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第一 はじめに
※文中に一部、間違いがありました。m(_ _)m(12月18日)
1 私は、H.Mと申します。
平成12年3月から、株式会社ホームオブハート(以下、「ホ−ムオブハート」といいます。)の経営していた鹿児島県屋久島のホテル(「のりのりの小さな美術館ホテル」)の従業員であった者です。今は後述の児童虐待通告を契機とした、過熱したマスコミ報道、度重なる営業妨害宣伝行為のため、このホテルは閉鎖しております。やむを得ず現在は、栃木県那須郡那須町のホームオブハート本社に勤務しております。なお、この美術館ホテルの概要や、おもてなしの精神、コンセプト等については、現在残っているパンフレットを本陳述書末尾に添付しますので、是非ごらんいただきたいと存じます(添付1 パンフレット)。決して、この美術館ホテルが、児童を虐待したり、児童を教育から遠ざけるような思想を持つ者によって企画、維持されてきたようなものではないことを、是非おわかりいただきたいと存じます。寧ろ、このホテルは、訪れるお客様お一人お一人に、原点に戻り安らいでいただく場所でありました。
2 また、私がこのホテルに勤務するようになった経緯も、実はホームオブハートの企業としての在り方に深く関わっているものでした。この点につきましても、私のこれまでの半生を詳しくご説明させていただいた後、ご説明させていただきたいと存じます。ただ、私のことをお話する前に、一言申し上げておきたいこともございます。それは、「児童虐待」の事実無根、そしてまたホームオブハートの行っているセミナーのどこにも暴力性がないことは、既に児童相談所、黒磯警察署(現:那須塩原警察署)、宇都宮地方検察庁、東京地方検察庁ではお判りいただいてきました。そして、通告者らには重々承知の事であるにも拘わらず、私どものプライバシーのとても多くをこうした形で公にしなければ、この虚偽の申立を私ども国民がもっとも信頼を寄せる裁判所だけにはわかっていただけていない、という現実です。
第2 弁護士紀藤正樹、Yy氏に児童虐待通告をされて
1 私は平成16年4月7日、弁護士の紀藤正樹(以下、「紀藤」といいます。)と、以前株式会社トシオフィス(以下、「トシオフィス」といいます。)の外部従業員であったY.Y(以下、「Yy氏」といいます。)の両名により、栃木県の県北児童相談所にホームオブハート及びトシオフィスのスタッフ、勤務している親達が児童虐待をしているとの通告(以下、この通告の関係で紀藤及びYy氏を併せて述べる場合、「通告者ら」ということがあります。)により、私の子供である長女ブーちゃんマン、次女ねずみ、三女Cを、保護されてしまった母親です。
2
(1) 通告者らの児童虐待通告についての詳しい内容、そしてまたそれに、どのようなもっともらしい証拠が添えられていたのか等は、私には判りません。しかし、私の子供も含め、拘束された子供達は弁護士を通じ、児童相談所等から、この通告者らの申立内容の全貌、添付資料を明らかにして貰うこととして児童相談所にも相談に行って助言をいただいて参りました。しかるべき資料を手に入れて、公の場で明らかにされることと思います。
(2) 斯様な子供たちの活動はともかくとして、これまでの報道内容や、私たちが事情聴取を受けた際の児童相談所、警察署の方からのお話では、子供を私たちは段ボールに入れて育てているとか、子供を学校には行かせない、子供たちに労働を強制する、子供たちに充分な食事を与えないなどの思想を、ホームオブハートや倉渕透(MASAYA)氏、私たち子供の親は持っている、などというもののように思えます。
(3) これが濡れ衣であったことは、その後の調査の中で、直接担当してきた「県北児童相談所」、或いは子供達を一時保護していた「一時保護所」では、比較的早期におわかりいただけたと思います。また、併せて児童虐待を刑事告発もされておりましたが、これも同様、被害者なき告発として、黒磯警察署、宇都宮地方検察庁にもご理解を頂けました。
(4) 不起訴処分という、当然の結果に行き着くのに、時間もかかりました。これはその間の私どもの懸命の弁明、そして調査がされるあいだにも、先の通告者らは執拗に書面の送付、県議会議員等を通じた関係部署への圧力、直接の児童相談所への架電等、通告者らが繰り返し行って来たことの影響があると思います。また、更には、通告者らが、いずれも直接テレビ出演を行い、「1年間の調査を行い、ホームオブハートで、段ボール内に幼児を閉じこめるのが当たり前」の教育方針であるなどと発言し続けました。これを受けた各テレビ局も、私どもの反論を冷静に受け止めることなく、否定コメントを非常識な者が逃れようのない、無駄な抵抗の虚偽を述べたてているに過ぎないと、犯人と断定する番組構成を行い、徹底的なバッシングを行って参りました。
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(1) 私の場合には、冒頭述べました屋久島のホテルで就業中、一般の女性のお客様と思い、いつもどおり接していた会話が、実際は隠し撮りされておりました。そして、その翌日、県北児童相談所が有無を言わさずに子供達を連れ去ったこと(拒絶すれば逮捕、親権剥奪とまで言われています)に驚き、急遽那須に向かう私を、件(くだん)の女性が、何も判らずに気が動転している私にいきなりマイクを突きつけ、「児童虐待」がなされたものとしての言葉を投げつけ、詰(なじ)り、詰め寄る取材をしました。まるで私が犯罪者とするものです。しかも、テレビでは、「調査に入った児童相談所の職員が見たものは、段ボールの中で育てられている子供でした」などという、報道すらも為されました。一体、どこの誰がこのようなものを見たというのでしょうか。
(2) このようなテレビ局の事前の「取材」活動や、事後の報道内容の予定などは、かの弁護士と相通じていなければできないことと思います。このような報道が、子供の人権のため、その擁護の任にあたる弁護士の所業として、正当なのでしょうか。もしそのようなことなら、児童相談所が、陣頭指揮を執られるべきことではないでしょうか。百歩譲って、本件が本当に児童虐待の事案であったとしたなら、どうでしょうか。それでも児童の人権は、十分に配慮されるべきことなのではないでしょうか。これは目や顔にモザイクを入れればことはすむようなことでしょうか。映像を垂れ流したいテレビ局はともかくとして、通告者らのうち、かの弁護士の人権感覚とは、その程度のものなのでしょうか。
(3) こうした扇動的なテレビ報道、バラエティ番組の恰好の題材とされた結果、馬鹿馬鹿しいまで、段ボール保育に象徴される誤った認識が、真の事実関係を掴みつつあった児童相談所や一時保護所の外部(これは、その上級官庁を含み、県議会議員及び県議会さえ含みます)では、既成事実化して議論の前提となりました。そして、あろうことか、少しでも通告者らの見解と異なる報道を行った新聞社には、直ちに訂正報道を求める内容証明郵便がかの弁護士によって送りつけられるという事態(添付2 通知書)となっています。
(4) そして通告者らの描く観点に従って、「事件」を「被虐待」児童の祖父母、すなわち私たち保護者の両親に説明し、「このままでは死人が出ますよ、それでもあなたはいいのですか」など、極めてエキセントリックに、疑問を感じて彼が参加を呼びかける会への協力を渋る両親(子供達の祖父母)に、自分の活動への協力を迫ってきました。これは今日、私たちが直接両親(子供達の祖父母)に聞いて判っていることです。テレビ番組で目にする「著名」な「弁護士」の言い分に、自分たちの了解している事実とのギャップから、心に激しい動揺を感じつつも、これには多くの両親(子供達の祖父母)らは、子供を救いたいとの純粋さよりも、いかがわしさを感じ、屈することなく私たちを信じてくれました。勿論、それが正しい選択であったことは、結果が証明しています。
4 現実の面接調査から真実に接した現場の職員の方は、後に私たちに現実に課されたまでのレベルにまで、その負担(これでさえ、事実からするならば、本来不当です。しかし、子供の体を一刻も早く取り返すため、断腸の思いで受け入れたことです。こうしなければ、帰ることは更に遅れたでしょう。その意味で、私は子供は人質でしたと、断言します。)の程度を下げることでさえ、「テレビに出ている」、「著名な」、「弁護士」さんの「現認している」との話し、「手をこまねいていては死人がでる」との言葉を当初は信じ切り、この新たな法律での初の適用事例として踏み込み、その後の過程でも恐らく同様の脅し文句を浴びせられつつ、その処理に当たらなければならない場面に直面したことと思います。今日現在もなお、虐待事実はあると主張し続ける「法律家」を前に、相当の苦労をされたことでしょう。また、この通告者ら(刑事告発者ら)は、宇都宮地方検察庁が、この通告者らが望むとは全く逆に、不起訴処分を内容とする終局処分をしようとしていることを察知すると、更に大量の資料を送付するなどとして、その終局処分遅延を図っておりました。
5 特にテレビ番組で紹介された段ボールでの子育てについては、全くの濡れ衣であるばかりか、寧ろ今では、紀藤弁護士が現在代理人となり、株式会社ホームオブハート及び株式会社トシオフィスを被告として訴訟を提起している、「K.K氏」その人が、株式会社トシオフィススタッフの子供に対する虐待行為として行ったこと、それをトシオフィスの行為だとしたのでないかということすらわかっています。そして今後は、この点を証明し、これが単なる私たちへの意図的な不法行為、攻撃行為に過ぎないことを、訴えるつもりです。通告を為した者として、児童相談所から、或いは刑事告発を為した者として地方検察庁から、事件の調査もしくは捜査の概要を聞き、およそ彼らが組み立てようとした事実が、そのとおりの虐待事件として、各官庁によって処理される余地がないことを知った後も、執拗に、事件化を図ろうとされたことも相まって、最終的な宇都宮地方検察庁での不起訴処分も遅れました。そのために大きく全国にテレビ報道等がなされた後の名ばかりの名誉回復も大変に遅れてしまいました。直接の被害は、私達の子供、そして親である私達です。そして子供のことで話題を攫って、ホ−ムオブハート及びトシオフィスへの攻撃をしようとされた、そう言うことではないでしょうか。私は係争に巻き込まれることは真っ平です。しかし、人間として、人の親として、この通告者ら、テレビ局を、断じて許すことは出来ません。ですから、私たち自身で、紀藤弁護士、Yy氏、Aテレビその他のテレビ局を訴えたい、既存のホ−ムオブハートやトシオフィスが当事者となっている中での添え物ではなく、私たちの人権が白昼堂々と侵害されたことを、きちんと裁判所に判っておいていただきたい。そう思って来ました。これまで、MASAYAさんも含めて、いろいろな方から、あのような連中を相手にするなと言われてきました。しかし、私たち親の誰もが、最も切実な被害者が最も放置され、裁判官の方にも勝手な憶測で判断をされてしまったと思っています。
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(1) 「児童虐待」は、人間として誰もが激しい怒りをあらわにせざるを得ないものです。この通告のため、子供達はごく普通の生活から、正に不当な拘束をされる生活を、親もまた一日とて子供のことを考えない日はない日々を送ることを、余儀なくされました。よく、「筆舌に尽くし難い」という言い回しが用いられることがあります。正に、私たちが出遭ったのは、この「筆舌に尽くし難い」出来事です。
(2) 子供達が個々に、どのような時間をその間に過ごしたのか、誰もが噛みしめていただきたい、そう思います。子供達の目から、普段はどのような生活を送っていたのか、児童相談所、一時保護所では、どのような生活に変わり、どのような毎日を過ごし、担当者らからはどのような調査がなされ、或いは本件についてどのような言葉を聞いていたか。社会から強権的に何故これほどの理不尽を押し付けられねばならないのか、子供達がどれほどの悔しい、何よりも人生で最初の「不条理」の時間を過ごしたことか。 丁度、フランツ・カフカの小説「審判」の如き事態が、「基本的人権を擁護する」、その「弁護士」の手によって、衆人環視はおろか全国ネットで放送される中、突然私たちの身に起こったものです。
(3) Yy氏には、私が知る限り子供がありませんし、もとより実体をよくよく承知の上で、真実を隠し遂せると思っての通告です。失敗したとは思っても、子供達の痛みについて、この人が何も感じることはないでしょう。しかし、紀藤正樹氏は、それが娘さんであるか、息子さんであるか存じませんが、その子供にこのような事態を生起せしめられたとき、黙っていることが果たして出来るでしょうか。
(4) 関係諸機関におかれては、よくよく今回の事態を理解していただき、二度とこのような行動を、かの弁護士が行うことのないよう、そしてまた、真実子供の人権、特に生命、身体の自由(時に、子供の良心の自由にも関係することと思います。)を守る積もりで行おうとしているものであるのか否か、まさか別の意図をもって斯様な申立を行うものではないかどうかを、きちんと見極めをしていただきたいと思います。
(5) 本件で子供と親に生じた心的外傷は、誰かにまたこのような目に遭わされるのではないかという不安もさることながら、一向に謝罪も反省も一切しない、かの弁護士に対するものが極めて大きいものです。まだこのような方が仕事をしておられるのでしょうか。私は、私と子供らへの思いを残した逝った夫に、今回の事態をどう説明すればよいのか、判りません。父親でありながら、娘の学校行事には、父親が参加できるものは全て参加してきた、「超」のつく子煩悩な親であった亡き夫はどう思うだろうか、それが私の今の視点です。
第3 私と家族のこれまでのこと、エアハード及び倉渕透氏のセミナーについて
1.「児童虐待」においての調査内容は、子供達の日常の住まい方はもとよりですが、それがホームオブハート、倉渕透(MASAYA)氏のセミナーをも通じた教育観とされました。従って、驚くほど聞かれる内容は、セミナーそのものがどのようなものであったかに集中していました。そして、子供はこれを受けることを強要されていたのか、そして現実に子供が学校に行っていない理由は何であったか(そのような考え方をホ−ムオブハートがもっているのか)等が聞かれています。とにかく、全く誤った観点からの質問が最初続いたこと、一体なんでそんな質問になるのか、誰もが閉口しました。これは申し立て内容そのものがおそらくは、ホームオブハートのセミナーをきちんと理解していない者、或いは殊更にこれを問題あるものと仕立て上げたことによるものと思ってきましたが、現在はその何れでもあると考えています。
そのような意味でも、私と亡夫との間の子供の在り方がどのようであったか、そしてまた私と亡夫のセミナーとの関わりを述べておくことが必要と思いますので、私が彼と結婚した頃のことから、少し詳しくお話を始めたいと思います。
2.【夫との出会い、結婚】
(1) 私は、昭和39年11月5日、福島県いわき市に生まれました。そして、昭和60年3月、T大短大保育科を卒業して郷里に戻り、昭和60年4月から、福島県いわき市所在の「A幼稚園」で幼稚園教諭として勤めておりました。A幼稚園の理事長・園長からは、度々お見合いを勧められ、何回かお会いした方もおりましたが、どの方もあまりぴんとこなくて、お断りしていました。しかし、昭和62年夏の頃だったと思います。後に私の夫となるH.Hを、園長先生から紹介されました。これが私と夫の出会いです。
