑いながら手を振るITさんと別れる私の頭の中ではそんな言葉が渦巻いていました。

83 5月21日、1週間ぶりに、心理判定員のITさんが訪れました。
「特に大きな進展はなく、もうちょっと保護所にいることになる。」という報告でした。
私はまたいつものように、一体いつになるのだろう…と、ため息をつき、ITさんを見送りました。

第五-38

84 5月25日、TNケースワーカーが保護所にやってきました。
やっと今後についての話がついたとのことです。
私・妹1・シャーマンは順番に一人ずつ呼ばれました。私達は「やっと帰れる!」と喜びました。
しかし、そこで伝えられたのは、私達がずっと待ち望んでいた結果ではありませんでした。

待ち受けていたのは、この2ヶ月間ずっと恐れていた、最悪の結果報告でした。

TNケースワーカーの言った言葉は、「ホームオブハートには、帰れない。」という一言でした。
私は、唖然としました。
なぜ、こうなってしまうのか。信じられませんでした。
「どうして?!」という私にTNケースワーカーは黙って、4つ折りにたたまれた紙を取り出し、上から開きながら、説明を始めました。
今でも、この時の光景はありありと目に浮かびます。
一番上に「ホームオブハートには帰れない。」とかかれており、「これからは、前のようにホームオブハートで暮らすことは出来ない。という風に決まったんだよ。」と、紙を指さしながらTNさんは話し始めました。そこで紙を開くと、そこには

1.母が株式会社ホームオブハートを退職し、アパートを借りて、暮らす。
母自身は別の就職先を探すことになる。そして、適応指導教室に通い、週に一度程度、県北児童相談所に来ることになる。
2.児童自立支援施設「A学園」に入園する。A学園は全寮制で施設内の学校に通うことになる。なお、母は株式会社ホームオブハートを辞める必要は無い。
3.里親・祖父母のもとで暮らす

といった、3者択一のことが書かれていました。TNケースワーカーは、次のように言いました。
「1は、あまりおすすめできない。なぜなら、母に対する負担(退職して一から職探し・私達の養育費・経費などの負担)が大きい。そして学力的な伸びが期待できない。「適応指導教室」とは、要は「所詮フリースクールであって学校ではない」という懸念がある。2は、学力的にも将来的にもお勧めしたい。施設内に学校があり、専属の教師もいる。たとえるなら…マラソン選手が山篭りをして体を鍛えるようなもので、一般的な暮らしから離れ、勉強に集中できる。就職したくなったら、職場について・専門学校についてなどのサポートも可能だ。3は、内容的には1と同じで、お母さんの代わりに祖父母か、里親のもとで暮らすことになる。1と比べたら3のほうがいいが、やはり、2が一番おすすめだな。」と、説明をしました。
私は、すぐにも反論したい、悔しい思いを抑えながら、シャーマンの措置はどんな内容なのか聞いてみました。
私や妹1と大体、内容は同じとのことでした。
そして、「5月の31日までに、自分はどの道がいいか、決めておいてほしい。31日に聞きに来るから。でも、100%ブーちゃんマン達が決めた方向に進むとは思わないでほしい。」
と言うTNさんに、「それって…、私達がどんなに嫌な方向でも、決まってしまったことは、変えられないのですか?」というと、黙ってうなずきました。
やっぱりだ…と私は愕然としました。最後に、「A学園について、興味があるなら28日に見学に行けるけど、どうする?」と聞かれた私は、「A学園に行く気はかけらもないです。でもとりあえず見てみます。」と答えました。
私たちには完全に打つ手がなく、児童相談所に完全に運命を握られていました。
私は、これまでの苦労を、すべて蔑ろにされた悔しさで一杯で、こうなったら、この先どんな手を使ってでも私たちは家に帰るんだ。という決意に変わりました。
もし本当に、A学園行きが決定したら、(今、A学園にいる方には申し訳ないのですが…はっきりと気持ちを書きます。)私たちは間違いなく、気が狂うに違いありません。
だって、私達は、事実無根のことで、保護所に連れ込まれた挙げ句に、この地域のことをよく知っている、私と同年代の子供達が、「あんなところに連れて行かれたら青春終わり」、と口々に言って、恐れている施設に入れらそうになっているからです。
しかし、TNさんがあれほどA学園を推奨するのだから、もしかしたら、もうすでに私たちに選ぶ余地など、残されていないのかもしれません。(実際に、5月のはじめには母達に「強制的に連れて行く」という通知が来ていたそうです。しかし、そんな最低最悪の状況は完全に覆り、私達が強制的に施設へ連れて行かれることはなくなったそうです。完全に審議会が決めていた結果を誰がどうやって覆したのか…もうお分かりだと思いますが…後述します。)
とりあえず、見学に行くことで本当にA学園行きになったときの心構えと、他の子供達が言うように「脱走」することで、家に帰れるかもしれないと、私は、子供達の運命を握る、最後の窮地にとても頭を悩ませました。
そんな葛藤の末、まずはA学園とやらを一応見てみること、その上で私たちが、いかに事実無根か、こんなところに連れ込まれること自体、失礼甚だしいことかということを、児童相談所の人間に思い知らせてやるという決意を固め、ひとまず、A学園の見学に行くことをOKしました。

第五-39

85 プレイルームに戻った私は、「どうして、こうなってしまうの?」、「私は何か間違ったことを判定員に伝えてしまった?」「MASAYAさん、ぶたママさん達…どうなってしまうんだろう…」とさまざまな思いが渦巻くなか、いまや八方塞がりの状況ですが、どうにかして、家に帰るすべはないのか。と考え込みました。
そんな状況下で、当然食事も、喉を通りません。
私は保護所の先生で一番よくしてくれた年配の女の先生に、このことを伝えました。すると先生は目を見開いて、「えぇ!!!こんなにいい子でかわいらしいブーちゃんマン達がA学だなんて!!信じられない!」と本当に驚いていました。
私は涙を流して話を続けると、先生は私の両肩に手を置いて、「児相は何か間違っている。A学なんてブーちゃんマン達の行くところではないんだから。」と、きっぱりと言ってくれました。
他の先生達も、私達のA学行きに驚いていました。「あなた、あそこがどんなところかわかっているの?」「A学園はねっ!少年院の一歩手前なんだよっ!」、「どうしてそんな判断をするんだろうね。児相ってのは!」、「いい?騙されるんじゃないよっ!しっかり目を開いて、よく見極めて来なさい!」、「そういう人は必ず甘いことを言って騙してくる。ブーちゃんマン、自分の幸せは自分の手で掴むんだよ!」なんだか、誰が誰の味方なのか、私が一体どこで何をしているのか、さっぱりわからなくなりました。でも、激励の言葉を沢山、沢山、貰ったこと、そして、児童相談所は完全に間違っているというのは私達だけの考えではないこと、そのことだけはわかりました。
誰一人として、頼れる人のいないなかで、最後の最後に、実は私達の本当の姿の方から、真実をわかってくれる人達がいてくれたことが、心底、本当に嬉しかったし、本当に励みになりました。

