トップページ>公開陳述書
第四 平成16年4月7日
1.「ちょっと部屋に来て!!」
いつもは冷静なぶたママさんが、突然悲鳴のような声で私に内線をしてきました。
私は何が起きたかと、急いで2階のぶたママさんの仕事部屋へ駆け上がりました。
私はこの日の前日6日から、栃木県那須郡にある、株式会社ホームオブハート(以下、「ホームオブハート」と書きます)の配送センターにいました。
そこは、ホームオブハートの商品や、レコードの音源や原画などを保管している倉庫で、ここからMASAYAさんのCDや、松田賀江さんの絵やポストカードが、日本全国のレコード店、百貨店、書店などに出荷されていました。この場所はホームオブハートの社長のぶたママさんが普段仕事をしている場所でもあります。
2.私がなぜホームオブハートの配送センターにいたのかは、後で詳しく書きますが、私は小学校五年生の頃から、学校には通えない、不登校児でした。
ホームオブハートの周りの大人たちから、「学校に行かなくていいのか」と、折々に声を掛けてもらっていましたが、私にはどうしても、もう一度あの「学校」というところに通う気にはなれませんでした。
けして、勉強が嫌いだからではありません。とにかく、学校で暮らすことがとても辛かったのです。
しかし、行きたくないからと、学校に通わずにただずっと家に引きこもることが、いいことだとはけして思っていません。私は自分自身が成長したいし、いろいろなことを知りたいと思っています。私は、自分が役立てることはないかと、ぶたママさんはじめホームオブハートのスタッフの方々にお願いしていました。皆が、忙しく仕事をしている中で、とても迷惑だったかもしれません。
しかし、私の積極性、自発性を尊重してくれて、私にできること、外の人と接触できること、家の中でやれることなど、ほんのお手伝い程度のことですが、手伝わせてくれていました。
学校に行けない状態の子があるとして、子供が家でお手伝いをすることは何か悪いことでしょうか。私は本当にそうお聞きしたいです。そうすることによって人と話し、社会と交わり、気持ちをつないでゆく、多分私の周りの人はそうした考えで辛抱してくれていました。児童相談所の方もこれを全く否定などしていません。
仮にあなたのお子さんが、不登校になっていたとして、それが引きこもりでもなんでもよいですが、一日中部屋に入りきりになっていることが理想でしょうか?
学校に行って毎時間傷つきながら苦しい時間をやり過ごすか、自分の部屋でじっとしていることしか、許されないことでしょうか。
もし、そう思われるなら、恐らくそのような単純さ、無神経さ、乱暴さ、無頓着さが虐めを生んでいる元凶だと思います。弁護士ですから、自分が訴訟に勝てるなら、どのようにでも言いくるめ、言い募って何も感じないでしょうが、私は一人の人間であり、私の人生であり、事実であって、勝手に創造されるいわれはありません。誰かに評価してもらわねばならないものでもありません。
そして、将来は経営者になりたいと思う私に、実際に将来に役立つ経理や、会社の経営について、パソコンの使い方などをぶたママさんに教えて貰ったらどうかと、MASAYAさんからのアドバイスもありました。私は「それは是非やりたい!」と自分の意思で、教わることを決めました。実際には当時の私に出来ることは、まだまだ簡単なお手伝い程度であり、領収書の振り分けや、郵便物の封開け程度のものでしたが、私は水を得た魚のように嬉々として引き受けていました。
大好きなぶたママさんのもとで、お仕事をまかされ、やらせてもらえる、一人前として扱ってもらえることが、とても嬉しいことであり、誇りでした。
そして、私は料理を作ることが大好きですから、大人のスタッフの方たちと一緒に作ったりしていました。時には、自分でみんなの食事を作って驚かせることもありました。