(2) 私はその笑顔がとても素敵に思え、誠実、真面目そうな人柄に惹かれました。今では娘にも笑われますが、見合結婚であったのに私は一目惚れでした。私たちは意気投合して交際を始め、昭和63年(1988年)3月27日に結婚致しました。結婚と同時にA幼稚園を退職し、専業主婦となりました。
(3) 結婚当時、夫の職業はT大学非水溶液化学研究所M研究室(現在は反応化学研究所。)の助手であり、理学部の文部教官でした。夫は当時仙台で一人住まいをしておりましたので、私が夫の借りていた二間(ま)の小さなアパートに引っ越し、二人の生活を始めました。仲人は件(くだん)の園長でしたし、私の実家、夫の実家ともにいわき市で互いに近在でしたので、仲人、両家の両親が皆仲がよいという関係にありました。というのも、夫の父は、小学校校長まで勤めあげた人でしたが、園長も小学校長を経て園長となった元同僚でした。夫の母も小学校の教師であり、私の父母も教師という職業をとても好感していたからです。そして、私たちの間には、平成元年(1989年)4月、長女が生まれています。
3.【セミナーと私たちの出会い ワーナー・エアハードのセミナー】
(1) 私と夫がワーナーエアハードのセミナーに参加するようになったのは全くひょんなことからでした。平成2年(1990年)10月ころだったと思いますが、長野県の飯田市で私の短大時代のサークルの友人の結婚式があり、私は一人で出席することになりました。このとき私は、仙台から東北新幹線で一旦東京に出て、それから高速バスで長野に行こうとしました。新幹線での移動中、郡山駅から乗車し、私の隣の席に座った人がありました。この人は東京出身で、白沢村に工場を持っておられるとのことでしたが、毎日東京都大田区の住まいから通勤しているというフットワークの軽い、バイタリティに溢れる人でした。私も福島出身でしたし、郡山は夫の父親の実家が田村で近かったことから話も弾みました。その方は、「K.H氏」という方でしたが、「これから新宿で自分の参加しているセミナーの説明会があるのですが、結婚式にゆくにはまだ時間もありそうですし、良かったら来てみませんか?」と誘われました。彼は、アメリカで、ワーナー・エアハードのセミナーに参加したことがあったようで、環境が全く変わらなくても、自分の見方を変え、わくわくするような生き方ができる、見えてくる世界は変わりますよ、というようなお話でした。私は都内の住まいと郡山の工場を行ったり来たりするフットワークと、何も身の回りの状況が変わらなくとも、生き方を変えられるという話が結びついて、本当にそうならそれは凄い話しだなととても興味を持ちました。私はワーナー・エアハードの名前も聞いたこともなく、セミナーと言われても何の予備知識もなかったのですが、長野の飯田までゆくには新宿で高速バス乗り換えでしたので、もともと多少の余裕をもって出ていました。それでバスを2本ほど後のものにすれば、Kさんの仰る説明会に出ることは出来ました。
(2) 私は夫にも子供にも恵まれ、一般的には何の不足もない状態の筈でした。しかし、専業主婦の過不足のない生活の中で、毎日が慌ただしく過ぎて行くばかりで、精神的にはどこか日々追われているようでありました。そして、良き夫があり、子供があり、お金があったとしても、何かまだ自分は幸せではない、という思いが心の奥底に正直なところありました。周りの状況や環境には何の変わりがなくとも、自分自身次第でわくわくする生き方が出来るという話の内容に打たれ、私は興味津々で説明会に参加してみたくなったのです。
(3) 今はもう細かいことまでは思い出せないのですが、この説明会で、自分は今の状態に不足を感じているのだと気付くことができたと思います。これまでの人生では、与えられた条件の中で、自分の受け止め方でしか考えることは出来なかったのですが、そこで言われるように自分の人生を見てゆくことは、率直に凄いことと感じました。これがワーナー・エアハードの説明会に出た私の感想です。後からわかったことですが、このKさんは、ホ−ムオブハートの倉渕透さん(以下、「MASAYAさん」といいます。)と、アメリカのフォーラム(ワーナー・エアハードのセミナー)という自己啓発セミナーに参加していたメンバーの一人だったそうです。道中の予定を変更してセミナーの説明会に出ていた私は、その説明会が終わり次第、急いで高速バスで飯田市へと向かい、無事に友人の結婚式出席を終えて、仙台のアパートに戻りました。
(4) 友人の結婚式から仙台に帰ったその日、日常生活に生かすために、限られた日程と金銭を費やすことは今からの人生にとって一番必要ではないかと感じられたこと、セミナー説明会で感じたそのままの感想を夫に伝えました。丁度そこにKさんから電話がありました。私がこのセミナーに今後参加するには夫にきちんと話しをし、お互いに理解をしないと参加できないことを言ってありました。それでKさんから、「それなら僕からご主人に説明しましょう」と、私が仙台に戻ったころに連絡を貰う約束をしてもらっていたのです。夫は、その電話でKさんからいろいろと話しを聞き、「じゃあ、すぐに僕も参加します」と、翌月、確か平成2年11月くらいだと思いますが、私より先に夫が「フォーラム」(添付3 パンフレット)というワーナー・エアハードのセミナーに参加しました。
(5) 夫は平成3年1月頃、T大学で理学博士(有機化学)の博士号をとりましたが、平成3年3月末で退官し、M化学株式会社(つくば研究所)に就職し、つくば学園都市に引っ越しをしました。夫の退職の理由ですが、そのままT大学に勤めることも出来ましたが、大学の枠の中で化学を続けるよりも、もうちょっと揉まれたいという気持ちから、企業に入ってみることにしたようです。夫も私と同じように、今のままでよいのかという疑問を持っていたのではないかと思います。夫の専攻は化学でしたが、化学を専攻した理由について、「偶々化学の成績が、ずば抜けてよかった。だから、そのまま何も考えずに大学、大学院へと進んでしまった。そう感じている自分がいる。それが本当に好きでやっているといえるか、疑問なんだ」といっていたからです。
(6) そして夫は「ワーナーのセミナーで、一番自分が感じたこと、それは自分は化学者だけれども、自分のやっていること、やっている分野、この頭脳が地球を汚染しているように感じていた。これがワーナーのセミナーでとても深く理解できたことだ」といっていました。そして夫は、「自分はその責任をとりたいと思った。だから、化学者はもうちょっと続けてみようと思う」ともいっていました。仕事については、彼は昔からプラモデルを作るのが好きでしたので「ゴジラ映画みたいのを作る、そんな仕事も実はしてみたかった」といっておりましたし、後日MASAYAさんの音楽に出会ってからは、こうしたCDを扱う仕事をしてみたかったとも話しておりました。ワーナーのセミナーを受けたころの夫は丁度、「本当に自分がやりたかったのは何だったんだろう」と自問自答を繰り返していた時期でもあったと思います。
4.
(1) 夫の後、平成3年(1991年)5月だったと思います。今度は私の番ということで、ブレイクスルーテクノロジーコース(フォーラムから名称が変わっていました)のセミナーに行きました(添付4 パンフレット)。参加者は200名前後であり、大きな会場にリーダー(K.Nさん)の席が前にあり、椅子が並んでいて参加者は椅子に座ってセミナーを受けました。参加者の年齢層、職業も幅広く、活気あふれるものでした。セミナーで私は、「今日のゲスト」として参加者に紹介されました。参加している間は、「誠実に参加する」というルールがあります。これは後々どのようなセミナーでも同じルールです。そうでなければ全くセミナーの意味はないからです。また、リーダーの指示に従って、指名されたら自分の体験や考えていることを誠実に話すということがグランドルールでした。挙手をし、指名された人がシェア(自分のことを話す)をするという、参加者主体のスタイルで進められていました。
(2) このセミナーでは、時代背景、経験によって、様々なとらえ方、見方のあることを知り、狭い範囲の見方、考えにとらわれているために右往左往しているのが私なのだと感じ取ることが出来ました。育った環境からくる自分の解釈の問題で、人のせいや周りのせいにしてそれで自分が苦しくなっていたことを知り、初めて肩の力が抜けて楽になりました。このワーナーのセミナーで気付いたことがあります。あることを実はいやだと思い続けながらもやる自分、そして人目を気にしてやり続けているのが自分だ、ということでした。そしてそれでよいのか疑問を持たずにやり続けてきたのが殆どだったということでした。
(3) 人生は待ったなしですから、自分次第の人生にとってどんなところから貢献してゆけるのか、毎日の中から気付いたり感じたりしながら生きてゆきたいと思い、実践できる3ヶ月のファーストシリーズと、ブレイクダウンシリーズを次に参加しました。幼い長女を、会場に連れての参加でした。2泊以上の単発のコースとしては、
CT1(シィティワン)−会話で違いを作るというテーマ
アドバンスコース−ヴィジョンからくる生き方についてのテーマ
に一人で参加しました。そのとき、周りに誰がいるかよくわかりませんでしたが、実際には後に知り合いとなる方が多数おられたようです。
(4) また、ブレイクスルーテクノロジーコースに参加する人のためのボランティアスタッフとして、会場作りやコース中の会場内の手伝いと、N.Rさんのチームの指示の元に参加させていただいていました。だんだんとお腹が苦しくなった妊娠7ヶ月くらいまではそうしていました。夫の方はといえば、もう少し続けていて、その後何度かワーナーのセミナーに行っていました。夫は、高学歴の人たちの多い仲間に入っておりました。何れにせよ、こうしたセミナーの受講は、夫も私も自分から参加したくて参加したものです。
(5) 私は、父方の叔父をブレイクスルーテクノロジーコースに誘った後、1991年(平成3年)10月上旬、身重になりましたので、ここでワーナーのセミナーに出るのは休みとなりました。また、夫は、ワーナーの説明会を仙台市内と平で(先のK氏を説明会リーダーに招いて)開いています。また、夫の父はブレイクスルーテクノロジーコースに参加しています。
5.【MASAYAさんのセミナー受講】
(1) 平成4年(1992年)4月、夫は転職先のM化学で、その新潟工場に転勤となりました。夫だけ一足先に新潟に単身赴任し、私は次女がまだ生まれたばかりでしたので、7月頃になって行ったのを覚えています。新潟駅に近いところのマンションを社宅として借り上げてくれていました。平成4年12月、丁度長女の幼稚園を探そうとしていた頃であったと記憶していますが、偶々ワーナーのセミナーで夫の仲間だった、先のN.Rさん(彼女はリーダーでもありました)から電話があり、「倉渕さんのセミナーがありますが、参加してみませんか?」と誘われました。私たちは二人とも、二つ返事で、「行きます」といいました。夫は今回も、「やっぱり僕が先に行きます」といって、私より先にそそくさと参加してしまいました。
(2) 夫はこうしてMASAYAさんのアイランドセルフトレーニングに参加し、MASAYAさんと松田賀江さん(以下、「のりえさん」といいます。)と初めて出会いました。夫は自然な生き方が大切だと思っている人でした。ですから、のりえさんの絵本や言葉、MASAYAさんの考え方にとても共鳴していました。そして夫はMASAYAさんのセルフトレーニングを受けて、「自分で自分の弱さを心の底から認めることができた、目から鱗が落ちたようだ」と、生き生きとした笑顔を取り戻してセルフトレーニングから帰ってきました。帰るなり私に、「素晴らしかったよ。あなたも是非行きなさい、子供は僕が見ているから、心おきなく行っていい。」と言ってくれました。
(3) それで、私もその年の2月、MASAYAさんのセミナーに行ってみることにしました。もの凄い大雪でしたが、セミナーは東京の茗荷谷で行われ、大変な人数の参加があり、ワーナーのセミナーとはまた全く違う、熱気と活気のあるものでした。会場には、椅子が5列くらいあり、参加者だけで30〜40人位はいたと思います。一人の参加者にいろいろな意味でのサポートをしてくれる人が5〜6人つきますから、会場は大人数の人であふれかえっていました。その時にはニューエイジといわれるような「おじさん」や、「おばさん」も沢山居りました。「社会を捨てた人間」というような話しをしていました。私自身、母親に反発しながら生きてきましたが、そういう人たちもいるのかと驚きましたが、殆ど私だけが一般の専業主婦のようでした。また、この会場ではワーナーのセミナー会場で会った方にも何人も会いました。
(4) N.Rさんから、倉渕さんのセミナーは、ワーナーよりも一つ一つを深めたものだと紹介されました。また、ワーナーのセミナーは椅子に座って受けるものでしたが、アイランドセルフトレーニングは、椅子に座っている場合もありますが、体を使ったり、動いたりするもので、体のエネルギーを出す側面もありました。でも、被控訴人やY.Yy氏が言うような、倉渕さんの前で、参加者皆が寝そべったり、俯せになったり、更にはその状態で叩かれたり踏まれたりするような場面もありません。「五体投地」という言葉をYy氏は使っているようですが、そのような用語も使われたこともなければ、人によってはそのような言葉も知らないと思います。ましてや、女性だけが特別扱いされ、男性は倉渕さんに近づくことができない、というようなことも、勿論ありません。このようなことを書かねばならないのはとても馬鹿馬鹿しいところと思いますが、特に指摘しておきます。
ワーナーのセミナーでは、例えば何かを思い出して泣きたい状態に自分がなり、どうにかしたいと思っても、そのままでした。しかし、倉渕さんのものは、泣きたかったらどうぞ泣いてください、殴りたい気持ちがそこにあれば、マットに向かってそれは発散させて見て下さいというもので、表現が幅広くなったと思います。セミナーの中で、「インディアンゲーム」など、いろいろなテーマがあり、参加者が椅子から立って向き合ったり、手と手を握り合ったり、鎮圧しているもの、これまで吐き出せなかったものを吐き出すもの(自分の胸の中に、意識、無意識のうちに収めているものを解放するもの)でした。これは、特にワーナー・エアハードのセミナーでは味わえなかったもので、頭の中が空っぽになる、そんな感覚でした。更に具体的に得られたものをお話しすると、私は小さい頃からの遠い遠い記憶で、足を使えないという感覚、動かせないという感覚をどこかに引きずっていました。もちろん、足が動かせないなどということはなく、寧ろ私は体育、音楽、美術を、学校時代5で通してきた人ですので、人よりもずっと活動的でした。しかし、私の感覚のどこかに、足を動かせない、挟まれている閉塞感がつきまとっていました。それを、倉渕さんのセミナーでは、思い切り動いてよい、動かして良いよといわれ、マットを思い切り蹴っていました。そこで初めて、私は股関節脱臼で、「リーメン」というバンドで足を固定されていたことがあったのですが、普段足を固定していて、お風呂に入るときだけ外していたとを母から聞かされたことがありました。その頃の制限感がずっと残っていたのでした。思い切りマットを蹴り続けることで、これがわかり、いつも頭のどこかに残っていた閉塞感はきれいに払拭されてしまい、それからはとても気持ちは爽快であり、ずるずるとした閉塞感から以後解放されています。私は、人間の気持ち、もっと大きく言えば人生はそうした小さい頃からの積み重ねで出来ているのではないだろうか、と考えるようになりました。
