トップページ>公開陳述書
第1 【はじめに】
1 私と、株式会社トシオフィス(以下、トシオフィスと書きます。)でスタッフをしていたTmamaさんの2歳の赤ちゃんだったT君、株式会社ホームオブハート(以下、ホームオブハートと書きます。)でスタッフをしているお母さんの子供のブーちゃんマン(以下、ブーちゃんマンと書きます。)妹1ちゃん(以下、妹1ちゃんと書きます。)ブーちゃんの下の妹さん(以下、ブーちゃんの下の妹さんと書きます。)は、平成16年4月7日に、安全だった幸せな生活から、紀藤弁護士らによって引き離され、全くの事実無根なのに、刑務所のような所に連れていかれてしまい、まるで悪夢のような生活を2ヶ月間もの間、強制されました。
2 やっとの思いでお母さんの元へ帰れても、今まで住んでいた家から引っ越さなくてはならず、引っ越した先でも、マスコミが私達のことを見に来ていないかと、不安でいっぱいの毎日で、外で遊ぶこともできませんでした。
那須に来てから一番の親しい友達になった、お母さんがホームオブハートのスタッフをしているMEちゃんにすら会うことができず、私は今までにないぐらいつらくて悲しくて、寂しい毎日を過ごしました。
3 紀藤達は私達子供を使って、自分達の金儲け、名声を得たい、と言う欲のために児童虐待なんて嘘の通告をいいだし、それがまったくの作り話なのに、『保護』と言う言葉で誤魔化しています。私は、一時保護所へ誘拐されたんだと思っています。私は現在でも、嫌疑なしという結果が出たのに、紀藤たちに監視されている、そう思います。
なぜなら、未だに紀藤弁護士は何かにつけて、私達のことを「もう一度検査しろ。」とか「保護する必要がある。」という、とんでもないことをテレビで堂々と言っているのです。それに未だに何も反省しないでホームページで私達のことを、書いています。
あんたは一体、何様のつもりですか?
4 そんな紀藤弁護士の顔を見るたびに、私は腹が煮えくり返るほど、腹立たしくなります。
私達を誘拐した、お母さんと離れ離れにさせた、その張本人が、さも自分が救ってやったんだと言いたげな態度で、偉そうにテレビでしゃべっている。
その光景が本当に腹立たしくて仕方がありません。
顔も見たくありません。
あんな腐った大人に、私は利用されたんだと思うと、気持ちが悪くなります。
第1-2
5 そして、紀藤側についているKk。私はこの人と、この人の娘にとんでもなくひどい目にあいました。
私のことを虐待した人間を挙げるなら、Kk親子こそ、私と私の弟をいじめ、ひどい目にあわせたのです。と断言します。
後で詳しく書きますが、私はこの女のことを思い出すだけで本当に頭にきます。
なぜなら、今は離れて暮らしている私の弟は、この親子に散々な目に遭わされ、心を痛め、もう黒磯では暮らしたくないとすら思わせ、遠い佐賀のおじいちゃんちへ自ら、行ってしまったのですから。
弟が佐賀に行った日。私は悲しくて一日中泣き続けました。
Kk親子は、私から弟まで奪った。と心から悔しく思いました。
6 その張本人が泣きまねをして、私が大人たちに虐待されたと、馬鹿馬鹿しい演技を披露しているわけです。
考えただけで吐き気がします。
私はこの文章で、いかにKkに私が痛めつけられたか、どれくらい泥棒の被害に私も他のみんなもあっていたのかを証明したい。
そして動かない証拠も付けます。
誰がほんとで誰が嘘か、わかると思います。
そして、真にあくどいKk親子に罰が下ってほしい、心から願います。
7 私は現在、お母さんと一緒に暮らしてはいますが、今でもまた誰かが来て、何処かへ連れていかれて、もう2度とお母さんのもとに帰って来れないんじゃないかと怖くなり、何処かへ連れ去られてしまう夢を見て、うなされることもしょっちゅうです。
誰かに監視され、安心して生活することが一切出来なくなってしまった今、もう2度と私には安全な生活はなくなってしまったのです。
今から書くのは、私達が実際に体験したものすべてです。
裁判所の皆様、どうか私の心の叫びを聞いてください。
そして、Kkたちがいかに嘘つきで、いんちきか。すべての真実を理解してください。
もうこんな、悪ばかりが通用してしまう世の中はうんざりです。
第1-3
8 私は、平成5年1月12日に福岡県福岡市で生まれました。母から聞いた話ですが、私は夜も昼もあまり寝ず、ずっと泣いていた子供だったそうです。
オムツも換えたし、ミルクはずっと飲み続けているから足りているはずなのに、それでも泣き続けていて、なんで泣いているのか誰にもわからなかったそうです。
私の名前は、私が生まれてから決めたそうです。お父さんが、「苗字がちょっと言いにくいから、2文字くらいの、まあるい感じの可愛くって、読みやすい、女の子らしい名前がいいな。」と言うことで、まず、お父さんと、お母さんは、『音』を決めることにしたそうです。
「『まさこ』は、子がつくと硬い感じがするからいやだな。」 「最後に『子』を付けるのはやめよう。」 「ひらがなでも可愛い字がいい。」と考えに考えた末に、響きが決まりました。次に漢字を決めることになり、「やっぱり、子供が書きやすい字がいいな。」といろいろ考えていろんな組み合わせを考えて、いくつか候補があがりました。どうしても迷ってしまったので、お父さんの知り合いの姓名判断をする人に、選んでもらうことにしたそうです。「この子はとっても敏感で、感情豊かな子供だから大切に育てるように。」と、いろんな漢字の候補の中から、ぴったりな名前をつけてもらったそうです。
姓名判断の人が言ったとおり、私は相変わらず寝ない・満足しないという子で、困り果てたお母さんは、友達や知り合い全員に相談したそうです。
「生活のリズムを早く付けた方がいい。」とか、「昼と夜が反転しているから、お昼間はお散歩に行ったらいい。」とか、「子供は敏感だからあせらずにゆったりとした気持ちで過ごしたらいい。」とか、「たまにはお父さんに見てもらったらいい。」と、様々なアドバイスをもらい、その結果、
@他の子供と比べて悩むのはやめよう。
A子供のペースに合わせよう。
Bイライラしないでのんびり子育てを楽しもう。
と気持ちを切り替えるようにしたそうです。
9 私が小さい頃、そんなに大変な思いをしながら、お母さん、お父さんが育ててくれていたことは、この文章を書く上で、初めて聞いて知りました。
思い出してみれば、私が靴をはきたがらず、はだしで外を走り回っているのに、「靴を履きなさい。靴を履かないとダメよ。」と強要するようなことはしなかったし、他の子と比較して、「あなたはダメね。」と私に言うことは決してしなかったな。と思います。
YyやKk、紀藤弁護士こそ、今回の事件で私達子供に対して、「あなたは学校に行っていないわね。だから虐待されているんだ。」「あなたは普通の環境じゃないわね。だから怪しい団体なんだ」こんな感じの真っ赤な嘘・信じがたい嘘を平気で日本中に言いふらし、私達を比較させ、そして児童相談所に「拉致」させたんだと思います。
はっきりと言いますが、私は、自分の意思・本心から、学校に行かないことを決めました。
学校に通って育った大人達に不思議がられることは十分わかっています。
事実、スタッフの方達から「学校に行かなくていいの?」「学校は大丈夫なの?」と聞かれることはしょっちゅうでした。
でも、私はそのたびに「行きたくないから、行かない。」とはっきり答えています。
第1-4
10 私が生まれて4ヶ月か6ヶ月後の検診の時に、私は、足を異常に突っ張る癖がある、『筋緊張症候群』だという診断を受け、お母さんはその場で福岡日赤病院の紹介状を渡され、指定された日に病院にいくよう言われました。
「運動機能が順調に行かない時、血中にある、ある成分の比率が上がるので、早期に治療をすれば、何の問題もなく健康児として生活できる。」とその先生は言っていたそうです。
「この子は健康だと思っていたから、頭が真っ白になった。」と、このときのことをお母さんは言っていました。
指定された病院に行くと、検査中は私とお母さんは離れ離れにされて、びっくりしたお母さんは、「どうしてそんなことをするのですか?」と聞くと、担当の看護婦さんは「この方がお互いにいい。お母さんが見たらショックが大きいかもしれないから。」と答えたそうです。
そんな看護婦さんの答えに、「一体、シャーマンに何をするのだろう。」と心配に思ったそうです。
その時、ちょうどカーテンの隙間から、タオルでぐるぐる巻きにされた私の姿が見えて、看護婦さんが二人がかりになって血液検査をしている光景だったそうです。
お母さんは私の泣き叫ぶ声に胸が張り裂けそうで、今すぐ奪って帰りたい気持ちでいっぱいになり・・・・あまりにも可哀そうで、会えるまでずっと泣いていたそうです。
血液検査の後は、私の足を持って逆さ吊りにしたり、俯せにして首のすわりや、足の使い方の反応を見たりしていたようで、看護婦さんが出入りするたびに、カーテンの隙間から何をやっているかが見え、とにかく信じられない光景ばかりだったと言っていました。
診察が終わると、今度は「毎月病院に来るように。3歳になるまでは必ず通ってください。そのあとは経過を見ながら対処しましょう。」と言われたそうです。
まだ小さい私に、毎月こんな思いをさせるなんて、とお母さんはショックを受けたそうです。
私のお母さんはこんなお母さんです。
お父さんが死んでも、頑張って私や弟を育ててくれています。
お母さんは私がそれで直るならと、この子の足が良くなるのなら、とやむなく通っていたそうです。
お医者さんの言うとおりに毎月通い、この検査は私が3歳になって終わりました。
お母さんは、検査が終わったとき、「ああ、やっと終わった。」ととりあえず安心したそうです。
なぜなら、この後も何が起こるかわからないし、病弱なお父さんの体質を継いでいるかも知れないからだそうです。
11 私はまったく覚えてはいませんが、お母さんの話だと2〜3歳頃から、だんだん活発になり、言葉をしゃべるようになるにつれて、夜中に突然、まるで怖い夢を見ているように「お母さん!来ないで!来ないで!」と部屋中を何時間も逃げ回っていたそうです。
私自身は、今思い出そうとしても、何となくそんな事があったような無かったような感じで、まったく覚えていません。
お母さんは、何が起こっているのか分からず、「シャーマン、大丈夫だよ。大丈夫だよ。怖くないよ。」と抱っこしようとしても捕まえることができず、やっと捕まえても、目の焦点は合ってなくて、お母さんの身体を透かしてまるで向こうの壁をみているようだったそうで、何かの病気なのかしら、シャーマンに何か怖い思いをさせてしまったかしら・・・と思い悩んでいたそうです。
そんな夜が毎日、とか何日おきにやってきたそうで、お母さんはどうしたものかとすっかり困り果てていたそうです。
私の名前をつけてくれた、姓名判断の人の言ったとおり、この子は本当に敏感な子だと、つくづく痛感し、ますます「この子は大切に育てなきゃ」と心に強く決めたそうです。
第1-5
12 平成8年4月 私は福岡県福岡市にある、A幼稚園に入園しました。
この年から、突然、夜中に足が痛くなり、泣きわめいて痛がるようになりました。
お母さんはビックリして、初めは、「何か足の病気なのかしら。」、「とうとう発病したのかしら。」、と心配し、幼稚園の先生に事情を話し、相談すると、「よくはだしで遊んだり、高い所からジャンプして飛び降りているので、筋肉疲労ではないか。」という返事が返ってきたそうです。
足が痛くなった日や、次の日の朝には、お母さんから、「今日(昨日)は、何をして遊んだの?」と尋ねられて、そのたびに私は「高い所からね、ジャンプしたの!」とか「昨日はねぇ、お外をね、はだしでいっぱい走ったんだよ!」と答えていた記憶があります。
それから10歳ぐらいになるまでは毎日毎日必ず痛くなり、お母さんを毎晩起こして、マッサージをしてもらいました。
マッサージしてもらうと痛みがなくなり、気持ち良くなって、そのまま眠ってしまいました。
それまで、お母さんはお父さんの全身をほぼ毎日のようにマッサージしていましたから、この頃からお母さんは二人分のマッサージをやるようになりました。
私は、何で足が痛くなるのかが分かりませんでした。
今でも痛くなるときがありますが、もうほとんどなくなりました。
しかし、どうしたわけか、一時保護所へ連れて行かれたとき、本当に久々に足がものすごく痛くなりました。
保護所から出てからも、しばらく足が痛い日々が続きました。
たぶん、ものすごい緊張感と精神的なつらさ、恐怖のためにずっと緊張状態で、寝ても寝た気がしない、自分がいつどうなってしまうのかわからない毎日で、足にものすごいストレスがかかってしまっていたんだと思います。
第2【私のお父さん】
1 私のお父さんは、私が4歳の頃(平成9年3月27日)に、肝臓ガンで亡くなってしまいました。
だから、お父さんのことは、お母さんから聞いてなんとなく知っている程度で、あまりお父さんと過ごした記憶はありません。
私と2歳離れた弟のK(平成7年7月5日に、私と同じ病院で生まれました。Kちゃんと呼んでいます。)は、お父さんのことを全く覚えていないと言っていました。
お父さんは朝早くから仕事に出かけて、夜遅くに帰ってきていたようで、私は帰ってきたお父さんに「おかえりなさい」と言ったことは、一度ぐらいしかなく、出かけていくお父さんに「いってらっしゃい」と言ったことは、一度もありません。
でも、実際は私が忘れてしまっているだけで、朝出かけていくお父さんは、私と弟のほっぺにキスをしてから出かけていったってお母さんから聞いています。
2 私達が小さいうちに、お父さんが亡くなってしまい、お母さんは働きに出るようになってしまいました。
お母さんは毎日忙しくなり、お父さんが生きていた頃より、ガミガミと厳しいお母さんになってしまいました。
お父さんがいない上、お母さんも働きに行ってしまって、いつも家に誰もいない寂しさも、私が学校に行かなくなった、大きな理由のひとつです。
それでは、お父さんとの、数少ない思い出を書いていこうと思います。
たしか私が3歳ぐらいの頃だったと思います。幼稚園の運動会の時、親子で参加する障害物競争だったと思うのですが、子供達が自分で好きな色に塗ったウサギ形のお面を好きに色を塗って、それを親がかぶって子供をおんぶして参加すると言う物でした。
その頃のお父さんはまだ元気でした。当時の私はお父さんっ子で、絶対お父さんと参加したかったので、ウサギの顎のところに黒と白で点々を描いてお父さんにそっくりのヒゲをつけたウサギのお面を作りました。
運動会の日、私はお父さんと参加するんだ!とはりきっていたのですが、私の元へやってきたのはお母さんでした。
お母さんは残念そうな顔で「お父さんは、参加したくないんだって。」と言うので、私は「えー!お父さんとがいいんだ!!お父さんとじゃなきゃヤダ!!」と駄々をこね、お母さんは困ったように「お父さん、ちゃんと見てるからって、言ってたからお母さんとやろうね。」と言いました。
私は、しぶしぶお母さんと参加しました。
「せっかく、お父さんそっくりのお面を作ったのにな。お父さんはシャーマンのことが嫌いなのかな?」と悲しい気持ちで参加したので、ぜんぜん楽しくなんてありませんでした。
お父さんは小さい頃から体が弱く、特に肝臓が悪くて、病院に通っていて、漢方薬を飲んでいたことを、後から知りました。
お母さんと付き合っていた当時から、「僕は見た目はこんなに身体が大きいけれど、実はすごく身体が悪いんだ。」と言っていたそうです。
お父さんは身体を鍛えるために、若い頃剣道をしていたそうですが、それでも、具合が悪くなってしまうのはしょっちゅうだったそうです。
そんな身体の弱いお父さんが、私をおぶって障害物競走に出るなんて、とても大変なことだったと思います。
昔のアルバムを見ると、とても楽しそうに私と遊ぶお父さんの写真が沢山残っています。
鍛えていただけあって、お父さんの腕はとても太くてたくましい腕だったのですが、ビックリするぐらい色白で、色黒な私とは正反対のお父さんでした。
第2-2
3 私が赤ちゃんの頃は、あんまりにもうるさく泣き喚くので、「うるさい!」と怒鳴ることも多かったそうです。でも、だいぶ大きくなって、落ち着いてきた頃から、休みの日にはよく外で一緒に遊びにいきました。
私も、お父さんのことが大好きでした。
お父さんは病弱なのにタバコは大好きだったので、よくおつかいを頼まれました。
頼まれるたびに、私は喜んでお母さんと一緒に近くの自動販売機へ行ってお金を入れていました。
お父さんがお気に入りだったタバコの名前はいまでもはっきりと覚えています。
しかし、そんな幸せな日々は長くは続きませんでした。
平成9年、お父さんは突然、肝細胞ガンという病気に罹っていることがわかり、九州のがんセンターと言う病院へ入院してしまいました。
入院した時にはもう手遅れで、末期の肝臓ガンで、お母さんはお医者さんに「ご主人はもう持たない。長くて1ヶ月だろう。」と言われてしまったそうです。
お母さんから聞いた話を元に詳しく書いておきます。
平成9年2月16日頃に、お父さんはかかりつけのお医者さんから、がんセンターで精密検査を受けるように、と言われて帰ってきたそうです。2月20日にがんセンターへ行き、「即、入院して下さい。」と言われたが、仕事のことが気になっていたお父さんはその場では入院せず、5日後の25日に入院しました。2月28日か29日に検査結果が出たので、お母さんはお医者さんに呼ばれ、お父さんの病名を告知されました。
「大変言いにくいのですが、ご主人は長くてあと一か月です。ご本人への告知をしましょう。」
お母さんは目の前が真っ暗になってしまったそうです。
お父さんに告知することは、あと1カ月しか時間がないのならあまりにも短すぎてできない、告知したほうがいいか悪いか、自分だけでは決められないとお医者さんに言って、帰ってきたそうです。
3日後に、お母さんは、お父さんとお母さんの家族、お父さんの会社の社長さんと一緒に、もう一度病院に行き、お医者さんの説明を受けました。
そして、お父さんに病気のことを知らせるか、みんなで相談したそうです。
お父さんの会社の社長さんは「彼の精神的なものを考えると、あと一カ月なら告知はしない方がいいだろう。」と言ったそうです。
お父さんのお姉さんも「博幸(お父さんの名前です)は強い子じゃないから、あまりにも残酷すぎる。」と言っていたそうです。
お母さんは迷いに迷いました。
なぜなら昔からお父さんと「もしお互いがガンになってしまったら、必ず告知してね。」という約束をしていたから。
そのほうが、残りの人生を有意義に心残りなく過ごせると思っていた。
でも、あまりにも時間がなさすぎたから・・言うのをためらっていたそうです。
お母さんはいまでも「これでよかったのかと、思うことがある。」と言っています。
第2-3