スタッフのみんなに喜んでもらえて、まるで自分が一人前になったようで、とても嬉しいことでした。
3.私がこうした生活になる経緯は後ほどお話しますが、決して、「働かされ」たり「労働を搾取されている」ものではありません。すべて私の意志によるものですし、何より私が社会に接し、成長する場があるようにとの配慮でもあります。
不登校になってしまっている子に、その子が本気で学校に行きたくないのに、無理矢理学校に行かせようとするのではなく、自然と学校に行く気持ちが芽生えてくるのを待ってくれた大人だということです。子供の声に真剣にむきあって声を掛けてくれている大人だということ、学校へ行くか、行かないかの2者択一しかなく、行かないことは悪いことであって、行ってさえいれば安心などというものではないことを十分に承知している大人だということ、これが全てです。
何度もいいますが、不登校であっても、決して不勉強な訳ではありません。自分自身が成長してゆきたいと、私は思っています。
逆に、学校に通っている同じ世代の子供達が今は学べないようなこと、経営のこと経理的なことなどをぶたママさんから実践を通して学ばせてもらい、そのことを誇りに思っていました。その思いは、今でもまったく変わっていません。
那須での暮らしは、学校でいじめを受け、母にも打ち明けずに暗く毎日をやり過ごしていたのがウソのように、毎日が新鮮、幸せで、自信が湧いてくるものでした。そんな幸せな生活を、見事に断ち切ってしまったのが、今回の紀藤弁護士らによる事件です。
4.ぶたママさんからの内線を切った私は、2階のぶたママさんの部屋に入り、わけを尋ねました。
「今、ハイランドに児童相談所が来たんだって。そして児童虐待の疑いがあるから、子供達を連れて行くって!」
「えぇっ!?そんな、一体誰が!? どうして?!」
私は何のことだかさっぱり判らず、目を丸くしました。
だって、私たちは児童虐待などとは、一番かけ離れた、平穏な日々を暮らしていたのですから!
「ハイランド」とは、ホームオブハートのオフィスとスタッフの方の寮がある建物のことです。テレビ報道で、放送された建物です。
「妹1」とは、私のすぐ下の妹の(当時12歳)のことです。同じ場所には、一番下の妹(当時1歳)もいました。
当時、母は、仕事の関係で鹿児島県屋久島におりました。母は私たちを捨てて屋久島に行ったというなら、まだわかります。しかし、心配する母を説き伏せて当時東京にあったホームオブハートのMASAYAさん、ぶたママさんのところに出てきたのは、私と妹1です。
私や妹1にとって、ぶたママさんやMASAYAさんは家族同然の人でした。私たちの大好きな人たちから無理やり引き離され、何かとんでもない出来事が起こっていることだけは、普段は冷静なぶたママさんが激しくうろたえている様子から、わかりました。
私は妹たちの無事を案じ、とても不安で、いてもたってもいられませんでした。
5.そのうちにわかってきたことは、ホームオブハートに勤務している人の子供に児童虐待の疑いがあるという通告がされており、児童相談所が大勢の警察官を連れて、私達を保護しに来ているということでした。そして何故か朝からハイランドにはマスコミらしき人たちや、テレビカメラなども大勢来ていたとのことでした。
誰がそんな嘘の通告をしたのか、何の目的でやったのか、ましてテレビまで一緒になぜ居るのか、まったくわかりません。そのようなことをする人がいること自体、信じられませんでした。
一体誰が、何の目的でそんな嘘をつくのか…何でこんな大事(おおごと)になっているのか…何故これまで平和に暮らしていた私たちの身に、そんなことが起こりうるのか…さっぱり訳がわかりませんでした。
ハイランドのスタッフからの電話では、「児童相談所の職員は頭からホームオブハートでは子供に虐待がされていると信じ込んでしまっている。」という連絡が入っていました。