(5) 私は、旧家(海から10分くらい離れた山間の農村地帯であり、自宅は明治33年に建てられた古い家です。その昔農地を小作の方々に分けてあげた時代を経て、今も専業農家をしています。)出身であり、幼い頃、曾祖母と祖母は着物を縫う仕事をしていて、祖父と父と母は山仕事、畑仕事、水田の外に酪農(乳牛:ホルスタイン)に従事していました。私の幼い頃、兼業農家が殆どでしたから、専業農家は珍しいほどでした。農家の劣等感から、ありのまま、農家の自分たちの幸せを感じることなく、学歴が要るんだ、社会で言う偉い人がいいんだと、戦っている中に、私は生まれてきて、母親のような生き方はするものかと反発して生きてきました。弟も居ますので、始めから農業をすることはなく、農業の仕事を手伝ったことも、殆どありませんでした。
アイランドセルフトレーニングの中で、私(当時28歳でした)は、自分の中に、幼いままの子供がいて、祖父母、父母の会話で頭がいっぱいになっていることを知りました。既に死んでしまった曾祖母の生き方、祖母、祖父、父、母、そして幼い頃一緒にいた叔父たちの生き方を深く振り返ることが出来て、言葉では言えなかった思い(辛かったことやありがとうという感謝の言葉)を言うことができたのが、一番嬉しかったことでした。自分のふるさとを許せないで戦ってきたことを知りました。
(6) 夫は、そうしてMASAYAさん、松田賀江さんに出会って以来、本当に、夫が死んでしまうまで、お二方を尊敬していました。 夫はMASAYAさんの音楽も大いに気に入っておりました。丁度、私たちが参加したアイランドセルフトレーニングの後、平成5年(1993年)だったと思いますが、レムリアアイランドレコート(ホ−ムオブハート)のセミナースタッフのNTさんから、MASAYAさんがCDを出しましたよと聞き、すぐに送っていただきました。そのファーストアルバム「遙かなる道」でのMASAYAさんのヴォーカルを聞いたとき、夫は感動してその場で涙ぐんでいました。その後、「愛しき命の詩」、「胸いっぱいの言えぬ想い」と次々と出し続けたMASAYAさんのCDを買い続けていました。ヴォーカルCDばかりでしたが、全タイトル持っていました。MASAYAさんの音楽(CDで特にその中でも好んでいたのは「遥かなる道」でした。)や、松田賀江さんの絵や本がとても好きで、その絵は我が家に沢山飾ってありました。そのうちに夫は仕事も忙しくなり、MASAYAさんのところの「アイランドセルフトレーニング」にはあまりゆけなくなってしまっていました。しかし、その後もセミナーで知り合ったNTさんとは時々連絡をとりあっていました。松田さんが癌で亡くなったことを、夫はNTさんから聞き、本当に大変なショックをうけていました。
6.【人間ドックへ】
(1) 平成9年9月頃、夫は「最近なんだか、怠(だる)いから、泊まりがけの人間ドックできちんと調べたい」と、人間ドックを申し込みました。予約制でしたので、すぐに入ることはできず、現実に入れたのは、12月上旬頃でした。人間ドックの結果、胃に異変があるかもしれない、胃潰瘍かもしれないとのことで再検査を指示されました。再検査はN市民病院で12月末に行い、胃潰瘍ではなく、胃癌だ、ということがわかりました。夫はそれまでコンタクトレンズを使用していましたが、胃癌と言われて動揺してしまい、洗面所でコンタクトレンズを流してしまいました。帰ってくるなり、夫は「(人間ドックの)医者から、『あなたは奥さん居られますか?』」って言われたんだけど、何だろうな、と言っていました。この胃癌は切ってみないとちょっと様子がわからないということでした。
(2) 夫の体格はとてもよく、身長は176センチ、元気な頃の体重は85キロはありました。食べることが何より大好きな夫でした。しかし、その年の初めころだったでしょうか、これまでそんなことは全くなかったのに、お昼を残すようになったと言っていました。本人は「ダイエットだから」などと言ってもおりましたので、当時はあまり気にならなかったのですが、実際にはあの病気のため食欲が落ちていたんだろうと後から気が付きました。
(3) また、夫は時々接着剤のアロンアルファを作っている四国の会社に出張して製品を改良したりしていました。この会社に出張するには飛行機を利用しなければなりませんが、その時「飛行機の中で何故か必ず吐いちゃうんだ」といっていました。また、「お尻におできができたけれど、なかなか治らず、とても痛い」とか、水虫も治らない、とも言っていました。今にして思えば、そのどれもが癌の影響だったのだろうと思います。本当はとても辛かったのだろうと思います。後からスキルス性胃癌と判ったとき、私は、ずっと一緒に居たのに、これしきのこともわからなかったかのと、大変哀しかったです。
7.【入院・手術】
(1) N市民病院での再検査結果が胃癌でしたので、夫は、平成10年1月4日、N市民病院に手術のため入院しました。そして平成10年1月7日、胃癌の摘出手術をしました。担当医は、手術前は「胃の摘出だから大した手術ではない」と夫に言っていたようです。でも、いざお腹を開けると、胃癌は実際にはスキルス癌でした。そして、胃の下部に直径3ミリくらいの穴があいており、そこから胃の裏側に10センチくらいの大きさの癌が広がっていたとのことです。これでは内視鏡ではきれいに見えるし、レントゲンにもなかなか写らない、そのようなものだったそうです。そして、胃の中から外に出ているため、癌細胞が腹膜に広く播種していて、「まるで砂を播いたよう」な状態になってしまっていたそうです。
(2) 担当医らは、開けた夫のお腹を前に、「切るか、このまま閉じてしまうか」、掛けた麻酔が切れる寸前まで、その場で悩み続けていたようですが、最終的に胃を全部摘出しました。最初に言われた時間よりも大幅に手術の時間がかかり、うつらうつらと麻酔から覚醒してきた夫の意識は、頭上で交わされている医師たちの深刻な会話をとらえてしまいました。「僕の病気は随分悪いらしいよ」、手術室から戻った夫は、ぽつり、と私に言いました。私は直後に医師から受けていた正確な病状、特にあとどれくらい命が持つのか、直接医師らの会話を聞いてしまった夫に、何も隠すことはできず、長くて余命は1年くらいだと言われたこと、正式病名は「スキルス性胃癌腹膜播種」であり、胃粘膜外部に病変がバラバラに出来、発見が遅れがちのものであること、発見された時には手遅れのことが多く、腹膜への転移も早い、いわば極めてたちの悪いものだということを伝えました。
(3)その日を境に私の人生は変りました。これまでは、夜、横になれば朝まで何にも邪魔されずに、そのままぐっすり眠ることができました。でもこの日からは、夜中に何度も飛び起きてしまうようになりました。何ヶ月かの後、夫はいなくなってしまうかも知れない、いや、その日は確実にやってくる。自分だけがとり残され、夫がいなくなってしまう恐怖と毎日向き合うようになりました。
(4) 腹膜に広く癌が播種していましたので、根治することは出来ず、手術後の夫の入院は、抗ガン剤治療を中心とした、進行を遅らせるというだけのものとなりました。それでも、間もなく食べることもできなくなってしまうので、それまで抗ガン剤で叩いて少しでも早く食事ができるようにしたい、というのが医師団の考え方だったようです。でも、夫は、抗癌剤を使うとすぐに気持ちが悪くなってしまい、吐きたくなってしまうこと、そのために食事が出来なくなることをとても嫌がりました。抗ガン剤を4クールか3クールして、という予定だったのですが、1クール終わった時点で、抗ガン剤ではなく、民間療法に変えたいと夫は言っていました。今思えば、本当に医学、癌についての知識不足だったということなのですが、いくら医師から説明されても、完全に現代医学から見放された気持ちになり、抗癌剤も気持ちが悪くなり、食事が出来ないばかりで、ちっとも効かないと思ってしまいました。
(5) このような時に陥りがちなことと思いますが、アガリクス、プロポリス、気功、自然食等々、もう命が持たないといわれてしまったことから、手当たり次第なんでもやってみたいと思ってしまったのです。医師らは、言うことを聞かない夫や私を、必死に説得します。結局、最終的に殆ど喧嘩のようにして、退院してしまいました。これが2月の10日前後だったと思います。それでも、市民病院の内科医師は病院は目の前だから、いつでも来て欲しい、そう言ってくれました。
(6) もう治らない、確実に死ぬと宣言され、自宅に帰りましたが、あと一年の命かどうかは、もうどうでもいい、病院ではなく、ここ(自宅)で死なせて欲しい、というのが夫の願望でした。この頃の夫は、抗ガン剤で気持ちが悪くならなければ、まだ食べることは出来ました。しかし、退院後1ヶ月後くらいの3月中旬頃だったと思いますが、私の弟の結婚式が故郷のいわきであり、これに出席しました。その頃にはお膳に全く箸を付けられない状態になってしまっていました。そして、このころから10日以上を、自宅で大変な日を過ごしました。
(7) 退院後の夫の腸は、癌に侵されているために食べたものを便としてきちんと出すことができません。胃は全部摘出してしまったばかりでしたので、食べても消化も満足にはできない状態です。なんとか元気を付けようと食べても、すぐに気持ちが悪くなって吐いてしまう、その繰り返しでした。私は、何もすることもできず、ただ吐きたいなら吐いてと、夫の背中をさするばかりでした。一日のうちに、20回から30回吐いたと思います。民間療法を進めてくれた人は、吐くことが好転反応という人もいましたし、吐ききればよくなるよなどと言ってくれる人もいました。家の中の包丁は隠しておいてくれ、もう包丁で自分を刺してしまいたいと言われたときには、もうどうしてよいかわかりませんでした。
(8) 当時私には、とてもそのことに気が付く余裕はありませんでしたが、小さな家の中のことです。子供達は、来る日も来る日も、夜中も父が吐き続けている毎日が、とても怖かっただろうと思います。毎日毎日、口から入れたものを、また口から吐くしかありません。既に腹中に癌が転移していた夫はお腹も体も、少しでもさわるとひどく痛み、学校から帰った次女が、これまでいつもそうしてもらっていたように、夫に抱きつこうとしたことがありました。でも、「お腹が痛いから止めて!」と、止めました。これまで、無条件で抱き上げられていた次女は突然の夫の拒絶に、何が起きたのか、居場所を失って立ち竦んでいました。
(9) とてもこのままで、どうにかなるものとは思えませんでした。多分、夫としても内心どうすればよいか、皆目見当がつかなかったと思います。でも市民病院を喧嘩のようにして飛び出てしまった以上、夫には戻りたいと言う勇気はなく、「市民病院にもどろうよ」と夫に言っても、「抗ガン剤はしないと言ったから、帰りたくない、畳のここで死にたいんだ」と言いはりました。
(10) 私は夫に内緒で市民病院の内科、T先生に相談しました。「このままでは体は痩せてゆき、このままお腹が蛙のようになってしまう」からと、お父さんを騙すようだが、そう言ってでも連れてきなさい、と言われました。私は、もうこれはいよいよだなと思いました。そして、T先生の知り合いの、近くのE医院に連れて行き、本人にE先生からから説明をさせ、市民病院に行けと言ってもらうからとのことでした。私たちの住まいは、4階でしたから私が夫を背負い、車に乗せ、T先生に言われたとおり、E先生のところに連れて行きました。打ち合わせどおり、E先生から、市民病院行きを通告してもらい、市民病院に夫を何とか連れて行きました。
(11) 内科のT先生は、玄関で涙を目に一杯にためて私たちを待っていて下さいました。T先生からは、「もうこの状態では頭に栄養が行かず、この一晩で死ぬかも知れません、精一杯やりますが、覚悟していてください。」といわれました。腹水を抜き、点滴もやりました。それから抗ガン剤、これまで使っていなかったモルヒネも使いました。この再入院は3月27日、ちょうど10年目の結婚記念日でした。
(12) 何とか一命は取り留め、次に腸を動かそうとしましたが、結局駄目で、栄養は全て点滴で持たせる状況になりました。先般の胃癌摘出術については、「Hさんには申し訳ないが、手術は完全に失敗だった」と率直に言われました。スキルス性胃癌で、あのような状態になって胃を摘出してしまっては、栄養分の吸収力が落ちるため、体力は急激に落ちるからです。夫はもう覚悟を決めていたと思います。この先生は死を前に、もう気力しかないんだといい、好きなことを思う存分させる方針でした。ですから病室内に精密機器があってもビデオ、CDOKでした。6人部屋に最初のうちは入院していました。そして夫は個室に入るのは怖い、といっていました。ホスピスで個室に入る人は、死んでしまう人が入っていくので、入りたくないと言っていました。
(13) こうして、3月中旬以後から、夫は何も食べられない状態となりましたが、1日3リットルの点滴とモルヒネ、治療のおかげで生きることとなりました。こうして入れる輸液も、お腹の中が正常に機能していませんから、別の形で体外に出さなければなりません。これをチューブで通常はやるようですが、喉をチューブが通っているのは地獄のように苦しいと、夫は医師に殆ど土下座をして、それだけは止めて欲しいといっていました。やむをえず、やはり口から出すということになります。相部屋の方には申し訳なかったと思いますが、6人部屋で夫は毎日入れたものを吐いていました。それでも何とか元気になり、落ち着いた5月に、NTさんに連絡してMASAYAさんのCDを送って貰って欲しいと頼まれました。「森と風の旅人」の入っているCDが聞きたい、ということでした。電話番号を夫に聞き、屋久島のホテルに居たNTさんに連絡しました。すると、NTさんから、「何だか、体がだるいって、秋頃から言ってましたよ。」と言われ、NTさんには不調を実は訴えていたことがわかりました。その後、夫は株式会社ホームオブハート(当時、レムリアアイランドレコードという会社名でした)のスタッフのSTさんからも最新のアルバムも送っていただいて聴いておりました。それは「スィートフェアウェル」というタイトルのアルバムでした。
(14) 症状はどんどん進み、5月中旬の頃には、骨髄まで癌が進行しているので、全身を血液と共に癌が回るので、何があってもおかしくないですと、T先生から言われていました。この頃の夫の様子は子供達と写真に収まっています。笑顔が素敵で結婚した夫は、こんな時でも前と変わらずに笑いかけてくれています。
(15) 6月に一時帰宅できる機会がある、とのお話もありました。自宅に戻れるのはこれが最後になるので、是非そうさせてあげたい、との医師団の配慮でした。それで大丈夫なのか私が聞いても、点滴付、モルヒネ付、しかも時間を決めて看護婦さんを行かせるので何も心配は要らない、ということでした。しかし、夫はそれを断ってしまいました。病院は嫌だと一旦退院した夫でしたから、私は喜んで戻ってくれると思っていましたが、全く意外なことでした。子供たちにとっては自分が自宅にいて一室を占領していたら、友達と遊べなくなるから、というのがその理由でした。或いはもっと辛くなってしまうと思ったのかも知れません。体重もどんどん減っている状態にあり、7月に入ってからは50sを切りました。歩くのにも、相当体力を使うようになりましたので、お風呂に入ったり、歩く時は車椅子を借りていました。トイレは一人で行っており、死ぬ日の朝まで、歩いてゆきました。