4 私は、お母さんから「お父さんは病気になっちゃって、今病院に居るんだよ。」と言われていたのですが、幼かった私は、お父さんがどんな病気なのかも、何もわかってはいませんでした。
私達は、毎日のように病院へお見舞いに行きました。
病院の売店で私と弟はお菓子を買い、お父さんに封を開けてもらったり、お父さんと一緒に焼きプリンを食べたりして、とても楽しいお見舞いでした。
私にはお父さんは、いつもの元気なお父さんにしか見えなかったので、絶対にお父さんは帰ってくると信じていました。
あれだけ、身体が大きいお父さんだから、すぐに良くなる、また一緒に遊べる、お父さんは絶対に良くなると信じて疑いませんでした。
しかし、実際はお父さんの病気は本当に酷く、もはや手遅れで治る可能性はほとんどなかったそうです。
お母さんの話では、主治医の先生に、何か治療法はないのか、と相談しても「良くなる可能性はほとんど無い。」と言われてしまったそうです。「では、私の肝臓の一部を取って移植できないのか。」とお母さんは聞きました。
でも「ご主人のがん細胞はたいへん範囲が大きくて、しかも大きな血管の根本の所なので、無理です。」と言われてしまったそうです。
お母さんは諦めきれず、「では、ほかの可能性はないのでしょうか。」と聞くと、「血管造影剤を使う方法があるが、かなり身体のダメージが大きい。ご主人は体力が落ちているので、このために寿命を縮めてしまうことになるだろう。」という答えだったそうです。
お母さんは「なるべく、痛みを取り除いてあげる治療をしてください。」とお医者さんに頼み、お父さんの看病を続けたそうです。
入院してから、2週間くらいすると、痛みのために眠ることが難しくなってきて、いよいよモルヒネと言う、痛みを取るための薬を使うことになりました。
お父さんはモルヒネを使い始めると、食べたり、排泄たりすると、お腹を圧迫するために、肝臓を圧迫して眠ることが出来ないくらい、痛くなってしまい、食べたり排出したりするのが、難しくなったそうです。
モルヒネを使っているために、だんだんろれつが回らなくなってきて、お父さんとお母さんは、お互いの言葉を理解するのに時間がかかり、言葉のキャッチボールが難しくなったそうです。
だから、簡単な会話、食べたいか、食べたくないか。ほしい物は何かあるか、ないか。それだけしか出来なかったそうです。
お父さんが死んでしまう3日前、お昼頃にお見舞いに行きました。
帰る前に、お父さんから洗濯物を受け取り、「これ。(洗ってきて)」とお父さんは言いました。
私達は、「じゃあまた来るね。バイバイ。」と手を振ると、お父さんも手を振って病室を出ました。
この時の会話が、最後の言葉でした。
私は、覚えていませんが、その日の夕方頃、病院から、お父さんが危篤だと電話が来たそうです。
お母さんは、お父さんのお姉さんに電話をして、病院に行きました。
お父さんは、ナースステーションの隣の集中治療室に移動していて、危険な状態だったそうです。
看護婦さんに「何かあったらこれを押して下さい。」と、ナースコールを教えてもらって、お母さんと、お父さんのお姉さんと、私と弟で、病院に泊りこみでお父さんを見守っていました。
それから3日後の平成9年3月27日の午前4時過ぎに亡くなってしまいました。
入院してから約1ヶ月後、当時、私は4歳2ヶ月。弟は、1歳8ヶ月でした。
第2-4
5 3月28日のお昼過ぎにお葬式をしました。私は、お父さんが死んでしまった時には一緒にいなかったと思っていましたが、実際は一緒にいたそうです。
私の記憶だと、気がついたら、お母さんやおばあちゃんたちが慌しくお父さんのお葬式の準備をしていたと思っていました。
何しろ、まだ4歳だったので、全然覚えていないのです。
お葬式の日、私はお母さんと一緒に、お父さんが乗っている霊柩車に乗りました。
弟と、お葬式に来ていた親戚の人は、別の車で移動しました。小さかった私は、お父さんが死んでしまった実感がまったくありませんでしたので、火葬場の機械の中に入っていくお父さんを見て、お母さんに「お父さん、どこに行っちゃうの?お父さんは、死んじゃったの?」と聞きました。
お母さんは私にこう言いました。
「お父さんは、天国に行くんだよ。」と。
私は、「そうかぁ、お父さんはあの機械からお空に向かって飛んでいくのかな?すごいなーお父さん。」と思っていました。
それが、お父さんとの最後の思い出です。
第3 【私が不登校になった経緯】
1 私達は、小学校に上がる前に同じ福岡県内ですが引越しをし、私と弟は、小学校の近くにある保育園に通いました。
その頃の私と弟は、小学校と言うのはとても楽しいところだと思っていて、入学式を楽しみにしていました。
私は母に何度も何度も「いつになったら学校に行けるの?」とか「入学式はいつやるの?」とか「春休みはいつ終わるの?」と聞いていました。ランドセルを買いに行くときも、はしゃぎ回っていました。ピカピカのランドセルを買ってもらうと、春休みがとても長く思え、「早く春休み終わらないかな!早く学校に行きたい!!」と、首を長くして学校に行く日を待っていました。
2 平成11年4月、私は晴れて小学校に入学しました。私が入学したと同時に、お母さんは会社で働くようになりました。
私が学校に行く時にお母さんと弟も一緒に家を出て、私は学校へ行き、お母さんと弟は保育園に行き、弟を預けた後、お母さんは電車に乗って、福岡市内の会社に行きました。
私は身体を動かすことが大好きなので、体育の時間や、お昼休みの時間に広い体育館やグラウンドで友達と走り回ることが大好きでした。めったに風邪もひかなかったので、毎日広いところで走り回ることを楽しみに、学校にはスキップしながら通っていました。
第3 【私が不登校になった経緯】
3 でも、2年生の時の給食に、私の大嫌いなかぼちゃの入ったグラタンが出てきました。
私は先生に「私はかぼちゃが嫌いなので、残してもいいですか?」と聞きました。
でも先生は、「残さないで食べてね。」と言うので、私は仕方なく、一生懸命かぼちゃグラタンを食べ始めたのですが、半分ほど食べたら、気持ち悪くなってしまい、その場で吐いてしまいました。もう食べられないと思い、先生に「吐いて気持ち悪いので、もう食べられないです。」と言うと、先生は頑として私の頼みを聞いてくれず、「それでも全部食べるように。」と言うので、お昼休みが始まり、クラスの皆が遊びに行ってしまっても、私は先生と一緒に教室に残って、食べさせられては、気持ち悪くなって吐き、を繰り返しました。先生は、いかにも、「早く食べちゃいなさいよ。なんて手のかかる子なのかしら。」と言いたげな顔で腕組みをして立っていました。私は何回も何回も吐きながら全部食べ終わるまで無理やり食べさせられました。
それ以来、学校は楽しいところではない。やりたくないことでも大人の一方的な考えで、強制的にやらされるようなところなんだ。と思い始めました。
でも、まだ学校の楽しさは、残っていました。
4 平成14年4月、私は小学3年生になりました。弟も小学1年生になりました。
3年生になってからしばらくたった頃、学校で友達がいじめにあい、靴紐を捨てられたり、靴が焼却炉に捨てられていたり、日に日にいじめがエスカレートしていき、クラス中がピリピリとした空間になり、息苦しさを感じ始めていました。
私のクラスだけでなく、学校ではどんどんいじめが多くなっていて、弟もいじめられるようになってしまいました。いつも弟は泣きながら「クラスの子に突き飛ばされた。」とか、弟が、肩ぐらいまで髪の毛を長くしていたために、「『髪の毛が長くて女みてぇ!『Kちゃん』って名前がピッタリじゃん!Kちゃ〜ん。Kちゃ〜ん。あはははー。』って悪口を言われた。」と、よく泣いていました。
私は『このままじゃだめだ!!こうちゃんが学校に行かなくなっちゃう。』と思い、いじめていた男の子に詰め寄り、弟をいじめたことを謝ってもらい、仲直りさせました。私はもともと曲がったことや、いじわるなことが大嫌いな性格で、保育園に通っていた頃(5〜6歳ぐらい)から男の子にちょっかいを出された女の子に「シャーマン、どうにかして欲しい。」と、よく相談されていました。
そのたびに私はちょっかいを出した男の子を、「待てー!!○○ちゃんに謝れー!もう2度とするんじゃなーい!!」と、追い掛け回して捕まえていました。
ですから、クラスでいじめが起きれば、私が出ていき、いじめたことを謝らせ、仲直りさせることを、毎日の日課のようにやっていました。
内気で、いつもいじめられているような子達から、私は警察官のように慕われ、いじめっ子たちからは「うわっ!シャーマンが来た!逃げろー!」と恐れられるようになりました。自分でも薄々、いじめっ子達は、私の存在が邪魔で仕方がなく、妬まれていることを感じていました。私は、もう我慢できませんでした。
「やっぱりやられた。学校はもういじめしかない。こんないじめあう生活、曲がった生活はもう嫌だ。」と、強く思いました。
いじめられていた弟も同じく、いじめあうことしかしない学校の生活にうんざりしていました。ですから、私も弟も、学校が大嫌いになりました。
第3-3
5 それに、学校から家に帰ってきても、お母さんは仕事で忙しくて、朝早く出て、夜遅くに帰ってくるので、ほとんど会えません。お母さんは、私達が寂しくなったらすぐに話が出来るように、私専用の携帯電話を買ってくれました。私は寂しくって、日に何回もお母さんに電話をかけていました。また、遊び相手になればと、お母さんはハムスターも飼わせてくれました。私も弟も喜んで世話をし、可愛がっていましたが、私が本当に欲しかったのは、そんなものではありませんでした。私の記憶にあるお母さんは、ずっと怒った顔をしたお母さんでした。お父さんが亡くなってから、私はお母さんが心の底から笑っている顔を一度も見たことがありませんでした。お母さんは保険会社の営業の仕事をしていましたから、お仕事で笑っている顔は、見たことがあります。でも、本当にお母さんが幸せそうな顔をしているところは、一度も見たことがありません。お母さんが笑わない理由を自分で考えてゆくうち、ひょっとしたらお母さんは私のことが嫌いなんじゃないか。とすら思うようになりました。お父さんがいない私は、お母さんから愛されていないと、とても苦しい、自分だけがひとりぼっちの感じでした。もどかしい思いから、「いっつもKちゃんばっかり!ずるい!」と弟に嫉妬して、いじめるようになってしまいました。あれだけ、いじめっ子が大嫌いで、あれだけ嫌な思いをしてきた私なのに、今度は自分がいじめるようになってしまったのです。今思い出すと、本当に恥ずかしい、どうしてあんなことをしてしまったんだろう。弟には本当に可哀相なことをしてしまったと、いつも後悔しています。
6 お母さんがどんな人だったのかというと、口をへの字に曲げながら、私達に「しっかりしなさい。ちゃんと習い事に行くのよ。」と言うような、要は「教育ママ」だったのです。
私はスイミングスクール、2つの英会話教室・町内会のフットベースボールグループに通っていました。
フットベースボールや英会話教室の1つは私が行きたくて通っていたのですが、スイミングスクールや最初に行った英会話教室は、私が行きたくて行っていたのではなく、「気がついたら通うことが決まっていた。」のです。
私が知らない間にお母さんが勝手に申し込んでいたみたいで、突然「明日から○曜日はここに通うのよ。」とお母さんに言われて、何だかよくわからないまま、通っていました。
私が行きたい、と言い出した2つ目の英会話教室は、途中から飽きてしまい、「行きたくない。」と言ってさぼるようになりました。
そんな私の姿を見たお母さんは「ちゃんと通いなさいよ。」とへの字口になりながら、私に言ってきました。いじめに悩まされる学校生活・家に帰ってもお母さんがいない生活・いつも学校のことや習い事のことで怒ってばかりのお母さんとの生活に、私は息が詰まって仕方がありませんでした。
3年生の終わり、4年生になる前に、私は決心して、洗濯物を畳んでいるお母さんに「学校って何で行かなくちゃいけないの?」と聞きました。
お母さんは、「行くことに決まってるんだよ。皆も行ってるでしょ。」と答えました。
いつもと同じ、予想通りの言葉でした。『やっぱり行かなきゃだめなのかなぁ?あんな所にはもう二度と行きたくないなぁ。』そう思った私は、「何で決まってるの?」と、質問しました。
するとお母さんは「あのね、義務教育で決まってるんだよ。行かなきゃ行けないの。」と、きっぱりと決め付けるような口調で答えました。
納得がいかない返事でしたが、その日は諦めて終わりました。
第3-4
7 それから私は毎日、口癖のように「学校って何で行かなくちゃいけないの?」と問い続けましたが、お母さんの答えが変わることはありませんでした。
しかし、学校では、いじめがなくなるどころか、エスカレートしていくばかりです。私は、『もう、我慢の限界だ!!』と思い、4年生の一学期くらいの頃に、「私、学校になんか行きたくない!!学校を辞めたい!!」と言いました。
お母さんは「だから、そんなの出来るわけないでしょって言ってるでしょう!!何回言わせれば気が済むの!学校には行きなさい!!」と怒鳴りました。
私は泣きながら、「だって、学校に行きたくないんだもん。学校に行かない!お母さんはシャーマンのことを愛していないの??!!」と言っても、「皆も行ってるでしょ!!」と、怒鳴り返され、私の気持ちなんて、ひとつもわかってくれませんでした。
次の日、もう一度お母さんに「学校行かない!!ぜっったいに行かない!!」と叫びました。
お母さんは顔を真っ赤にし、口をへの字に曲げ、「いいかげんにしろ!!行かなきゃ行けないものは行かなきゃだめって言ってるでしょ!!そんなシャーマンちゃんなんて、大嫌い!!」と怒鳴りました。
何にもわかってくれない、聞いてもくれないお母さんに呆れ返った私は、「もう!!分かったよ!!!!もう、いいよ!!」と、そっぽを向きリビングで泣きじゃくりました。
もうどうにもならないぐらい、カンカンに怒っていた私は、『やっぱり行きたくない!!』と、立ち上がって、台所に立っているお母さんの所へ行き、もう一度「お母さん、やっぱり学校に行きたくない。」と言いました。
ですが、お母さんは変わらず、「まだ言ってるの!?学校には行きなさい!」と答えます。
8 『何で私の気持ちを分かってくれないの!?』私の思いを、全くわかってくれないお母さんに腹を立てた私は、「お母さんは、シャーマンの気持ちをちっとも分かってない!!」と叫んで、お母さんの横にある扉にとびつき、包丁を取り出して、お母さんにつき付けました。
「お母さんなんか、殺してやる!!」
私はお母さんを、睨み付けました。
ふと気がつくと私の後ろには、弟が立っていました。
お母さんは、ビックリした顔で呆然と立ちすくんでいました。
しばらくしてお母さんは、目に涙を一杯ためて、「ごめんね。シャーマンちゃんが刺したかったら刺していいよ。」と悲しそうに言いました。
私は、ショックでした。
まさか、お母さんがそんなことを言うなんて、信じられませんでした。
もっと怒られると思ったのに…。
『お母さんに悪い事をしたな。お母さんも、学校に行きたくないと言っている私達に悩んでいるのだな。』と、初めて気が付きました。
私は「お母さん、ごめんなさい。」と言って、包丁をお母さんに渡しました。お母さんは、包丁を受け取って、包丁入れにしまった後、私と弟を抱きしめてくれました。
「シャーマン、ごめんね。辛い思いをさせて。K、ごめんね。寂しかったね。ごめんね。」
この時初めて、私は涙があふれて、止まりませんでした。
第3-5
9 その日からお母さんは、
「学校は、無理していかなくても、好きな授業があるなら、その時に行く方法もあるんじゃないかな?徐々に通えるようになればいいんだよ。」
と言うようになり、けして「学校に行きなさい。」と言って、強制するようなことは、2度とありませんでした。
私は、それだったら行けるかな。と思ったので、毎日時間割を見て、「じゃあ、4時間目から行く。」とか言って、行ったり、休んだりするようになりました。
特に体育の時間は、大好きな科目でしたから、必ず行きました。
弟も学校でのいじめで悩んでいて、私が行かなくなったこともあり、ほとんど休んでいました。
結果的に、私達が学校に完全に行かなくなったのは、私が小学4年生の2学期に入ってからです。
弟は私が行かなくなった後、1年生の2学期になってすぐに行かなくなりました。
10 最近になって、初めてお母さんから聞いた話ですが、私が学校に行かなくなってからいじめっ子達が、私の上靴をハサミで切り刻んでしまったということがあったそうです。
切り刻まれた私の上靴は、私より先に担任の先生が見つけ、私が気づいてショックを受けないように、縫い直してくれました。
そして、私のお母さんに電話で私の上靴が切り刻まれてしまったこと、私が気づかないうちに縫い直しておきました。ということを、そっと伝えてくれていたそうです。
幸いにも、私はまさか自分の上靴が切り刻まれていたことをまったく知りませんでしたが、もし私が学校に行って、切られた上靴を見つけていたら、ものすごいショックを受けていたでしょう。
だって、ハサミで思いっきり切られているのです。
私はあのまま学校に通い続けていなくて、本当によかった。もし、通っていたら今頃どうなっていただろう。と思います。
あのとき、勇気を出してお母さんに私の思いをぶつけたことで、私とお母さんの間にあった溝が埋められた。と思っています。
あの当時は「お母さんにひどいことをした。」と後悔していましたが、現在でははそう自分を責めることなく、振り返られるようになりました。
第3-6
【屋久島のホテル】
1 平成13年5月に、通っていた小学校のお母さん達向けの行事で「成人教育講座」というのがあったです。お母さんは最初、そのイベントに参加する気は無かったそうですが、他のクラスのお母さん達から、「今度のToshiさんの講演会、あなたも行くでしょ?」と言われて思わず「行くよ。」と言ってしまったことから、そのイベントに参加することになったそうです。
Toshiさんのトークと歌に、お母さんは感動して思わず涙が流れてしまったそうです。トークの中で、Toshiさんが、屋久島の松田賀江さんの美術館の話をしていたらしく、「行ってみたい。」と思ったお母さんはチラシをもって帰ってきました。その他、CDのパンフレットなども、いろいろ貰って帰ってきました。
2 そして平成13年7月21日〜24日の2泊3日の屋久島旅行に行きました。屋久島のホテルは、綺麗な場所でした。お部屋が、コテージになっているところで、コテージへの道が白く、アヒル達が、道の上をヨチヨチと行進している姿はとてもかわいらしいものでした。夏の屋久島は、ハイビスカスが綺麗にたくさん咲いていて、南の島に旅行に来た気分でした。ホテルはとても自然が豊かで、よくヤクザルや、ヤクシカが、コテージまで遊びに来るのだと言う話を、ホテルの人が話してくれました。私は、サルやシカに会ってみたいなーと思っていましたが、なかなか会えませんでしたが、川に遊びに行く途中、道路に目の前まで車が来ているというのに、のんきに道路に座って頭をかいていたり、歩いたりしているお猿さんに出くわしました。