1人の子供の母親でもあるスタッフの一人、MEmamaさんが「いったい何なんですか!子供達を連れて行かないで下さい!」と言っても、「抵抗するなら、業務妨害であなたも逮捕しますよ。」と、今にも逮捕しそうな勢いで言われたそうです。沢山の警察官が取り囲んでいる中、もうこれでは何も出来ないと言っていました。
そしてハイランドだけでなく、TOSHIさんの事務所のトシオフィスにも、同様に児童相談所職員・警察と大勢のテレビカメラと報道陣が来ているとの連絡が入りました。TOSHIさんは、昔XJAPANというロックバンドのボーカルだった人で、今はMASAYAさんの曲を歌っている人ですが、あちらはオフィスばかりではなく、オフィスと同じマンション(賃貸マンションであり、TOSHIオフィスとスタッフ住宅はその内のごく一部に過ぎません)内の自宅の両方に来て、オフィスにいるお母さん達が自宅に戻ろうにも廊下を埋め尽くしたテレビカメラや報道陣のために、戻ることも出来ません。必死に止めようとしても「親が一緒にいても駄目です。邪魔をすると逮捕せざるを得ませんよ。子供の前で逮捕されてもいいんですか。抵抗して子供を渡さないと親権を剥奪することにもなってしまいますよ。」などと言うばかりだったそうです。
一体何を、どんなことを吹き込まれて児童相談所は臨場したのでしょうか。
トシオフィスのスタッフであるShamanmamaさんの自宅には娘のシャーマンさん(当時11歳)がちょうどお昼ご飯を食べに部屋に戻っていて、一人でいたところに児童相談所が来たのでした。シャーマンは自宅で一人で児童相談所職員の質問攻めに遭っているみたいだと、トシオフィスのスタッフのTmamaさんから連絡が入りました。
6.こうしてだんだんとわかってきたことは、「ハイランドのホームオブハートに住んでいる子供と、トシオフィスに親が勤務して、トシオフィスと同じマンションに住んでいる子供は全員、連れて行く」ということでした。
話を聞けば聞くほど、「どうして私たちがこんな目に逢うのか???」という疑問は大きくなる一方でした。
この日、私は偶々ぶたママさんの元に来ていましたが、2人の妹とハイランドで生活していましたし、未成年ですから、何れは見つけられて連れて行かれるかも知れない、ということもわかりました。
私とぶたママさんは、どうしたら真実を理解して貰えるのか、どうすれば誤解が晴らせるのか、ずっと考え続けました。ぶたママさんは、いつも法律相談をしている、弁護士の佐藤先生を電話でつかまえて、
「先生っ! 子供達が連れて行かれちゃう。何とかならないの?みんな母親がちゃんといるし、その親が駄目って言っているのに、連れて行くなんて…ひどすぎる…。」と泣きながら助けを求めていました。
さすがに突然のこのような事態に、佐藤先生も面食らったようですが、とりあえず落ち着いて対処するよう、ぶたママさんに今、できる限りの対処法を伝え、ぶたママさんは、佐藤先生からのアドバイスをハイランドとトシオフィスのお母さん達に連絡していました。
配送センターに来ている私には、どうすることもできないまま、ハイランドの現場では、児相の職員と、お母さん達のやり取り、子供達と児相職員の必死のやりとりが続いていました。
「児童虐待」という言葉の意味は、当時の私にもわかります。一体誰が何のためにそのようなことを言ったのかわかりませんでしたが、決して私達に「児童虐待」の事実はありません。
私は、
「私が妹達の傍に行ってあげられれば、私が代わりに話して、そんなことは全部嘘だってわからせられるのに!…可哀想に。ねずみも下の妹もMEちゃんも、今頃怯えているのでは…」と、大変、大変悔しく思いました。
一緒にいてあげられず、みんなが、ひどい目に遭わされ、どこかに連れ去られようとしているのに、何もしてあげられない無力さに涙が止まりませんでした。