(16) 7月末に子供たちのバレエの発表会がN県民会館大ホールであり、子供たちはお父さんに見て貰うんだと張り切ってレッスンをしていました。しかし夫は病院内7階から1階まで行くのも大変になってしまっているので、とてもいけない、見るに行く力が残っていないと自覚し、「発表会にはいけないけれど、しっかり役をこなすように」と子供たちに話していました。穏やかな笑顔が戻った夫でしたので、一見よくなっているかのように見えましたが、やはり実際は限界に来ていました。そして、夫は「子供たちは、自分がいなくなっても充分生きていける。きっと可愛がられて、一生終えることがあの子たちには出来る。子供たちは僕の誇りだ」と話し、「個室にはいるから、手続をして欲しい」と私に言いました。人々と会うのが煩わしそうでしたので、私も泊まりがけの準備を始めました。子供たちは実家の4人の祖父母に頼みました。
(17) 個室に入った日の朝、私が病室に行くと、顔を見るなり大泣きを始めました。どうしたのか尋ねると、「死ぬのが怖くて怖くて。昨日の晩から朝まで、お腹の中に重い固まりを感じて、もの凄く苦しい、堪らず、もうついにこれまでかと思った。死を予覚した。悲しさと恐さと、自分はこれからどうなるのか、と思ってどうしようもなくなった。泣かせてくれ。」と言って泣いていました。私も積もりに積もった思いが一気に吹き出してしまい、2人で泣きました。泣きながら、つい「私たちを残して先に死んでしまうなんてつらすぎる、・・・許せない・・」このような思いをぶつけてしまいました。2人でひとしきり泣き、夫は「ごめんねMさん、よくならなくて」と小さく言って、布団をかぶってしまいました。私は夫に謝って貰いました。夫もその後は自分は死ぬのが怖いことを自覚して、穏やかになり、二度と涙は見せませんでした。寧ろ安心して状況に任せるよう、委ねているような姿勢になり、子供たちがお見舞いに来るのを何よりも楽しみにして、いつも満面の笑みを絶やすことなく見せてくれました。
(18) 夫は、癌罹患がわかってから8ヶ月後の、平成10年8月29日夜、死亡しました。長女が小学校3年生、次女が小学校1年生の夏でした。最後の日、ベッドから起き上がり、普通に娘達と話をしていた夫は、娘達の見舞いを受けたその数時間後、意識を失うことなく、笑顔のままの最期でした。この日も、夫は普段と全く変わらない笑顔で子供達の見舞いを受け、ベッドから起きて子供達に話しかけたりしていました。長女は、その日のことを、あんまり普通なので、本当はお父さんはそんなに悪い病気じゃなくて、治るんじゃないかと思ってしまったといいます。しかし、この日の血圧は60にまで下がってしまっていました。この日は、いわき市から父母が車で子供達を連れてきてくれる日でしたので、それまで、必死に命をもたせたのではないかと思うほどでした。夫がこの人生最期の日に聞いていたMASAYAさんの曲は「スウィートフェアウェル」のヴォーカルと最新のコンサートの状況をCDにしていただいた中に入っていた「愛は哀しみをこえて」でした。この年の9月、オーチャードホールでMASAYAさんのコンサートが予定されていました。夫は私たちと一緒にこのコンサートには行きたいと希望していましたが、とうとう叶いませんでした。
(19) 内科のT医師は夫の気持ちを理解してくれていました。夫が息を引き取ったのを確認し、「Hさんに蘇生術はしません、Hさんの生き方を聞きました。僕は尊敬しています。そのままで逝って貰います。」と。これは、T先生と夫は何度も話しあっていたのだと思います。
8.【治らない癌とわかったあとの夫、MASAYA氏、松田賀江さんのこと】
(1) 夫の病室には、いろいろな精密機器がところ狭しと並べられていました。主治医も婦長も、夫がMASAYAさんのCDを聞いたり、コンサートビデオを見ることも許可してくださり、夫は毎日MASAYAさんの音楽を涙を浮かべながら聴いて時を過ごしていました。今風に言うなら、ホスピスということになるのだと思います。夫は「MASAYAさんの音楽はどれもいいよ、どれかを選べっていうなら、『森と風の旅人』と『遥かなる自分』」かな、遥かなるシリーズは「遥かなる道」だったかな。最新アルバムも全部すばらしい、最初の4曲は特に良すぎて選べない。」などとうれしそうに語り続けていたことが懐かしく思い出されます。
(2) そして、私が看病で家を空ける間、留守番をしている娘達に、松田賀江さんの物語シリーズ「愛と勇気の物語」の全集を揃えて、「家にいるときはこれだけを読んでいてほしい、そして考えてほしい。お父さんからの最後のプレゼントだ。」と言い、そして、「世の中にはいろいろな本や教材があふれている。でも、どれもいらない。今の子供たちに一番必要なのは、松田賀江さんの物語だと思う。それだけ与えていればいいんだ。」と言っていました。その全集をそろえる手続をしたら、夫は落ち着いた感じになってゆきました。
(3) 凄まじい勢いで夫に死においやろうとする癌と正面から向き合い、すぐそこまで来た死を目前にしていても、何もなす術もない。そんな夫と私が、どれほどMASAYAさんの音楽に優しく包まれ、そして松田さんの物語に励まされてきたことでしょうか。夫は、そんなある日、Toshiさんが歌うMASAYAの「君がいないか」を、病室のテレビで見て、とても驚いていました。「MASAYAさんの詩は、命の詩、愛と心の涙の詩なんだ。MASAYAさんは自分の詩を、芸能人なんかに、絶対に歌わせない、だとしたら、Toshiさんは自分で選んだんだと思う。スターの座を捨てて、本質の生き方を選んだんだよ」と、泣きながら言っていました。
(4) そして続けて、「僕はMASAYAさんに出会えて本当に幸せだったと思う。でも、情けないけれども僕はMASAYAさんやToshiさんみたいに勇気を出して生きることは、出来なかった。悟ることも出来なかった。賀江さんの気持ちが、今になって、よくわかる。無我を学ぶことは、素晴らしいこと。それがこんな身体になってから、漸くわかった。このことだけは娘達に伝えていって欲しい。」と言っておりました。病室で、夫は折々に自分の死後のことについてもよく話しをしてました。夫は自分が死亡した後、暫く時間はあるから新潟で三人暮らしをしていればよい、そうしたら方向もやがて見えてくるだろう。そして、「あなたは以後の人生は、自分の好きなように生きなさい、子供たちも自分の好きなように生きなさい」と言っていました。
(5) 夫は、自分がMASAYAさんのアイランドセルフトレーニングを受けただけではなく、彼の音楽CD、出版物、松田賀江さんが描いた絵本や話しの内容を知っていました。夫は、私が夫から言われたからといってではなく、私自身もそれらに興味をもって、松田賀江さん、MASAYAさんの考えたに傾倒していることも知っていました。ですから逆に、自分で生き方を決めるように、夫は賀江さんのメッセージをとおして、そういった素晴らしいものを、子供たちに伝えたい、子供達には、是非そういった生き方をして欲しいと望んでいました。松田賀江さんのメッセージとは、彼女の「共に勝った本当のうさぎとかめ」や、「よろいを脱いだ桃太郎」、「おおかみに愛を贈った赤ずきんちゃん」などの既存の物語を元にした物語を通して、保母さんだった賀江さんが、子供たちに伝えようとしたことです。でも、これは決して宗教などではありません。何か絶対的な存在を信じて、それに付き従うというのが宗教であるとしたら、それと丁度逆の位置にあります。自分のあり方を、自分に正直に決めていく、人のせいにしない、自分に、そして人に責任を持つ、そういう自分になりたい、そういうことです。
(6) 夫は、元来自分と社会の接し方について興味を持っていましたし、自分の来し方について、その科目が得意だったからと進路を決めてしまい、そして職業に結びつけてしまった、振り返ってみてそれが必ずしも自分の人生の上でやりたかったことではなかったのではないという居心地の悪さを感じていました。そのような夫ですから、ワーナー・エアハード、ホームオブハート(当時レムリアアイランドレコード)のセミナーを受ける気持ちになっていたのだと思います。早晩、自分の死が免れることのできない精神的に厳しい状況に至り、究極の問題として、しかし、最も基本的な問題として、人間として最も大事なことは何だったのか、に行き着きました。そして、気付いたのが賀江さんの残したいろいろなメッセージの意味でした。
(7) 松田さんのお話に戻りますが、既存の話しは、例えば、イソップの「うさぎとかめ」は、うさぎとかめの競争の話しであり、途中でかめの歩みの遅さを馬鹿にして眠り込んでいるうさぎを横目に、かめがゴールに辿り着くという話しです。うさぎの在り方も、かめの在り方も、極めて人間臭いところがあり、それだけの寓話に過ぎません。しかし、かめがうさぎを追い越す時に何を考えているのだろうかと思うと、どうでしょうか。これを子供達は、かめはうさぎを例えばざまあ見ろと思って抜いてゆくのだ、これは競争なのだから眠り込んでいる者が馬鹿者なのだ、そういった者は出し抜いてゆけ、としか考えない、寝ているうさぎに対しては何も感じないとしたら、それで良いのでしょうか。こうした形で、人の失敗や落伍を足がかりに競争に打ち勝ってゆくというお話、そうしたものを身につけた子供達がどんどん大人になってゆく、精一杯頑張ったものは成果をとれる、そうした側面もそれはあるでしょう。競争は何かを達成しようとし、もっとよいものを生み出すことに貢献できるでしょうが、敗者を作ることで勝者を成立させる側面は、どう考えればよいのでしょうか。ゴールに到達することが二人ともに出来るのであれば、うさぎを負けさせる必要はあるのでしょうか。うさぎを「負け」させることによって成立する「勝ち」の概念、そうした悲しさはないでしょうか。賀江さんの話では、眠り込んでいるうさぎ(実際には気がついても、寝ているふりをしています。そしてかめが誠実にうさぎをおこしていたことに気付きます)に、後から追いついたかめが、「眠り込んでいたら風邪を引いてしまうよ、ゴールはあと少しだから一緒に頑張ろうよ」と、うさぎを起こす、そんなお話です。これはただ単に心が温まるとか、そのようなお話ではない、ということです。
(8) 人間のその後の対人関係の在り方は、家庭もさることながら、どのような幼児教育が、どのような配慮の上になされているかにより大分異なります。こうした教材を現実に用いているかどうかは別として、幼児教育での人との接し方は、(外形的に)友達と仲良くするなどの、標語のようなもの、形のもの、表面的なつきあいの状況などではなく、友人との間で相互にどのような本当の意味で信頼関係を築いてゆくことができるか、そのための人格の器を、どのように作ることができるかこそが問題になります。生涯、人と接する心構え、信頼を築く力、信頼を寄せる力をもてるかどうかはこのころの体験が大きく左右すると思います。正に松田賀江さんの書かれたような観点の感受性と、行動力を子供が自然に持てるようにすることは、幼児教育で重要に考えられています。そのため、相当の配慮がなされてきた幼稚園教育(幼稚園によっては、そもそも競争社会の入り口となり、その縮図であったり、結果そのものとなってしまっているものがあることは極めて残念なことと思いますが)に続く教育で、時に相当乱暴なものがあることには戸惑うことがあるのはしばしばです。他者を、競争し、蹴落としてゆく者としてではなく、共に生きていく、歩いていく者、仲間として見つめる、そのような見方を出来る子供であることが最も大事な教育であって、勉強が出来ても、人を打ち負かしたことがよかった、などと考える子供になっては欲しくない、これが夫の考えであり、私の考えです。これは、ただ単に勉強がよくできるというようなことより、大事なことです。
第4 娘の不登校の遠因、私の就職について
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(1)平成8年4月、長女はN市立S小学校に入学していました。同9年、長女が小学校2年生のとき、学校で描いた絵が東北電力主催のコンクールで特賞を受賞(学校の先生が出していたもので私たちは知りませんでした)しました。もちろん、親としても子としても大変嬉しいことです。しかし、この受賞でS小学校の朝会で全校表彰された後、しばらくしてから長女に対してかなり陰湿な虐めが始まりました。下校しようとしたら娘の靴がなく、友人や先生もいっしょに手を尽くして探し、漸くグラウンドに放り出されていたのが見つかりましたが、靴紐がない状態であり、更に靴紐を探して、ようやくこれも見付かったという状態でした。その時には夕方5時になるころですが、よかったねと、皆帰ってしまったあと、小学校2年生の娘には靴紐の通し方、結び方がわかりません。途方に暮れながら娘は帰ってきました。
(2) その後も体操服、傘と、連綿と長女に対する嫌がらせ続き、雨の日にまたもや靴がグラウンドに放り出され、ずぶ濡れになってしまっていたそうです。長女は下の妹が少し小さめなのに比して大きめの子であり、また正義感も強かったので、女の子を虐める男の子を牽制するなどしていました。ですから、仲の良い友達らは、一生懸命犯人捜しをしようとしてくれました。でも、結局誰がしたことか判らず終いでした。小2の長女にとって、このことはとても辛い体験であり、気丈に振る舞っていましたが、実は相当の精神的なダメージを受けていたそうです。しかも、この事件から数ヵ月後、父が癌であることがわかり、入院してしまいました。次女は次女で、学校で背が小さいことで男の子達からからかわれたようでした。子供達は、このことをネズミ事件と言っています。私の記憶では、長女も次女も学校で何か辛いことがあり、泣きながら帰ってくることがあった、そのような感じがありましたが、当時は夫の看病ばかりで気付いてあげることができませんでした。次女の背が低いのは、隔世遺伝が関係しています。児童虐待が問題にされたとき、食事を十分に与えていないから大きくなれないのでは?と、最初から誤解されていました。もし、背が小さいことを理由に、十分に食べさせていないと理解したなら、大柄な長女はどう理解されたのだろうと思います。通告者は、こんな点は考えていたのでしょうか。それでも彼女達は気を奮い起こして、頑張って学校に通い続けましたが、実は、もう行きたくないという思いで一杯だったようです。学校が楽しく、行きたいと感じて通うのではなく、陰湿な虐めのあるところ、学校そのものが虐めを生み出す体質にある様子に、つくづく、いい加減にしてくれという気持ちだったようです。それでも行きたくないのに、自分がしっかりしなければとの思い一筋で、それまで健気に学校に通おうとしていたのでした。
2 夫の死後、次女も次第に学校から足が遠ざかり始めました。日に日に学校に行かない子供達に、私は厳しい態度をとり続けました。しかし、ある日、「学校は競争してばかり。友達も本当は疲れてる。自分も自殺したいぐらい本当は悩んでいる。」と、長女は小4になって暫くしてだったと思いますが、初めて、先に述べましたようなことを娘達から聞かされ、衝撃を受けました。私自身結婚以来専業主婦でしたので、子供の養育のためには、自分が自立して働かなくてはと精一杯で、将来の不安を抱えていました。夫が死んでからは泣いてばかりの私の不安は、子供達にも伝わっていたのでした。さっきまで笑顔で話しかけてくれていた父親が、死んでしまったというショックは、当時7歳と9歳の子供にも重くのしかかっていました。長女は、夫の長期入院中、自分がしっかりして支えていなければとの、張り詰めていたのですが、夫の死亡で、これが一気に崩れてしまったと振り返っています。そして亡くなるとすぐに、親戚の大人達からは「お母さんのお手伝いをして…」とか、「しっかりしなくちゃダメよ…」等、子供達にしてみればそうした言わずもがなの言葉が積み重ねられ、子供ながらに大変なストレスとなっていました。「そんなこと判ってるわよ、でも、もう踏ん張れない。私にはもう踏ん張りきれない。勝手なこと言ってないで黙っててよ」、そう言いたかったのでした。「学校に行きたくない。」という子供の気持ちは、切実なところからでているものでした。