私達3人は、「猿だー!やっと会えたよ!!」「あっあいつ、のんきにえさ食ってる。」「かわいー!」「けづくろいしてるよ。はじめてみたー。」と、とても感動しました。私達は、海にいったり、手作りの石鹸を作ったりして、海がめを見に行った時は、海がめたちの現状や、海がめの子供が、海に向かっていくのを見て心を打たれ、自由研究で発表しました。
その他に、屋久杉ランドに行った時は、駐車場で念願のヤクシカに出会え、写真を撮りました。福岡に帰る最後の日、私はホテル内のお店で松田賀江さんのレターセットとポストカードを、友達へのお土産に買って帰りました。あっという間に帰る日が来てしまい、もっといたかった。と思いました。
飛行機の中で私と弟はお母さんに「また行きたい。」と言うと、「そうだね、また来ようね。」とお母さんは言ってくれました。
第3-7
【Toshiさんを知ったきっかけ】
1 私がToshiさんを知ったきっかけは、お母さんが連れて行ってくれた、CDショップのイベント会場でのライブでした。ライブに行く途中で私は、「どこに行くの?」と、聞きました。お母さんは、「Toshiって言う人が、CDショップでライブをするから、見に行くんだよ。」と、言っていました。ライブ会場はお母さんの会社の近くにあるビルの中のCDショップでした。
2 私は、「トシって誰だ?」と、思いながらついて行きました。CDショップの中に入ると、少し区切られた場所があり、マイクと、マイクの前に椅子と、客席が6脚ぐらい用意されていました。しばらく座って待っていると、Toshiさんが来て、ライブが始まりました。その時が、私がToshiさんと初めて会った日であり、初めて知った日でもありました。
3 私達は、そのほかにも2回行きました。福岡県飯塚市にあるライブハウスでのライブと、一番印象にあるのは、佐賀県小城市に住んでいるおばあちゃん家の隣にある、多久市の西渓公園の中にある、寒鶯亭(かんおうてい)という和風の建物の中でのコンサートでした。このライブの時の最後にCD販売コーナーがあり、その中に屋久島のホテルのチラシを見つけた私は、お母さんに「ここに行った事あるね。この前行った所だね。」「また行きたいね。」「今度行こうよ、もう一回!!」と話ました。そんな私とお母さんの話を聞いていた、CDを売っているおじさん(後でマネージャーさんだったということを知りました。)が「えぇ!行ったことあるんですか!!いい所ですよねー。」と笑いながら言っていました。そのライブでも、お母さんはToshiさんのCDを何枚か買い、いつも家で流していました。
第3-8
【MASAYAさんのことを知ったきっかけ】
1 MASAYAさんのことを知ったのは、この頃だったと思います。ある日私は、家にどんなCDがあるんだろうと思い、お母さんが買ったCDを一枚一枚見ていました。CDについている歌詞カードをぼんやり眺めていたら、Toshiさんの音楽を作詞している人のところに「MASAYA」と書かれていました。その時は「ふーん。」と思っただけなんですが、次に手に取ったCDは、Toshiさんが歌っている曲と同じ曲でしたが、歌っている人は「MASAYA」さんという人でした。私は「あれ?」と思いました。ToshiさんとMASAYAさん、両方の歌詞カードを見比べると、本当に同じ曲を歌っています。さらに驚いた私は、両方のCDを交互にCDプレイヤーで再生してみました。本当に全く同じ曲だったので、どっちがどっちだかわからなくなってしまいました。
2 この時に初めて「MASAYA」さんの存在を知りました。でも、まさか後にその人に会うことになるなんて、全く思っていませんでした。この頃からお母さんは、MASAYAさんのラジオ番組のカセットテープを聴いていました。お母さんが居ないと思って探すと、大体、自分の部屋に閉じこもって聞いていました。私達はリビングにいるのに、なんでお母さんはわざわざ自分の部屋で聞いていたのか、不思議に思いました。私は「もーお母さんはMASAYAさんのラジオばっかり聞いて、全然かまってくれないや。」とむくれていました。
第3-9
【2度目の屋久島・MASAYAさんとの出会い】
1 次に屋久島に行ったのは、平成14年4月頃だったんですが、ホテルの中にあるホールでホームコンサートがありました。ここで初めてMASAYAさんに会い、初めて話をしました。コンサートは、夕食を食べた後の夜8時からだったので、私は眠くて眠くて、こっくりこっくりしながら座っていました。弟は完全に寝ていました。
2 コンサート中、MASAYAさんは私と弟を見て、「あらら、子供達が寝ちゃった。」と言って、お母さんに「上の子、なんて名前なの?いくつ?」と聞いていました。お母さんは「シャーマンです。9歳です。」と嬉しそうに答えて、「君、なんだかシャーマンみたいでかっこいいね。」と言われました。私は何とか目だけはこじ開けていたので、MASAYAさんは続けて「シャーマンって何だか知ってる?」と聞かれました。私はシャーマンとは何なのか、全然わかりませんでしたが、「何だかかっこいい!」と思いました。弟は、髪の毛が長かったので、「下の子は女の子なの?なんて名前なの?」と聞かれていました。「男の子です。Kです。」と、お母さんが言うと、「えぇ!男の子なの!?髪が長くて、インディアンの男の子みたいだね。リトルトリーみたいだね。」と言っていました。
3 次の日の朝、私は一人で、レストランとお店がある建物で「風の谷のナウシカ」を読んでいました。そこにMASAYAさんが歩いてきて、「あ、シャーマンだ。何読んでるの?」と聞かれました。私は「ナウシカ。」その答えにMASAYAさんは「そうなんだ。ましゃもその本好きなんだ。いい話だよね。」と言って、また歩いていきました。全巻読み終わったので、外で遊びに行こうと、部屋まで弟を呼びに行きました。弟と一緒に外に出たら、レストランやお店がある建物のすぐ近くの岩の上に巨大ムカデがいました。15センチぐらいの長さで今までに見たことが無いぐらい大きなムカデだったので私と弟は「スゲー!」とビックリしながら見ていたら、ちょうどそこにMASAYAさんが通りかかり、「また会ったね。どうしたの?・・・うわーでっかいムカデ!!ちょっと誰か、ムカデ!ムカデ!何とかしてー!」とスタッフの人を呼び、私と弟に「あぶないから触っちゃダメだよ。」と言って、またどこかへ行ってしまいました。巨大なムカデはホテルのスタッフの人がすぐに来て、無事に退治されました。このときにMASAYAさんに出会ったのは、このムカデ事件が最後だったのですが、私は「MASAYAさんって、思ったより面白い人だなー。」と思いました。
4 平成14年9月、東京で、MASAYAさんのコンサートに行きました。このときに、初めての東京だったので、私と弟は、はしゃいでいました。私は、コンサートの間は本を読んでいましたが、もう全部読み終わってしまい、とっても退屈でした。お母さんはコンサートの途中で、後ろの誰かと親しげに話していて、知り合いでもいたのかな?と思いました。「シャーマンちゃん、後ろにいるのはMEちゃんだよ。」と言われ、後ろを振り向くと、4人の女の子が並んで座っていました。4人とも、知らない人達だったので「この人達、誰?」と聞きました。「Bさんと、ブーちゃんマンと、MEちゃんと、妹1ちゃんだよ。」と、言われたのですが、コンサートの休憩中だったために、照明がうす暗くて顔がよくわからず、名前も顔も覚えられませんでした。このときは、まさか将来のかけがえのない親友になるなんて思いもしませんでした。
第3-10
【Yy、Caとの出会い】
1 私達のことを「虐待された子供」と大嘘をついて、児童相談所に通告したYy、Caに私はたった1度しか会ったことがありません。私が唯一、Yyたちに会い、話をしたのは平成14年10月にハワイのレコーディングツアーに参加したときだけです。なぜなら、私は一度もセミナーを受けたことがないからです。そんな人たちに、私の何がわかるというのでしょうか。そして、私はこのハワイツアーでYyにとてもひどい目に遭いました。今までは、それが怖くて、ずっと黙ってきましたが、もう我慢ならないので、ここですべてを書こうと思います。私はみんなのいないところで、Yyに怒鳴りつけられ、バシバシと強く引っ叩かれたのですから。それを、虐待というのなら、確かにそのとおりです。
2 ブーちゃんマンや妹1ちゃんが参加したロサンゼルスのツアーでは、そんなこと一切なかったそうです。みんなを牛耳るような輩は一人もいなかったそうです。Yyはいい気になってみんなを支配し、私には手を上げました。それをTOSHIさんやMASAYAさんが強要したというのですか。いいえ、私は断言します。私達子供を罵倒し、暴力を与える人間はYyだということを。これから、その証明として、ハワイツアーで何が起こったのか、詳しく書きたいと思います。
3 ある日の夜のこと、買い物に行っている途中に、「今度、1週間ハワイに行くんだけど、シャーマンちゃんと、Kちゃんはどうする?」とお母さんは、私と弟に聞いてきました。私と弟は、ハワイと聞いて、即座に「「行く!!!」」と言って、ハワイ行きが決まりました。私達は、行くと決まったその時から、行く日までずっと、ハワイの話で盛り上がり、眠れない日が、何日も何日も続きました。出発の日は、いつもより早く起きて、ハムスターに1週間分の餌をあげながら「じゃあね。行ってくるからね。」、「良い子にして待ってるんだよ。」と声をかけて、忘れ物がないかチェックをして、弟と2人で「まだ?早く行こうよ。」とか「ねぇ。まだ?」と言って、ハワイに行くのを楽しみにしていました。「「じゃあ!行ってきまーす!!」」と、お父さんのお位牌と、ハムスターに声をかけて、お昼の12時頃に家を出発しました。電車に乗って博多駅に行き、地下鉄に乗り換えて福岡空港に行き、福岡空港から羽田空港までの飛行機に乗って、福岡を後にしました。羽田空港に着くと、モノレールに乗って、成田空港に向かいました(後から聞いた話では、成田空港の待ち合わせ場所に19:30に集合だったようです。)。モノレール乗り場に向かっている途中、「お母さん、これからどこに行くの?」と私は聞きました。お母さんは、「これからモノレールに乗って、成田空港に行くんだよ。」それを聞いて私は、「ふーん。」と答えました。弟は、モノレールに乗ると聞いて、「えっ!やったぁー!!」と、大喜びでした。成田空港に着いて、集合場所に向かいました。成田空港はとても広くて、弟と、きょろきょろしながら歩いていました。集合場所にはたくさん人がいましたが、今の私の知る限りでは、MASAYAさん、MEちゃん、Toshiさん、Yy、Caと、娘のCちゃん(当時多分4歳ぐらい)が、いました。他にも参加者の人はいたのですが、私はそれ以外の人は名前がわかりません。
4 MASAYAさんとMEちゃんは、飛行機みたいにぐるぐる回して貰って遊んでいて、「ああ、このMASAYAさんとこの子は親子なんだな。」と思いました。お母さんは、MEちゃんを知っていたらしく、「あらー。MEちゃんじゃないの。」と言って、MEちゃんに近づいて行き、MEちゃんも、お母さんに気付いて一緒にMASAYAさんがやっていたように、ぐるぐる回して遊んでいました。弟とMEちゃんは交互に回してもらっていました。私は、その様子を立って見ていました。私は、なんだかお母さんを取られてしまったようで嫌でした。お母さんを取られたとふてくされている私を見てMASAYAさんが、「やってあげようか?」ともう一度聞いてきましたが、私は首を振って断りました。MASAYAさんは「そう?」と言ってMEちゃんと遊び始めました。私は、その様子を床に座ってじっと見ていました。本当は、ああやって遊んで貰えることが、お父さんのいない私は、うらやましくて仕方がなかったのですが、私はすごく人見知りが激しく、緊張してしまったのです。するとMASAYAさんが「あっ。本当はやってほしかったんじゃないの?やってあげるからおいで。」と言われたのですが、それでも私は断ってしまいました。しばらくして、飛行機に乗る時間がきました。MASAYAさんはMEちゃんに別れの挨拶をして、飛行機の乗り場に向かっていきました。MEちゃんと誰かが、私達みんなに手を振っていました。MASAYAさんが、MEちゃんに向かって、「お土産を買ってくるから待っててね。」と言って、飛行機に乗りこみました。
5 私は飛行機の中で、ずっとお母さんに、「早く着かないかなー。いつになったら着くのー。」としつこく聞き続けて、時計を見ては、「まだ何時間もある〜。早く着かないかなー。」と言っていました。私はお母さんに「どんなホテルなのかなぁ?」と聞くと、「ハワイの高級ホテルなんだって。」とお母さんは言っていました。「ヘぇー。そうなんだ!すごーい。楽しみー!!」ホテルに着いたらチェックインをしました。Yyが通訳の担当で英語で話していて、私は「すごいなーこの人。英語がペラペラだぁ。」と思いました。私達のお部屋には2つベッドがあって、ひとつのベッドにお母さんと弟が一緒に寝て、もうひとつの方に私が寝ました。ベッドの横の壁の中にくぼみがあってその中に大きなテレビが置いてありました。ベッドはふかふかしていたのでトランポリンみたいに飛び跳ねて遊びました。
6 ホテルからの景色はすごくきれいで、私達の泊まった部屋は、プールの真正面でプールの奥には青い海が広がっていました。夜になるとプールがライトアップされてとてもきれいでした。私は、すごくきれいな景色だったので、写真を撮ろうとしたら、お母さんが「写真は撮っちゃだめだよ。」と言ったので、「こんなにきれいな景色なのにどうして撮っちゃいけないの?」と聞きました。お母さんは、「Yyさんに「遊びに来てるんじゃないんだから写真は撮るな」って言われたんだよ。」と言っていました。私は「Yyって人は変な人だなぁ。」と思いましたが、私はかまわず写真を1枚撮りました。でも、怒られるといけないので、これで写真を撮るのはやめることにしました。
7 今回、お母さんから聞いた話ですが、Yyは、レコーディングツアーが決まった時から、参加者全員に、「レコーディングツアーと言っても、トレーニングなんだから、遊びの人は参加できません。」と、釘を刺していたから、お母さん達は、Yyに怯えていたそうです。「いつも行動を監視されている感じだった。」とお母さんは言っていました。せっかくのハワイなのに、なぜ写真を撮ってはいけないのでしょうか。この時の写真は、1枚しかありません。ブーちゃんマンがロサンゼルスに行ったときは、写真をいっぱい取って、沢山思い出を残すことが出来た。と聞いたのですが、私にはその自由すら、与えてもらえませんでした。これを虐待といわずして、何が虐待ですか。
8 私はいつのまにかCちゃんと仲良くなっていました。だから、1週間のほとんどを、Ca親子と遊んだり行動を共にしたりしました。私はよく、Cちゃんといっしょにプールで泳ぎました。私は犬掻きをしたりクロールしたりしました。Cちゃんはまだ小さくてプールにそのまま入ったら溺れてしまうし、まだ泳げなかったのですが、浮き輪を持ってきていなかったので、ホテルのショップでピンクの浮き輪を買っていました。さすがハワイのお店なだけあって、Cちゃんにはその浮き輪は大きくて、今にも溺れそうだったので、弟の持ってきた浮き輪を貸してあげました。弟には私の浮き輪を貸しましたが、女の子用のピンクの浮き輪だったので弟はいやがって仕方なく浮き輪なしで泳いでいました。プールの目の前には海があり、そこもホテルの敷地内でしたので、たまには海でも泳ぎました。Caとお母さんとCちゃんと私と弟で、海に行ったときに、「沖のほうまで行ってみよう。」って事になって、私はCaに抱っこしてもらって、Cちゃんと弟はお母さんに抱っこしてもらっていました。大人の人に抱っこしてもらって沖のほうまで泳いで(もしかしたらお母さん達は足がついていたかもしれません。)行きました。そしたら突然Caが手を離したのか、私は海の中に落ちて溺れかかりました。すぐに持ち上げて助けてくれたけど、突然海の中に入ってしまい、慌てて足をばたつかせた時に、岩に当たったり、海水を飲んでしまい、痛かった。Caはどうして手を離したのかな?と今でも疑問です。子供が嫌い、と言っていたそうなんで、わざといじわるしたんでしょうか。もしそうだとしたら、本当にひどすぎます。自分が同じ目に遭ったらどんな思いをするか、考えたこともないのでしょうか。お母さん達がレコーディングの見学に出かけることになったとき、私と弟はCaに預けられていました。私達はプールで遊んだり、お部屋についているテレビを見て過ごしました。Caがレコーディングの見学に出かける時はCちゃんを私のお母さんが預かることになりました。Caに預けられたときみたいにプールで遊んだり、プールの横にあった売店みたいなお店でトロピカルジュースを買って飲んだりしながら過ごしました。ホテルはすごく広くてびっくりしました。ホテルの中に川みたいなものがあって川の中に小さなサメと、エイと、ヒトデがいました。川の周りもすごくきれいで、お母さんと弟と一緒に散歩をしました。ホテルを探検していると、お寿司屋さんがあってビックリしました。お散歩が終わったら、レストランでMASAYAさん達みんなで食事をしました。
9 ある日、どうしてかはわかりませんが、弟が突然泣き出してしまいました。そんな弟の様子を見たMASAYAさんがその場にいたToshiさんに「Toshi、あの子のこと、抱きしめてやりな。」と、そっと伝えていました。泣き続けている弟のところにToshiさんがやってきて弟を抱きしめました。しばらく経つと、弟は泣き止んで、すやすや寝てしまいました。MASAYAさんは「安心して寝ちゃったんだね。よかったね。」とほほえましい光景を見ていました。私も「よかった、よかった。」と見ていたら、MASAYAさんに、「あっ包丁を持ってた女の子だ。」と言われました。私は「?なんでこの人そんなことまで知ってるんだ?。」とびっくりしました。後から知りましたが、お母さんは、私のことや弟のことを心配して、MASAYAさんにいろいろ相談をしていたそうです。それで、MASAYAさんは知っていたみたいです。