ぶたママさんが児相の人と電話が取り次いで貰えたのか、「やめてください!お願いです。一体私たちが何をしたって言うんですか、連れてなんか行かないで下さい!」と、泣きながら何度も何度も絶叫していました。
7.最初にぶたママさんに呼ばれてから1時間半くらい経ったでしょうか、連絡が途絶えている間は、私とぶたママさんは、考えつく限りいろいろな作戦を練りました。もうどうにもならなくなったら、私とぶたママさんで児童相談所に乗り込んででも直談判しよう。そんなことも考えました。
また、ぶたママさんといろいろ考えてゆくうち、こんな通告をするのは、あの紀藤弁護士とYy達ではないのかという考えに行き着きました。
午後6時頃になって、ハイランドからまた電話連絡が入りました。私は息を飲んで、どうか子供達が連れて行かれたりしませんようにとぶたママさんの電話に聞き耳を立てました。
次の瞬間、ぶたママさんの表情は一変しました。
「えぇ!!!!子供達が連れ出されたぁ?!だめ!止めないと!誰か、止めて!止めてよぉ!」と叫んでいました。
しかし、数秒後には「…もう車に乗っちゃっていて、だめだったって。」
というぶたママさんの声がしました。私もぶたママさんもその場に泣き崩れました。
8.「あれはもう完全に人攫(さら)いのようだった」と、後に現場に居合わせたホームオブハートのスタッフからは聞きました。
私の下の妹は、ハイランドにミーティングに来ていたトシオフィスのTOSHIさんの奥さん、出山香さんが抱いて、あやしていたところを無理やり引き剥がされて、連れて行かれたそうです。
実はこの4月7日の前日にTOSHIさんのイベント先にJTVが取材に突然現れ、唐突にTOSHIさんに対して「TOSHIさん、虐待についてどう思うんですか」と聴いてきたということがあったそうです。これまでTOSHIさんは「洗脳事件」でマスコミにひどく扱われたことがありましたので、「洗脳とかじゃないの?」と、聞き間違えたのかと思ったくらいだったそうです。
下の妹は、突然家に押しかけてきた児童相談所の人たちの手によって、無理やり引き剥がされ、連れて行かれたそうです。
出山香さんは下の妹を抱きながら、「この子達のどこが虐待されているんですか!!!虐待されている子供達を見たことがあるでしょう?この子達が虐待されていないことくらい分かるでしょう!?」と泣き叫び、下の妹を連れて行かれるのを拒み続けていると、児相の人は「あなたを逮捕することもできるのですよ。」と言ったそうです。
出山香さんは下の妹のことを守りきれなかった、やっぱりあの時、手を離さなければと、今でも出山香さんはこの時の悔しさを、涙を溜めて話しています。
当時たった1歳2ヶ月の子供が、姉である私たち、それからいつも、自分たちの子供のように可愛がってくれるスタッフや出山香さんのもとから、騒然とした雰囲気の中、まるで動物が連れて行かれるように、連れ去られたこと、満面の笑顔を振りまいていた妹が、本当に無表情な子になってしまって帰ってきたこと、このことは、私は一生涯、忘れませんし、この騒動を生み出した人間全てを許しません。
この事件を自分の欲望のために仕立て上げ、子供達の笑顔を奪った人間を、一生涯、恨み、仇をとる。国がそれを法律を盾に拒むなら、私は自分自身でやる、そのようにさえ思います。
何が子供達の人権救済?冗談じゃない。おまえこそが刑務所に入り、心底反省しろと私は思います。
どのような頭で、どのような顔で、未だにしゃあしゃあと、「子供達へ」などという、反吐の出るような文章を書いて自分の失敗を偽り、擁護し続けるのか。
自分の誤った仕事により、どれほどの人間が傷ついたのか、たったそれだけの想像力もない者がテレビ屋を扇動し、自分もテレビにでて、嘘ばかりを言うのか。誰が見てきたのか。おまえが一体見たのか。それを見たとまで偽って、人を縛り上げるのか。勝手な憶測で仕事をするな。弁護士の仕事の仕方は、それだけで人の人生を、左右してしまう、そのことに懼れを持ったことはないのか。間違ったら、直す。謝る。その姿勢すらもてないのか。どうして、そんな人間が弁護士になれるのか、と疑問に思います。