第五-40

86 そして、A学に見学にゆく28日の朝が来ました。
TNケースワーカーが保護所に来て、私は一緒にタクシーに乗り込みました。
保護所からだいぶ離れた頃、それまで走っていた国道から横に伸びた細道に車は移り、景色はどんどん街から田園地帯へと、変わっていきました。
人里から離れた、畑と田んぼだけが広がる中に「A学園」は建っていました。
タクシーから降りた私達はその佇まいに、息を呑みました。
TNケースワーカーは「山篭り」と譬えましたが、私には保護所の先生方の言っていたとおり、「少年院」にしか見えませんでした。
奥から寮長さんがやってきて、私達は「女子寮」を案内されました。ここに住む子供達は皆隣に建っている「学校」に行っているために、人気(ひとけ)がなく、伽藍堂でした。廊下沿いに並ぶ、子供達が住む部屋も見せて貰いましたが、「これ、部屋だったんだ!」と思ってしまうほどに小さくて、その部屋には4人もの女の子が住んでいると聞いて、更に驚いてしまいました。廊下沿いに部屋が並び、窓には子供達が逃げ出せないように鉄格子がついています
。扉は引き戸式で、中の様子をすべて見渡せる部屋は、少年院というよりも、テレビで見たことのある「刑務所」を思わせる造りでした。
「学校」の中は見学せず、外の庭を一通り一周して、また女子寮に戻り、今度は寮長さんから、A学園での暮らしについて、説明を受けました。
説明では、A学園は全寮制で、ほとんどの人が18歳になるまでA学園で暮らします。A学園に入園する際、それぞれ個人用の口座が作られて、月に一度、「お小遣い」が振り込まれ、月に1〜2回程度、買い物に行って文房具などを買い揃えることができるそうです。
これまでいた一時保護所の、「週に1度の所外学習」すら、待ち遠しく思えることなのに、月に1から2回しか、施設外に出られない生活の想像はつきませんでした。
それに、決まりは沢山あり、髪形・服装は規定の長さ・指定された服装をします。女の子は肩につかない長さ、男の子はスポーツ刈りになります(特に「不良」な男の子は五分刈りになるそうです。)。
また、部活の時間は決して「笑ってはいけない。」、「歩いてはいけない。」、「遅刻は絶対に許されない。」…などの規則に沿った生活を送るそうです。
私は寮長さんに「規則を破ったらどうなるのですか?」と質問をしてみました。すると「全員で集まって、その子が犯した問題について、今後二度とないように皆で話し合う。」という答えでしたが、果たして本当にそんな生易しいもので済まされるのか、私には信じられませんでした。
ふと、一時保護所に私たちが行ったばかりの頃、泣きながら「A学園に行きたくない」と言っていた女の子のことを思い出しました。私は「M美ちゃんは、元気に暮らしていますか?」と質問しました。寮長さんは「ああ、あの子ね。元気ですよ。まぁこの間ちょっと何か起こして、皆で話し合っていたけど、今は大丈夫。」と笑いながら答えました。
また、「家族の状態によっては、夏休みや冬休みに帰郷も出来るし、A学園の中に、家族と一緒に泊まれる小屋があるから、そこで一緒に過ごすことも出来る。」、「しかし、夏は部活が結構忙しいよ。A学園ってね、この辺の施設の中では一番強いんだよ。毎年優勝してるし、何度か関東大会まで行ったからね〜。」と言われました。
私が「じゃあ、部活の練習はプライドがかかってるから、相当きびしいでしょうね。」と言うと、「厳しいよ!みんな死にもの狂いでやっている。でも優勝したときの達成感は感動するよ!」と笑顔で答える寮長さんでした。私は、この寮長の笑顔に、何かそら恐ろしさを感じました。
また、「親からの手紙は原則として、職員が中身を確認してから渡すことになっている。たまに、手紙の中に『カミソリ』が入っていて、手紙に『○○へ、一緒に死にましょうね。』なんて事が書いてあったりするからね。」とこんな内容の話を何気なく、普通に話している寮長さん達を見て、本当に怖くなりました。
一時保護所でも、ビックリするようなことばかりが続くのに、ここはもはや刑務所じゃないかしら。やっぱり保護所の先生達、子供達が言っていた事は本当だった。
私は「もう、ここは尋常じゃない。ここは刑務所そのものだ!」と心で叫びました。
もうここにはいられない。もう耐え切れない。と思った頃に、すべての説明が終わり、私達はA学園のパンフレットを手に、タクシーに乗り込みました。
周りは美しい田園風景だというのに、A学園に立ち籠める雰囲気は、尋常ではない、なんとも言い表せない恐ろしいものでした。
色でたとえるなら、「グレー」といったところでしょうか、ユダヤ人が次々と、殆どの場合躊躇いなく銃弾が撃ち込まれたり、アウシュヴィッツ強制収容所に送り込まれてガス室で殺される、映画「シンドラーのリスト」の世界に放り込まれたかのような、何とも暗く、裏に何か隠されているかのような恐ろしさを持った施設でした。
…思いっきり書いていますが、これが、私の赤裸々な心境です。

第五-41

87 5月29日、私はA学園から帰ってから、ずっと気分が悪く、何をするにも力が入りませんでした。
気分的な落ち込みもあったのでしょうがあまり調子が悪いので、体温を測ってみたら、37度で微熱が出ていました。元来、私は風邪を引いても熱をあまり出さない体質だったので、昨日の疲れと、この2ヶ月間に渡る精神的ショックが重なったためでしょうか。頭がボーっとしてしまい、体も思うように動きませんでした。それでも、昨日訪問したA学のことが頭を離れず、頭の中では休みなく、MASAYAさんや、ぶたママさん達のもとへ帰るために、私はどのような道を歩めばいいのかと考え続けました。

88 5月30日、ついに私の熱は38度まで上がってしまいました。普段熱を出したことのなかった私は、もう意識が朦朧としてしまうほどの状態でした。
さすがに、熱にはかなわず、妹1が熱を出したときのように、急いでタクシーを呼んでもらい、保護所の先生の付き添いの元、病院へと向かいました。向かった先は、U病院でした。そこはなんと、下の妹が保護されている乳児院の真隣にある病院でした。
タクシーの中で、保護所の先生が「ブーちゃんマン、あそこは下の妹ちゃんがいる乳児院だよ。」と言い、私はハッとして窓の外を眺めました。窓の外は、建物が立ち並び、那須とは全く違う都会の風景が広がっており、その中のひとつの建物に大きく「乳児院」と書かれているのがわかりました。下の妹はどこ?と、目をこらしましたが、タクシーからでは中の様子を見ることは出来ません。病院に到着しましたが、タクシーの運転手さんが入り口の場所を間違えてしまったため、私は保護所の先生に手を引かれて、病院の入り口まで歩いていきました。
この日、ものすごい真夏のような暑さの日で、5月とは思えないような強い日差しが照っていましたので、私も先生も汗だくになって歩きました。私は高熱で意識は朦朧とする上、頭もガンガンと痛み、もう自分がどこでどうなっているのか、さっぱりわからない状態でした。診察を受け、薬を貰って保護所に帰ってくる頃はもうフラフラで、一体どうやって保護所の2階の居室まで歩いていったのか、まったく覚えていません。

こう書くと、私はまるで病弱な子供のように思われるかもしれません。しかし、この事件が起こるまでは、とても健康優良児でした。どんなに寒かろうが、暑かろうが、まったく心配無用で、ごくたまに風邪をひく程度でした。しかし、今回の事件で受けた精神的なダメージは、相当なものでした。これまで、家族のように一緒に暮らしていた人達から、無理矢理引き離され、可愛がっていた妹達と引き離され、その上、虐待された子供というレッテルを貼られ、囚人のように閉じ込められたのです。
こんなひどい目に遭って、平常でいられるわけがありません。気がつくと、居室で休んでいる私の枕元に、妹1とシャーマンが座り、不安そうに私の顔を覗き込んでいました。薬のおかげで、だいぶ楽になった私は、明日、TNケースワーカーにする返事について、話し合いました。

私達の答えは、既に決まっていました。それは、母のもとで暮らすこと。これしかない、という答えです。私達の運命を決める児童相談所は、私達の気持ちなど、かけらも汲んでくれない、ということを、私達はこの2ヶ月間散々思い知らされました。
どんなに言っても、何も伝わらなかった、この虚無感は絶大なものでした。それでも、私達は、自分達の本当の思い、それを貫くことが、私達の唯一の武器でした。なぜならそのおかげで、保護所の先生達は、私達のことをわかり、応援してくれるようになったからです。

万一、A学園行きになった場合は、前々から脱走できる場所として見繕っていた塀をよじ登り、皆で脱走して、何としてでも母達のもとに辿り着くことを、真剣に約束し合いました。子供じみていると笑われるかも知れません。でも、静かに大人の話を聞いている内に刑務所に入れられそうになっている私達にとっては、正に背水の陣でした。
あの弁護士の、事件のための馬鹿げた思いつきのような事件のために、私達の幸せを奪われる、そんな辱的な結末にされてしまうことを避けるためなら、何だってする!それぐらい、私たちは必死でした。

第五-45

94 また、紀藤、Yyらは、私たちが労働を強制されたとか、監禁罪になるなどと言って、黒磯警察署に告発までしていました。
そのための事情聴取も6月の中旬から始まりました。最初は児童相談所の時のように、紀藤の言っていることを鵜呑みにしているのではないかと私は警戒しましたが、そもそも刑事事件としてまともにみてなどいないこと、やがて判りました。
私があまりにも警戒しすぎていたため、警察の方には気持ちもわかるけれども、もう少し素直にしゃべってほしいとさえ窘められましたし、虚偽告訴ではないかとする見方も署内にはあったそうです。どのような経緯で「不起訴」という判断を下されるまでに至ったのか。
私たちと刑事さんたちとの関わりがどのようなものであったか、私たち子供、そして親、ホームオブハートのスタッフの多くが警察で話をしてきました。
私の知る限りですが書きたいと思います。

第五-46

95 平成16年6月11日、私たち親子3人と、シャーマン、シャーマンのお母さんの5人で、黒磯警察へ向かいました。建物内で、私たちとシャーマンたちは別々の部屋に分かれ、事情聴取を受けました。この日は、妹1と母が事情聴取を受けました。私はまた別の日に行うとのことで、私は同じ室内の少し離れた場所に席を設けてもらい、妹1と母の聴取を聞きながら、たまに補足をする形でした。妹1の聴取を担当したのは、生活安全課派遣警察本部少年課のFさん、母は同じ少年課のTK係長さんが担当になりました。最初に、妹1の聴取が始まりました。妹1の聴取内容は主にこんなものでした。