3 夫の葬式のころから、長女は学校を休みがちになっていました。よく考えがちなように、これはさぼりたいのではありません。そして学校には行かなければと本人も思っているのです。でも、行けないところになってしまっている。そこへ、私が教育熱心のため、かえって子供達の心を傷つけ、つらい思いをさせていた、そんなことばかりでした。今の子供の心を感じてあげられなかった私の心に問題があったと思いました。「行かなければ」と思っているから辛い子供に、学校に行かなければならないことはない、といって楽にしてあげなければなりません。勉強ならば、多少のことは自分でもすることはできます。もともと勉強が嫌いな子供ではありません。ただただ、その人間関係のあり方や、上下の付け方に馴染めない部分が出てきてしまったということです。
4 学校に子供が行きたくないと子供が感じる時、勉強の出来る子出来ない子の取り扱いの不公平感もあるのではないかと思います。理解能力がまだ若干低い状態の子はそういう子なりに、理解能力をもった子は持った子なりに、そのどちらもが不公平感を実は感じていると思います。どちらの子にとっても実は居心地はよくないということです。こうした部分の感受性を、うんと低くするか、そうした価値観を積極的に受け入れるかをすれば楽になることはできるでしょう。実際のところ、そのように生きてゆく場合に、試験の成功や徹底的に目的を絞っての受験合格など、多くのものを捨ててかかることで到達できるというのも、誰もが理解できることと思います。寧ろこれは多くの日本人が、これまでに体験してきたことと思います(私や私の夫もそのような中を生き抜いてきた人間です。それでこれは違うのではないか?との疑問符が常に私たちの頭の中にもあって、偶々巡り会ったセミナーの世界ではありましたが、自分たちを多少とも見直すことができました。)。
5 机の上だけの知識で結論を出す、人を思いやることのできない、あることをするパーツとしての能力としては高くても、言葉は悪いですが、人間としては半人前でしかない人が増えてゆく。夫が子供達に望んでいたもの、まず人間として、自分だけがよければ他はどうでもよいような人にはなるな、この点で、子供達の感覚を私は否定するべきではなく、彼女達が自分でまた学校へ行きたい、そう思えるようになるまで、それこそ心配ですが、待ってみよう、そう思ってのことです。MASAYAさんにも相談を致しました。まずは子供がどう思っているかを良く聞いてみること、そしてそれが何故なのかを考えてみること、もし、MASAYAさんが学校に行かない、ということだけを、それとして奨励しているなどというのであればそれは全くの間違いです。
(1) 平成10年12月24日、大宮ソニックシティで開かれたMASAYAさんのクリスマスコンサートに行きました。子供達にとっても、MASAYAさんの音楽は、夫がいつも聞いていたものですから、小さいときから慣れ親しんだ懐かしいものだったと思います。思い出のなかに流れて聴こえてくる響きは体験した人にしか味わえないものですが、幼い子供達の心の奥底にMASAYAさんの音楽が鮮やかに残っていました。
6 R商事への就職とその頃の生活
(1) 平成11年(1999年)1月
夫が亡くなってから、夫の会社の方が私たち家族の今後のことを、本当に親身になって心配して下さいました。そして、すっかり塞ぎ込んでいた私に、気分転換にM化学の関連会社(R商事)で働いてみないかと仰ってくださいました。私は、お言葉に甘え、事務の仕事を始めてみました。しかし、会社勤めを始めると、朝8時くらいには家を出て、夜8時か9時くらいに帰る、という生活となり、その間の子供達の面倒はなかなか見ることが出来ませんでした。
(2) まだ小さい子供達を家に残しての勤めですので、出社してしまってからの家にいる子供達の様子が全くわからず、とても不安でした。たまたま会社の帰り、薄暗くなった車の多い通りで、一人でようやく乗れる様になったばかりの自転車で、ヨロヨロと倒れそうになっている次女を見つけた時、心臓が凍り付くような思いをしました。一人乗りしないようにと、きつく注意しましたが、また近くのお店に一人で買い物に行くようになってしまい、親が一人で会社で働きながら子供を育ててゆく難しさをひしひしと感じました。私と子供達との間に隔たりをもとに戻さなければと思い、夫の居た会社、同僚の方には、本当に気にかけていただき、感謝のしようもないのですが、平成11年12月、会社勤めを辞めさせていただくことを決心しました。
7 屋久島旅行
(1) 夫は亡くなる前に、NTさんには、「本当にありがとう」といってくれといわれていました。それで子供達をつれて平成10年10月末、NTさんを訪ねて、当時お勤めだった屋久島の「のいのいの美術館ホテル」に行きました。閉めておられた時期ですが特にあけて下さいました。私とNTさんとは、私が最初にMASAYAさんのセミナーを受けた、茗荷谷でのセミナーでお会いしていたようですが、当時は全くわからず、改めてお礼を申し上げて新潟に帰りました。また、ホ−ムオブハートのSOさんとはその時に知り合いとなり、お二人とも、屋久島のセミナーやアメリカでのツァー等があるとよく教えていただきました。子供達は屋久島の自然に触れてとても気に入ったようでした。
8 ロスアンゼルスのMASAYAさんのレコーディングツァー
(1) NTさんから、平成11年3月にMASAYAさんのロスアンゼルスでのレコーディングツアーがあることを教えていただきました。それまで、多少ともお金があっても幸せを感じられなかったので、いくら出してもよいから、申し訳ないけれども子供たちも一緒させていただこうと思い切って参加させてもらいました。ロスアンゼルスで初めて直接MASAYAさんとお話をする機会ができました。丁度ビバリーヒルズのレストランで、私達親子、MASAYAさんが同じテーブルに座り、会話をしていくなかで、MASAYAさんが大切にしていたアーティストの松田賀江さん(のいのいさん)も夫と同じスキルス癌で亡くなっていたので、闘病期間もほぼ同じ期間で、「僕たちは仲間だね。」と話していました。そこに、レコーディングディレクターの方が来られたので、長女と次女は、クイズを出しています。「私達にはある共通点があります。それはなんでしょう?」と。彼は困惑しながらも、いろいろと答えてくれましたが、最後まで答えがわかりませんでした。答えは、「愛しい人をガンで亡くしました…。」でした。
9 店舗探し
夫も生前、MASAYAさんのCDを扱う仕事もいいなあと言っていましたし、入院する前から、社会福祉師事になって、人と触れあう仕事もしたかったな、と言っていたので、MASAYAさん関係のものは家にはたくさんあるので、そういったショップなら、夫もよいと思ってくれるのではないかと思いました。既にマンションを買っていましたが、ログハウスかなにかでお店はできるし、パート程度の収入でやっていけるので、なんとかやっていけるだろうと思い、お店をしようと思っていました。郊外のログハウスを探したり、人通りの多いお店も探し回った。お金はあるけれどもなんとかならないでしょうかという形で動いたが、母子家庭であり、ショップ経験がない、職業経験がない、保証人が絶対必要といわれ(新潟に住んでいる人を保証人にするように言われた。)親に頼めと言われました。親に正直に話したら、あなたなんかには無理よと、一言で言われてしまいました。それでいいや、誰にも頼らずにやろうと思ったきっかけでした。そのようにしてお店を探しても借りられない状態が何ヶ月も続きました。
10 屋久島への移住
(1) 平成12年3月、私たち一家は新潟から、屋久島に移り住みました。 母子家庭で外で働くよりも、うちで働いたら?とは、以前にもホ−ムオブハートの方からお声を掛けていただいたことでした。最初の時には、まだまだ買ったばかりのマンションのことや、仕事を始めたばかりで辞められないということもあり、お断りしました。しかし、こうもお店が見つからず、子供たちも家で遊んでいるばかりで、顔を合わせれば叱ったりするばかり、子供たちとも気持ちが通じ合っていないなあという気持ちで一杯でした。店が借りられずに、途方に暮れていたところ、二度目にホ−ムオブハートから声を掛けていただきました。あとあとお話を聞いてみると、見るに見かねてお声を掛けていただいたようでした。マンションは売りに出しましたが、幸い病院にも近く立地がよいので、思ったよりも早く、現金で老夫婦が買って下さいました。これで住宅ローンを返済し、あとは屋久島に家を買おうと思い、売却代金の残金は屋久島の住宅費に充てました。私はホ−ムオブハートの屋久島ホテルに勤務し、何れ子供達は、屋久島のツアーガイドなどができたら最高だと思っていました。
(2) 私の勤務するホテルは、一つ一つが独立した白いコテージが13棟点在しています。そして、美しい南国の青空のもとパームツリーや、ハイビスカスに囲まれたガーデンやプールが付いています。また、訪れた方が心から癒せるように、音楽と美しい絵画に彩られた、まさにプライベート空間です。屋久島は、世界遺産の縄文杉をはじめ、白谷雲水峡などに訪れる観光客も多く、このホテルでは、MASAYAさんの音楽を愛する方や、松田賀江さんの絵や物語を愛する方のために一年に4〜5回のMASAYAのコンサートツアーを行っておりました。そして私は普段、私は美術館の案内や、宿泊客の観光案内また、ホテル業務などに従事していました。
(3)屋久島は自然が豊かで、住んでいるだけでも学ぶことも沢山ある土地柄です。島内どこにいっても珍しい動植物で一杯でした。手で掬って飲める沢水、森深く木霊(コダマ)がすむと言われる地でもありました。子供たちには屋久島の大自然の中、エコツアーのガイドさんになることを勧めたりもしました。また、新しい学校に行くこともさりげなく勧めてみましたが、いずれも子供達の希望ではありませんでした。地元のA小学校の3年生と5年生に学籍をおいていただき、小学校の先生達からも子供達のことを気にかけていただいて、ホテル内の松田賀江さんの美術館や、MASAYAさんのコンサートにも来てくれたりしておりました。私も子供の学校のことはやはり気になっておりましたので、何度か学校へゆき、教科書を頂いたり見学させてもらったり、また、ホテルからは遠いため自動車で送迎できる体制を整え通学できるように考えておりました。娘たちも一度小学校に出向き、見学させて頂いています。娘達も学校からもいつでもおいでなさい、と言ってもらっていました。しかし、まだ子供達が学校には行きたくない、との気持ちがとても強く、精神的に不登校の状態から抜け出るにはまだ時間が必要でした。
(4) 私はまだ新入社員でしたので、その研修のために、東京の本社に行くときには、子供達も東京に連れて行っておりました。また、ホテルのシーズンオフ時にも、時々本社に出向いておりました。本社には、Bちゃんや、MEちゃんがおりましたが、私の娘たちは会うたびに、とても楽しい様子でした。長女が小学校6年生の途中の頃から、二人とも本社のほうで学びたいと強く希望していましたので、ホームスティのつもりで行かせておりました。スーツケース1個とボストンバックに衣類を詰めた程度の簡単な支度でした。子供達からは、時々屋久島に戻ってくるので自分の部屋の荷物は片付けないでほしい、と言われていました。ですから、ずっとそのままになっております。娘達には幼くして父親を亡くした境遇を抱きしめ、明るく幸せな子供になってほしいこと、自分達と同じような痛みや傷ついてきた人々や、子供達を癒せるセラピストやトレーナーになってほしいと願い、会社の社長さん(K.Jさん)を始めとして、スタッフの皆さんに養育のアドバイスをお願いしてきました。スタッフの中には、看護婦や保母、幼稚園教諭の免許取得者も沢山おりましたし、亡くなられた松田賀江さんもセラピスト、トレーナーであると同時に保母さんでもありました。松田さん亡き後、松田さんの遺志を受け継ぎ、本質的な新しい生き方を学んでいけると信頼しておりました。
第5 三女のこと
1 平成15年2月に三女が誕生いたしました。
2 ホテルの仕事や屋久島観光案内、ブレーバートレーニングなど、出来る範囲で担わせていただいておりました。早い時期に赤ちゃんは女の子だと自分では感じておりました。2003年2月に三女が生まれ、屋久島のホテルがシーズンに入りとても面倒見ながら仕事をすることは出来ない位忙しくなりましたので、4月にMASAYAさんの元に三女をつれてゆきました。長女や次女は年齢がかなり離れた妹の誕生を非常に喜び、年齢も離れていることもあり、非常によく面倒を見てくれていました。三女はMASAYAさんの音楽が大好きで、いつもMASAYAさんの曲の流れる環境の中で生活をしておりました。MASAYAさんの音楽に合わせてダンスをしては、ケラケラと愛らしい笑顔をみんなに振りまき、みんなから愛されながら、すくすくと育っている1番可愛い最中でした。丁度1年後の4月7日に、突然、娘たち3人とも、児童虐待であるとして児童相談所に連れて行かれてしまったわけです。特に三女は4月7日から12月14日まで実に八ヶ月以上も離され続けました。Yy氏と紀藤弁護士には、本当にとんでもないことをされました。三女は、あれほど周囲に愛くるしい笑顔を振りまく子だったのに、帰って来た時には、本当に全く笑顔のない無表情になって帰って来ました。そして、暫くは、三女は知らない大人をとても怖がるようになり、また、自分をあやしている人、近くに居る人が離れようとすると、それこそ必死に「ギャーッ」と大声で助けを求めるような悲鳴のような声を出すようになってしまいました。連れ去られて帰ってこられなくなることに対して非常に恐れている様子で、全く普通ではない反応をするようになってしまいました。ようやく本当にこの頃でこそ落ち着きました。がそれでもなお、三女Cの中に、私が想像を絶するような恐怖が存在していることを、ふとした日々の中で感じることがあります。子供がいないYy氏には、子供をとられた辛さが判らないと思います。二度とこのような目には遭いたくはありません。
どれほどの怒りを児童相談所の方々はこの二名に感じたことでしょう。娘たちが幸せに暮らしていた、そのようなことを全く知りもしないYy氏と紀藤弁護士は、人の家に土足で踏み込み、その全てを破壊し、恰も自分がその目で見てきたこととして(現認)、トシオフィス、ホームオブハートの段ボール保育をテレビで公然と説明をしました。この平然たる不法行為は今も続いています。それどころか、MEちゃんの奴隷のように扱われていたとか、MEちゃんが特別扱いである等、下衆の勘ぐりも甚だしい筋書きをYy氏らは描いています。「Yがトシオフィスの外部スタッフに過ぎず、黒磯のトシオフィスにすら来たことがないこと、そして、時(とき)に、トシオフィスの費用で、セミナーに参加していた者に過ぎない」こと、もともとはトシさんの熱烈なファンであったこと(熱烈なファンとしての録画も先日残っていたのが発見されたそうです。また多数のファンレターが彼女から寄せられ、その延長線上でボランティアで手伝いたいと言ってきたのがそもそもの始まりだそうです。)とトシさんがいっておられるのは正にそういうことなのでしょう。辞めたときのことにしても、実際はトシオフィスの費用で自分の店を出そうとしていたことが見つかるなどして、解雇されたに過ぎないのを、どうして彼女は見映えよく言い換えて平気なのでしょうか。
家族として娘たちは育てられていたにすぎません。それをビジネス(裁判でお金を得ること)として、でしょう。まるでかつあげ行為のように、私たちを陥れて、潰すため、お金を得るため、恐ろしい程の虚偽の筋書きを描くなど、本当に悪質極まりないと思います。私はこの二名とその協力者を絶対に許しません。