9.また、オフィスの周辺にはマスコミの大群が待ち受けていました。
ホームオブハートの会長のBOBOさん(もともと保母さんであり、私達のピアノの先生でもありました。)は、児相の人に「こんなに沢山の報道陣の前をあなた達は子供を連れて出て行くつもりなんですか?」と聞いたら、
「はい。」
と、端(はな)っから、児童虐待がされている現場だと信じ切っている職員達は、当然のように答え、子供達は職員の上着で、そう、まるで犯罪者が護送されるみたいに隠されながら、マスコミのカメラの中を通っていったそうです。
その光景に、BOBOさんは
「本当になんて無神経な人ばかり集まってきているんだ。」と、胸を切り裂かれる思いと、謂れの無い仕打ちに怒りのやり場もないまま、すぐにMEちゃんのお母さんのMEmamaさんを連れて、子供達を追って児童相談所へと、車を走らせたそうです。
トシオフィスからも、ホームオブハート同様、お母さんと一緒に住んでいたにもかかわらず、子供達は皆連れて行かれてしまったという悲しい知らせが入りました。
10.私の上の妹、妹1は、体も小さく、おとなしい子です。
「沢山の見ず知らずの大人に突然囲まれ、きっと怯えているだろう・・・震えているに違いない。一体、あの子は今何を考えているだろう・・・今日はどうなってしまったんだろう。せめて私がいたら、どうにか出来たかもしれない。そばにいてあげればよかった。」
と、こんな日に限って、ぶたママさんのところに来ていた私は自分を責めました。
しかし、どんなに悔しくても、どうにもなりません。
児童相談所は、かの弁護士らの通告から、私達に対して、無理矢理働かされているとか、ご飯を食べさせて貰っていないなどの「児童虐待」があると信じ込んでいるらしい、だったら、少しでも年上の私が行って、本当の私たちの生活を話して、それは間違いだと事態を覆す以外に、子供達を助ける方法はない。私は、いよいよそうとしか思えないようになりました。
こうしている間にも、今度は私を対象者として、探しに来られてしまう。
「そんな後手に回ってしまうのでは遅い。その前に、正々堂々と私から動かないと却って誤解される。こんなところでじぃっとしてなんかいられない。子供達が待っているんだ!」
と、自分から動くことに決めました。
私は、泣いているぶたママさんに
「児童相談所に行こう。そして子供達を取り返したい!」そう言いました。
ぶたママさんも顔を上げ、「そうよね、わたし達が頑張らなきゃね。」と気を取り直し、身支度に取り掛かりました。
11.読んでいる方は、私達姉妹の母親はどうなっているんだ、と思われると思います。
私の母は、鹿児島県にあるホームオブハートの屋久島のホテルに勤めていました。これは、母の陳述書にも詳しく書かれていますが、父を亡くした私達は、MASAYAさんのパートナーの松田賀江さんの病気が、父と同じスキルス性胃ガンであったこと、母子家庭となった私達家族が、勤務に明け暮れる母との間に私たち子供との溝が出来たり、私も妹もいじめにあって不登校となってしまっていたこと、母が転職を考えてもうまくいかないことなどから、ホームオブハートの屋久島ホテルでの勤務に空きがあるからと雇って貰って屋久島に居たのです。
でも私たち子供は、屋久島にいつまでも落ち着いてしまうということが出来ず、何度か行ったことのあるホームオブハートの本社でいろいろ勉強させてもらいたいと母を説得して、本社に来ていたのです。決して育児放棄されたり、見捨てられたりしているわけではありません。
この平和が勝手に崩されたのが4月7日の事件でした。
話を戻しますが、母は、妹達が児童相談所に連れて行かれた午後6時頃、ハイランドのオフィスから、