10 正直言ってしまうと、私はお母さんがMASAYAさんに夢中になってしまったような気がして、これまでは「お母さんを取った!」と思っていたのであんまりよく思っていませんでした。しかし、この日MASAYAさんに「あっ包丁を持ってた女の子だ。」とはっきりと言われて、逆になんだかMASAYAさんに対して、安心できるようになりました。この気持ちをなんと書けばいいのか、よくわかりません。でも、何とか皆さんにわかっていただけるように頑張ってこの気持ちを伝えます。私はこの頃、「お母さんに包丁をむけてしまった」ということにものすごく罪悪感を抱いていました。そのことばかりが頭をまわってしまっていて、悩み続けていました。「私は本当に悪い子だ。」と自分のことを責め立てて、毎晩毎晩泣いていました。そして、周りの大人達の視線がとても怖かった。私のことを「悪い子だ!」って見ているんじゃないか、とずっと気にしていました。ところが、MASAYAさんは私のことを「包丁を持った子だ」とは言いましたが、そこに「だからダメだ、悪い子だ」と、私を責め立てる気もちだとか、逆に「そんなこと気にしなくていいんだよ。」と、偽善でやさしくしたのではなく、ただ事実を受け入れてくれた、初めての人だった、ということです。私はその一言だけで、すべての重荷が下りたような気持ちに初めてなりました。泣いていた弟も、「泣くな!」と否定したり「どうしたの?」と、うわべの言葉をやさしそうにするのではなく、ただToshiさんが「無言」で抱きしめてくれた。その安心感で、弟は寝てしまったのだと思います。この出来事は、私も弟も、二度と忘れられない体験になりました。弟はこの日からToshiさんの歌が一番大好きになり、佐賀のおじいちゃん家に行ってしまう時もお気に入りのToshiさんのCDを何枚も持って行きました。私は、MASAYAさん、Toshiさんに出会えて、本当によかった。と心から思っています。
11 別の日に、私はお母さんに「静かにしなきゃダメだよ。静かにできないならお留守番だよ。」と言われたので、私は「静かにしてるから行く」と言いました。弟は、「テレビを見て待ってる。」と言っていたので、弟はお留守番で、私はついていきました。お部屋に入ると、Cちゃんもいました。私とCちゃんはソファーに座って静かにしていました。
Cちゃんは子供用のプラスチックでできたビーズとかいろんなものを持ってきていて、いろいろ見せてくれました。しばらくすると、Cちゃんはビーズの入っていた入れ物を手を滑らせて落としてしまいました。ガチャーン!を大きな音がしてしまい、床一面に散らばってしまったので、Cちゃんと私は「しまった!」と大騒ぎをし、私は拾うのを手伝っていました。大人達のところからは離れたところで遊んでいたのですが、大きな声をCちゃんが出してしまったのを聞いてでしょう、Yyがもの凄い形相で飛んできて、私のむなぐらをつかんで、「遊びに来てるんじゃないんだぞ!!」と怒鳴り、私をソファーの所から引きずり下ろして、床に押し倒し、「バシッバシッ」と叩かれました。ものすごく悲しかったし、ものすごく恐ろしくて、「ああ、やっぱり部屋でお留守番しとけば良かったな」と後悔しました。私はその日からYyのことがすごく怖くなりました。みんなの前ではすごくいい顔をして、私達のような弱い子供の前ではガラリと態度が変わって、ものすごい形相になる、この二重人格性がとても怖かったのです。このことは、いままでお母さんにすら、言えずに来たことです。そんなことを私がお母さんに言った、とYyに知られたら、どんなひどい目に遭うか、怖かったのです。
12 このYyという人のことが大嫌いになった理由。それは、私が一番気にしていた言葉、一番怖い言葉「こんな子供はダメだ!」と、頭ごなしに否定されることでした。それを思いっきり大声で言われ、否定されました。だから、私はものすごく怖くなってしまい、大声で泣いてしまいました。その次の日くらいに、皆で出かけることになり、近くにレンタカーを借りる場所があったので、レンタカーを2台借りていろんな所に行きました。私はあの日以来、Yyがすごく怖かったので「一緒の車になりませんように。」と祈っていたら、一緒の車にはならなかったのでほっとしました。
13 MASAYAさんが夜、海で大人の人と話をしていました。私とCちゃんとKちゃんは退屈だったので、砂浜で山を作ったりして遊びました。海の中でも遊びたかったので、私達は自分のお母さんのところに行って「濡れてもいい?」と聞きに行きました。「いいよ。」という事だったので、服を着たままCちゃんが溺れないように波打ち際でワニ泳ぎとかをして遊びました。しばらくすると、お母さん達が来て、「帰るよ」と言われました。「ずいぶん早かったね。」と言うと「シャーマンちゃん達が海に入っちゃったから早く切り上げたんだよ。」と言っていました。私は部屋に帰るあいだ海でどんな遊びをしたかを話しながら帰りました。きっと、私達が風邪をひいたり、退屈してしまわないよう、気遣ってくれた人がいたんだと思います。でも、それは決してYyではないな、と私は思います。Yyだったら、自分のことばかり考えて、私達のことなんてちっとも考えていない人だし、その上、超裏と表がある二重人間だから、絶対にそうするわけがない、と思います。
14 一時保護所に保護されたあの事件以来、とても仲良くなったブーちゃんマンから、ブーちゃんマンが参加したロサンゼルスツアーでの思い出を聞きました。ツアーの間、MASAYAさんはずっと、ブーちゃんマンや妹1ちゃんのことを最優 先に考えていた。という話を聞いて、私が思ったのは、ハワイに出発する日、MASAYAさんは床にふてぶてしく座っていた私を元気付けるのに、誘ってくれていたんだということ、この日早く切り上げてくれたのは、きっとMASAYAさんがそうしてくれたんだろうな、と今は感じています。
15 日本に帰る日、ハワイの空港で飛行機を待っている間、おみやげを見て回りました。MASAYAさんはフラダンスを踊るときに着る衣装セットを見ていたので、私が不思議そうに見ていると、「これをね、めだかに買っていきたいんだけど、こういうの好きじゃないんだよなー。だけど、ハワイに来たからには、やっぱハワイらしいのを買っていかないとね。」と言って長い間悩んでいましたが、結局買っていきました。私はペガサスとアライグマの人形とカメのイラストがついたTシャツを一枚買いました。お洒落さんな弟もかっこいいTシャツを一枚買っていました。飛行機に乗ると目の前の席にMASAYAさんが座りました。どうもMASAYAさんには飛行機の椅子が小さかったみたいで、「なんだか狭いな。もうちょっと広がらないのかな。」と、つぶやきながらMASAYAさんはきつそうな顔をしていました。動くたびに椅子がギシギシと音を立てていました。私は椅子が壊れるんじゃないかと思い、おもわず笑ってしまいました。私の後ろの席にはCちゃんがいたので、一緒にポテトチップスを食べたり、買った人形で遊んだりしながら、帰りました。
16 このツアー以来、私はYyにもCaにも会っていません。屋久島のホテルで、MASAYAさんのコンサートがあった日、Yyも来ていたらしいのですが、私は全く覚えていません。何度も書きますが、私はこのツアーを本当に楽しみに何日間も待ち、うきうきしながら出かけたはずが、Yyという、支配欲の塊みたいな人間に、怒鳴られたり、引っ叩かれたり、写真を撮るな。と言われたり、怖い思い出ばかりが残ってしまいました。Caにしても、同じです。この事件が起きるまで、私を海に落としたのは「わざとじゃないだろう。」と思っていましたし、私達の面倒をいろいろ見てくれたので、私はお母さんに「Cちゃんのお母さんにプレゼントをしたい!」と頼んで、行きつけのビーズ屋さんに行き、ハートの形をしたビーズのストラップを手作りして、送りました。なのに、こんなひどいことに加担する人だったなんて、信じられません。本当にひどすぎます。どうして、こんな嘘つき軍団に入ってしまったんでしょうか。
第3-11
【黒磯での生活】
1 今回のメンバーで、私が死んでも許せない人物、それはKkです。当然、紀藤弁護士にしても、Yyにしても、絶対に許せません。中でもKkだけは、本当に許せない。なぜなら、あのメンバーで唯一Kkは、私がどれだけ幸せに暮らしていたか、実際に知っています。Kkの娘の素行の悪さに私と弟がどれだけつらい気持ちを味わっていたか、これも知っている筈です。Kkとの暮らしのことを、それが虐待だというのなら、本当にそのとおりです。それが、事実です。私と一緒に児童相談所へ連れ去られた2歳の男の子、T君のことにしても、一番可愛がっていたのはKkだし、もっと言えばT君のお世話をいいわけに、トシオフィスの仕事はさぼっていました。どんなに泣きまねしようが、演技をしようが、私はKkの嘘を絶対に暴いてやる。本当にそう思っています。
2 平成15年4月5日栃木県黒磯市にあるアパートに引っ越しました。私が次の年の4月7日、連れ去られた部屋です。引っ越してきた日には、トシオフィスのスタッフのTmamaさんと旦那さん、T君(私と一緒に児童相談所に連れ去られてしまった赤ちゃんです。当時1歳。この子は幼児だからと8ヶ月もTmamaさんと離ればなれにされました)は先に引っ越してきていました。
3 私達の後に引っ越してきたのがKk(以下、Kkと呼びます。)と娘のDちゃん(当時9歳。私の一歳年下でした。)でした。部屋は1階の102号室でした。Dちゃんも私達と同じく、もとから不登校でした。このことは死んでも忘れないで欲しいです。Dちゃんが不登校になった理由は私はわかりませんが、Dちゃん自身の意思で行きたくないから行っていないようでした。誰も行くななんて言ってません。
4 黒磯に行った私と弟の一日のスケジュールは大体こんな感じです。9時か9時30分頃に起きてきて、10時頃に朝ご飯を食べ、13時か、14時くらいにお昼ご飯を食べ、20時過ぎぐらいに夕食を食べます。寝る時間は24時〜2時の間でした。昼間はKkさんのお部屋(102号室)でDちゃんとT君と4人で遊んでいました。T君の面倒は、ほとんどKkが見ていて、私達は隣でその様子を見ていましたが、自分達(子供達)だけで面倒をみたことは一度もありません。T君に何かあったら、たとえばオムツを換えなきゃいけないときとかは、必ず、大人の人に電話する事になっていました。ただ、お水をあげるとかの私達ができることはお手伝いみたいな感覚でやっていました。
5 Kkは30分おきぐらいにトシオフィスの事務所からやってきては、遊んでいたり、散歩に行っていたり、「この人本当に、仕事してるのか?」と私は思ったほどです。Kkは「男の子が欲しかったんだぁ。」と言って、T君のお世話を楽しそうにしていました。
6 天気のよい日はマンションの周りを自転車でぐるぐるまわったり、裏の林で遊んだりしていました。弟は、「早く補助輪なしで、自転車に乗りたい。」と言っていたので、遊び感覚で教えていたら自転車を補助輪なしで乗れるようになり、弟は嬉しくて少し雨が降っている日でも自転車乗りをしていました。しかし弟は、近所の男の子達に自転車で追い掛け回されたり、からかわれたりして、ついには転んでしまい、一緒に遊ぶのをいやがっていました。私は、「Kちゃんを、いじめるのはやめろ。Kちゃんに謝れ!」と言って、謝ってもらい、「Kちゃん大丈夫?痛かったでしょ?家に帰って消毒しよう。」と言って、Kちゃんの手を引き、家に帰って、手当てをしてあげました。それからは、姿を見ると、さっさと家に帰るようになりました。
7 私達3人は不登校児だったので昼間はそれぞれのお部屋で遊んだり、どちらかの部屋に行って遊んでいました。私、弟、Dちゃんの3人とも、何か作ることが大好きなので、空き箱でおもちゃを作ったりお菓子の本を見ながらクッキーやホットケーキを焼いて楽しんでいました。
8 5月に入ってから、Eさんという人が、近くのK病院という病院に勤めることになり、Kk宅に同居するようになりました。私はEさんのことは全く知りませんでしたが、お母さんやKkたちの知り合いだったようで、いつも楽しそうにおしゃべりしていました。Eさんが引っ越してきてからは、Kk宅になかった電化製品が置かれるようになりました。Kkはとても貧乏だったのか、必要最低限の家電すら何も持っていませんでした。だから今までは私の家まで洗濯機・浄水器・掃除機を借りに来ていたほか、テレビを見に来たり、CDまで聞きに来ていたのに、Eさんが来てからはKk宅のリビングにEさんが持ってきたTVが置かれたので、Kk親子は好きなビデオをみたり、EさんのCDプレイヤーで音楽をかけて歌ったりしていました。休みの日にはEさんにうどん作りを教えてもらいました。みんな顔中粉だらけになりながら楽しく作りました。みんなで食べた時に、途中で切れていたり、太さがバラバラだったりと、かなり不恰好だったので、おいしいかどうか分からなかったのですが、お母さん達や、Tmamaさん、Eさんは、「おいしい!」と言ってくれた、とても嬉しかったです。
9 5月の中旬に、Eさんが「那須岳に、山登りに行きませんか?」と言ってくれました。私と弟は、「行きたい!!」と叫んで、山登りに行くことが決まりました。お母さんからOKをもらい、私と、弟と、Dちゃんと、Kkと、T君と、Eさんといっしょに、那須岳に登りに行くことになりました。朝の4時に起きて、4時半に出発すると言うことだったので、早めに寝ました。翌日、朝の4時に起きて、お弁当とか、必要な物を準備して、出発しました。私と弟は生まれて初めての山登りだったので、とてもわくわくしていました。ロープウェイもありましたが、今回は自分達の足で登ることにしました。でこぼこ道だったり、くねくね道だったり、岩だらけだったり、緑でいっぱいだったり、赤い土だったりと歩いていくごとに、いろんな景色が楽しめました。T君は、赤ちゃんなので、Kkがおんぶをして登っていましたが、空気が薄いので、途中でKkとT君は、待つことになりました。私達は、頂上の近くまで登り、休憩所でお弁当を食べて、少し休憩してから少し降りて、Kkと合流して、カセットコンロとやかんを取り出して、緑茶を飲みました。朝の心地よい澄んだ風が吹いていてすがすがしい気分でした。私と弟は、お母さん達にお土産で、那須岳の石を拾って帰りました。
10 6月の末ぐらいから、夕飯は3家族一緒に食べるようになり、Kk宅で17時ぐらいから、私達子供3人と大人が1人ついて、今日は何を作りたいか相談しながら作っていました。私は、お手伝いは好きだし、料理を作るのも大好きだったので、みんなが、おいしい!と言って、食べてくれるのは、とても嬉しかったです。時々Eさんが夕食作りを手伝ってくれたこともあります。だいたい、20時〜21時にご飯を食べて、22時ぐらいに、子供みんなでお風呂に入るようになりました。みんなと入ると、とても楽しかったです。
11 だけど私は、Dちゃんのことが嫌いでした。なぜなら、物を盗んだり、意地悪をするからです。分かっているだけで、今までバッグ2点、お金 2千円、カチューシャ1個、シルバニア何点かが捨てられたり、一部、Dちゃんが自分のものとして持っていきました。その他にも、捨てられたか、盗まれたものが他にもあると思いますが、あまりにも多すぎて、何がどうなってしまったか、わからなくなってしまいました。Dちゃんに物を貸すと、貸したままなかなか返してくれません。、耐えかねて、Dちゃんに「早く返して。」と言っても、知らん振りして返してくれなかったり、返してくれたとしても、壊されて悲惨な状態になっていました。特に、私が一番気に入っていた、ピングーのバッグをDちゃんに盗まれたときは見るも無残な悲惨な状態になって私のもとに返って来ました。この時のバッグは取ってありましたので、写真にとって後ろに付けておきます。この出来事はいやな思い出として、いまだにはっきりと覚えています。
平成14年5月、Kk親子が引っ越してきてから少したった頃のことです。私はもともとバッグを集めることが好きで、いくつかお気に入りのバッグを持っていましたが、その中でも一番気に入っていたブルーのピングーのバッグが私の宝物でした。このピングーのバッグは、昔ミスタードーナッツの景品で貰ったもので、とても使いやすく、一番大切にしていたバッグでした。ある日突然、部屋からそのバッグが無くなってしまったので、一体どこに行ってしまったのだろうと、探していました。どんなに探しても見つからないので、お母さんと弟も一緒に、家中をいくら探しても見つからなかったのです。そんなときに、たまたまKk宅に遊びに行くと、見覚えのあるバックがリビングに置かれていたのでよく見ると…捜し求めていた私のピングーのバッグです!『あれ?探してもないと思ったらこんな所に。なんでこんな所に在るんだ?』と不思議に思った私はDちゃんに、「これ、私のだよね?」と聞くと、「え?違うよ。Dちゃんのだよ。」とシラを切るので、「えっ!?だってこれと同じやつ私持ってるし、Dちゃん持ってなかったじゃん。」と問い詰めました。するとDちゃんは涼しい顔で、「これは、Dちゃんの誕生日の時に友達からもらったんだよ。ほら、Dへって書いてあるでしょ?」、と指を指した先には、無残にも、油性マジックで「Dへ」と取っ手のところに大きく書かれたバックの姿が…私は唖然として、言葉が出ませんでした。続けてDちゃんは、「シャーマンちゃんが見たことないのは、見せてなかったからだよ。」としゃあしゃあというので、私はもう我慢ならんとブチッっと頭の中で切れる音がし、『何だこいつ〜!嘘なのが見え見えなんだよっ!!』と腹が煮えくりかえる思いを味わいました。明らかに犯罪者の一歩手前です。平然と嘘をついて、人を陥れる手口、だれかに似てますね。
12 たとえもしも、誰かがプレゼントしたとしても、プレゼント自体に油性のマジックで名前を書く人なんて見たことがありません。どんなに返してといっても、Dちゃんは断固として私のバッグを返してくれず、その日はそのまま帰り、お母さんに相談しました。どうしてDちゃんはあんないじわるをするのだろう、本当に酷すぎる、という気持ちをようやく明かすことが出来ましたが、それでも、私の悔しい気持ち、悲しい気持ちがまぎれるわけがありません。だって、私が一番大切にしていた物を盗まれ、汚されてしまったのですから。それから3日ぐらい経ったある日、突然Dちゃんが家に訪ねていきました「ごめんなさい。シャーマンちゃんのを、持っていきました。ごめんなさい」と謝って、例のバッグをようやく返してくれました。謝ってくれたのはよかったのですが、何しろ油性のマジックで大きく「Dへ」と下手な字で書かれているのです。どうにか消そうと頑張りましたが、消えませんでした。私は、泣きながら、土下座してまで謝っているDちゃんを見て、『きっと反省しているんだろうな。』と思い、許してあげました。でもそれはそのときだけでした、それでもなお、その後反省することなく、物を持っていっては、自分のものにしてしまうのでした。Dちゃんには本当にあきれました。ふと気がつくと、Dちゃんに「あとで返すから、貸してね。」と言われて貸したものさえ、あたかも自分の物のようにDちゃんの小物入れに入っていたり、引出しに入っていたりしました。貸したことを悪気なくうっかり忘れちゃったのなら、まだ話がわかります。しかし、Dちゃんはそうではありません。そのことを問い詰めると、「え?これはDちゃんのだよ。何言ってるの。」とシラを切るのです。