F「学校にどうして行かなかったのか。」
妹1「学校は最初から行かなかったし、行きたくなかった。」
F「それでは細かいこと聞いていいですか?まず下の妹ちゃんのことですが、お世話は妹1ちゃんがしていましたか?」
妹1「いいえ大人の人に看護婦さんがいて、主にその人がしていました。」
F「オムツとか何回か変えたことある?」
妹1「1回やってみたくて、やらせてもらったことはある。」
F「オムツは紙おむつ?」
妹1「はい。別に私が毎日下の妹のお世話をしていたわけではないんです。あいつら(紀藤弁護士ら)の言うことは全部嘘なんです。信じないでください!!」
F「信じていない。事実を聞きたいだけで、中立に捜査したいだけなんだ。」

そして下の妹の年齢のことを聞かれました。妹1は1歳4ヶ月ですと答えました。

F「なんか段ボールに入れられていると聞いたのですが…」
妹1「そんなことありません!!!手作りのベビーサークルに入っているんです!!」
F「では箱に入れたこともありますか??」
妹1「ないです!!」
F「(ベビーサークルとは)どんな形ですか?」
母「要するに子供部屋の壁と窓ガラスがあって、そこに手作りの仕切りをつけていたんです。折りたたみ式で、寝るときはそれをはずして、布団を敷いて、看護婦のSさんと一緒に寝ていました。たまに妹1が一緒に寝ていたこともありました。」
F「どんな素材ですか?それは木で出来ているのですか?」
BK&妹1「木ではないです。発泡スチロールよりも丈夫な板で、「ミラパネ」という素材です。」
F「ミルクとかもあげたことある?なんか赤ちゃんのミルクって正確に測って溶かしたりしたの?」
妹1「ミルクは作ったことはない。牧枝さんが作ったものをあげたことはあるけれど牧枝さんが見ているところであげました。」
F「監禁罪だとか言われていますが、そのことについてはどうですか?」
妹1「監禁なんかされてなくて、いつも楽しく過ごしていました。」
母「(下の妹には)牧枝さんがいつもそばについていましたから。」
F「特に誰が面倒を見ていたの?」
母「私がいるときは私が見ていましたが、だいたいは牧枝さんとTOSHIさんの奥さんが遊びに来たときに奥さんがとてもかわいがってくれていました。子供がいない夫婦なので、まるで自分の子のようにかわいがっていました。Iちゃん(注:妹1のことです)も年も離れた妹なのでとてもかわいがっていました。でも、姉が妹のお世話をすることは普通のことではないですか?それに赤ちゃんのお世話を24時間、小柄な妹1が一人で出来るなんて思いますか?」
F「それは無理だと思いますね。」
F「どうしてお母さんと離れて暮らしていたの?お母さんがキライだったの?」
妹1「いいえ、お母さんは大好きなんだけど、麻布のコンサートに行くようになってからこっちに行くようになった。」ここで私も、「学校にも行ってなかったし、行く気もなかったし、高校とかも行く気はありません。麻布と屋久島を行ったりきたりしているうちに麻布の生活が楽しくてこっちにいるようになりました。」
と、補足をしました。
母「屋久島のホテルではお客さんが来ると、子供達は暇になってしまうし、1日缶詰になってしまうんです。私たちはベッドメーキングやら観光のガイドやらで忙しくなってしまいますから。」
F「お部屋は(寮は)どこなんですか?」
BK「ホテルの敷地内のレストランの2階に社員寮があって、隣同士の部屋で住んでました。」
F「そういえば、妹1さんたちのお小遣いはいくらぐらいでしたか?」
妹1「時によって(金額は)バラバラなんですが、700円ぐらいもらってて、いつも買い物につれてってもらったのでそのときに使った。」
F「どんなもの買ってたの?」
妹1「お菓子!!!!」
F「どこで買ってたの?」
妹1「マックスバリューーー!!」
F「一人で行くの?歩いていくの?」
妹1「違います。スタッフの人に車に乗せてもらって行ってました。そこで、靴とか洋服とかも買ってもらっていました。」
F「どんなお菓子が好き?」
妹1「チョコレートなら何でも」
F「これは絶対に譲れないって物はある?」
妹1「別にない。」
F「スナック菓子では譲れないものは?」
妹1「とんがりコーンとか、かなぁ?」
F「テレビとかはあるの?」
妹1「あるけど、あまり見ない。」
F「お小遣いは誰にもらっていたの?」
妹1「ぶたママさんです。」
F「レクチャーみたいなのに参加した事はある?」
妹1「ない」
母「レクチャーというのは「講演会」ということなんです。Yyは同時通訳者なのでそういう言葉によく反応するんですが。」
F&TK係長「「レクチャー」もそうなんですけど、「シェア」とか、ぼくら分からない言葉が多いんです。」
母「屋久島ではコンサートのときに一緒にレクチャーいわゆる「講演会」があって、本当にMASAYAさんの音楽が好きなお客さんだけがお金を払って、参加するものなんです。Yyたちも最初はお客様で屋久島のコンサートにきていました。Yyさんはお友達を2人連れて来ていました。」
F「羽鳥湖とかではやっていましたか?」
母「羽鳥湖や那須の美術館や屋久島のホテルではトシオフィスの研修のひとつとしてYyたちは参加して、ペンキを塗ったり花壇を作ったりしていました。」
F「那須美術館の美術館はこの間見に行ったんだけど、チェーンがかかっていて、そのまま戻ってきてしまった。一度は見に行きたい。」
母「この騒ぎで屋久島も那須も閉鎖してしまったんです。」
F「ええ!!!?」と、Fさん、TK係長さんは、このことにはとても驚いていました。でもそれが実際です。あのでっち上げの児童虐待騒動を日本国中に言いふらされては、誰が営業なんかできるでしょう。誰が、児童虐待をしている会社のホテルになんか、リゾートにいけるでしょうか。屋久島で働いていた母も、あの騒動で私たちを児童相談所から取り返すのに、屋久島でホテルのベッドメーキングなんかをしていることが出来る筈もありません。私たちは、この事件がどれほど実体のないウソなのか、何も悪いことなどしていない、なのにでっち上げのウソを作られて、ホテルも美術館を閉鎖することになったことを、説明しました。

このときにはもう、Fさんたちは、「・・・そうでしたか。」と、この事件の実際をよく理解して下さったと思います。

F「コンサートのときに、強制的に妹1さんが“森のお菓子屋さん”をやらされていたとか、お菓子をコンサートとかで売ったことがある?無理やり買わされてかわいそうだから買ってあげたと言っている人がいるのですが、どうなんですか?」
妹1「お菓子を作ることは好きでしたが、コンサートではそんなことしていません。スタッフの人に食べてもらったりはしたことはあったけど。」
F「コンサートでは“露店”みたいなのをやっているんですか?」
母「MASAYAのコンサートというのは、本当に愛しい人を亡くした人たちや哀しみや愛しさを抱きしめるような、安らぎの美しいコンサートなんです。そのようなものではないです。」
F「話が変わるけど、Bさんっているよね?仲良しなんですか?」
妹1「まぁ好きです。」
F「MEちゃんは「天敵」とか?」
妹1「?!違います!大の仲良しです!!」
母「麻布のときから、MEちゃんはまだ小さかったけれどIちゃんのことが大好きでしたよ。」
まさか「天敵」などという言葉が出るなんて!と、私と妹1は驚きました。いかにMEちゃんと仲が良かったか、それなのに、児相に連れ去られて、離れ離れになってどんなに悲しい思いをしているか、妹1も私もFさんには言いました。

他にも、妹1はハイランドでの生活のこと、ご飯のこと、公園や遊園地に遊びに行くことがあったか、などの質問をされていました。そんな普通のことを、なぜ質問されなきゃいけないのかと、妹1はびっくりしていました。
妹1「すべて、本当に自由にさせてもらっていた、本当に幸せだった。保護所に連れて行かれたときは、もう二度とみんなに会えなくなってしまうのではないかって、ずっと泣いていたんです!!」
と、妹1が自分の気持ちをFさんに言っているのをそばで聞いていて、私は本当にこの事件の首謀者が何をしたのか、いつか調べ上げ、あくどさを絶対許すものかと思いました。
だいたいここで、妹1の聴取が終わり、続いて母の事情聴取を始めました。TK係長さんが退席することが多かったので、妹1に引き続き、Fさんが質問をするような形で、スタートしていました。これまでの暮らしについてや、屋久島のホテルでの暮らしについて、セミナーとはどういうものかなどの質問に母が答えていき、FさんやTK係長さんは、セミナーについては、 「そうなんですか。実際はそんなもんなんですね。」と、この事件がいかにでっち上げであるかをよくわかってくださったと思います。