第6 T.Aさんのこと ※T.Aさんは、HTPメンバーの一人です。
1 私が、T.Aさんのことを聞いたのは、平成14年(2002年)7月、仕事を辞められていたスタッフのSOさんがホームオブハートのスタッフに復帰した後の頃でした。T.Aと同じ痛みを持つスタッフも沢山おりましたので、会社として受け入れて、彼女を幸せにしてあげたいと、話していました。
2 T.Aが屋久島のホテルに来たのは、平成14年(2002年)10月のハワイツァー参加後、11月のブレーバートレーニングのメンバーの中でした。一緒に参加したH.Eさんも、初めての屋久島ブレーバートレーニングで、3〜4日間のスケジュールでした。ブレーバートレーニングとは屋久島の大自然の中でクリエーション(創造性)をはぐくみ、このプログラムを通して自分に気付いていくものです。セルフビルドのワークショップに形態は似ていると思います。そのときはプールの一角に座って入れるお風呂をT.Aと作り、白セメントで仕上げをしました。普段ではなかなかできない体験だということもありT.Aはとても楽しんでいました。そしてその後に食べる食事のなんとおいしいことかと本当に満足していました。
3 屋久島の森と花の美術館の入り口の展示品の片付けを、T.Aに短時間ではありますが、手伝って貰ったときのことです。見かけは男の人のようなT.Aでしたが、セメントを捏ねたりするセルフビルドよりも、本当はこういう作業の方が大好きなんだ、嬉しい!!といい、はしゃぎまくっていました。T.Aは女性らしさをずっと否定してきてしまったために、繊細なことはあまりやってこなかったけれども本当はそういう女らしいことが好きな自分なんだなあということに気付いたということも伝えてくれました。屋久島の自然の中どんどん癒されていったためか、女の子らしい柔らかな商品や松田賀江さんの持つ品の良さがとても気に入っていて、大好きなこういう雰囲気のお店を出したい、やりたいと目を輝かせて話していました。そして前々日の夜、MASAYAさんに場をつくってもらい、支配人のMTさんよりアロマのトリートメントについて教えてもらったということをとても喜んでいて、私もその内容を伝えて貰ったりしました。T.Aからは、自分が学んできたマッサージを通して、人々を癒したいという純粋な思いが感じられ、彼女のお店は是非頑張って欲しいなと思って見送っていました。
4 私はT.Aのことは屋久島に来ている時にかかわっただけで、それ以上に詳しく知りませんでしたが、少なくとも私が知っている限りの彼女は、ホームオブハートにとても感謝しても、恨みをもたれるような関係にはありません。松田賀江さんの雰囲気のお店を出したいと思い、またアロマのお店にしたいと言っていた彼女です。自分で家出をしてホームオブハートにこれからどうしましょうと相談を持ちかけてしまわれたり、女の子の恰好をしたがる娘を愛せない、近々離婚をする等々、かなり問題を抱えておられたようで、ホームオブハート側でもかなりの負担であったと思います。そしてオーガニックヴィレッジでお店を出したいという気持ちに答えて、T.Aにのみかなりの優遇をしようとしたと聞いています(ほかの人にはそのようなことはしていない筈です)。女一人となってしまうことから、なんとか今後の生活が出来るようにと、私がスタッフとして迎え入れてもらえた時のように、支援をしてあげる積もりになっていたのだと思います。それをセミナーの内容を全く違うものだと言い、これによってしたくもない取引をさせられたなどという作り話しをすることは、本当に信じがたいことです。屋久島に来て楽しく過ごしていた時間も、「させられた」ものだと言っているとのこと、私には本人の意思ではないのではないか、とすら感じられます。
第7 Y.Yy氏のことについて
1.Yy氏は、はじめは2000年の秋に友人と3人でMASAYAのコンサートツアーの宿泊客として参加し、コンサートはじめ屋久島の観光も満喫しておりました。屋久島のホテルに、私が勤めているのを、すでにご存じで、ホテルのフロントでお会いするなり、「あなたがHさんですか?」と聞かれたことを思い出します。そして、Yy氏は、トシオフィスのアルバイトスタッフとして、屋久島のホテルでのブレーバートレーニングという実践カリキュラムを通してのトレーニング仲間として、また屋久島観光の案内や送迎など一緒になり話をすることがありました。
2
(1) Yy氏は私に、自分の母親の死を通して何年も泣いたり夢遊病者のようになり生きる気力もない精神状態の自分だったが、とても厳しかった母が、人生の最後に台所に立ち、私が居たかったのはここだったんだと言って、しあわせをつかんで死んでいった姿に接し、本当のしあわせとは、自分の人生とは、を真剣に考えるようになったと言い、「母を失ったときの悲しみやつらさを経験したのでHさんたちの気持ちもよくわかります」、というようなことを話しておりました。
また、同居しているお姉さんの子供さんが競争社会で傷ついていて兄弟でいがみあい、学歴のことでいじめあって苦しんでいるのに、私は何もしてやれない、と言い、Hさんの子供さんたちはここでこんなくらしが出来てしあわせですね、ということを言っていたのを鮮明に覚えています。
(2) 私の子供2人が私のもとを離れて麻布に行っていることについては、Yy氏はその話し合いの最中に参加しており、子供が自分で決めてそういう生き方を選んでいることも知っております。そして、Yy氏は、子供たちもまた母親である私のことも、「凄い」、と誉めた上で、「自分は自分の父親とは、まだまだ親子の執着があって、神戸の自宅から出て、離れて仕事をすることなどは出来ないし今は考えられない、父親と離れてくらすそういう日々が自分に出来るかどうか、まだまだわかりませんが、徐々に考えていかなくてはならない」と言っていました。これを聞いて、正直なところ、この人は「突破」することは多分ないだろうなぁ、との直感がありましたが(今日、考えるに、それは全く当たっていたことになります。)、それ以後この件を話すことはありませんでした。
3
(1) 屋久島ブレーバートレーニングで、Yy氏とのコミュニケーションも深まってきた頃、Yy氏は、私にいろいろ話をしてくるようになってきました。同時通訳者としての能力をいかした仕事もしているが、本質的な仕事しか今はもうやれないし、やりたくない。嫌な仕事も今まで我慢してやってきたが、もうできないしやりたくないから今のトシオフィスの仕事を選んでいる。だから通訳の仕事は殆どやっていない。ずっと前に契約していた仕事を何個かこなしている程度でもう入れていない等、と言っておりました。
(2) Yy氏にとって私は嫌いなタイプだったらしく、陰でいじめ的ないやみのようなことも言われたこともあります。「自分は株を始めとしていろいろな経済的なことを経験してきたバリバリの経営者という生き方をしてきた、その中で自分が気に入らない人達や、能力のない人は次々とクビにしてきた、自分が好きな人、自分の目に適った人とだけ仕事をする女社長だった」、と言っていました。そして、「なかでもこの世で一番嫌いなのは専業主婦で、大嫌いです」面と向かってときっぱりと言いました。私は長年専業主婦をしてきましたので、この発言には全く返す言葉がありませんでした。トシさんの奥さんの出山香さんが病気でトレーニングに参加をしなかったりすると、突然Yy氏の態度が豹変することに正直驚きを感じていました。上には媚び、下には見下す、このような態度の変化は、上司には感じることの出来なかった部分だと思います。
4
(1) 屋久島のホテルにYy氏がToshiオフィスの研修で来るようになって、はじめからずっと言われ続けていたことの一つは、Yy氏は、「自分が社長で仕切りたい」、「自分が偉い、凄いんだ、といいたいだけなんだ、そのために苦しい人生でそういう生き方がもう嫌でうんざりなら、自分ではなくて他の人々をたて、励ましたり、応援したりすること、自分が自分がと前にでていばるのをやめて、まわりの人たちを勝たせ、自分は後ろから支える、そういう生き方が必要なんだ」、ということでした。Yy氏は、「自分がやはり社長きどりで仕切りたい、乗っ取りたい、という自分なんだ」と認めていました。我が強く、社会でいう地位や名誉が大好きであり、また学歴がいるとして、これをめざして戦い、反発したり順応したりしてきたために苦しくて自殺したり、鬱病になってしまった、私や私の家族とそっくりの哀しさや痛みがYy氏からは感じられました。それで、同じ心に傷を持つ仲間としてそういう我の強さを止めたくてここの研修に来ているのだと、私は認識していました。
(2) ブレーバートレーニングについて、被控訴人やYy氏は、このトレーニングをただ働きをするトレーニングと今は言っているようです。屋久島の大自然の中、子供の時のように創造性を開花させ、そしてその中で自分に気づいていけるこのブレーバートレーニングは極めて楽しいものです。誰が素人にプールを作らせてくれますか?自分が自由にデザインして作り、それがずっと残ります。創造性や創作意欲、また一緒に取り組むリレーションシップなど、人としての基本的なものを取り戻すものだと私は認識しています。また専門の人の援助が必要なら、それも出来ます。しかし、穴を掘る、セメントを練るところから行うこれが、とても気持ちよく、次々にあれこれと作りたくなる、そういったものです。こんな面白い経験は、体を使ったことがなかったり、デザインしたことが無かったりする、ただの頭でっかちにはわからない世界でしょう。面白い、お金を払ってでもやらせて貰いたい、T.A氏もYy氏も最高にはしゃぎながらやっていたもの、そんなものです。これはトレーニングと名を打っていますが、こういう形で屋久島のホテルに作品を残せること、それを自分たちに自由にさせてもらえるところに意味があります。聞けば、最初手作りでホテルを作り上げていった時に、これをみんなに経験させてあげた方がよっぽど面白いオプションではないか?ということで始まったそうです。従って、苦役でも何でもなく、やりたい人なら、とことんやりたいもの、そして終わったときの達成感はえもいわれぬものがあります。こうしたことでYy氏から聞いたことで思い出されるのは、那須の美術館でもプールを作りましたが、今まで人のうしろに隠れていたyさんという方がリーダーシップをとり始めたことです。白セメントを作っているyさんが非常に輝いて見えたのを覚えています。yさん自身、心から感動し、自分ももの凄く楽しく精一杯プールを作ることが出来た、と生き生きしていたということでした。
(3) ブレーバートレーニングで、プールの底にセメントを流す作業の時だったと思います。那須の美術館でスタッフ全員で作り上げたプールの作り方が凄く早くあっという間に美しい底が出来上がったので、同じやり方で作りたい、とYy氏が言い出し、急にリーダーとなり指示を出し始めました。しかし、作業人数が私とSさんとYy氏の3人に過ぎません。どうにも人手不足で思うように行かず、時間もおして暗くなり疲れのため作業能力も落ち、Sさんなどは両手がセメントで荒れ、ゴム手袋をしても痛がり始めたので、次の日にしようと私は言いました。しかし、Yy氏は絶対やりあげると聞かず、作業を続行しました。そのときのYy氏の熱意とファイトには本当に敬服しました。諦めずに皆で力を合わせてやり遂げよう、そんなリーダーシップがそんなときのYy氏にはありました。自主的に率先してやっていました。
5
(1) 屋久島ブレーバーに、Toshiさんの奥さんの出山香さんが一緒に来なくなってからは、Yy氏はいままで以上にトシオフィスを切り盛りし、すべてにおいてYy氏の意見次第になってきているのではないかと心配に思うことがありました。特に、パソコンの操作のことでスタッフのKさんが夜Yy氏に電話をすると、必ずトシオフィスの仕事が山積みで寝る時間も惜しんで取り組んでいることを言っていて、それを聞いていた私は、Yy氏は本当にやりたくてまじめに楽しんでアルバイトの仕事をしているのだ、と感じていました。
(2) 東京オペラシティのコンサートのCD、「ひとつであること」が発売された頃、トシさんのファンと思われる女性から屋久島ホテルにMASAYAコンサートの問い合わせがあったことがあります。詳しい情報を知らせるかどうかで迷っていましたが、Yy氏からその方は「巻き毛のロン毛で古くからのおっかけファンなのでやめてください」、との連絡があり、お断りしたことがありました。その後、屋久島でYy氏と会ったときに、その女性のことが話題となりました。Yy氏が言うには、昔からのトシファンの一人なのだけれど、MASAYAのコンサートにはとても呼べない人たちの一人であり、そういうどうしようもないおっかけファンをまとめているのが、全部一休(ToshiさんのマネージャーのNさんを愛称でこう呼んでいました。)で、時には連絡を取り合い、また指示をして仲裁に入ったりすることも多く、そういうサニヤシンの一休を自分は尊敬しているし、素晴らしいと思っている、とも言っていました。
(3) Yy氏が最後に屋久島ブレーバートレーニングに来たのは、確か平成14年(2002年)7月頃だったと記憶しています。休憩の際、Toshiさんのコンサートどりの様子を聞いたところ、次のようにYy氏は言っていました。トシオフィスでトシさんのイベント取りの仕事も、自分の感覚でわかる人たちに電話をするからはずれることがない、私が一番多く何件でも決めている。名簿順に電話をかけるのは自分のスタイルに合わない、私は自分の感覚だけでショップや人を選んでかけていくから、どんどん決まるんだ、と言っていました。また、コンサート会場でのToshiさんや一休さんの態度が気に障ることも沢山あることを言っていて、一休をどうしても許せなくていつも何か言いたくなる、とか、自分で見ていて変なトラブルばかりでどうしようもないといつも文句を言っていました。
6 また、これはYy氏本人から私が聞いたことですが、羽鳥湖のホテルでの研修の際に、トシオフィスの実情を、お寿司屋さんの物語として、トレーナーのMASAYAさんが話していたそうです。
その話は、ネタがいい、味もいいのだけれど、お店としてはどうかなー?というお寿司屋さんがあり、暖簾をくぐると、Toshiさんが上等の寿司を握り、出来たお寿司を周りを見張りながら、カタカタと震える手でお盆を握ってお客に出していくyさんという店員がいて、お勘定場のところには一休さん(Nさん)がいる、さらに奥には腕組みをしスタッフとお客の動向を睨んでみている社長がいる。それがYy氏なんだ、という物語でした。Yy氏はトシオフィスを完全に牛耳っていることをMASAYAさんからずばり言われておりましたし、Yy氏はそのことを自分でも知っておりました。MASAYAさんは、トレーナーでしたから「牛耳りたいという野心があるのではないか」と、「そういう自分に気付いたらどうか」とYy氏に伝えられていました。Yy氏も学歴主義に陥っていた人ですが、能ある鷹は爪を隠すという生き方の方が得だと思うよとMASAYAさんからは言われていたようです。多分Yy氏はいろいろなトラブルをこれまでにおこしてきたのではないかと思います。MASAYAさんはYy氏に、「Toshiオフィスはトシがオーナーであって、Yさんではない。Yさんはオーナーになりたければ自分の力で自立し、女性経営者として自分の足で立って歩くべきだと思う。人の褌で相撲をとるような、他力な生き方は自分が台無しになってしまう。そのような野心野望の自分に気付いたらどうか」と、トレーナーの立場でYy氏にサゼスションしていたようです。このお寿司屋さんの話も、ブレーバーでYy氏が屋久島に来たときに、
「MASAYAさんからそういわれたけれども、本当にそのとおりだなと思った。」と言っていました。