13 Dちゃんは私のものを欲しがり、勝手に文具などを家にもって帰っていたり、大事な本のカバーを外して勝手に持って帰っていました。私は「どうしてこんなことをするのだろう…」と悲しくなりました。私が一番びっくりしたことは、Dちゃんは物だけでなく、お金まで盗んでしまう子だったことです。事件の始まりは先ほど書きました「ピングーバッグ事件」の後、6月下旬から7月上旬頃だったと思います、Dちゃんが私の家に遊びに来たときでした。ちょうどその日は、お母さん達が、お昼の間お出かけをするためにお昼ご飯用に、私はお母さんからお小遣いで、2人分で3、000円、DちゃんはKkから1、000円、もらいました。お母さん達の見送りをした後、Dちゃんは、すぐにコンビニへ買い物に行ってしまい、私達は、家に帰りました。私達はお母さんと別れた後、貰ったお金をお財布にしまい、テーブルの上に置いておきました。後で買い物に行くから、無くならないようにお財布にしまっておこうと思ったからです。ちゃんとお母さんから貰った3、000円を、お財布にしまいました。しばらくして、Dちゃんがお菓子の入った買い物袋とお釣りのお金とレシートを手に持って、「さっきのお金、もう全部使っちゃって、お昼ご飯分のお金無くなっちゃったよ。」と言いながら遊びに来ました。Dちゃんの手には110円程度のお釣りしか残っていませんでした。そう言って、買ってきたお菓子を早速食べ始めたDちゃんと、私と弟は「お母さん達、何しに出かけたんだろうね」などと雑談をしながら過ごしました。少しお腹が空いてきたので、もう一度Dちゃんに、「本当にお菓子しか買ってきていないの?」と私が聞くと、Dちゃんは買い物袋の中身を見せてくれました。本当に、お菓子しか入っていません。「うわー何馬鹿なことをやってしまったんだこの子は。全く、しょうがないなぁ」と見かねた私は、「そっか。じゃあ、私たち2人分にしては3、000円はちょっと多かったから、Dちゃんの分も買ってこようか?」と聞きました。Dちゃんは喜んで、「えっ。買ってくれるの?ありがとう!」と言っていました。私と弟でコンビニに出かける準備をし、Dちゃんは「じゃあ、私は部屋で待っているね。」と言って家に帰りました。支度が終わり、テーブルの上に置いておいたお財布を手にとって、中身を見るとなぜか2、000円しか入っていません。いつの間にか1、000円無くなっていました。「あれ?おかしいな。確かに3、000円入れたはずなのに…」弟が横にいたので、「Kちゃん、お金が無くなっちゃった!」というと、弟もビックリしていました。無くなった1、000円の行方は弟にもわかりません。私は最初、家にいっしょに居たDちゃんがいつものように盗んだんじゃないかと思いましたが、確かな証拠もないのにDちゃんを疑っちゃ悪いな。と思い直して、家のどこかに落としたのだろうと、弟と2人で家中を探しまわりました。それでも見つからないので私は、無くしてしまったのかな。と思って諦めて、買い物に行きました。私と弟はDちゃんが好きそうなお弁当を選び、3人分のお弁当を買って帰りました。家に帰ったDちゃんに買ってきたお弁当を届けるために、Dちゃんの家を訪ねると、出迎えたDちゃんが「実は家を探したら、まだ1、000円あったんだー。だからお昼ご飯買っちゃった。」とうれしそうな顔を浮かべて言って来ました。さっき、使いきってしまったと自分で言っていたのに…「おこづかいよ。」と渡されたお金も1、000円だけだったことも実際に目の前で見ていましたから知っていました。ですから、嘘であることは明らかです。『またDちゃんが盗んだんだ!』と思いましたが、わたしは「そうなんだ。でも、私達もDちゃんのお弁当、買ってきたよ。」と言って買ったお弁当を渡しました。そして「ところで、そのお金、どこにあったの?さっきお菓子買っちゃったから無くなっちゃったんじゃないの?」と聞くと、「ううん、最初から2、000円貰ってるよ。」と平気で言ってのけるので、私は「こいつは完全に嘘つきだ。」と思いました。私と弟は、憂鬱な気持ちで、家に帰り、お弁当を食べました。ご飯を食べながら、なんとなく弟が言っていたのですが、弟はDちゃんがお財布からお札を抜き取るところを見てしまったそうです。そして、「絶対に言うなよ」とDちゃんに脅されていたため、知らない振りをしていた。ということも聞きました。ご飯を食べ終わったあと、お母さん達が、帰って来ました。お母さんが家に帰ってくるなり、お母さんに「お母さーん。Dちゃんにお金盗まれちゃったのー。」とKちゃんは泣きながら言いました。お母さんはビックリして、「えっ!シャーマンちゃん、Kちゃん、何があったのか教えて。」と聞かれたので、何があったのかを話しました。お母さんは、「ちょっと待っててね。Kkさんと話してくるから。」と行って、出ていきました。ばらくして、お母さんが帰ってきました。「お金、返してもらったから。」と言っていました。まさかお金まで盗む子だとは思ってもみませんでした。
14 これまで書いているように、Dちゃんは、弟に対して脅したり、罪を擦り付けるようないじめをするようになりました。私はDちゃんが弟の物を隠している姿を、何回も見ました。弟が悲しむ前にとり返そう、と思い「Dちゃん、さっき、隠してたでしょ。見てたんだから。」と言っても、「えー?Dちゃん知らないよ?Kちゃん(弟のことです。)が、どっかやっちゃったんじゃない?」これには頭に来ました。どんなに証拠を付きつけても、「知らない」と嘘を言うばかり、それどころか、自分より小さい子に罪を擦り付けようとする行為、本当に頭にきました。どんなに言っても反省することもなく、堂々と嘘をつくばかりで相手にしていたらきりがないので、あきらめて家に帰りました。幸い、私は、私の家の中で隠しているのを見ていたので、どうにか探し出して、無事に元の場所に返しました。Dちゃんの陰湿ないじめは留まることなく続きます。弟は家にある空き箱を使って工作をしたり、歌を歌うことのが大好きで、好きなアーティストの歌を歌ったり、私とお母さん限定でしたが、自作の歌を作って素敵な声で歌って聞かせてくれました。大好きなだけあって弟はかなり歌が上手く、私とお母さんは、「すごーい!!上手ー!!この歌、Kちゃんが作ったの?すごいじゃーん!!そのうちデビューできるんじゃないの?!」と、私とお母さんに絶賛され、誇らしげに笑っていた弟に水を差すようにDちゃんは、「おまえに歌は似合わない、歌を歌うな。」と言いました。弟はすごくショックを受け、落ち込んで泣いていました。私はDちゃんのいない所で、「私の前でだったら、歌っていいよ。Dちゃんに見つかんなきゃ良いんだから。」弟は、小さく頷きました。それから弟は、Dちゃんの前では歌わなくなりました。Dちゃん自身も、ポルノグラフィティの「アゲハ蝶」という歌が好きで、近所迷惑になりそうなものすごい大音量でその曲を流し、すっかりノリノリでアイドル気分で歌っていたのですが。
15 Dちゃんは私やお母さんのいない所で、弟のことをいじめていました。私が家のゴミを捨てに行っていない時に、「おまえは物が多すぎる、全部捨てろ。」と弟を脅していました。弟は大切なバッグや、大事にしていた人形、おもちゃ、本など、沢山の物を捨てさせられ、その上、私の大事なシルバニアファミリーなども一緒に、捨てさせられていました。私が、「何で捨てたの?あんなに大事にしていたのに。」と聞いても、「僕が捨てたかったから捨てたんだ。」と、力なく答え、「本当に?!」ともう一度聞くと、「もう、いいんだ。」と諦めたように答え、自分で清掃センターのおじさんのところへ持って行ってしまいました。私のシルバニアファミリーについてはDちゃんも一緒になって、「そうそう、Kちゃんがこれいらないから捨てるって言って、シャーマンちゃんの物を捨ててたよ。ヒドイよね。」と嫌味たっぷりに弟のことを見ながら私に言ってきました。私は、生まれてからずっとそばにいるので、弟のことは性格や趣味も知っています。弟はそんなことをする子ではありません。Dちゃんがいなくなったとき、私は、弟の様子がおかしい事に気が付きました。「どうしたの?言ってごらん。怒らないから。」突然、弟は泣き出しました。「Dちゃんがね、「おまえの家は物がたくさんあるから捨てろ。」って、「捨てなかったら殺す。」って言ってたんだ。」「どうして言ってくれなかったの?」と聞くと、「Dちゃんが「言ったら殺す。」って言ってたから。怖くて言えなかった。…」私は、弟の頭をなでて、「怖かったんだね。Dちゃんはヒドイね。Dちゃんに近づいちゃだめだよ。Dちゃんの言ったこと、聞いちゃだめだからね。」Dちゃんが許せませんでした。『弟を脅すなんて!!許せない。』大切な物を、脅して捨てさせるなんて。友達だと思っていたのに、耐えられません。これまで何度も、ひどい目に遭ってきましたが、「友達だから」と全部許してきました。なのにこの仕打ち。もう耐えられません。これは、平成14年の夏の始め頃でした。
16 嫌なこととは、続くものです。後日、Dちゃんの家に遊びに行くと、Dちゃんが、「ねぇ、見てみてー。」と言って、持ってきたものは、なんと、捨てられたはずの私の大切な、シルバニアファミリーです。私は、開いた口がふさがりませんでした。まさか盗まれていたとは。私はDちゃんに、「それ、私のだよ。」と言うと、「違うよ、Dちゃんのだよ。少しだけど、持ってるんだ。」と言っていました。これには、はらわたが、煮えくりかえりました。泥棒だ。欲しいものは、何でも盗んで手に入れる。こんなことを、何のためらいもなく平気でやってのける。『血も涙もない、悪魔のような奴。』後で聞いた話では、親のKkさんもDちゃんと全く同じように泥棒を繰り返していたそうです。私達子供の前では、Dちゃんが物を盗んだら、「Dちゃん!なんでこんなことをするの!謝りなさい!!」と言っていたので、『お母さんはまともなのに、何でDちゃんはこんなことをするんだろう。』と思っていました。が、それは間違いでした。私はすっかり騙されていたのです。お母さん達の間でも、貸したお金は返ってこない、貸したものが、まるで自分の物のように、家に置きっぱなし。Dちゃん(もう犯罪者同様なので、Dちゃんと呼ばせていただきます。)に似た行為をしていたらしいのです。やはり蛙の子は蛙、と言うように、泥棒の子は、泥棒だったのです。私達は、Kk親子を、避けるようになりました。弟は、Dちゃんにずっと怯えていましたので、Dちゃんに会わないように、少しでも姿を見たら部屋に帰ったり、遠くのほうで遊んだりして、かばうようになりました。
17 それでは、ここで、Kkさんについて、私が知っている限りの事を、書こうと思います。Kkさんは、同じトシオフィスのスタッフの、Tmamaさんから、T君をKkさんの家で預かっていました。私と弟が、Kkさんの家で、Dちゃんと遊んでいると、30分置きぐらいの頻度でT君の様子を見に来ては、遊んだり、散歩に出たりと、とにかくしょっちゅうT君と遊んでいて、私は、「この人仕事してるのかな?」と思いました。Kkが、仕事場にいることもありましたが、T君のお世話を理由に、仕事から抜け出してくることが当たり前になってしまいました。私からすれば、Kkさんこそ、Dちゃんに自分の洗濯の全てをやらせるなどの、お母さんとして信じられないことを強要していました。私は、Dちゃんから聞いています。毎回、ものすごい量の洗濯物を抱えて、私の家に洗濯機を借りに来たDちゃんの姿が、あまりにも大変そうでしたので、少し手伝ってあげたこともありますが、Dちゃんは好きで洗濯をやっているのではなく、「お母さんがやれって言ったから、Dちゃんがやっているの。」と、言っていました。私より身体が小さいDちゃんが洗濯物を干すのはとても大変なことで、Dちゃんはベランダの手すりによじ登って洗濯物を干していました。そんな光景を偶然見た私のお母さんは「Dちゃん危ないよ!!」と注意したそうです。他にも、これは後から聞いた話ですが、KkはDちゃんに対して、ひっぱたくなどの体罰も与えていたそうです。私のお母さんは、私達にそんなことを絶対にしません。ですから、最初聞いたとき、ビックリしました。どうも、Kkは元不良だったらしく、相当ガラが悪いらしいのです。たしかに、Dちゃんの意地悪な性格、Dちゃんに対するKkの態度からして、思い当たる節が沢山あります。
18 平成15年7月の終わり頃、Kk宅に行くと、なにやら賑やかになっていたので「どうかしたのかな?」と行ってみると、どうやら引っ越すらしいのです。Dちゃんのお父さんも一緒に手伝っていました。私は、喜んで手伝いをしました。そして、Kk親子は引っ越していきました。どこへ引っ越したのかはわかりません。私と弟は、Kk親子を見送った後に、私は弟に「今日は、パーティーにしよう。2人だけの。」と耳打ちしました。弟の頭には最初、?マークがついていましたが、意味がわかったのか、「うん!」と言って、2人でコンビニへ走って行き、いつもより多く買い物をして、「Dちゃんがいなくなったパーティー」をして、喜んでいました。でも弟は、Dちゃんがいなくなっても怯えていて、心に出来た深い、見えない傷があり、心を閉ざし始めていました。Kk親子がいなくなってからしばらくたった平成15年11月10日、弟は佐賀にある、母方のおじいちゃんおばあちゃんの家へ行ってしまいました。私は悲しくて、その日は一日中泣いていました。大切な物を失って、気づいたことがあります。弟がいつもそばにいて気づきませんでしたが、初めて私は、弟に支えられていたんだな。と思いました。
19 今でも、時々電話で弟と話します。弟はパソコンのやりすぎで目が悪くなり、メガネをかけているそうですが、元気に暮らしているようです。毎年、弟の誕生日とクリスマスにはお母さんと一緒にプレゼントを買いに行き、宅急便で送っています。お母さんの話では、「帰ってくる気はあるの?」と聞くと、「まぁ、帰るつもりはあるよ。」と言っているそうです。弟が帰ってから、2ヶ月位後の1月9日に、MEちゃんと、ぶたママさんと、MASAYAさんとで、イチゴ狩りに行きました。最初は、MEちゃんと1回も話したことがなかったので、どうしたら良いのか分からず、ぶたママさん達に、「あはは。なんか喋ってて良いんだよ。」と言われるのですが、2人して固まっていました。でも、イチゴ狩りをする所につくと、いつのまにか喋っていました。イチゴは甘くって、とてもおいしかったので、みんなに持って帰りたいな。と思ったのですが、残念なことに、持って帰れないところだったので今日あったことを、お土産にして帰りました。
20 それと、私はトシオフィスのスタッフの皆さんのおかげで、挨拶もろくにできなかったのに、ちゃんと挨拶ができるようになりました。何度も練習してくれたり、一緒にお片づけをして自分で出来るように指導してくれました。私が人の目を見て話すことが出来ない、暗くていつもふてくされている私でしたが、自分でも分かるくらい、福岡に居る時と見違えるほど明るくなり、よく笑い、なんでも自主的に自分でやるようになれたと思います。ちょうど、小さい頃からの足の痛みも、治ってきているのか、ごくたまに痛くなる程度になっていました。私はみんなといるのが、とても幸せでした。
【T君について】
T君はとても健康食品が好きで、ひじきや、切干大根、特に納豆や、めかぶが大好きで、3食かかさず食べていました。T君はよく納豆でねばねばになった手でいろんなところを触るために、Tmamaさんは「わー!!顔中がねばねばになってるー!!」と言いながら、T君の顔を拭いていました。私はTmamaさんとT君とで、近くの川や、林に散歩に行くこともありました。
第4-1
【保護と言う名の誘拐】
1 「平成16年4月7日」この日は、私達にとって一生忘れられない日。この日から2ヶ月間の保護所生活が始まったのです。 保護された当時、私は小学6年生でした。私は家にいて、お母さんは、会社に行く前に、いつもの「誰かが来ても、覗き窓で覗いて、知らない人だったら出ちゃだめよ」と言って、出かけていきました。
2 この日は、なんだか恐ろしい事が起きるようなそんな予感がしていてずっと胸がドキドキしていました。私はいつも通りに過ごしていましたが、ドキドキしているのは変わりませんでした。お昼近くになったときに、インターフォンがなり、私は「ドキッ」としました。私は、「誰だろう…?」と、思いドアに近づいて、覗き窓で覗いてみました。
ドアの向こうには信じられない光景が広がっていました。ドアの横に警察官がこちらに背を向けて両側に立っていて、ドアの前に黒くて大きなかばんを持っている大きな男の人と女の人が立っていた』のです。私は「えっ!?ウソでしょう…?」「これはお隣さんのところに来たんだ、きっと部屋を間違えちゃったんだ」と怖くて怖くてそう思い込むしか、ありません。それぐらい、尋常でない雰囲気の人達でした。「いや、まさか部屋を間違えるなんて事はないだろう」と言う考えが出てきては、「でも、間違えている可能性だって、もしかしたらあるかもしれない…」と言う考えが交互に出てきて、複雑な気持ちでした。私は、『できるなら、間違いであって欲しい』そう思いたかったけど、『間違えている訳がない』と言う気持ちのほうが強かった。「こんなドアの両側に警官がいるのに、部屋を間違えるわけがないだろうな。何の用事なのだろう。」ずっとこのことばかり考えていて、すっかり動揺してしまい、気晴らしに絵を書こうとしても指先が震えて、とても絵を書けるような状態ではありませんでした。それくらい私には、本当に怖かったです。家には、私一人しかいなかったし、まるで、連れさられてしまいそうな、2度と帰って来れなくなるような、そんな予感がして、怖くて、心細かった。「お母さん助けて!!」と心の中で、叫んでいました。お母さんに私は「一人でいるときに誰かが尋ねて来ても、覗き窓で覗いてみて、知らない人だったら絶対に出ちゃだめよ。何かあったら必ず電話ちょうだい。」と言われていたから、最初は無視をしました。でも、彼らはしつこくインターフォンを押し続け、私はますます怖くなり、どうすればいいのか分からなくなりました。そこで、私の携帯電話からお母さんに電話をかけました。「外に変な人がいるんだけど、どうしたらいいの」とお母さんに言うと、「今、オフィスにも人が来ていて、本当はそっちに行きたいんだけど、行くことが出来ないの。一体何なのかわかるまで、そこでじっとしていて。」と言われました。