民事裁判では、あの嘘っぱちの陳述書や、脅されている筈のセミナーの録音を沢山だしたと聞いています。
また、Caも脅されていたという日のまさにその時の録画が出てきたと聞いています。
誰がそれを見たり聞いたりしても、YyやらCa(Ca)が言っているようなことはしていませんが、母は一生懸命MASAYAさんのセルフトレーニングについて説明していました。
他には、
Q:屋久島と那須を行ったり来たりするのにお金はどうしていたのですか?
A:私は、厚生年金の遺族年金をもらっており、そこから出してました。
Q:給与はいくらでしたか?あと子供達の食費などはどうされてましたか?
A:8万円です。そして、食費と寮費をそこから出してました。労働時間は5時間です。わりと自由な会社で、好きなことをしています。屋久島のホテルではお客さんがいたりいなかったりするので、いないときは自由にしておりました。
Q:子供達に絶対にしてはいけないと言っていることはありますか?
A:一人で外にでないように、と昔から行ってきました。新潟で学校へ行かなくなってから、自転車で一人よろよろと出かけていたことがあったのできつく叱ってきました。必ず大人と一緒に出歩くようにしていました。あとは、命にかかわるようなことはしないように、と言って来ました。

というようなこと、会社の人数構成を聞かれ、この日の事情聴取を終えました。

第五-47

96 平成16年6月14日、この日から、私の事情聴取がスタートしました。
妹1の事情聴取は前回の1回でほぼ終了したのに比べ、私は日々の生活のこと以外に、羽鳥湖のホテルのこと、Yyらがおどろおどろしくでっち上げている、講演会、社員研修のことについて、質問されることがとても多かったです。

実際、私はYyらの受けていた研修会かなにかでのお花植えだとか、プール作りなどに参加していたことがあると思います。
しかし、Yyたちのでっち上げたように強制的に参加などはしていません。
物を創造的に造るという作業で、頭も使い、センスも必要です。
頭でっかちの無能には楽しくないでしょうが、私は楽しく参加しています。
体を動かすことを、労働として、そしてそれをとてもしたくない、いやなものとして、人に買われる商品としてしか見られない、体を動かして働くことを、そんなに貧しいものとは私には思えませんし、私は好きなことを望んでやった、誰からも強制されずに、そしてそれはとても楽しかった。
それだけのことです。
現場作業が実はかなり楽しいものですが、そんなことは誰か他の階級がやるものとでも思っているような偉い人には一生判らないでしょうし、労働と言えば苦役と思ってすぐ誰それが使用者側だと言って戦おうとするような人にも判らないでしょう。
しかし、私はそれに参加して、人間としてとても楽しい経験が出来た筈の人が、口を拭って別のことを言い出すことには我慢がなりません。
私はあくまでも、自分の考えで、自分も参加して学びたい、勉強したいという、自主的なものでの参加です。
そんな話をしながらも、私は自分がやはり年上の子供でもあり、相当な「キーマン」なのだろうと感じて、保護所のときと同じように、妙竹林な誤解をされないようにと緊張してしまって、どう答えたら良いのか、狼狽えることが多い一日目でした。
私の担当は、生活安全課派遣警察本部少年課のWさんだったと思います。
最初に聞かれたのは、妹1と同じく普段の生活のこと、ホームオブハートではどこの部屋に住んでいたのか、食事は誰が作ってくれるのか、何人の人と一緒に暮らしているのかというようなことを聞かれたと思います。
そして、Yyらの参加していたセミナーについての質問を受けました。
Q:セミナーって言うのはどこでやっていましたか?
A:えーと那須にある美術館と、屋久島と、羽鳥湖のホテルでやってます。
Q:内容はどんなことをやるの?
A:MASAYAさんのレクチャー(講演会のことです。)と、参加者の人同士で自分が気づいたことをことを話し合ったりするんです。
Q:これは、お客さんを呼んでするものだと聞いたのですが、だいたいどれぐらいの人が参加するんですか?
A:5人くらいです。
Q:ブーちゃんマンはこのセミナーに参加したことある?
A:セミナー中にお花植えとかもするんですが、それには参加したことあります。私は、自分も学びたいから、Yyたちが参加している場にいたことはありました。でも、それが「参加している」と言えるほどのものかな?いったいなんて説明したらいいんだろう?なんて伝えたらいいんだろう?と、私は内心とても焦りました。
Q:いやいやそっちじゃなくて、こっちのお話を聞いたりするほう。
A:うーん、ないんです。
Q:羽鳥湖でセミナーがあるときは誰が行くの?
A:ハイランドのスタッフの人が2〜3人と、MASAYAさんと、私とか、MEちゃんとかです。
Q:全員、車一台で行くの?
A:はい そうです。
Q:ハイランドのスタッフの人は誰が行くの?
A:Zさんと、BさんとTGさんです。
Q:セミナー中の食事とかは誰が作るの?
A:Bさんと…あと、株式会社ホームオブハートの配送センターがあって、そこの人が一人きます。あと私もお手伝いしています。
Q:それでは…実は、去年羽鳥湖に大人の人と一緒にいきましたか?
A:はいあります
Q:そのときに、セミナーに参加しました?
A:えっと…してないです。
Q:えっ?!?!?そんなことないですよ、そのときに実際に見たといっている人が何人かいるんですから!
A:その人はお花植えに参加してたことを言っているのではないでしょうか?
Q:い〜やそんなことない。
A:うーん、少しは参加してました。
Q:じゃあそのセラピールームって言うところでサポートとして、入っていたんだね?
A:はい、そうです。参加者の人に、いろいろ自分のこと話してサポートしました。
Q:ちょっとたのむよーブーちゃんマンさん!!率直に話してくださいよーだって見るだけで分かりましたよ。ブーちゃんマンさんの顔見てこれは何か隠しているなって顔してましたよ!
この子は本当のことを話していないって!!
大丈夫だよ何でも話して。
私たちはYyさん側の人ではないし、ブーちゃんマンさんのこともYyさんではない別の人から聞いた話であって、僕はブーちゃんマンさんが、Yyさんやマスコミとかが言っているような乱暴されている子供だとはとても思えない。
だって顔にあざがあるわけじゃないし、うでに傷があるわけじゃないでしょ!!

というWさんの言葉を聞いて、私はなんだ、警察の人たちは児童相談所みたいに色眼鏡を通して私たちを見ている人たちじゃない。何でも話してもいいんだと、やっと信頼して話せるようになりました。
ここで、1回目の事情聴取を終え、私たちは家に帰りました。

第五-48

97 6月16日、私の2回目の黒磯署での事情聴取です。
Q:昨日の続きなんだけど、要するにぶたママさんは主に配送センターにいて、ハイランドのほうには来ないのですか?
A:いいえ、しょっちゅう来ます。ミーティングとかで。
A:あと、この間ちゃんと言わなかったセミナーのことですが、私はよく参加していました。話を聞いたり、話したりするセミナーもそうだし、プール作りとかを参加者の人たちと一緒にやったりしました。この間紀籐達のHPに「子供が作業中に居眠りしていた。」と書いてありましたが、確かにそんなこともありました。ただ、単なる作業の疲れの居眠りであって、強制的に動いた疲れで寝たわけではありません。
Q:ホームオブハートで暮らしていて、嫌だった事ない?たとえば本当は遊びたかったのに手伝ってといわれてイヤだったとか?
A:犬のお世話はちょっと大変だった。あと辛かったことといえば、朝起きるのがいつも辛かったことぐらいかな?私は目覚まし時計が効かないのでいつもスタッフの人が朝、声をかけてくれるんですけど、何回かほっとかれて11時ごろに起きたこともあります。
Q:ところで、実際は何時に寝ているの?
A:…。えーと…2時ごろになったことも…
Q:どうせインターネットとかで夜更かししたんでしょう?(笑)
A:そうです。(笑)

という風に、このころにはWさんとずいぶん打ち解けて、話すようになっていました。

Q:セミナーが好きってどういうこと?
A:えーと、興味があるっていうことです。
※死んだ父が自分の人生を振り返り、目から鱗を落として感銘を受けたのがセミナーでした。化学者としての生き方を変えてみようと思ったのもセミナーでした。死んでゆこうとする中で、人間として大事なことは、自分に忠実に、人を大事に生きること、学力はその次、そしてその学力も、決して人を蹴落としたりするものではないこと、これを私達に教えようとしたのは、ほかならぬ父でした。
Q:あー!!そうかそうか。そういうことね。
Q:あのー「やどかり君」って知ってる?
A:はい知ってます。T君ですね?
Q:そう。会ったことある?
A:セミナーのときに1〜2回だけT君のお母さんが連れてきていました。おやつをあげたりしたことがある。
Q:ハイランドにT君が来たことはある?
A:ないです。
Q:T君のお母さん〜なんていう人だっけ?あ、そうそうTmamaさんだ。彼女はハイランドに来たことある?
A:彼女は…何かの用事でハイランドに来たことはあるみたいです。
Q:あなたはトシオフィスに行ったことある?
A:ないです。
Q:お母さんは?
母:ないです。
※ここで、Wさんはちょっと「アレ?」という感じで首を傾げました。私や母がトシオフィスに行ったことがあるとでも、紀藤たちに言われていたのでしょうか。
Q:実は今回、T君が監禁されてるとか言われているんだけど、そんなこと知らないよね?
A:知りませんし、そんなことないと思います。
Q:これは、いろんな人に聴取して分かったことだけど、まず、要はMEちゃんって結構我が儘でしょ?なんか躾を殆どされずに育ったとか?そして、その子をMASAYAさんが可愛がるよね。そして、ブーちゃんマンや妹1ちゃんがMEちゃんと遊んだことで、何かMASAYAさんに責められたり、怒られたりしたことってある?
A:そんなことまったくありません。ただ、MEmamaさんから、ちょっとMEは我が儘だけど、それは、「〜はいけない」とか「〜はだめ」とかを教えずに育ててきたからなんです、といわれたことはある。