ここまで、とは思わなかったかも知れませんが、MASAYAさんはYy氏が、外国語能力や事務能力は秀でていても、周りとそうしたトラブルを起こすことについて、既に感じていたのだと思います。
第8 K.Kさんについて ※K.KさんはHTPメンバーの一人です。
1 K.Kについては、彼女が原告、ホームオブハートが被告となって甲285の1の訴状が提出されているとのことです。この訴状では、頻繁に私の名前が出されています。また、本件訴訟でもK.Kは陳述書を出しています。ですから、この訴訟の件も纏めて、K.Kと私の関係をここでは述べておきます。一言で言うなら、とんでもない人間を、新潟市にあるレストランドリームハウス(仮名)さんに紹介されてしまった、ということに尽きます。
2.レストランドリームハウスさんとの出会い
仙台から平成4年7月に私たちは、転勤で新潟に移転していますが、新潟市内のレストラン、「ドリームハウス」が、レムリアアイランドレコードの商品を扱っていました。そのレストランのマスターと奥様は、MASAYAさんと松田賀江さんのファンでもあり、松田賀江さんの絵画や松田賀江さん自身の写真を店内に飾り、窓辺の前にMASAYAさんのCDを並べているほか、BGMにもMASAYAさんの音楽が静かに流していました。何度かお話をしたことがありましたが、MASAYAさんとの出会いや松田さんが亡くなった当時の麻布の美術館でのエピソードなどを話してくれた後、そのころのトシさんの騒動のため、店内の商品は少し減りました、とおっしゃっておられました。帰り際、安らぎの商品等を飾って、お客様がゆっくりと寛げる部屋をつくりたいとおっしゃっておられましたので、私も信頼しておりました。
3.K.Kと知りあった頃の私の状況
(1) 1999年3月上旬のロサンゼルスレコーディングツアーに私は子供達と参加しましたが、帰りの飛行機の中で、新しくオープンした新潟市民芸術会館で3月末にToshiさんがコンサートを開く、ということを聞きました。Toshiさんといえば、主人が亡くなる1ヶ月前、瞳を輝かせてMASAYAさん、Toshiさんのことを話していた様子が昨日のことのように思い浮かび、堪らない思いで一杯でした。丁度主人が亡くなって1ヶ月後に勤めていた会社に荷物を引き取りに行った時、職場の実験室や研究施設を案内していただきました。最後に、ちょっと長い正月休みのつもりで休んで、そのままになってしまった夫の机の一番上の引き出しの中に、松田賀江さんのポストカードが沢山入っていたのを見つけました。その時、主人は言っていたように、「やりたかったこと、伝えたいことがあったのに、弱虫のために出来なかった」のだなと感じ、悲しい瞬間でした。自分には出来なかった生き方を貫いて欲しい、そんな思いを残した主人の代わりに、スターの座を捨てた生き方を選んだToshiさんの活動を応援していきたい、そんな気持ちで、新潟市民芸術会館のToshiさんのコンサートチケットを申し込みました。
(2) これが私がToshiさんのコンサートに出かけた理由です。K.Kは、これを、不法行為として、ホームオブハートによって事前に仕組まれなどと述べます。しかし、全く事実は違います。でっちあげるにもほどがあるのではないでしょうか。正直、亡くなった主人の想いが、訴訟のための小道具にされ、小馬鹿にされたような、全く屈辱的な気持ちです。これはホームオブハートとは何ら関係のないこと、K.Kはそれを重々承知の筈です。それに、この当時は私はホームオブハートのスタッフでもなんでもありません。あなた方は、どのような妄想を膨らませて書いて、人がどう傷つこうと何ともないのでしょうか。
4.K.Kとの出会い
(1) Toshiさんのコンサートの後、4月に入ってから、レストランドリームハウスの奥様からお電話をいただいています。「3月末のToshiのコンサートに行ったら、Hさん親子が来ているのを後ろのほうから見かけました。一緒に行った友人がHさんとどうしても話しをしたいので、ぜひ紹介してほしい、と頼まれたので突然だけど電話しました。その友人が電話をしたい、と言っているが電話をしていいだろうか。」との内容でした。私は、MASAYAさんやToshiさんのことを理解しているこの奥様の知り合いの方ならばと思い、承知しました。そしてすぐに電話をかけてきたのが、K.Kでした。K.Kは、「Toshiさんのコンサートで見かけ、どうしても話がしたいと思った」、「レストランドリームハウスで読んだ松田賀江さんの物語に深く感銘した」、「長年に渡ってアトピーで苦しんできた」、ことや「一人娘も同じアトピーのため、泣き叫ぶ我子を殺そうとした」ことなどの苦しみを話してきました。これは、とても心がすさんでしまっており、本当に癒しを求めている人だと感じてしまい、私たち同様に真剣に生き方を学んでいる仲間として、微力でも私に出来ることがあるのなら、なんとかしてあげたい、と思ってしまったのが最初の出会いでした。しかし、その後わかったことは、とてもそんな人ではなかった、ということです。後にToshiオフィスに見習いとして採用されたと聞き、大変驚きましたが、それも自分のことを悲劇のヒロインのようにでも言ったものと思います。このことは順次お話します。
(2) K.Kと初めて会ったのは、その年の夏頃、レストランドリームハウスでです。K.Kはその時、9月15日のToshiのコンサートにドリームハウスの奥様が行けないので、私に一緒に行ってほしい、ということでした。私が渋ると、麻布の美術館にも行きたいし、東京は初めてで慣れていないから、一人で歩く自信がない。なんとか一緒に行ってほしい、ということでした。私は初めてなら仕方ないかと思い、承諾しました。当日、新潟駅で待ち合わせし、松田さんの美術館を見学し、Toshiさんのコンサートの後、私たちは自宅に戻っています。K.Kは次の日の16日に個人ワークがあったとしていますが、個人ワークはもう少し後日だったように記憶しています。というのは、私は個人ワークというセッションがあること自体知らず、K.Kからの電話で、個人ワークに参加してとてもよかった、楽になったというようなことを聞き、「いいなあ、私も個人ワークに参加したいな」と思ったからです。ですからK.Kが自ら積極的に申し込んで参加したことでしょう。
(3) 「セミナー代金名目等で多額の金員を支払わせた上、いずれは被告ホームオブハートのスタッフとして」という文面がありますが、どのような考えてこのような文章を書くのでしょうか。当時の私がスタッフなどではないことは、K.Kは百も承知の筈です。私は「個人ワーク」も「MASAYAレクチャー」の日程など、全く知りません。ましてやレクチャーに勧誘などできる話ではありません。もしも勧誘されたというならば、寧ろ私がK.Kにされたと言えるでしょう。
(4) 「既に、訴外H.Mらから、アトピーの原因が原告自身のエゴのせいであると再三に渡って話しかけられていた原告は、」とも書かれています。そのような発言は一切していません。私は医師ではありません。アトピーのことは何もわかりません。K.K親子のアトピーに関して何一つ言うことなどありません。「セミナーに参加したり、商品を購入しなければ、娘を救うことができないと、」との文面ですが、一体、どこからそのような発想が出てくるのでしょうか。何か全く別の、しかも神経のおかしな宗教団体でも相手にした時の使った手法を適用しているのではないでしょうか。全くその神経はわかりません。
5 レストランドリームハウスについて
(1) 訴状中に、レストランドリームハウスの奥様の名前が多く出てきていましたので、大変気になり連絡をとってみました。以前と変わらぬ明るい声で、お会いしたときの思い出話をするうち、「お子様も大きくなられたことでしょう」と聞かれ、今回の一連の事件(平成16年4月の児童虐待を紀藤らが通告した際のテレビ報道です)のこともご説明しました。マスコミはあまり取り上げませんでしたが、会社が刑事告訴されたものは嫌疑なしの不起訴処分であり、そして私達親子共々入社以来ずっと幸せだったとお伝えしました。
(2) そして、K.KからホームオブハートとToshiオフィスを相手に、訴訟が起こされ、ドリームハウスの名前が沢山出て来たので心配になったこと、何か迷惑がかかっていないかと思い連絡した旨お話しました。K.Kとは、あの麻布のコンサートのあと、一緒に宿泊したホテルの朝食バイキングの際、K.Kの隣においたイタリア製のバッグがトイレから戻ったらなくなっていたということがあり、疑いたくはなかったけれどもとても嫌な思いをしたことがあった、とのことでした。それ以来、K.Kはドリームハウスさんには来なくなっており、未だに一度も連絡がない状況だ、ということをお話ししてくれました。「思い出したくもないことです。心配しないで下さい」とおっしゃっていました。もう最近では忘れてしまっていたけれど、それ以来K.Kさんはどうしたのかしら…と思っていたとのことでした。
(3) 奥様は、「K.Kさんはトシさんのファンで、そのコンサートでたまたまHさんと出会って紹介して、一緒に那須のペンションのコンサートに出かけたり、のりえさんの絵本も大好きでお部屋に絵を飾ったりして、すごく気に入って楽しそうでしたよね」と、K.Kのことを思い出して話してくれました。「それなのに今頃になって商品も絵も買わされた、お金を返してほしいなんて、K.Kさんが言っているなんて…信じられない」と絶句しておられました。
(4) またK.KがToshiさんのことまで訴えている件については、「それ本当なの?Toshiさんのことを?信じられない。だってToshiさんのところで働かせてもらっていたんでしょう?理解出来ない。」と、昔のK.Kしか知らない奥様にとってはとても理解出来ない様子でした。最後に「教えていただきなによりありがたい、もしも私どもにその件にまつわることで何事かあった場合にはそれなりの対応が出来ます。ありがとうございました。」とおっしゃって下さっています。
6.「ホームコンサート」の文面のところ
(1) K.Kは、私もセミナーに参加したい、松田さんの商品がほしい、一人娘に本当のことを伝えて生きていきたい、と話していました。また、Hさん達の生き方が羨ましい、私もHさんのような生き方がしたい、一緒に学びたい、と強く希望していたのはK.Kです。また、ホームオブハートの商品は素晴らしい、松田さんの絵本が欲しい、松田さんの絵は最高だ、自分にぴったりの絵と出会うことができた、と話していました。少しずつ買いためた松田さんのポスターやカードを自宅に飾っていて、友人達を招いて安らかに語り合うお部屋が出来た、こんな暮らしがしたかった、とうれしそうでした。
(2) さらに、コンサートに行きたい、ラジオのテープも聞いてみたいから、クレジットカードでローンを組んで支払いをしたいけれども、カードを作れる所を教えてほしい、というのでいろいろなショッピングカードやクレジットカードの申込について説明したことはあります。「クレジットカードを作ることにすら躊躇を覚える原告に対し、」との言いがかりは何でしょうか。クレジットカードを作成するように迫ったことなどありませんし、「借金をさせてまでセミナーへ参加や商品購入を勧誘した」というのも身に覚えが全くありません。私も購入者の立場でしたから、「Hさんはどうしているの」と質問されれば答えたことはあるかもしれません。しかし、それ以上、何故私が言わねばならないでしょうか。
(3) 私と子供達が那須塩原にあるペンションでのMASAYAさんのコンサートに車で行くことを話したら、私も行きたい、と言いだし、自ら申込みをしてまたコンサート会場のペンションに宿泊も予約した、とうれしそうに言い、車に乗せてほしいといわれて、一緒に行ったこともあります。そのときの帰りは、別行動でした。ある時、月日は定かではありませんが、コンサートか何かの時に新潟行きの電車かバスがないために那須の美術館の館長さんに帰れなくなったから泊めてくれと、無理矢理頼み込んで泊めてもらったとの話を聞いたことがありますが、随分無謀なことをする人だなと思ったことがあります。
7.K.Kと別れの時
(1) 先に述べましたように、私は小さな子供を抱え、外で一年間働きましたが、なかなか子供達の世話も出来ず、大変でした。それで主人の意志を継ぎ、母子家庭の自分にも出来ることとして、ホームオブハートの商品を扱うSHOPを開こうと思いました。この話しを聞き、K.Kはホームオブハートの商品は大好きだから自分も一緒にやらせてほしい、と言っていました。私はK.Kの言葉を信じて、お店を出すの場所選びをしたりしました。ホームオブハートからは、お店の名前は私の主人の名前をつけるようにとアドバイスをもらってもいたのです。先に述べました理由で、SHOPは実現出来ませんでしたので、平成12年(2000年)3月中旬、ホームオブハートのJ.K社長から採用のお話をいただき、勤務地も屋久島のホテルとなりました。夫が亡くなったあと、子供を抱えて仕事をしていたけれども、やはり続かなかったこと、ならばとお店を出そうとしていた私がなかなか物件を借りることが出来ずに右往左往しているのを、ホームオブハートでは見かねて声を掛けてくれたものです。やはり松田賀江さんと同じスキルス癌で逝った夫ですので、他人事ではないと採用していただいたものです。
(2) 一方で、K.Kは、Hさんがやらなくてもお店を出すのが夢だと言い、いつになるかわからないけども、SHOPをやりたい、と話していました。それで私はK.Kに、私が子供達へのギフトとして買っていた松田さんのポエットグラフ2枚、買いためていたCDをK.KのSHOPオープンの時に役立ててほしいとの願いを伝えて、K.Kに渡ししました。これは新潟から屋久島に引越しをする直前のことですが、屋久島に必ず会いにいくからといって別れています。そのようなK.Kが、商品を買わされたとか、セミナーを受けさせられたとか、全くもってのほかのことだと思います。
8.のいのい(のりのり)の小さな森の美術館ホテルでのこと
(1) 平成12年3月下旬に、MT支配人と共に屋久島のホテルに勤務をはじめました。4月に入ってすぐにK.Kが娘と二人で泊まりにきました。あの時のK.Kは私たちが住むことになった屋久島に来て、どんな所なのか見たかった、私達に会うために、泊まりに来ています。別れたときに言っていたとおり、観光旅行に来たのです。私にはホームオブハートのスタッフになってまもなく遊びに来てくれた、という思い出しか思い出せません。屋久島の豊かな大自然を堪能し、ホテルの中にある森と花のふるさとの木美術館に触れ、とても楽しそうでした。帰りの飛行場までは、私が送っています。自然から元気をもらい、とても満足して帰っていく姿が7年もの時が過ぎた今でも思い起こされます。「参加費用が支払えないことを理由に参加を断ると、」とK.Kの訴状の文面にありますが、全く、違っています。
(2) 「H.Mさん親子も仕事や学校を何日も休んで建設作業に参加した」とありますが、私達が参加したのは、スタッフになる前の年の1999年10月の連休を利用したときのことです。そのときは、漁船に乗って釣りをしたり、オプションとしてガーデニングを申し込み花壇にフルーツの苗や花を植えたりしています。子供達も一緒に屋久島の自然を満喫できる遊びの体験をしています。仕事や学校を何日も休むことなどしてはいませんし、ましてやオプションとしてクラフトやビルダーコースなどはありますが、建設作業などは存在しませんし、参加することもありません。何より、ホテルの施設はすでに出来上がっていました。このようにすべてを悪いイメージで仕立て上げているにすぎません。悪質な不条理な行為です。