3 電話を切って、暫く待つとまたインターフォンが鳴りました。あの人たちはまだ玄関にいるようです。ちょうどそこにお母さんから電話がかかってきました。私は藁にもすがる思いで通話ボタンを押すと、お母さんは何か知っていたのか、「シャーマンちゃん、今、外に誰かいる?」と、聞かれたので、今までの不安と思いが爆発するように、「いるよ、だけどどうすればいいの?ここに来て、怖いよ、助けて、ここに来て、助けてよ、お母さん」私は、ビックリするぐらい早口で喋っていました。お母さんはしばらく黙った後、続けました。「…シャーマンちゃん大丈夫だよ。心配しなくてもいいよ。シャーマンちゃんいい?『児童相談所』って言う人が外に来ているの。その人達を中に入れてあげてね。」と、言っていました。私はその言葉を聞いて、「どうして?」と聞きました。お母さんは「シャーマンちゃんに話があるんだよ」と言っていました。ちょうどチャイムが鳴ったので、私は恐る恐るドアの鍵を外して、ドアを開けました。開けると男の人と女の人が近づいてきて、「シャーマンちゃんだよね?」と聞かれ、「児童相談所のNという者なんだけど、シャーマンちゃんと話がしたいんだけど、中に入ってもいいかな?」と聞かれたので、「どうぞ」と言って、児童相談所の人を中に入れました。後に、この女の人は、私に担当の人になりました。中に入ってすぐに児童相談所の人は私に変な質問をしました。「シャーマンちゃんって、ご飯はちゃんともらっているの?」と言うのです。私は「へっ??何言ってるんだろう?」とあっけに取られて「えっ?何のことですか?」と聞きなおしました。『シャーマンちゃんって、ごはんはちゃんともらっているの?』という質問の意味を理解するのに、時間がかかりました。当たり前のことなので、「ちゃんともらってるけど?」と、答えました。ご飯のことだけでなく、児童相談所の人たちの質問は、私にとって当たり前の、実にくだらない質問ばかりでした。「外には出られるの?」、「部屋にいつもいるの?」、「勉強はしているの?」という当たり前みたいな質問ばかりでした。
4 私は最近見たニュースを思い出しました。この当時、ワイドショーやニュース番組で「虐待がどうのこうの」とか、放送されていましたから、『ああ、これはテレビに出てきたりする『虐待』とかって言うんだな。もしかして、この人達は、私が虐待されてるって信じてるんだ』と思いました。『この人たちは私への質問が終わったら帰るんだろう』と思っていたのですが、しばらくすると別の男の人が入ってきて、私の部屋の中のいたるところをカメラで取り始めました。こういうのはドラマでしか、見たことなかったから、なんだか怖くなりました。心臓が張り裂けそうでしたが、私はただ呆然と見ているしかなく、「早く帰らないかなぁ」と思ったのですが、2人はなかなか帰ってくれません。どんどん不安が募る一方でした。しばらくすると、カメラを持っていた男の人は出て行ったのですが、児童相談所の男の人と女の人はずっとそばにいました。2人は突然「一時保護所(以下、保護所といいます)というところがあるんだけどそこに行ってみない?」と言うので、私は「行かない。」と答えました。すると女の人はびっくりした顔をして「どうして?お友達がたくさんいるよ」とか「楽しいよ。それに、行くのは一週間だけだから」と言ってきましたが、それでも私は拒否しました。「どうしてそんな怪しいところに1週間も行くんだ???一体この人たちは何のつもりで私に会いに来たんだ??」と、ますます、「早く帰って欲しい。」と心で願いました。
5 ちょうどそこで私の携帯にお母さんから電話が来ました。「シャーマン、児童相談所の言う通りにしてちょうだい」と言われ、お母さんまでそんなことを言うの!?とその言葉にびっくりしましたが、今は、そんなことを言っている場合じゃなかったので、お母さんの言った通り、私は「行く」と言いました。児童相談所の人たちは私の意見が突然変わり、ビックリしている様子でしたが、もとから連れていく決まりだったのか、すんなり決まりました。私は「どうしても行かなくてはいけないんだろうか…」と悲しくなりました。そして、「そろそろ保護所に行こうか」と言われ、私はもっと悲しくなりました。そして、私はタクシーに乗せられて、しばらく待っているとT君とTmamaさん、私の担当だと名乗る児童相談所の女の人とT君の担当だという児童相談所の女の人が乗って、タクシーは出発しました。しばらく走って大田原市にある日赤病院の前の、道路を挟んだ駐車場にタクシーは止まり、T君とT君のお母さん、そしてT君の担当の人は降りていきました。しばらく私は担当の人とタクシーの中で待っていると病院の目の前にタクシーが止まりタクシーの中から、T君より小さい赤ちゃんが女の人に抱かれて出てきました。それだけなら、別になんとも無い光景ですが、私にはどうしてもその赤ちゃんが気になりました。赤ちゃんが乗っていたタクシーも、何だか気になるというか、知っている人がいそうな予感がなぜかしたのでどうしても気になり、どうにかして近くに行きたかったので、「トイレに行きたい」と言って、私の担当だという児童相談所の人(この人はNさんという人でした。以下、Nさんと書きます。)と一緒にタクシーを降り、病院の方へ歩いて行きました。病院の目の前に止まっているタクシーに走って近づくと、妹1ちゃん(当時12歳)とMEちゃん(当時8歳)が乗っていて、「えぇ!どうして妹1ちゃんとMEちゃんまでここにいるの?」と思いました。さっき病院へ入っていった赤ちゃんは、妹1ちゃんが可愛がっていた妹のブーちゃんの下の妹さん(当時1歳)だったんだな。ということがわかりました。
6 この時点では、私はこの事件のことや、私と同じように、妹1ちゃんのところにも、マスコミ・児童相談所が来ていたことは、全く知りません。しかし、ただ単にブーちゃんの下の妹さんの具合が悪くて日赤病院に来ているわけじゃないことは、私の目にも明らかにわかりました。だって、ブーちゃんの下の妹さんを抱いていた女性は妹1ちゃんのお母さんではありませんでした。それこそ、T君と同じように、人さらいが連れ去るかのように、足早に連れて行かれてましたから。それに、妹1ちゃんとMEちゃんの隣には私のことを連れ出した、児童相談所の人たちと、似たような女性が座っていました。だから、ひょっとして、妹1ちゃんとMEちゃんも、私と同じような目に遭っているんじゃないか?と思いました。私が「バンバンバン」と手のひらでタクシーの窓を叩くと妹1ちゃんとMEちゃんは私に気づいてくれ、窓際にいた、MEちゃんとガラス越しに手を合わせました。透明の見えない壁が、私とMEちゃんと妹1ちゃんをさえぎっているみたいでとても悲しかったです。本当は、ドアを開けてこう言いたかった。「一体どうしたの?一体何が起こっているの?!」と。しかし、奥には知らない女の人が座っています。私のことも、Nさんが見張っています。だから、私はどうしてもMEちゃんと手を合わせることが精一杯でした。私は妹1ちゃん、MEちゃんに手を振って別れを告げ、Nさんと一緒に病院のトイレに向かい、タクシーに戻りました。すると、私達より先に、妹1ちゃんとMEちゃんの乗ったタクシーが走り去っていきました。この時がMEちゃんとの最後でした。その後、私は一時保護所に直行で向かいました。タクシーの中で、Nさんと、タクシーのおじさんと携帯電話の話、どんな絵を書いているのか、どんな遊びをしているかなど、いろんな話をしながら保護所に向かいました。
第4-2
第12 【保護所での生活】
1 私が、宇都宮市の一時保護所に着いたのは、夜10時過ぎでした。一時保護所の門が閉まっていたので、「あら、閉まっているわ。」と言ってNさんが鍵を開けていました。保護所の中は真っ暗で、職員室だけ、明かりがついていました。私とNさんと2人で、職員室に向かい、ドアをノックしました。中から女性の職員が出てきて、職員さんと、Nさんは何か話していました。話が終わると、「今開けますね」と言われ、とりあえず中に入り、近くの椅子に座っていました。職員の人が「少し待っていて下さいね」と言うことだったので、しばらく待っていると、Nさんが「じゃあ、私はもう帰るね」と言いました。私はまた一人ぼっちになるのが嫌で怖くて、「やだ!!もうちょっとここにいて!」と言いました。だけど、「私はここの職員じゃないから、もう帰らなきゃいけないんだ。また明日来るから待っててね。」と言っていたのですが、「やだやだ!!一人にしないで!少しだけでいいからそばにいて、怖いよ…」家に相談所の人が来ただけで怖かったのに、今度は見ず知らずの所で、また一人ぼっち…とてつもない恐怖でした。結局、Nさんはタクシーに乗って帰ってしまいました。
2 こんな所に来て本当に帰れるのだろうか。と言う不安、友達も親も誰もいないと言う孤独感に襲われ、絶望的な気持ちになっていました。しばらくすると、職員の人が戻ってきて、「ごめんね、こんな暗いところで待たせちゃって。ここの説明をするから、ちょっと来てね」と言われたので、ついていきました。ドアの上に「面接室」と書かれた部屋に案内されました。まず最初に「名前はシャーマンちゃんでいいのかな?」と聞かれ、「はい、そうです」と答えました。「私は、シャーマンちゃんの担当のAYと言います。シャーマンちゃんの脇に置いてあるのが、保護所で使うもので、着るものは、ジャージで、2着と、歯磨きセットと、タオル類です。あと、一日の流れが書いてあるしおりを渡しておくね。あと携帯電話は使えないから、持ってるのなら先生に渡してください。」と言うことだったので、持っていた携帯を渡し、渡されたしおりに目を通したのですが、しおりの内容にギョッとしました。朝6時半に起きて、2階の掃除、その後グラウンドでの散歩で、終わると、ミーティングをして、3時ごろまで、自由勉強をします。勉強が終わると掃除、毎週木曜日だけ、「所外学習」として、アスレチックや博物館を見学に行ける日でした。その後の時間はフリータイムで、テレビを見たり、グラウンドや体育館で遊ぶなどして過ごし、夜7時に日記を書き、小さい子順にお風呂に入り、小さい子は8時に、小学生は9時に、中、高校生までは10時に2階の居室で休む。というスケジュールでした。
3 説明が終わったので、部屋に案内されました。部屋は2階にあり、相部屋でした。10時を過ぎていたので、もう寝ているはずの時間でしたが、皆起きていて、部屋に入るなり、「わー、新しい子だー!!」「新入生だ!新入生!!」などの、いろんな会話が飛び交い、歓迎会みたいなものが開かれ、部屋は一瞬にして、騒がしくなりました。「名前は?」とか、「どっから来たの?」とか、いろいろ聞かれました。部屋は賑やかでしたが、『どんなに楽しくても、一人ということは変わらない。果たしてこの先、私はやっていけるのだろうか…』私の気分は晴れることはありませんでした。突然、歓迎会の途中で、同じ部屋の子が、「あっ!そうそう、そう言えばさぁ、あと2人来るらしいよー。確か、女の子だって言ってた。」と言っていました。『あ、もしかして』私はなんとなく、心当たりがありました。あの2人、妹1ちゃんと、MEちゃんです。でも、まだ噂の段階だったので、『もしかしたらただの噂かもしれない、違う子かもしれない。』と、思ったのですが、私はその話を聞いて、寂しさが少し薄らいだようでした。
4 確か、夜中の12時過ぎだったと思います。部屋に、AOさんとは別の人で、女性の研修生の人が入ってきて、「早く寝なさーい」と言いに来ました。その時に他の子が、「あと2人来るんだって?マジで来るの?」と聞いたところ、「んー私もあんまり知らないけど、姉妹だって言ってたよ。」と言っていました。私は思わず、「もしかしたら私、その2人知っているかもしれない。多分、友達だと思う…」と言ってしまいました。さすがに夜中の1時には皆寝静まりましたが、私は一人で、ずっと起きていました。『私は、何でここにいるんだろう…何でこんなことになってしまったんだろう。帰りたいよ、お母さん…』悲しくて、怖くて、周りの人に、気づかれないように泣いていました。
5 翌日、憂鬱な気分で、朝を迎えた私は、廊下に出ると、妹1ちゃんと、ブーちゃんマン(当時15歳)に会いました。
「Sちゃん!!ブーちゃんマン!!」
私はSちゃんとブーちゃんマンの所ヘ走って行き、
「会いたかったよー。一人で寂しかった。」
私は、Sちゃん達に抱きつきました。私達は昨日あった事を伝え合いました。Sちゃんは、私と会った後のことを話してくれた。
「シャーマンちゃんに会った後、児童相談所に行って、いろいろ話した。話していたら、お姉ちゃんが来てくれたんだ。とても心強かった。」
ブーちゃんマンは
「私は、配送センターに居て、この事を知って、ぶたママさんと駆けつけたんだけど、私も捕まっちゃったよ。でも、シャーマンちゃんのことも心配だったから、会えてよかった。」
私はSちゃんとブーちゃんマンに聞きました。
「MEちゃんは!?どうなったの?ここには居ないみたいだけど」そのことは、Sちゃんが話してくれた。「MEはね、大丈夫、家に帰ったよ」いろんな意味で私は『ほっ』としました。友達が、無事に帰ったこと、側に友達が居てくれること、それだけで安心できました。それに、ブーちゃんマンは、私達より年上で、とても頼もしく、心強い存在でした。
ブーちゃんマンが、もしいなければ、どうなっていたのだろうか。いてくれて良かったと、感謝しています。
6 その日は、みんなで、外に行く日だったようで、私達3人は、保護所に残りました。みんなが出かけてすぐに、保護所の課長さんに呼ばれました。
「今日は、みんなで出かける日だったんだけど、カメラを持っている人が外にうろうろして居るから、これからしばらくは、外に出ないで下さい。」
私はその言葉に動揺しました。カメラマンがいる…いつ撮られてもおかしくない、いつ撮られるかわからない。とても不安でした。数日間は中で過ごしました。それからしばらくは、外に出る時は、周りを見渡し、カメラマンが、いなければ外に出る生活。保護所に来た数日間はカメラマンの目を気にする毎日でした。
7 保護所での生活は、最悪なものでした。私達以外に保護所にいる子供は、おこずかい稼ぎに、シンナーを売っていたり、お父さんが人殺しで、お母さんが精神病に罹っていたり、その他いろいろな事情を持っていましたが、どれも私の想像をはるかに越える、裏の世界が広がっていました。そんな子供達に囲まれて生活していると、いつか、自分も頭がおかしくなるんじゃないかと思いました。私達はそれぞれ担当の心理判定員の人が違っていて私はNさんでしたが、Sちゃんと、ブーちゃんマンはそれぞれ違う人でした。
8 保護されて3日目の4月10日、児童相談所の人との『面談』と言うものを受けました。まずはブーちゃんマンが行きました。しばらくして帰ってきたとき、なんと泣き顔で帰ってきました。ブーちゃんマンの身に何があったのかはわからなかったけど、次は妹1ちゃんの番、そしていよいよ私の番が回ってきました。久々に会う、Nさんが言った言葉は信じられない言葉でした。その言葉は
「シャーマンちゃん、家にはしばらく帰れないよ。」
唖然としました。
「えっ?ちょっと!約束が違う!!一週間って言ってたよね!?これ以上延びるのはやだ!家に帰る!!」
私は早く家に帰りたかった。この話をされた時、涙が出そうだったけど、私はぐっとこらえました。
「もう少しシャーマンちゃん達のことを調べたいから、もう少し待ってて欲しい。」
と言われました。なんだそれは、どういうことだ、という気持ちを抑えながら、その日の面談は終わりました。保護所の部屋に戻ると、3人で集まって、今日の面談のことについて話し合いました。私は
「ねぇ、どうする?延びるんだってよ?こんなとこ、いたくないのにね。」
妹1ちゃんは、
「もう帰れないのかなぁ、早く帰りたい。みんなに会いたい。」
と泣きそうになっていたし、ブーちゃんマンは、
「私さ、3日で帰るって言われたんだよね。それで今日言ってやったんだ。『もう3日経ってますけど、帰れるんですよね?』って聞いたら、『いいえ、帰れません。もうしばらくここにいてもらいます』って言われたんだよ。泣いちゃったよ。」
私は疑問に思い、ブーちゃんマンに質問しました。
「あのさ、結局私達、どうしてここにいるんだ?」
その質問に、妹1ちゃんもウンウンと頷く。ブーちゃんマンは目を丸くして、
「えっ!もしかして、2人とも知らないってやつ?」
ウンウン知らない知らないと大きく頷く、私と妹1ちゃん。ブーちゃんマンはなぜか知っているみたいだったので、教えてもらいました。
「連れていかれた本人が知らないとは。しょうがない、説明すると、私達がここに居る理由は、紀藤正樹って言う弁護士が居て、その紀藤弁護士が、私達が虐待を受けているって嘘の通告をしたから、児童相談所が私たちを調べなくちゃならなくなって、ここに居るんだよ。この事に、Yyと、Kkも絡んでる。」
私と妹1ちゃんは、思わず顔を見合わせ、
「「えぇーーーーー!!」」
と叫びました。ブーちゃんマンは慌てて、
「シー!!声がでかい!!」
私は慌てて
「ごめんごめん。でも、まさか、ねぇ?」
まさか、あのKkがこの事件に絡んでるとは、思いにもよらなかった。Yyといえば、私はハワイでの怖い思い出しかないので、『やっぱりYyは怖いオババだ。』と思うだけでした。でも、Kkは違います。少なくともKkは私がどんなに、幸せに暮らしていたのかを知っているはず。それなのに、「虐待されている。」なんて嘘をついたというのです、ヒドすぎる話です。でも、『確かにKkなら、あり得る話だな。』とも、思ってしまいました。だって、あれだけ嘘つきで、インチキ親子ですから、光景が眼に浮かびます。その日から私達は、3人で集まって、『どうやったら早く帰れるのか』を話し合うようになりました。妹1ちゃんは、毎晩布団の中で泣いていました。そんな妹1ちゃんを私とブーちゃんマンで励まそうと「あいつら絶対に許さないぞ!!」と、口々に言い、元気付けました。
9 保護所では、3食を「給食室」で食べることになっていました。昔から相当な大食漢だった私は、一食で9合分のご飯を一人で全部食べたこともありますし、カレーを大盛り2杯おかわりをして、それでもなお足りず、3杯目をよそおうとしたときに、スタッフの人に「シャーマンちゃん、幾らなんでも、もう止めといたら?」と止められて、しぶしぶやめたほど、食べるのが大好きでした。
家では、それぐらいおなかいっぱいにご飯が食べられたし、このとき私は、小学6年生で、日に日に背が伸びていました。
成長期を迎えて、今までに増して食べ盛りだと言うのに、保護所のご飯は、小学生用の浅いお茶碗にちょこんとご飯がよそわれていて、明らかに、私には少なすぎました。私にとっては、一口分です。特に私はおかずをご飯で食べることが好きだったので、完全に少なすぎます。またおかずも「さんまとサツマイモの煮付け」といったおかしなおかずが出てきて、魚が大嫌いな私は一口も食べれなかったりと、とにかく全てが私には全然足りませんでした。そのため私は、夜寝る前にはお腹が空いてしまって、眠れませんでした。夜中に部屋を見回りに来た保護所の人に、「お腹空いた。」と言うと、同じ部屋にいた子達みんなが、「私もー。」と言っていました。同じ部屋にいた子はみんな、成長期の3〜5年生の子達でした。成長期の子がお腹を満たすには、あの幼児用のお茶碗に1杯では少なすぎるのです。でも、ご飯の量が決まっているのか、おかわりしようとしても、もうご飯が無くなっています。私以外にも大抵4〜5人がおかわりをするのですが、少し残ったご飯とおかずをみんなで等分するので、一人一口分のおかわりでした。