第五-49

98 その後、6月18日と23日にもWさんに会い、調書を完成させました。
事情聴取をしている間、Wさんは口癖のように「この事件に犯罪性はない。」と言っていました。
また、私たちの様子を見て、「この子達は虐待された子供ではない。」ということも、ずっと言っていました。
警察や児相だけでなく、私たちに実際に会い、顔を見、話をした人は皆そう言います。
具体的に、あの紀藤弁護士らが、私達のことをなんて言って通告をしてきたのか、どう告発をしたのかは知りませんが、紀藤らの言う通告や告発で言っていることと、事実は全くかけ離れたものだということは、わかっていただいています。
一時保護所にいた頃は、私たちは完全に拘束された身で、誰を信頼したらいいかわからない状態で、本音をぶつけることなく、過ごしていました。全く虐待などされたことがないのに、虐待された子供としてレッテルを貼られ、日本中の誰もが、私達のことをそう見ているんじゃないか、と思うほどでした。
疑いを晴らすために真実を言うべきか、言わざるべきかという葛藤の中、本音を言いたくても言えない辛さはとても大きいものでした。黒磯警察との事情聴取で、やっとその鬱憤の幾ばくかでも晴らすことができました。初めて思う存分、自分たちに虐待など欠片もないこと、この事件がすべて嘘であること、思いっ切り言ってこれたからです。
警察と検察が出した結果は、「真実が明らかになった」当然の結果です。

第五-50

99 私達は、黒磯警察署との関わりの中で、決して児童相談所を責めたり、非難することはしませんでした。
子供を連れ去ったり、実の親や大切な人と強制的に離れ離れにしたのは、あくまで児相ですから、弁護士の先生方、私達に協力してくださる皆様は、口をそろえて「児相も訴えたほうが良いではないか。」と言います。
しかし、それでも私達は決して児童相談所を悪者になどしませんでした。
だって、児童相談所は、紀藤弁護士に騙された、被害者なのですから。それを叩く事など、できません。
…私達は、児童相談所を守るために大切な「約束」をしています。
私たちが保護所に入れられている間、児童相談所とMASAYAさんの関わりの中で、MASAYAさんが私たちを保護所から出すために、児童相談所とある約束をしました。私達が何の虐待もなく暮らしていたことを児童相談所は、調査の結果すべてわかっています。
そう、児童相談所は間違って私達3人をひとからげに保護してしまった、といえるのでしょう。
それはそれで、紀藤弁護士らのでっち上げ通告に、騙されてしまったことですから、仕方がない部分では確かにあったでしょう。でも、実際のところ、児童相談所はこのように本当は保護する必要のない子を「保護」という名の下、親元から連れ去ってしまったわけでした。
児童相談所の所長さんと、MASAYAさんが初めて会ったとき、所長さんはMASAYAさんに「自分たちは間違えて踏み込みをしてしまった。どうか何卒、穏便にお願いしたい。」と、深々と頭を下げられたそうです。
そこで、MASAYAさんは、児童相談所を守るために「児童相談所のことは責めません。その代わり、保護された子供達を早く帰して欲しい。」という約束を、所長さんとの間で交わしたそうです。
この約束をしたことで、MASAYAさんは泥をかぶり、白でも黒でもない、「グレー」の立場を取るような形になってしまいました。
児童相談所が間違って入ってしまったこと、私たちが本当に幸せに暮らしていたことが明らかになれば、この事件で紀藤やYyらが述べ立ててきたことは事件として成立しようがなかったでしょう。Yyらがこれまででっち上げてきた嘘の話が、本当に砕け散ってしまいます。
紀藤、Yy達よ、子供達のことまでを、どこまであんたはでっちあげるおつもり?ということです。
しかし、そうなると、児童相談所が間違って入ってしまったミスも、浮き彫りになってしまう訳です。
MASAYAさんは児相を守るため、自分が泥をかぶるような形で、児相と約束をしたのです。

第五-51

100 私のHPについては次に述べておきます。
保護所を退所してから、私達は、早速、母に私達が保護されていた間の出来事、状況を教えてほしいと頼みました。
母も児童相談所やテレビなどからの話ですから、何をされたのかを逐一知っている訳ではありませんが、それでも母から聞いた話のすべてが驚きでした。
私達の知らないところで、どうやら私達は完全に虐待された子供だと、テレビ視聴者には信じられていたようですし、なにやら政治家にまで手を回されていたらしいからです。その政治家、私の目の前に出てこられる物なら出てこいと、いいたいとこころですが、何といったんはあのA学園への強制入学が決定していたそうでした。
これもテレビ「報道」の過熱で、私達は犠牲者でしょう。
そして自分達の知っている事実との差には、心底驚きました。
母も、私達の保護所での暮らしぶりを知り、とても驚いて「何でこんなことになったのだろう…」と泣いていました。

後は自分でインターネットを使い、今回の事件、私たちが保護されている間、どんないい加減なことが言われていたのか調べました。
ニュース、掲示板、ブログ…ネット上に溢れる情報は、どうやらあの紀藤弁護士の言い続けた嘘ばかりが根拠のようでした。
私達子供がされてもいないことが、恰も見てきたかのように書かれていたものもありました。
これを鵜呑みにした人々は、MASAYAさん、TOSHIさん、ぶたママさん、株式会社ホームオブハートに、誹謗中傷の限りを尽くしていました。
目を背けたくなる全くの嘘、酷い中傷に、胸が痛み、泣いてしまうことが殆どでした。
当の本人である、紀藤弁護士のHPやYyが主催する「HTP」のHPも、私達やMASAYAさんに対する酷い中傷文、ありもしないことをでっち上げた文章が羅列されていました。
そして、もし検索がされた場合には、ホームオブハートやトシオフィスのHPと一緒に検索されるよう、ありとあらゆる小細工を施し、たとえば「ホームオブハート」と検索しようなら、必ず紀藤らのHPがついてまわり、検索結果に出てくるようになっていました。これでは日本中の人々に次々と嘘を吹き込んでいけることになります。
「紀藤たちは、インターネットまで利用して、日本中に嘘を蔓延させている…なんて酷い人間達だ。みんなすっかり騙されている。これは、私の手でどうにかしないと。」
と私は、紀藤らが日本中に蔓延させた嘘を覆し、真実を明らかにするために、自分もHPを開設することを決意しました。
図書館に通い、Webサイト作成のための本を何冊も借りて、早速制作に取り掛かりました。
また、忘れもしない不安と、悔しさ、辛さに満ちた2ヶ月間の保護所での暮らしも、打ち込みました。
この陳述書での保護所についての記述は、この時に作った記録を元にしています。
私達に虐待の事実が確認されないということも、不起訴処分だったということも、最初の時の報道に比べ、全くと言っていいほど取り上げられませんでした。
思い切りセンセーショナルに大事件だと叩いて来たマスコミは、都合が悪いことはきちんと伝えない、ということでしょうか。
そのため、報道でこの事件を知ったすべての人は、事件の結末、特に子供達の事実を全く知りません。この冷酷な事実をはっきりと知った、あるおぞましい出来事があります。
7月のある日、私は、適応指導教室「A館」に来ていました。
読書ルームに自分で買った「簿記」についての本と、MASAYAさんのCDを入れたCDプレイヤーを持ち込んで、音楽を聴きながら本を読んでいました。そこに、「A館」の館長さんが入ってきて、「ブーちゃんマン、お母さんから借りたCD、A館で流してもいい?」と、母が館長さんに貸したTOSHIさんの新しいCD「世界がひとつであれば」を手にしながら、話しかけてきました。
「ああ、どうぞどうぞ。」と、私は何気なく答えました。
私の隣に座っていた職員のおばさんが、「あら、そのCD、何かしら?」と館長さんに尋ね、「あ、これ。元XJAPANのTOSHIが最近ソロで出したCDですよ。」と館長さんは答え、部屋を出て行きました。私が気を取り直して本の続きを読もうとしたら、いま館長さんに話しかけた職員さんと、隣に座っていたボランティアのおばさんが、こんな話を始めました。