(3) それよりも、K.Kが春休みを利用して屋久島に来た後、その年(平成12年)5月か6月に、どうしても参加したいのがあるんだけど、お金が足りない。貸してもらえないか、との電話があったので、6万円か7万円くらいづつ、2回送金しています。合計で6万円か7万円くらいだったと思います。私はK.Kは友人だと思っていましたし、何よりK.K自身が癒されて楽になれれば、それでいいから、との思いが先にありました。ですから、その後返済要求は特にしておりませんでした。しかし、こうした私の行為が「参加費用を貸し付けてまで参加させようと勧誘した」ことになるのでしょうか。K.Kの弁護士さん達は一体、どのような頭脳をしておられるのでしょうか。私が厳しく請求し、彼女がそれこそ死ぬ思いででも返してくれた、というのなら、まだ我慢しましょう。しかし、この恩を仇で返すような仕打ちは、あなた方には当たり前のことなのですか。私には全く理解出来ません。
(4) 「訴外H.Mらが、執拗に屋久島ツアーに参加するように勧誘し、」とも訴状にはありました。しかし、勧誘した覚えはありません。K.Kはいつも、これは嫉妬されているのかと思うくらい、私のことを羨ましがっていて、私がスタッフにさせて貰った時も「いいなあ、いいなあ、羨ましい」と頻りに言っていました。このときも自分も屋久島に行きたいので、案内を送ってください、と言って、自分からとても喜んで参加したのが事実です。「屋久島ツアーに参加しないとアトピー等の悩みを乗り越えることができない」とも言っていますが、私はそのような発言は一切していません。お金が欲しい、お金になるなら、何とでも、どのようにでも嘘をおっしゃるのですか。「アトピーは我エゴが強いからなる」などの発言も一切していません。K.Kさんのアトピーのことに対して触れたことはありません。
(5) 「後からの人‥」などと責め立て、とありますが、屋久島のホテルに勤務している私には「豊原HANAZAKURA体験ツアー」がどんな内容のものか、またそのツアーの参加者が誰なのか、など知りませんでした。ましてやK.Kが参加していることも知りませんでした。「3度目のアイランドセミナー」に参加してたことすら、知りません。この頃は、電話で話すこともあまりありませんでした。その後、離婚してトシオフィスに移ったと聞いていたのみであり、本来のチャレンジ精神を発揮して仕事を頑張ってほしいと、遠く屋久島から願うばかりでした。
9.K.Kは、児童虐待騒動の時、この私をホ−ムオブハートから助け出したい、などと言っていたそうです。しかし、冗談ではありません。この人の言うことは嘘で塗り固められています。Toshiオフィスでスタッフからお金を借りまくっては返済せず、物を借りては返さず、挙げ句の果てには勝手に上がり込んでは物を以て行く(K.Kのお子さんはそうした親を見習ってか、平気で人のものを自分の物だと言って持っていったり、自分のやったことがばれて都合が悪くなると、逆に言ったりと、子供達に対しても最低の態度を取られていたようです。今回、Dちゃんがシャーマンちゃんから盗んだバッグに自分の名前を書き込んでしまったバッグも証拠としてだされるようですが、端から物がなくなり、K.K自身も何度も見つかっては土下座をして皆に謝るという行動を繰り返していたそうです。この人がトシオフィスにつながってしまうには、東京に行く際に、同乗させてしまったことが遠因ともなっており、大変申し訳ないと思っています。)
10.K.Kの項の最後として
K.Kが子供の幸せを考え、松田さんの物語を読んで聞かせていた頃から、一番よく知っているのは、私です。しかし、7年も経て、なぜこんなことを私達にするのか、K.Kから弁護士を通して差し出された訴状を読み、まともに読み進むことが出来ないほど劣悪極まりない文面に対して、心底、煮え滾るほどの怒りで一杯です。人の気持ちを、これほどまでに踏みにじられた経験は、嘗て私はありません。
第9 一時保護の当日、その時の児童相談所とのやりとり
1 平成16年(2004年)4月7日、県北児童相談所に子どもたちが一時保護されたその日、私はいつもどおり、ホ−ムオブハートの屋久島のホテルに勤務しておりました。しかしその前日から、Aテレビの女性記者が取材の意図を隠して、通常のお客様として宿泊しておられました。私が食事のサービスをしておりますときに、頻りに私の子供のことを聞かれました。普段そのような方は居られませんので、変わった方だなと思っておりました。様子が変と思っていた矢先のこと、7日夕方に、ホームオブハートから、子供たちが突然、児童相談所に連れて行かれてしまった、との連絡がありました。私には子供達の身に何が起こったのか、全く心当たりはなく、大変不安になりました。ホームオブハートでも事態を把握しかねており、そのとき児童相談所は警察を連れてきていた他、大勢の報道陣を従えていたそうです。そして児童相談所は、子供達を引き渡さないと逮捕する、親であっても引き渡しを拒絶したら親権は剥奪する等、極めて厳しい態度で臨んでいたそうです。そのときには、次女ねずみ、三女C、トシオフィスからは、シャーマンちゃん、T君、私は翌日(8日)の屋久島空港発の飛行機で、急遽栃木県の県北児童相談所に出向くこととなりました。ところが、まるで私の行動を監視してでもいたかのように、屋久島空港には前日見覚えのある、妙な質問を繰り返していたお客様が、「Aテレビです。インタビューに答えてください。」と、近づき、大変しつこく付きまといました。また、私に許可なく、勝手にビデオカメラで撮影をしながら、私が県北児童相談所の建物に入るまで(屋久島空港、鹿児島空港、羽田空港、羽田空港ではもう一人の女性カメラマンが近づいてきた。モノレールに乗ったあとは、宿泊した「オハラヒロコ」はハンディカムのようなもので、もう一人は本格的なもので撮影していた。東京駅地下で東北新幹線に乗ろうとしたとき、トイレによったがその時にもインタビューをする時間が貰えないかと再三近づいてきた。新幹線に乗った頃には、Hさんのことは全国放送で流れていますよと言われた。)、尾行と撮影を続けました。県北児童相談所についてみると、こちらの相談所の方も、マスコミ対応に追われているようでした。一体何に巻き込まれたのか、何か子供達が悪いことでもしてしまったのかとさえ不安になりました。そんな慌ただしく不安な気持ちのところ、児童相談所の方から今回の経緯についての話がありました。「子供たちが、自由のない生活をさせられて、虐待の目に遭っているらしい」との通告があったために、一時保護したとのことでした。私は、一体誰が自由を奪っているのですか、子供達は本当にホームオブハートで虐待された、そんなことをされていると言っているのですか、誰が誰を虐めた、虐待したというのですか、ととても憤慨しました。私は、親である私が来たのだから、すぐに子供を返してほしいと言いました。しかし、児童相談所の方は、通告があった以上は仕方がないのだといいながら、あまりの私の威勢に困った様子で、とにかく十分に子供達から話を聞かなくてはならないので暫くは返せないと思います。1週間位では…という感じの答えはしてくれるものの、いつ子供を返してくれるかの明確な返事はとうとういただけませんでした。当日からテレビ報道が、ホームオブハートやToshiさんのトシオフィスでは、段ボールで子供を育てていたとか、子供に労働、それも深夜労働を強制させていたとか、十分に食事を与えていないとか、学校には行かせずに野生児のように育てる人たちだとか、全く身に覚えのないことが、さも誰かが見てきたように事細かに報道されていました。一体、わざわざ変な段ボールの箱で育てるなどと、誰が考えついたのでしょうか。本気でそのようなことをしていたと、信じたのでしょうか。それだけにショッキングに誰もが思うのでしょう。
第10 紀藤弁護士の母らへの働きかけ
1 児童虐待騒動で、テレビ報道がなされ、心配しているかもしれない、と思い、実家の母に連絡をしてみたところ、「被害者メンバー」の側に取り込まれていることに、愕然といたしました。母は、私たち親子を信じていなかったとそのときは思いました。しかし、よくよく話をまとめると、かなり以前に私の父に女性から相談に乗ってくれる弁護士がいるから会ってみないか、との電話があり、私の父、母、夫の母の3人でいわきから上京し、紀藤弁護士に会って話を聞いてきた、ということでした。弁護士は、正しい人で間違いはない、と固く信じこんでいる老人です。その弁護士に「死人がでるかもしれないから早くしなくてはならない」、「子どもがいじめにあっている」、カルト集団のような悲惨なことをいって脅し、不安がらせた上で、被害者メンバ−の応援をしないか、おじいちゃんおばちゃんの気持ちを語ってくれないか、と誘われたとのことでした。
2 でも、紀藤弁護士に現実に3人で会い、話を全部聞いて、出した結論は、「被害者メンバ−」は、子どもを救いたいというけれど、この人たちは単なる金取りの集まりだと思った、ということでした。ですから、仮に彼らの言うとおり、虐められていたとしても孫も娘もホームオブハートをやめたわけでもなく、本人は気に入っており、帰る気がないし、孫は数年したら帰る道を選ぶかもしれないし、選ばないかもしれない、それは本人の選択だろう。だから、今被害者メンバ−のいうとおり、協力して裁判にお金をかけたところで、どうなるものでもない。放っておこうということになり、その場でお断りをしてきた、ということでした。
第11 最後に
以上、簡単ではございますが、私の知る事実をすべて申し上げて参りました。
裁判官殿に、私共の今までの経緯をすべてご理解頂けたものとして、一番、私が申し上げたいことがございます。
それは、Yy氏と紀藤氏の行動された動機が、私共を利用した「ビジネス」であったのではないか、ということです。私どもの子供を保護しようとした、表向きはそのようなことを仰いました。しかし、子供達は彼らによってどのように扱われたでしょうか。自由を失いました。親を相当長期間、失いました。社会への信頼を失いました。実体はなにもなさそうだとは、児童相談所や黒磯署へ何度も圧力を掛けてきた彼らのこと、判っていたはずです。結論がでて、誰が、誰に対して謝ったでしょうか。誰が申し訳ないことをしたとお考えでしょうか。自分たちの目的、これがホームオブハートをつぶすことなのか、MASAYA氏を抹殺することなのか、Toshi氏を復活させることなのか不明ですが、どれもが関係する点であり、結びつく線があります。この動きにテレビ局関係者が居たことも厳然たる事実です。ビジネス、正にY.Yy氏が使った言葉、ビジネスは金儲けを指しているのではないでしょうか。そのために、平然と虚偽を並べ立てるのが、まともなお仕事でしょうか。これは恐喝にも等しくはありませんか?私は、Yy氏と、K.K氏と、直接会っております。ですから、彼女らが何を理解しているかもよく知っています。人間として恥ずかしくはないですか。そのような生き方で、というほかはありません。人権擁護に当たっていると、「自称する」弁護士さんも同様ではないでしょうか。これは、実に残念で許しがたいことでもありますし、容認することなど、私には、死んでも出来ないことでもあります。アメリカでは、犯罪的な、つまり脅迫をして、訴訟を起こしてお金を取ることを、商売(ビジネス)でやっている弁護士が沢山いる、というような話を聞いたことがあります。まさしくYy氏と紀藤氏は、この話に出てくる、アメリカの弁護士がやっていることと同じことをしているのではないでしょうか。Yy氏がMASAYAさんとの電話の中で、自ら「ビジネス」という言葉を発言していることが、最初は何のことかさっぱりわかりませんでした。今、Toshiさんが遭遇した、旅館ぐるみ、架空の人物を仕立て上げ、拉致をビジネスとして行っている者まで登場するお話までお聞きし、洗脳騒動でコンサートキャンセルを沢山受けたToshiさんが、そのようなToshiさんなら必ず乗ると、やらせコンサートまでさせられている。これらが皆映像になって残されている。この間の児童虐待騒動でも頻繁に使用されたといいます。誰と誰がどうつながっているか。これは、田舎に住んでいる私にも、想像がつくことです。
全国ネットの報道を利用し、あたかも、宗教集団のカルト集団に洗脳されている私達と子供達、というストーリーを作り上げ、虐待されている子供達を救うなどとして、祖父母達も脅かし、テレビに出ている有名弁護士として、マスコミにくり返し登場されました。しかし、私や私の夫の知るセミナーとは、既に詳細に書いたとおりのものです。人生のなんたるかを希求する人ならば、その動機はおわかりいただけるでしょう。「自分達は被害者なんだ、まだまだ被害者はいるんだ。」とマスコミを使って脅しをくり返し(本当は被害者などいないのに)、被害者がいると広告をしている、私にはそうしか思えません。私も、会社も、この騒動のおかげで、またこの騒動を利用した訴訟のおかげで、大変な窮地に陥っています。このまま、会社は倒産し、私も果ててしまえば、証拠は何も残らないでしょう。それが今となっては特定の方にはめでたしめでたしの事なのかも知れません。
しかし、いくらありのままを受け入れて対処しようとする生き方をするにも、ただただ殴られ、罵倒され、テレビ報道までされていることをそのままに放置するわけには参りません。通常なら、私がこの陳述書に書きましたような、プライベート多岐にわたることは誰も人には言わないでしょう。でも、これをシェアし合うのが、このセミナーでした。そうした信頼関係が基本であり、ルールです。児童相談所、黒磯警察、検察庁でも全て明らかにしてきましたが、これらは秘密が守っていただけました。実際に、子供達に会ったり、保護までして念入りに調べた児童相談所にしても、何人もの人々をすみずみまで調べつくした警察、検察庁の方々にしても、私共の事実をご理解頂け、紀藤氏やYy氏達の言い分すべてを払拭して参りました。このことは、嫌疑なし、不起訴処分において、おわかり頂けることでしょう。直接に担当官とお話をする中で、きちんとご理解をいただけました。それは、通告者、告発が嘘だった、ということです。私達は最初に、容疑者ではないですと言われています。それだけに、今回の地裁判決は、全く驚きでした。そしてセミナーの内容としているものも、全く信じられません。私はこのようなものに一度も参加したことはありません。
すでに、私も、また中学を卒業した子供2人も、(株)ホームオブハートのスタッフとして働いています。これは児童相談所が認めていることです。そんなことより何より、率先してホームオブハートへの就労を薦めてくれたのが、娘達を保護した児童相談所の職員の方々だったことを申し上げれば、本当に虐待の事実が全くないことをご理解いただけることかと思います。もし、紀藤やYy氏が言うような、そして判決に書かれているようなセミナーを本当にやっているところなら、そしてばかげた教育思想を持っているなら、とうていあり得ないことです。あの報道はなんだったのでしょうか、紀藤先生。あのインタビューは何であったのですか。K.Kさん、Y.Yさん。責任をどのようにお取りいただけるのですか。幸せに暮していた私たちの生活、会社の基盤を破壊し尽くして、あなた方はご満足ですか。それが日本の法律なのですか。私はそう問いたいです。統一教会、オウム真理教のムードに乗り、マスコミを扇動したい放題した結果が現在です。
私のこの文章の中に、うそ、偽りはございません。法律の最高峰の皆様に、裁判所の沽券にかかわるような、無実の罪を、無実の人にかぶせるようなことをしてほしくはないのです。
人が良すぎて、深情けをかけているMASAYAさんを利用して、被害者を装っているに過ぎないY.Y、T.A、K.Kらの主張、そしてこれを利用している者の悪質さを見抜き、正しくご判断をして頂くことを願ってやみません。