10 児相の人が来た時、必ず最後に「なにか困っていることは無い?」と聞いてきます。保護所に来たばかりの頃は、「別に無い。」と答えていましたが、あまりにもご飯が足りず、ひもじい毎日だったので、耐えきれず、毎回「ご飯が足りない。」と言うようになりました。そのかいあってか、ご飯の量は少し増えました。が、私にはまだ毎日がひもじかったので「まだ足りない」「まだ足りない」と言い続けました。でもそれ以上増えることはありませんでした。こんな事件が起きる前は、私は毎日幸せにご飯を食べていました。保護される直前も、お腹一杯ご飯・味噌汁・おかず2品、食後のデザートにいちごのショートケーキを平らげた後でした。大食の私が「もう食えない。」と思うぐらい、たっぷり食べていたのに
「シャーマンちゃんはご飯を貰っていないの?」
と、質問される滑稽さ、わかりますか?私にとっては、この保護所生活こそ、「ご飯を食べさせてもらえない」生活そのものでした。ほんとに悲しかった。ひもじかった。
11 「解放」されてから、また私は思う存分ご飯を食べられるようになりました。
この拉致監禁が始まった当時はブーちゃんマンに見下ろされていたのに、見る見る間にブーちゃんマンが小さくなっていき(私が大きくなっているのです。)今ではブーちゃんマンよりも大きくなりました。ブーちゃんマンには「うわー凄くたくましい人がいる!!あの頃はあんなにちっちゃかったのに…」と言われてしまいます。
12 4月22日、私達は、宇都宮市の大学付属病院へ身体検査を受けに保護所を出ると、保護所の駐車場にカメラを首から下げた人がうろついていたので私達は保護所の裏から見つからないように出ました。私とSちゃんは、「何であんな所にあんなやつがいるんだ!!」「嫌になっちゃうね。」と口々に言いました。
13 4月中ずっと、面会ばかりで疲れました。今までの生活を聞かれて、普通に話していても、変な意味にとられたりして、少しも気を抜けず、私達は終わるとぐったりして帰ってきました。心理テストもたくさんやりました。家と人と木の絵を書く、と言う内容のもので、その書いた絵によって、私達のことがわかるらしいのです。「もしかしたらこの、「絵」次第で私達は、帰れなくなってしまうんじゃないか」と不安にもかられたし、「こんなので判られてたまるか!」と言う気持ちもありました。心理テストだけで私達を分かった気になっている大人達には、呆れた。保護されて、心理テストを受けさせられて、普通に喋っても、変な意味に捉えてくる。気を使わなきゃいけない。早く帰りたかったから、面会では、必死に答えました。早く帰れる道は無いかな。なんていうことを、ずっと考えていました。
14 ある日ブーちゃんマンが、「私、こんな夢を見たんだ。」と言って、夢の内容を教えてくれました。私たちが保護所のフェンスを登って脱走し、タクシーに乗って、家に帰った。と言う内容のものでした。私とSちゃんは、
「本当に脱走したほうがいいんじゃない?」
「正夢かもしれないよ?」
「本当にやったほうがいいのかもしれないよ、そのほうが、早く帰れるしね。」
と、本当に脱走を考えたほどでした。
15 次の日、私達3人は保護所の課長さんに呼び出されました。課長さんは、
「今日、お母さんに会えるよ。」
と、教えてくれました。私達はとても嬉しくってたまりませんでした。私達は面会の時間が来るのを、遠足前の子供みたいに待っていました。面会の時間が来た時、はしゃぎながら向かいました。私達はそれぞれの部屋に入りました。部屋には、懐かしいお母さんと児童相談所の課長、秋葉さんがいました。児相の人の監視のもとの30分きりの面会でした。いろいろ、お母さんと話をするものの、なんだか、後ろが気になってしかたがない。
「プライベートにも関わるのか、この人達は!!」
正直そんな気持ちでした。いっぱい話したいことがあるのに。お母さんといつものように接したかったのに。
人に見られていると、ギクシャクしてしまって、「変な親子」に見られたくない。きっとそう思われたら、終わりだ。と私は、そう思いした。しかし、せっかくの30分の時間を無駄にはしたくなかったので、気を取り直してお母さんと話をしました。お母さんは、今まで福岡に住んでいたときに撮った何千枚もある写真の中からいくつか持ってきた写真を見せてくれました。それを見ながら、動物園や、公園や、運動会や、お祭りや、ありとあらゆるところに一緒に出かけたこと、お誕生日にケーキを作った時の写真、今は亡きお父さんと海に行って遊んだ時の写真等を見ながら話しました。なんだか嬉しくって、冗談を言ってみたり、少しでもお母さんの気持ちが軽くなったらな。と思って、いろんな面白い話をして、お母さんを笑わせようとしていました。お母さんが
「お家の近くにどこまでも続く大きな公園を見つけたんだよ。今度、シャーマンちゃん達が帰ってきたら行こうよ。」
私は
「ほんと?いつか行ってみたいね。その公園すごく大きいの?どんなところ?」
お母さんは、いろいろ説明してくれました。
『早く帰って、みんなと行きたいな。その時は、ブーちゃんマンたちも誘ってお母さんが見つけた公園に行きたい。早く帰りたい。みんなに会いたい。』
そんな話の繰り返しになりました。後ろで秋葉課長さんが、口を開きます。「もう時間です。」
あっという間に、30分が経った。普通なら、言いたいことや、やりたかった事が出来て、すっきりするんだと思うけど、私は、やり残した複雑な気分だった。Sちゃんやブーちゃんマンも同じ気持ちだったらしい。
「人に見られて、普通に話したり、接したり出来なくて、心残りがある。」
と言っていた。その夜は、夢を見ました。退所して元の生活に戻り、みんなでその公園に行って遊んでいる夢です。
16 5月に入ってからは、4月とうって変わって、全くと言って良いほどに相談所の人は来なくなりました。状況を聞いても何もわからない日々が続き、たまに来る相談所の人に聞いても、「今は言えない」とか「今決めているから待っててね。」といわれるだけで、一切の情報を遮断された感じでした。私は、ストレスのせいなのか、小さいころによくなっていた足の痛みが再発し始め、頻繁に痛むようになりました。ですが私は、みんなに知られまいと、明るく振舞いました。
17 私達がいる間に、何人の子が、退所したのか、入所したのか分かりません。1週間ほどでみんな、退所していきます。その様子を見るたびに、自分達だけ取り残されていきます。
「私達って本来これくらいの期間で退所してたんだよね…」
とつらい気持ちになりながら、見送ります。私はよく、保護所にいる子に
「ねぇ、シャーマン達ってさ、何でここにいるの?」
と聞かれました。『私も知りたいよ。』と思いながら、
「さぁ?何でだろうね。学校に行ってないからかな?」
と答えると、
「えー!そんなんでここにくるの?それは絶対無いと思うけど。」
というのです。
「そうだよね。そんなんじゃ来ないよね。でも、それ以外心当たりが無いんだよ。」
実際に心当たりが全くありません。ここにいる子達は、聞くと必ず、みんなスリ、万引き、家出と、犯罪をしている子達と、後は、両親や親戚に虐待された子しかいないのです。そんな時の夜は、『何で私はここにいるんだろう』と、考えてしまいます。だけどやっぱり考えても、答えが出ない。唯一、あるとすれば学校に行っていないと言うこと以外、まったく心当たりが無い。ここに来た理由、ここにい続ける理由がさっぱりわかりませんでした。
18 5月26日、私達3人は、児相のケースワーカーのTTさんがやってきて、結論が出たといいました。結論の内容はこうでした。
「まず、シャーマンちゃんは、トシオフィス内ではもう暮らせない。」
「え!?それ、どういうこと!?家はトシオフィスとは関係ないのに、何で帰れないの!!」
「トシオフィスは、たとえ家と関係してなくても、シャーマンちゃんの生活に影響しちゃうからだめなんだ。」
そして、私に3つの選択を迫りました。
1. お母さんが会社を辞め、黒磯以外の場所に引っ越して一緒に暮らし、適応指導教室に通う。
2.児童自立支援施設「那須学園」(全寮制)へ送られる。
3.佐賀の祖父母の元へ送られる。
の3択でした。TTさんは、那須学園に行くことをかなりしつこく、すすめてきました。
「僕は那須学園に行くのをすすめるよ。学力も上がるし、シャーマンちゃんの為になる。おじいちゃんとおばあちゃんの家に行くのは、あまりおすすめはしない。お母さんと暮らすのはおすすめしない。お母さん達は会社を辞めなきゃだめだから、また仕事を探さなきゃだめだからね。お母さんに、会社辞めて欲しくないでしょ?だから、那須学園が良いと思うんだ」
TTさんは続けて、
「今度来る時までに、決めておいてね。那須学園は、見学できるけどどうする?それは明日までに、決めておいてね。」
と言って、面談は、終わりました。
19 私達は集まって、話し合いをしました。
「お母さん達に、会社は辞めて欲しくない。でも、帰りたい。もう一度、一緒に暮らしたい」
「那須学は嫌だよね。」
「みんな『あそこに行ったらもう終わり』って言ってたよね。」「じーちゃんばーちゃんちには行きたくないよね。」
と議論しました。議論の結果、「那須学には、行く気はないけど、見学には行ってみよう。」みんな同じ意見でした。
20 次の日に、TTさんが来たので、那須学についての返事を出し、今度那須学園に見学に行くことになりました。那須学に見学することを、ブーちゃんマンが、保護所の先生達に話していました。ブーちゃんマンの話しだと、先生方は「何でそんな所に行くの!?」「ブーちゃんマン達は、そんな所に行く必要はないのに!何かが間違ってる!!」と言われたそうです。
21 那須学に見学に行く当日、TTさんと3人で、タクシーに乗っていきました。那須学に行く途中、私は質問しました。
「那須学ってどんな所?すごい緊張してきた。」
と言うと、TTさんは、
「那須学はね、たか〜い塀に囲まれた中にポツーンと建っているこわ〜いとこだよ〜。」
と、言っていたので、
「ええっ!?やだーそんな所に行きたくない!」
ですが、実際に行くと違っていて、塀に囲まれてはいませんでした。
「ふざけんなっ!!こっちは真剣なんだぞ!!」
と、TTさんに、みんなで蹴りをいれました。ですが、那須学園は噂に聞いたとおりで、窓には鉄格子とセンサーが付いていました。まるで監獄のような所だと思いました。。
22 髪型は肩まで、服装は指定された制服、その他持ち物も何もかもが指定されたものしか使えず、外に買い物に行くのも1〜2ヶ月に一回あるかどうか、と那須学園の人が言っていました。(一時保護所ですら「所外学習」として週に一度しか公園などに遊びに行くことができません)また、部活動があって、それは必ずやらなくてはならないのですが、部活中は「笑っちゃいけない」「あるいちゃいけない」、と地獄の特訓のように練習しているそうです。
23 私は、ここで生活すること=監禁されるようなものだと感じました。見学から帰り、3人でどうするか相談しました。次の日に、一人一人決めてくることにしました。次の日、頭を付き合わせ、意見を言い合った結果、みんな同じ意見でした。
「お母さんの所へ帰る。たとえ会社を辞めることになっても、帰る場所は家だ。」
児相の人が来て、「決まったかな?」と言うことだったので、
「うん。私はお母さんの所に帰りたい。」
といいました。すると
「分かった。シャーマンちゃんはそれで良いんだね?だけど、この意見が通るかは、分からないから」
そう言われた。ビックリして、
「どうして!?子供のためにあるんじゃないの?児相って物は。」
「うん。そうなんだけど、シャーマンちゃんたちが、本当に幸せになるのかを、審議会で決めるから。」
納得いかない。私達が幸せかどうかなんて、私達が一番知ってます。他人に決められる筋合いなんて、毛頭ない。私が黒磯にいたときは、自分のことは自分で決めてきた。保護されてからだ、他人に決められるなんて。審議会から答えが出るのに、かなり時間がかかりました。
24 6月1日突然、課長さんに私達は呼び出されました。
「今、お母さん達来てるから、会いに行ってきな。」
と言われて、3人で会いに行きました。会議室のような部屋に行くと、TTさん、秋葉課長、お母さん達が居ました。もう一度会えた喜びでいっぱいでした。秋葉課長さんが、
「今日、お母さん達が来ているのは、審議会で結果が出たからです。明日、退所することになりました。」
私達3人は、嬉しくって、はしゃいでいましたが、TTさんだけがむっとしていて、腕を組んで、座っていました。まるで、「何で那須学に行かないんだ。」と言っているかのようでした。そして、まるで釘を刺すかのように、
「ただし、今後ホームオブハートや、トシオフィスに、子供達が行ったら、すぐに那須学園に、行ってもらいます。」
これには、面食らいました。みんな、こう思ったそうです。
『なんだとこいつ〜、そんなに私達を那須学園に入れたいのか!?』
25 面会が終わり、保護所にいるみんなに、知らせてきました。みんなは、喜んでくれました。その日は結構すんなりと寝れた気がする。だって、明日帰れるんだもん。明日が待ち遠しかった。
26 6月2日、今まで見ていただけの、退所式の日でした。しかし今日は『私達』の退所式です。やっとこれで帰れるんだ。迎えが来るのが待ち遠しくって、まだかまだかと時計ばかり見てしまい、落ち着きませんでした。そしてついに、ブーちゃんマン達のお母さんと、私のお母さんが、迎えに来ました。一番幸せな瞬間だった。ずっと願っていたことがついに、叶った瞬間でした。今まで私達は、生きる気力を失った顔をしていただろう。笑ってもそれは、心の底から笑っていないから。保護所の先生達も、こんな幸せそうな顔をした私達を見たことがなかったと思います。
第5-1
第14 【黒磯警察での事情聴取】
1私は、一時保護所を退所した後、西那須野にあるアパートから黒磯警察署(現在は那須塩原警察署といいます)に通い、事情聴取を受けました。最初は、一体何を聞かれるんだろうと、とても不安でしたが、刑事の方達は私達がまったく問題なく幸せに暮らしていたこと、私達の真実についてを、完全に理解してくれました。また、面白い人が多く、何度も通ううちにほとんど遊んでもらっているような感じになりました。
2 お母さんの話では、警察の方は最初から「この子達は虐待された子供達ではない」と、確信を持って断言していたそうです。お母さんの事情聴取をした「OZさん」という方は2歳ぐらいの子供さんがいて、私が虐待された子供でないことは十分にわかっていたそうです。それで、お母さんに「「虐待された子供ではない」というデータを集めたいので、すべて、正直に話してくださいね。」と言ったそうです。
3 6月11日黒磯警察署での事情聴取
私の担当になった刑事さんは、「NOさん」というおじさんでした。先ほども書いたほうに、最初とても不安でしたが、NOさんはとても面白い人で、すっかり打ち解けてしまいました。最後の日にNOさんの似顔絵を描いて渡したら、すごく喜んでくれました。
4 事情聴取を受けた部屋は、建物の最上階にある部屋で、入り口には「道場」と書かれていました。体育館のように広い部屋だったので、NOさんに何のための部屋なのか、聞いてみました。「泥棒を捕まえたりするために、警察官同士で特訓する部屋なんだよ。あと、たまにここが「○○対策本部」になったりする。」と、言っていました。
5 それでは、NOさんからの質問と、それに対して私がどう答えたか、詳しく書きます。
NOさん「いつ黒磯に来ましたか?」
シャーマン「H15.4月に来ました。」
NOさん「その前はどこにいたの?」
シャーマン「福岡県です。」
NOさん「K君は今どこにいるの?」
シャーマン「佐賀のおじいちゃん家にいます。」
NOさん「生年月日を教えて?」
シャーマン「平成5年1月12日生まれです。」
NOさん「今何歳?」
シャーマン「11歳です。」
NOさん「保護所にいた時はどんな気持ちでしたか?」
シャーマン「アパートに帰りたい。という気持ちで一杯でした。」
NOさん「いつから不登校なの?」
シャーマン「えーと、4年生の2学期から。」
NOさん「今は何年生?」
シャーマン「6年生です。」
NOさん「そのとき通っていた小学校は?」
シャーマン「K小学校。」
NOさん「なぜ嫌なの?」
シャーマン「雰囲気がピリピリ、カリカリしているから。」
NOさん「それは誰からか言われて行ってないの?」
シャーマン「いいえ、それは自分から行きたくないから行ってないんです。」
NOさん「学校は大きいの?一学年何クラスなの?」
シャーマン「3クラスでした。」
NOさん「ピリピリ、カリカリってどういうこと?」
シャーマン「喧嘩や争いばっかりで息が詰まる思いがしました。」
NOさん「それって、喧嘩に参加したくないってこと?」
シャーマン「う〜んとね……」
NOさん「お母さんはそのことについてどうですか?」
Mmama「たとえば、勉強できる子/できない子という比較をされる、何かが上手な子/下手な子と比較をされる、絵で何かの賞を取って貼り出された子とそうでない子がいたら貼り出された子はほめられたり、チヤホヤされたり又は妬まれたり、からかわれたりする。自分がどちらの側になってもイヤな思いが残るでしょう。シャーマンには言ってませんけど、上靴を切られてしまって、先生からそのことへの報告を受けました。先生が縫って下さっていました。」
NOさん「引っ越す時黒磯へ来た理由をお母さんから聞いてる?」
シャーマン「わからない。」
NOさん「黒磯へ行くことをいつ言われた?」
シャーマン「(引っ越して来る)少し前でした。」
NOさん「(お母さんは)黒磯へはどんな理由で来たの?」
シャーマン「お仕事で。」
NOさん「黒磯へ来た感想は?」
シャーマン「きれいなところだなと思った。」
NOさん「黒磯での生活はどう?」
シャーマン「うーんわかんない。」
NOさん「お小遣いはもらっているの?」
シャーマン「ぜんぜんもらっていません。買いたいものがあるときに貰っていました。」
NOさん「そういえばご飯はどうしているの?」
シャーマン「取りにいったり、大人に持ってきてもらったりしています。」
NOさん「そのときに持ってきてくれなかったことや、ぜんぜん食べなかったことある?」
シャーマン「そんなことはないですよ、ちゃんともらってますよ。」
NOさん「黒磯小学校へは行きたかったの?」
シャーマン「行きたくない。」
NOさん「一度も行ってないの?」
シャーマン「行ってない」
NOさん「黒磯小へ行かないことでお母さんから何か言われてる?」
シャーマン「言われてない」
NOさん「やどちゃんって知ってる?」
シャーマン「知ってるよ。」