「そういえばさ、TOSHIって、こないだ子供の虐待とかなんとかで、凄い騒ぎになったよね?」、
「そうそう、何かオウムみたいな団体に入ってたとか。ニュースでやってたわね。それで、そこの子が児相に保護されたみたいよ。」
「確か那須の方だったわね。」、
「あら、近くじゃないの。怖いわね〜。」
そんな会話を聞いてしまった私は、居ても立ってもいられなくなりました。
しかし、ここで、「私がその保護された子供だ!」と言ってしまっていいのか、当時の自分には判断できず、ひとまず、部屋を出て館長さんのもとに行き、今起きた出来事、その職員さんがもっている誤解を解きたいけれども、どうしたらいいのか聞きました。
私は館長さんにこの話しをしながら、涙がこぼれて、止まらなくなりました。
館長さんはその職員さん達2人を連れてきてくれて、私がその事件で保護された子供であること、この虐待通告自体、虚偽に満ちた、作り話であること、MASAYAさんやTOSHIさんはまったくの無実なのに、マスコミの力で悪人のように仕立て上げられたこと、保護所で体験したことがどんなことだったか、この事件が起きるまでの自分たちの生活がどんなだったか、すべての真実を一生懸命に話しました。
事実を知った職員の方は私に、「マスコミは、少しでも話題になるような話を面白おかしく報道するけれど、その裏にある子供達からの本当の声や気持ちはまったく取り上げてくれないのね…。児相の診断とかそういうのは報道するけど、実際に子供達はどうだったのか、幸せだったのかについては、なにも発表されていない。それが一番本当のことなのにね…。」と言ってくれました。そして、まったくの無知なのに、軽々しく噂話をしたことを謝ってくれ、「これから、私たちの回りに同じように間違った情報を信じた人がいたら、本当の事実は違うんだ!ってことをわからせてあげるからね!」と、約束してくれました。
こうして、保護所の先生方と同じく、私達の真実を理解してくれた方が、また何人かですが増えました。
私が実際に行って、今回の事の真実を話すことで、確実に誤解が解けていっていることを知って、私は嬉しくなりました。

第五-51

101 私と妹1は6月2日に解放されましたが、下の妹の保護はまだまだ続いていました。
毎週日曜日には、乳児院まで、下の妹に会いに行きました。
しかし、私達が案じていた通り、にこにこ笑顔を周囲に振りまいていた下の妹は、知らない人に無理やり連れ去られた恐怖のためでしょう。全く別人のようになってしまいました。
私と妹1、母の3人は乳児院に着いて、保母さんが下の妹を連れてくるのを待っていました。
保母さんに手を引かれて歩いてきた下の妹は、不安げな顔をしていて、母が「こっちにおいで。」と言っても、血相を変えて「いやだーーーーーーー!!!!!いかなーーーーーいい!!!」と泣き喚き、保母さんのもとを離れませんでした。
母とは私たち以上に離れていた期間が長かったので、今度は一番可愛がっていた妹1が、下の妹を呼びます。
でも妹1がどんなに「おいで。」と言ったり、私が「お姉ちゃんだよ。」と言っても、下の妹は泣き喚くばかりです。
だいぶ時間が経って、ようやく思い出したのか、妹1の膝の上に来るようにはなりましたが、母や私に対しては、「いやだーーーーーー!!いんなーーーーーい!!!(いらないという意味でしょう)」と泣き叫んでいました。
下の妹は、大好きな人がそばにいなくなってしまうことを異常に怖がり、怯えてしまうようになっていました。

ところが、私達が帰るため、他の子供達のいる部屋まで、下の妹を連れて行き、保母さんに下の妹を預けると、境目の柵のところで、下の妹は私達のことを悲しげな目でじっと見つめながら、「ばいばい、ばいばい。」と手を振っているのです。
他の子供達がどんなに楽しそうに遊んでいても、下の妹は私達の姿が見えなくなるまで、手を振り続けていました。
この時の妹の顔、声、仕草を思い出すだけで、涙が出てきます。
いつもいつも、屈託の無い笑顔を絶やさなかった妹が、切ない顔をして、「ばいばい」と言って、手を振っているのです。
私は、このまま連れて帰りたいという思いで涙をとめることはできませんでした。
次の週からは、私達は妹が大好きだった縫いぐるみ、おもちゃを持って行ったり、大好きなビスコをおやつにあげたり、夕ご飯を食べさせたりと、少しずつでも、すっかり閉ざしきってしまった妹の心が開くように、頑張りました。
行く度に、少しずつではありましたが、私達に対して心を開いてくれるようになりました。
でも突然まったく知らないところに連れて行かれたことが、よほど衝撃だったのでしょう。
元のような愛くるしい、誰にでも笑顔を向けるような可愛らしさはすっかり失われ、笑わない子になっていました。
下の妹が私たちの元に返ってきたのはその年の12月14日になってのことです。
突然の保護事件から8ヵ月と7日いう長期間でした。
今回のことで、幼い妹の心には、おそらく一生、消えることのない傷がついてしまいました。
今でも、下の妹は、一人になることを異常に怖がります。
ちょっとしたことでそばを離れようとすると、「行かないでーーー!」と言って、しがみ付いてくるのです。
それに、思い出してしまうのか、知らない人を見ると怯えてしまいます。
下の妹を外で遊ばせているときに、郵便屋さん、宅急便屋さんが配達に来ると、下の妹は血相を変えて、こちらに駆け寄ってきます。
以前は、どんな人にもニコニコと笑顔を向けていたのにです。
こんな事件に巻き込まれる前の、幸せだった下の妹に早く戻ってほしいと思っていますが、いまだに下の妹の傷はなおっていないと思います。

第五-53

102 妹の笑顔を奪われた、大切な人をでっち上げによって悪人に仕立て上げられた悔しさの中、私は、この事件の嘘を晴らすことができるのは私しかいないと思い、真実を伝えるホームページ制作を急ぎ、平成16年11月1日の紀藤弁護士に対する懲戒請求と同時に公開しました。

予想通り、紀藤弁護士らの話を信じる人々は、「どうせ、大人(株式会社ホームオブハートのスタッフ)が書いたものだろう。」と、掲示板に書き込んできました。
嫌がらせのようなメールが届いたこともあります。
自分に初めて向けられた心ない言葉に、胸が凍りつくような思いがしました。
でも、「MASAYAさんやTOSHIさんのこと、ずっと信じていました。」、「これが本当の事実だったのね。」、「どうか、負けないで、頑張ってください。応援しています。」と、応援してくださる方々の励ましのメールの数々に勇気付けられながら、更新を続けていました。
しかし、11月16日当時HPを公開していたYahoo!ジオシティーズから「発信者情報開示の意見照会について」という件名のメールが届きました。
私は胸をドキドキさせながらメールを開くと、私のHPによって権利が侵害されたと主張する人がいる。その人は、私に対して法的手段をとるために、情報を開示するようYahooさんに訴えてきたそうです。私の情報を開示するか、拒否するか、返答が欲しいという内容でした。
メールを読み終え、「今こんなことをするのは紀藤弁護士に違いない。こんどは私のHPまで抹消し、都合の悪いことは口封じしてゆく気なんだ。自分達の作り上げた嘘を正当化し、真実を隠蔽し、無実の人を陥れるんだという怒りがこみあげました。

私はこのメールのことをぶたママさんたち、伊藤弁護士さんや佐藤弁護士さんたちに報告し、どのような返事をすればいいか、相談しました。あの監獄のような保護所生活からやっと出てこれたというのに、伊藤先生と一緒に、紀藤への反撃を始めたばかりだというのに、また奪われてしまう。

私が訴えられるのは一向にかまわない。
しかしそのために、また児童相談所に連れて行かれる、そんなこともあるのかもしれない。
私は真実を伝えただけで、あの人たちは公然と嘘をついているのに、どうして真実が通らないの?と溢れる思いを胸に、私はYahooに対する返答を書き始めました。
私の思いを存分に表した、完璧なものに仕上げるために、何度も何度も書き直し、メールを受け取ってから1週間後、私は返答を出しました。
それはこんな内容です。以下に、全文を記します。
差出人: chiharu[oooooooo@ooooooo.ne.jp]
送信日時: 2004年11月23日火曜日 11:07
宛先: ‘legal−abuse’
件名: RE: 発信者情報開示の意見照会について
ヤフー株式会社 法務部様
《回答書》
貴社より照会のあった私(buuchanman1989)の発信者情報の取扱いについては、下記のとおり回答します。

[回答内容](いずれかに○)
( ○ )発信者情報開示に同意しません。
[理由]以下の4つからお選びください。
(○)1)認識している事実に基づいて記載した
(  )2)報道に基づき記載した
(  )3)主観で正しいと判断して記載した
(○)4)その他自由記載:私は、紀藤弁護士たちの活動によって、「児童虐待の被害者」というレッテルを貼られ、多大な精神的被害を受け、幸せな生活を奪われました。
むしろ、紀藤弁護士たちにいまだに自身のHP上で私たちが虐待を受けているかのごとき、報道記事やそのようなウソの情報を現在でも流し続けていることで、私たちの人権を侵害し続けています。
いまだに、その記事を削除もしません。
ですから、弁護士として、大人として、人間として、あるまじき行動の責任を取ってもらいたいと、心より思っています。
だから、自分でHPを立ち上げ、公表することにしましたし、第二東京弁護士会への懲戒申し立て、または裁判もして、訴えています。
私が事実を公表することで、紀藤弁護士たちがいかにウソをついているかを沢山の人にわかってもらいたいのです。
そして、2度とこのような犯罪が、起こることなきよう、願いを籠めて、HPを立ち上げました。
記載されている情報はすべて私が独自で調べたものであります。もしも、発信者情報開示請求の要件を満たしており、開示せざるを得ないことになりましたら、必ず一度メールでご一報くださいますよう、お願いいたします
以上