やどちゃんとは、T君のニックネームです。
NOさん「やどちゃんって言う名前の由来は何なの?」
シャーマン「知らないよ。」
NOさん「やどちゃんっていつもどこで寝ているの?」
シャーマン「Tmamaさんと一緒。」
NOさん「やどちゃんはいつもどこにいるの?」
シャーマン「207号室。」
NOさん「シャーマンちゃんたちはいつもどこに住んでいるの?」
シャーマン「207号室。」
NOさん「えっ!!!!!じゃあどうして一緒に住むことになったの?」
シャーマン「今まで同じ部屋に住んでたんだよ。」
NOさん「なんでTmamaさんと一緒に住むことになったの?」
シャーマン「Tmamaさんが今まで住んでいたところがなぜかカビくさくなって、臭くて住めなくなったのでうちに来たよ。」
NOさん「ホームオブハートとは何か関係があるの?」
シャーマン「そんなの全く関係ないです。」
NOさん「前の生活(黒磯での生活)はどんな生活だったの?」
シャーマン「たまに夜更かししてたんだよ。」
NOさん「K君がず〜と帰ってこないのはなんで?」
シャーマン「おじいちゃん家にはKちゃんが好きそうな漫画本がいっぱいあって、それで帰ってこないんだと思うよ。」
NOさん「K君はなんで出て行ったのかわかる?」
シャーマン「わかんないよ」
NOさん「K君が向こうに行ってしまった後、電話したことある?」
シャーマン「していない(この当時はです。いまはたまに話します。)」
NOさん「MEちゃんってどんな子?」
シャーマン「野生的な子」NOさん「野生的な子ってどんな子??」
シャーマン「自由な子」NOさん「自由な子ってどんな子??」
シャーマン「わかんないよ」
NOさん「MEちゃんのお父さんとお母さんは誰?」
シャーマン「お母さんは分からないけどお父さんはMASAYAさんと思うよ」
NOさん「MASAYAさんの本名は?」
シャーマン「まさやさんです」
NOさん「MEちゃんとはどんな遊びをするの?」
シャーマン「ビデオを見たり、絵を書いたり、追いかけっこしたりする」
NOさん「Sちゃんって誰?」
シャーマン「妹1ちゃんです。」
NOさん「ブーちゃんって誰?」
シャーマン「ブーちゃんマンです。」
NOさん「妹1ちゃんたちとはどんな遊びをするの?」
シャーマン「ビデオを見たり、絵を書いたり、追いかけっこしたりする」
NOさん「SちゃんとブーちゃんとMEちゃんの本名は?」
シャーマン「Sちゃんは妹1ちゃん、ブーちゃんはブーちゃんマン、MEちゃんは
MEちゃん。」
NOさん「えっ!!!!MEちゃんって本名なの?!」
シャーマン「そうだよ」
NOさん「他にあだ名みたいなひとっていますか?」
シャーマン「そんなの知りません。」
NOさん「Sちゃんやブーちゃんのやっているお手伝いって分かる?」
シャーマン「知らないよ」
NOさん「Sちゃんやブーちゃんはなにかお仕事してるの?」
シャーマン「してないよ。ただお手伝いしているだけだよ。時々きまぐれに。」
NOさん「シャーマンちゃんのやっているお手伝いって何?」
シャーマン「資料のコピーと封筒の糊付けをしたことがある」
NOさん「コピーって何十枚とか何枚とかなの?」
シャーマン「何十枚とかはないけど、何枚かはあるよ。」
NOさん「封筒の糊付けって…封筒作っているの??(真剣な顔でこんなこと言っています。)」
シャーマン「そんなのしていません!!」
NOさん「封筒の糊付けって、中身を入れて、糊付けするの?」
シャーマン「大人が中身を入れて、私が糊付けするんだよ」
NOさん「あぁ〜〜〜封をするんだね!!!(ジェスチャーつきで、納得していました。)」
NOさん「妹1ちゃんはSちゃんって呼ぶんだよね、ブーちゃんマンはブーちゃんって呼ぶんだよね。MEちゃんはMEってよぶんだよね…じゃあシャーマンちゃんは??」
シャーマン「そりゃあ普通にシャーマンちゃんだよ」
NOさん「シャーマンちゃんたちはホームオブハートと関係があるの??」
シャーマン「ないよ」
NOさん「やどちゃんはトシオフィスに行ってるときどうしているの??」
シャーマン「ベビーサークルの中にいるよ」
NOさん「やどちゃんがかわいそうだと思わないの?」
シャーマン「思わないよ。だって普通に外に出ているから」
NOさん「やどちゃんと二人っきりになることはあるの??」
シャーマン「ないよ」
NOさん「やどちゃんはシャーマンちゃんが見ているの??」
シャーマン「ちがうよ」
NOさん「やどちゃんのオムツ換えとかしたことあるの?」
シャーマン「オムツ換えとかはないけど、のどが渇いたときにお水とかはあげられるからしていたよ」
NOさん「今トシオフィスはお母さん以外には何人いるの?」
シャーマン「EさんTmamaさんANちゃんの3人」
NOさん「やどちゃんのお母さんは誰?」
シャーマン「Tmamaさん」
NOさん「Tmamaさんの苗字は?」
シャーマン「Tmamaさん」
NOさん「トシオフィスの仕事って?」
シャーマン「CDを売ってる」
NOさん「トシオフィスの社長さんは誰?」
シャーマン「Toshiっていう人」
NOさん「Toshiさんの奥さんって知ってる?」
シャーマン「知りません」
NOさん「Toshiさんにあったことある?」
シャーマン「ちょっとだけある」
NOさん「どこで会ったの?」
シャーマン「ライブで会った」
NOさん「ライブはどこであったの?」
シャーマン「多久で」
NOさん「多久ってどこ?」
シャーマン「福岡の方」
NOさん「社長さんはいつも会社にいるの?」
シャーマン「ずっといない」
NOさん「セミナーに行ったことある?」
シャーマン「ありません」
NOさん「お母さんたちが出かけているときはどうしているの?」
シャーマン「Kkさんとか誰かがいたので、一人になったことはない。」
NOさん「学校へ行ってないときおうちではどういう風にしているの?」
シャーマン「チャレンジで勉強したり、テレビ見たり、自転車乗りしていた。」
NOさん「どんなテレビを見ているの?」
シャーマン「"ふたりはプリキュア"とか見てた」
NOさん「近くに公園とかあるの?」
シャーマン「あるけど行ったことない」
NOさん「大人の人にあまり遠くに行かないでねとか言われているの?」
シャーマン「言われていない」
NOさん「最高、子供たちだけでどこまで行ったことがある?」
シャーマン「セブンイレブンとか」
NOさん「黒磯でのお友達はいるの?」
シャーマン「Dちゃん」
NOさん「一番近くにいる友達は誰?」
シャーマン「Sちゃん、ブーちゃん、MEちゃん」
NOさん「ここでも夜更かししているの?」
シャーマン「うん」
NOさん「うそ!!」
シャーマン「前は1時とか2時とかまで起きてたけど、今は12時ごろにねるよ」
NOさん「そうなんだ。ふーん。じゃあ、今日はこれで終わり!!」
第5-2
6 6月16日 事情聴取第二回目
NOさん MASAYAさんのコンサートには何回行った?
シャーマン 2回ぐらい
NOさん どこですか?
シャーマン 二つとも東京
NOさん MASAYAさんの話を聞いたことある?
シャーマン ちょっとだけ
NOさん どんなことをはなした?
シャーマン 忘れた
NOさん K君がおじいちゃんのところに帰った理由はしってる?
シャーマン 知らない
NOさん K君がおじいちゃんのところに帰ってから電話で話したことある?
シャーマン ないよ
NOさん 黒磯に来たときのことなんだけど毎日何してるの?
シャーマン 自転車乗ったり、TV見たりしてた。
NOさん 学校に行きなさいとか言われないの?
シャーマン 言われないよ。
NOさん どうして学校に行きたくないの?
シャーマン だって行きたくないもん、つまんないし。
NOさん お母さんたちがオフィスにいるとき、ヤドちゃんはどこにいたの?
シャーマン Kkさんの家
NOさん そのときのベビーサークルの高さは?
シャーマン (立ち上がって当時の私の腰のあたりを指差して)これくらいだよ。もうちょっと下かなぁ。
NOさん 50cmぐらいかな。何でできてるの?
シャーマン TVの箱をつなぎ合わせたようなものだよ。
NOさん 上と下(蓋と底)かあるの?
シャーマン ない
NOさん その中には何が入っているの?
シャーマン 布団とタオル
NOさん おもちゃは無いの?
シャーマン ない
NOさん こっちへ来てから勉強はどうしてるの?
シャーマン チャレンジ(学習教材)やってる。
NOさん これからどうですか?
シャーマン 「A館」((適応指導教室のことです。)
NOさん Dちゃんは何かお手伝いしてたの?
シャーマン わかんない。
NOさん シャーマンちゃんはお掃除とか洗濯とかどうしてるの?
シャーマン 洗濯物は、洗濯機が止まったらお母さんに電話してちょっと手伝ったりするし、お掃除はお母さんが朝やってるからしなくていい。
第15 6月18日黒磯署での事情聴取
NOさん MASAYAさんに怒られたことはある?
シャーマン ない
NOさん MEちゃんはどんな子?
シャーマン 野生的な子
NOさん 野生的な子ってどんな子?
シャーマン 動物みたいな子
NOさん それって人間らしくないってこと?!
シャーマン そうじゃなくって、表情豊かな子。
NOさん 表情豊かってどんな?
シャーマン 明るい子。
NOさん 感情豊かってしってる?
シャーマン&妹1:しらなーい!!
NOさん 嬉しいときは笑ったり、悲しいときは泣いたりすることを感情豊かっていうんだよ。
シャーマン&妹1:ふ〜〜〜ん。そうそれ
NOさん MEちゃんって怒ったときすごい暴れるの??
シャーマン そんなことないよー ねっSちゃん。
私の脇にいた妹1ちゃんが「うんうん、そうだよ」と頷きました。
NOさん Sちゃんたちがやっているお手伝いってなにか知ってる?
シャーマン 知らない。
NOさん MASAYAさんの部屋に入ったことある?
シャーマン ない
NOさん MASAYAさんはホームオブハートの社長さんなの?
シャーマン 社長さんじゃないことは知ってるけど。
NOさん MASAYAさんはなにやっている人?
シャーマン トシさんとかの音楽をプロデュースしたりしている人だよ。
NOさん プロデュースってどういう意味か知ってる?
シャーマン 知らない。
NOさん MASAYAさんって歌手?
シャーマン 歌手ではないと思う。
NOさん MASAYAさんの曲のジャンルって何?
シャーマン 癒し。
NOさん 歌ってみてよ。(MASAYAさんの歌をです。)
シャーマン&妹1:えぇーーーーーーいやだーーーー!!
NOさん 歌ってよ〜〜おじちゃん聞いたことないからさ〜
シャーマン&妹1:いやだー歌わなーーい!!
NOさん ブーちゃんの下の妹さんを見たことある?
シャーマン ある。
NOさん ブーちゃんの下の妹さんはどこで見た?
シャーマン ハイランド。
NOさん ブーちゃんの下の妹さんはどこに住んでいるの?
シャーマン ハイランド
NOさん MASAYAさんと話したことある?
シャーマン ちょっとだけ話した。
NOさん どんなことを話した?
シャーマン また来る?と話した。
NOさん MASAYAさんのことをどう思う?
シャーマン う〜ん……
NOさん 妹1ちゃんたちとどんなことして遊ぶ?
シャーマン 絵を書いたり追いかけっこしたりしてる。
NOさん テレビは何を見ている?
シャーマン 「ONEPIECE」とか「コナン」とかを見ている
NOさん 「ふたりはプリキュア」とかでしょ?
NOさん ビデオはなに見ているの?
シャーマン 「ルパン三世」とか「リトルマーメイド」とか「天空の城ラピュタ」とかみ見てる。
NOさん 本は何を読んでいるの?
シャーマン 「星の王子様」とかあとはう〜ん…
NOさん 本のジャンルは何?
シャーマン 小説。
NOさん 最近買ってもらった本は?
シャーマン う〜ん……
NOさん シャーマンちゃんの将来というかこれから先のことはどう考えているの?
シャーマン トシオフィスか、ホームオブハートに就職する
第16 6月23日 黒磯署事情聴取
この日は、いよいよ最終日でした。最後に、確認のために聞かれたことはつぎのとおりです。昔の記録から再現します。
Q:妹1ちゃんたちが働いたりしているところを見たことがある?(またこの質問…)
A:ありません
Q:ヤドカリちゃんが入ってた箱はどれくらいの大きさ?
A:「箱」じゃないけど…腰よりちょっと下。
Q:ブーちゃんマンや妹1ちゃんがどんなお手伝いをしているか知ってる?
答え 知りません。
Q:MASAYAさんからなにかいわれたことある?
答え はい。「また遊びに来てね〜!!」といわれた。
Q:MASAYAさんのお部屋に入ったことある??
A:はいったことない。
Q:これから学校に通う気持ちはありますか?
A:ありません。
Q:MASAYAさんのことはどう思うか?
A:好きでも嫌いでもありません。でも、大切な人です。
こうして、長い事情聴取がやっと終わりました。最後にNOさんの似顔絵を描いたら、とても喜んでくれました。お母さんに刑事さんたちが言っていたらしいのですが、こうして実際の私の姿を見たことで、この事件がすべて嘘だった、という確信を持った。ということを、警察の人達ははっきりと、言っていたそうです。
第6
第17 おわりに
真っ当な会社を、宗教や団体、施設に見たてて、自分達は正義の味方なんだと言ってこの事件を作り、嘘を付いて裁判官を騙し、裁判に勝って会社を潰して人々を苦しめ、金儲けをすること、そんな人に、私達は利用されました。自分の仕事を彼はこうしてしていたのです。「子供達はマインドコントロールされている。子供達のためにも保護するべきだ。」なんて、馬鹿なこと言わないでよっていいたいことをまだ言っています。でも実際は、紀藤弁護士達本人がそうやって日本中をマインドコントロールし、公的機関を騙して動かしてしまったこと、本当なら行かなくて良かったはずの場所に私達は連れていかれ、紀藤達の嘘を信じこまされマインドコントロールされた人達は、やっと何ヶ月もかかって分かってくれました。でも出てくると、ホームページや、ブログなどのありとあらゆる所に、「Toshiが悪いんだ。」「MASAYAが悪いんだ」「あんな会社潰れてしまえ。」などのひどい言葉が書かれていて、逆に「紀藤弁護士のことを応援してます。」「紀藤弁護士は勇気ある弁護士。」と言うようなことが書かれていて、怒りに体は震えました。
私は、この事件を引き起こしたYy、Kk、Ca、そして紀藤弁護士のことを、絶対に許しません。
私の文章を読んだ皆様にはもうわかることだと思いますが、私は本当に小さいことから沢山の出来事を経験してきました。お母さんと言い合いになって、包丁を取り出してしまったことを、何よりも悔やんでいたし、そんな自分のことがとても悲しかった。
そして、学校に通い続けることも嫌いになりましたが、どうしても、私の心は晴れないままでした。
その重荷が、やっと軽くなったのは、ToshiさんやMASAYAさんと出会えたおかげです。私は、本当に心が楽になりました。
そして、ずっと怒っていたお母さんの、幸せそうな笑顔を見ることができました。そして、そんな私を応援してくれる、ずっと信じていてくれるスタッフの方達に囲まれて、一番欲しかった本当に幸せな生活を、やっと手にすることができました。その一方で、Yyたちは私を怒鳴り、責めて、苦しめました。Kkは、自分だけ何もしないでおきながら、大切なものを全部盗み取っていきました。そして、私の大切な人を悪者に仕立て上げ、私達子供を刑務所のような施設に2ヶ月間も閉じ込めました。
まだ小さいT君、ブーちゃんの下の妹さんはビックリすることに8ヶ月間も、お母さんやお姉ちゃん達から引き離されて過ごしました。私は保護所に入れられている間、本当につらかったし、悲しかった。ご飯の量すら、みんな決まっていて、私達子供の個性なんて、全く無視された。こんな生活が、あんたの言う「保護」ですか。あんたの子供にしてみたら?やってみなさいよ。お母さんにすら、ほとんど会えなかった。言いたいことを言いたくても、周り中が、この紀藤たちにすっかり騙されて、私のことを「この子は虐待された子供なんだ。だから、私達が助けるんだ。」と完全に思い込んでいる人間しかいなくて、私の意志や思いをちゃんと受け取ってくれる人なんて一人も、ほんとに一人もいませんでした。みんなちょっとしたことでも、「大丈夫?」とか「困ったことはない?」とうわべのやさしさで言い寄ってくるだけで、決して私の意思をちゃんと理解してくれる人なんていませんでした。
そんなところに強制的に入れられたことが悔しくて、悔しくて、毎晩涙をこらえながら、2ヶ月間過ごしました。やっとの思いで一時保護所から帰っても、元のようにT君に会うことは許されませんでした。私は黒磯に引っ越してきた時からずっと、弟のように可愛がっていました。初めてT君に会った頃はまだ1歳で、ハイハイしかできなかったのですが、私と弟は本当の弟のように可愛がり、初めてT君が立った時は、「立った!Tが立ったー!!!」と、私と弟でT君を抱っこしてTmamaさんのところまで連れて行き、「T君が立ったよー!!」と大喜びで知らせました。だから、私は一時保護所を出たら真っ先に「お母さんとT君に会いたい。」と思っていました。「T君、どうしてるかな・・・・。」と片時も忘れたことがありませんでした。でも、可哀相な事にT君は乳児院に入れられたまま。会いに行きたかったのに「家族」じゃないからダメだと、止められた。もう悔しくて悔しくて涙がとまりませんでした。仕方なく、ブーちゃんの下の妹さんに会いに行く、ブーちゃんマンや妹1ちゃんに「写真を撮ってきてほしい。」と頼んで、撮ってきてもらいましたが、これのどこが幸せな生活ですか。監禁生活じゃないですか。何度も何度も言いますが、私達を虐待し、監禁したのはおまえたちだ。と私は声を大にして言いたい。どんなに口止めされようが、何されようが、私は絶対に許さない。こんなにも、事実をねじ曲げて作り、これがまかり通ってしまうなんて信じられない。気持ち悪くて、ほんとに吐き気がする。バカヤロ!!私達子供は、自分の意思で生きているんだ。学校に行かない道を自ら選んだんだ。それをお前達は自分の金儲けだとか、名誉だとか、てめえ達のカツ上げのために、利用しやがって。絶対に許すもんか。弁護士だあ?笑わせるな。こんなことを平気でやる、血も涙も無いような人間、こんなやつが今も弁護士でいいのでしょうか。こんな人達が、いれるような社会でいいのでしょうか。法律は、社会をよくするために作られたものではないのですか。いつこんな悪徳弁護士や嘘つき犯罪者、カツ上げ軍団がいられるような社会になってしまったのでしょうか。私の言いたいことはもっと沢山ありますが、とても全部を文章として表現しきれません。
一旦ここで終えますが、私は機会さえあれば、皆様の前ですべての真実を明らかにしたいと思いますし、真実が明らかになるその日まで、戦い続けたいと思います。