第五-54

103 その後、この件についてのメールは届きませんでしたので、一件落着したと、私はじめ、一緒にHPを作ってきた妹1やシャーマンはほっとしました。
しかし、それもつかの間でした。
11月27日に「大変!大変!HPが見られなくなってるよ!」と母に起こされました。

寝ぼけた私は「まさか。お母さんのことだからどこか押し間違えたんだろう。」と、思いながら母が見ていたパソコンの画面を見ました。
たしかに、私のHPのアドレスです。
しかし、「このHPは停止中です。」というメッセージが出ています。トップページ以外のページにアクセスしても、「停止中です」と出るだけで、HPは出てきません。もしや、この間の件で、紀籐たちに消されてしまったのでは?と思い、メールをチェックすると、昨日の日付でYahooジオシティーズからメールが届いています。
メールの内容は、「貴方のHPを拝見したところ、当方のガイドラインにあっていないと判断しました。よって、HPを一時削除いたします。」という内容でした。なぜ、どうして、私たちの声は消してしまうの?どうしてこんなことになってしまうの?HPを書いた情報を知らせないなら消してしまえ。ということ?
この間の情報提供の件で数日間、神経を張り詰めて返答を書き、きっと事は収まっただろう。と、胸を撫で下ろした矢先の出来事です。
とにかく、私はぶたママさんたちや伊藤弁護士さん、佐藤弁護士さんにこの事件を報告し、HPを復帰させる作業に入りました。
違うHPアドレスをとって、データを移し、HPを復帰させることは、簡単な作業でした。
しかし、被害を受けた私たちが、保護所から出てから数ヶ月間、自分たちの力だけで作り上げてきたHPがいとも簡単にまっさらに消されてしまった悔しさは、いま思い出しても、これまで味わったことのない大きなものです。

皆さん、想像してみてください。

子供達の笑顔・大切な人々を守るために、非力ながらも必死に築き上げてきた唯一の武器・唯一の本音を明かせる場を、簡単につぶされた、この悔しさ。
当時小学6年生〜中学3年生だった私達は、この悔しさをかみ締めたのです。悔しくて、悔しくて、皆で泣きました。
どうして、私たちの言葉は伝えられない?どうして、あの嘘つきの大人達の言うことを聞くの?私達は、ただ事実をを赤裸々に伝えただけなのに、どうして?じゃああの人達のHPにあふれている、虚偽、嘘、中傷はいったいなんなの?弁護士が言ったことなら全部許されるの?「被害者面」した悪人の言うことを、どうして信じるの?紀藤弁護士め、Yy達め、私達はあなた達のことを、絶対に許さない。
どんなに口封じされようと、負けない。
私達はあなた達のことを、何年かかってでも追い詰めるからな!と、決意を固め、私たちはめげることなく、更新を続けました。
次回はけっして消されないよう、表現や言葉遣いなどに注意を払いつつ、真の事実を綴りました。
私たちがどんな暮らしをしていたのか。
世の中にまき散らされた情報が、すべて嘘であり、でっちあげであることを、伝え続けていました。

しかし、翌年1月に、私の自宅に1通の配達証明付の書類が私の母宛に届きました。当時契約していたプロバイダーのDIONからの書類です。
2度目に立ち上げたHPは、DIONのサービスを使用していましたので、胸をドキドキさせながら、内容を読みました。悲しいことに、予測は当たりです。前回と同じように、私のHPの内容について、名誉毀損だと訴える人がいる。法的手段をとるために、情報を提供するか否か、返答するようにという内容でした。そして、私のHPの一部をプリントしたものが同封されていて、そこには黄色い蛍光ペンで沢山マーキングがされていました。
DIONの契約者が母だったために、母宛で書類が届いていましたが、HPを作っているのは私ですので、私がHPの管理人であることを明記して、返答を送りました。
書類が届いてから数日後には、前回と同じようにHPが見られなくなっていましたので、私はまた別のアドレス(現在のHPアドレス)にデータを移し、公開を続けました。

このように、私たちは、2度にわたり、紀藤弁護士らと思われる人から、HP潰しを受けています。それほど、紀藤弁護士らにとって、私達の存在は脅威なのでしょう。
なぜなら、私達がホームオブハートでどんなに幸せに暮らしていたか、どんなに素晴らしい教育を受けているか、そして、その暮らしはYyは知っていて、なおかつ、Yyたちはどれほど羨ましがっていたか、という真相が明らかになれば、紀藤弁護士らが、児童虐待などといっている嘘、それを梃子にして起こした裁判も、インパクトがなくなってしまいます。

私達を保護所に閉じ込め、HPをつぶし、今度は何を仕掛けるつもりですか、紀藤弁護士さん達。今度は何を私達から奪うのですか。
でも、私たちはあなた達を絶対に許さない。絶対に。

第六 おわりに

以上が、この事件に巻き込まれた私が体験してきたすべてです。
あくどい人間達の策略に翻弄された子供達の悲しみの記録です。
今回の事件は、極めて組織的にされたものと私は思っています。
虚偽の通告であったことを知り、狼狽した児童相談所、犯罪にならないと公言してくれた警察、本来容疑者とされる筈のぶたママさんに被害者側のT君をあやさせてT君のお母さんから事情聴取をしていた検察庁、その対応からも、事実はなんであったのかは明らかでしょう。

この件は、自己の利益を得るため、法とマスコミ(テレビ)を利用し、テレビには事前に情報をオフレコ情報のごとき、まともにはとても言えないことまで流して情報を支配(記者の記事が思い切り予断と偏見に満ちるように用意したレジュメが、ホームオブハートの手に渡り、それでは都合が悪くなると、それは盗まれたものだとまで大声で騒ぎ立てて、某大マスコミには刑事告訴をするとまで言わせ・・・この名誉毀損事実満載のレジュメこそ、真の報道姿勢を持つマスコミなら嫌悪すべき対象でしかなかった筈ですが・・・
この予断と偏見に満ちた記者への一方的情報の内容の問題点の問題をすり替えるなど、自身にまずい事情が発生したら、常に大騒ぎをして事態をわからなくするという、お定まりのパターンです)し、子供達が解放されて真実を語り始め、それは違うと言い始めたら、議論によってではなく、その手段を封じる方法で抹殺するという、これもまた、この人の思想がどれほどのものか、とてもわかりやすいものでした。

下の妹は、この間の年月を経て、ようやく明るさを取り戻しつつあります。
しかし、昔の傷あとはまだ色濃く残っており、自分のことを見てくれる人、可愛がってくれる人から離れることを異常なほど怖がります。
ちょっと出かけるだけなのに、「どこ行くの?」、「行かないで!」、「一緒に行く!」と不安げな目で見つめる下の妹を見ていると、とてもとても悲しい気持ちになります。
私は、きちんと、自分が何をされたのか、一体、具体的になにがどうだといわれたのか、きちんと資料から調べて、関係者に対する法的な措置をきちんととりたいと思い、依頼をすることにしました。これはシャーマンも同じ考えです。
もう、誰にも邪魔はされたくない、何かの事件で使われるのではなく、私たち自身が、一体、誰に、何を本当はされたのか、きちんと法的な責任をお取りいただきたい。そのための活動を始めることにしました。

ですから、これまでのような、伝聞やいい加減な取材による報道ではなく、自分の力で、直接原典にあたり、行われた具体的な事実を知ることから始めたいと思いました。

それはさておき、紀藤弁護士さん、Yyさんをはじめ、紀藤弁護士に協力した皆さん、あなたたちはこの書面を果たしてまともに読むのでしょうか。
私たちに起きたこの現実、そして私たちの生活の全部ではないまでも、ある程度知っていた筈のあなた達は、どう思いますか。
もし、自分のわが子が同じ目に遭ったらと、想像してみたことはありますか。
今頃、そんな経験を仮にしていたとしたらあなたはどんな顔をしているか、一度でも真剣に想像してみて下さい。
私たちもそうですが、Bさんも、MEちゃんも、それぞれに訳あって今ホームオブハートにいる子供達です。
本当に自分の子のように、暖かく見守ってくれているMASAYAさんを、どうして虐待だなどといって、濡れ衣を着せて平気なのでしょうか。
Yyさん、Kkさん、Caさん、あなたは私たち子供の暮らしをある程度知っている筈です。
それにも拘わらず、法律の適用のされ方、つまり、事実があろうがなかろうが、通告それ自体で手続きが始まるということを使って、それこそ思いつきにようにこれを利用して私たち子供の自由を奪いました。
子供の人権専門家のようなフリをして、それをウリにしているあなた。冗談じゃない。あなたこそが、捕らわれるべき人ではないですか?
日本初の適用、さぞ気持ちがよかったでしょうね(私達子供は正義が通らない現実への絶望、歓喜するあなた達のHPを見て、反吐の出る思いをしましたが。)。でもそれは後世に残るような立派な第一号事案でしたか?
全くの失敗事例として、専門的には評価される代物に成り下がってしまった。違いますか?
まだ、子供達へなどという、本当に「思いやり」に溢れた文章を書いてくれていますね。
(人間、間違ったらごめんなさい、と謝罪する、これが全ての人間の基本ではないでしょうか。)

第六-2

1 Yyさん、あなたは、それは勉強は出来た人なのかも知れない。
でも、脇目も振らずに、ひょっとしたら出来ない人を蹴落として、その人の頭の上を踏みつけてでも上がっていきたい人ではないでしょうか。
誰かを落とし穴に落としても知らん顔をしている人(私の父は、そんな人間だけにはなってくれるな、と言い残しました。私は父の在り方を誇りに思います。)なのではないでしょうか。
昔の私はあなたのことを、純粋な人だとばかり、思っていました。
幼い頃から大変な思いをしてきた中、必死にその自分を見つめようと努力している、立派な方だとばかり、思っていました。この事件の2ヶ月前、あなたが電話でこの事件のことを「ビジネス」と言っていたことは、私たちももう知っています。
あなたの行動はトシオフィス、ホームオブハートで思い通りにならなかったことからのこと、MASAYAさんの真剣な罵倒の言葉は、堪(こた)えたのでしょう。
それはあなた自身の問題。

後は究極的には人を巻き込んだ、逆恨みに過ぎないのではないのでしょうか。
オーガニックヴィレッジができっこない計画だった?会員権が架空だった?
何を馬鹿なことを。
あなたはオーガニックヴィレッジをやりたくて仕方のなかった人。
トシオフィスの応援をいいことに、自分がトシオフィスになり代わって、お金を出させて自分のお店にしてしまおうとした人、人の褌で相撲を取るな、お前は泥棒かと、MASAYAさんを本気で激昂させた人。
MASAYAさんは本気であなたを罵倒した。
でもこれはあなた達のいうフィードバックでもなんでもない、ただ人間として怒っていた。
その日にあったことをよく思い起こしておいた方がよいのではないでしょうか。
今度はどうやって言い逃れますか?
あなたの考えがばれてしまい、その後すぐにトシオフィスを辞めさせられた人ではないのでしょうか。
その人が、オーガニックヴィレッジは嘘だったと?会員権は嘘だったと?あなたはこれまでに、ホームオブハートの施設を沢山訪れたことがありますよね?
馬鹿を言わないで欲しいですよ。
だったらあなたはオーガニックヴィレッジで何をしたかった訳ですか?
あなたは屋久島のホテルにも来たことはあるし、羽鳥湖だって知っていますよね。
どんなレベルのサービスをMASAYAさんが考えていたか、既にある施設で実現してきたかも知っていますよね。
神戸から那須に引っ越してくるとはしゃいでたでしょう。その人が今更、何を言うのでしょうか。

序でに言うなら、最初ファンのボランティアでトシオフィスの仕事を手伝っていたのに、「お金をくれなきゃマスコミにただ働きさせられたとバラす」と、なかばTOSHIさんを脅して雇用に結びつけた人、MASAYAさんの取りなしでTOSHIさんのオフィスで有償の仕事についた人ではないでしょうか。
英語の能力を買って、MASAYAさんが重用した途端、いい気になってえばり腐っていた人とは言えないでしょうか。
有償で勤務するようになった後は、社長の出山香さんのいないところでは社長気取りでトシオフィスを我が物顔で取り仕切ろうとした人。
そして、TOSHIさんにあなたの考えがばれて辞めさせられていった人。そういうことではなかったでしょうか。馬鹿なことを言ってんじゃないよと、私は思っています。
今、あなたについていて、そう、事実は寸分違わず、あなた達がいっている、そのとおりですなどと、事実を現に経験し、知っている人の中で、言えるような人が、一体何人いますか。
あなたは、「ビジネス」のためにMASAYAさん、ぶたママさん、BOBOさん、TOSHIさん、出山香さんのことを陥れた。私の妹達は、あなたたちが「ビジネス」と呼ぶもののために、自由を失い、心に大きな傷を受け、笑顔を失いました。

あなたには本当に絶望しています。
私は、私達子供のことを思って、ウサギとカメの絵本を贈って、それで安らぎを得て死んでいった父親の名誉にかけて、あなた達が私達子供にしたこと、あの弁護士も本当のことがわかっても知らんぷりで正当化をする、そんな人でしかない人だということを、世界に明らかにする。絶対に許さない。
そう宣言します。

第六-3

2 Kkさん。シャーマンに、あなたがトシオフィスに居た間、子供達のところで、或いは会社の人に何をしてきたのか、全部私は聞きました。
実際に本当は何をしていたのか、今からよく思い出しておいてください。
あなたは自分はサボっておきながら、一生懸命頑張っている人たちから盗もうと企む人、そんな人だったんですね。
私には、全てわかっています。
一緒にお店を立ち上げるフリをして、私の母に付け込み、母をよくもまあ巧く利用しましたね。
私の母はあなたにとっていいカモだったんですね。
そして、児童虐待のテレビでは出演までして、昔よくそうしたように泣きまねまでして、日本中の視聴者を騙しましたね。
段ボール飼育なんて嘘は、絶対に許しません。
これまで、あなたを精一杯応援していたあなたの恩人を、幾ばくかのお金目当てのために陥れたのではないでしょうか。
実際にはあなたが、他の親に隠れて行っていたことが、今回のマスコミの行動の全てではないですか。
T君のお母さん、シャーマンのお母さんが、そのために、何重に傷ついたと思いますか。
そして、幼い下の妹をあんな目に遭わせたあなたを、本当に許せないと私は思います。
あなたに育てられたがために、同じような泥棒になってしまった可哀相な女の子、Dちゃんの人生にかけても、あなたのことを死んでも許さない。

第六-4

3 紀藤弁護士さん。 あなたは人として、本当に取り返しがつかないことを私たちに仕出かしてくれました。
私たちの時間を戻すことは出来ません。
児童虐待があったとして、私たちの自由を奪い、私たちの親を悲しませ、トシオフィスとホームオブハートには多大な損害を与え、そのスタッフを悲しませ、窮境に陥らせることを目的にしている。そういうことですね。あなたには一体、何の権利があってそのように人の人権を踏みにじり続けることが出来るのでしょうか。
あなたのような人が弁護士であること、しかも「人権派」と名乗っておられるらしいことに、私の疑問は尽きません。
TOSHIさんの弁護士の安田先生達からは、そんな人ではない筈と、何度も言われてきました。
でも、私が裁判に行った日のことは、山口弁護士からあのように書かれました。私にはあなた達のすることですから、当然そんなものとしか受け止めませんでした。
でも、安田先生達はそのことには本当に絶句していました。「人権派」なんていう弁護士は、実はどこにもいないのではないでしょうか。
私にとっては、あなたはあなたの事件処理のため、私の祖父母も平気で怒鳴り散らす人です。
あなた達のほうがよっぽど恐喝・虚偽告発・権利の侵害・プライバシーの侵害・弁護士の権利濫用をした、犯罪集団なのではないでしょうか。
公的機関を騙して、子供をいわば拉致させ、子供達がHPで反論をしたら、それを閉鎖させる。たとえ事実に反していても通告があれば、しなくてはならない。これは児童相談所の方の発した言葉です。これを利用した、違いますか?
これは一つの価値観を強制的に実現する、他の在り方を排除する、「全体主義」っていう代物(しろもの)ではなかったのでしょうか。
レッテルを貼って、中身はレッテルのとおりだと強弁する。それで物事が解決するなら万事簡単でよいですね。
それでいて、世間には「子供達へ」とかまだ言っていて、「なんとか あなたたちを助(た)すけたい。」とか言って「子供の救世主」ぶりをアピールするわけですね。
ふざけないでほしいと思います。
あなた達のせいで私達は自由を奪われ、大切な家族との時間を奪われ、大切な妹は傷つけられ、祖父母は怒鳴り散らされた。
「あなた(私は、「お前」と本当は言いたいところです)のせいで、全員の人生が狂った。」、「あなたのせいで全員の時間が喪われた」正にそう思っています。


この文章を読んでくださった方々に、この事件の大変な問題性を見抜く、偉大な方、公正な判断を下すことが出来る、聡明な方がいらっしゃることを心から願いながら、私の陳述書を終えます。私は、いつでも、何度でも、何をされても、裁判所に呼ばれれば、行ってお話をします。

ブーちゃんマン



END

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事件の真相真理について

公開陳述書
最終更新:12月18日

目次

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ブーちゃんマンの一言

MASAYAさん達・
(株)ホームオブハートとの出会い

紀藤弁護士・HTPについて

心ある方々のメッセージ集

リンク集

ブログ

MASAYAさん公式サイト

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