「子供達が児童相談所に連れて行かれてしまった。すぐにこっち(本社)に戻るように!」
という連絡があり、急いで飛行機の手配をして、那須に向かったそうです。
12.これも後から整理してみるとわかったことですが、実はこの事件の前日、母の勤めるホテルにも、日本テレビの女性レポーターがお客に成りすまして、泊まりに来ており、大変なことになっていました。
母の話では、その人は6日の朝9時半から10時ぐらいに、
「休みが取れて、東京からなんだけれども、今日ホテルに宿泊したい。」
と予約の電話をかけてきたそうです。
支配人のBOBOさんは仕事で那須の本社へ出かけていたため、母が応対したそうです。よく考えれば、あの屋久島に女性の一人旅で、以前からの予約なくして宿泊する人も珍しいことだったのです。
母はその人(以下、Aさんと書きます)に、ホテルのチェックインは午後3時からであること、到着したら、空港までお迎えにゆくので、到着時間が決まったら連絡下さいと伝えて、予約手続きを済ませました。でも、一体何時に到着するのかまったく連絡がないので、おかしいなと思っていたら、3時ごろにAさんはタクシーで、ホテルに直接来ました。
母とホテルのスタッフのKさんは、
「東京を10時過ぎに出て、3時に屋久島に到着するなんて、ちょっと早すぎるのではないか?一体Aさんはどうやってきたんだろう??それに、お迎えのことをお伝えしていたのに、なんで連絡がなかったんだろう。」と疑問を感じたそうです。
実際のところ、10時には既に機上の人になっていてようやく、屋久島空港に午後1時30分ころに着けるに過ぎず、10時に思い立ってどうになるものでもないからです。
また、AさんにアロマトリートメントをしたKさんの話では、
「Aさんは頻りに『BKさんは?BKさんは?』と言っていた。(注:母のことはBKさんと書いています。)知り合いでもないのに、どうしてBKさんのことに拘るのかしら。今までのお客様と違う。なんだかおかしいな。」
と、母にぼやいていたそうです。
夕食の際も、母に「子供さんはいらっしゃるの?」と質問をしてきて、母は一応笑顔で答えたそうですが、一体どうしてこの人はそんなことを聞いてくるのだろうと、ますます不審に感じたそうです。
あまりにAさんが母に注意を向けるので、翌日のAさんの応対はすべてKさんが対応することにしたそうです。
翌日の7日、Aさんに接触しないで済むように、母は裏方での仕事に徹底し、Aさんの応対はすべてKさんが受け持ち、なるべく早くに帰ってもらおうと母とKさんは打ち合わせをしました。
前日に、Aさんは母のガイドで屋久島を観光で回るオプションを予約していましたが、Aさんがホテル内を無断でカメラで撮影したり、母に私たちのことやプライベートなことを質問してきたりと、普通のホテルでのお客様とは到底思えないものでしたから、とにかく、この人と関わらないようにと、早く帰ってもらうことにしたそうです。
Kさんから、「BKが急用でオプションに出られない。あと、空港への送迎もできないから、お帰りはタクシーでお願いします。」とAさんに伝えると、AさんはこちらがAさんを不審に思っていることを察したような顔を浮かべ、了承したそうです。
とにかく、Aさんは、ホテル内で、ビデオカメラを片手に建物やホテル内の様子を隅から隅まで撮影し続けるという、観光で来られたお客様とはとうてい思えない異様な行動であり、何度も「内部での撮影はやめて下さい」と、注意しても、一向構わず撮影し続けていたそうです。
Aさんがチェックアウトし、タクシーでホテルを発った後、ようやく母はいつもどおりフロントに立ち、仕事を始めたのですが、そこに突然!Aさんがタクシーに乗って現れ、フロントに来てしまったそうです。母がAさんを避け始めたことに気付き、フェイントをかけたのだと思います。
「あら〜、BKさんじゃないですか!」と、いやに親しげに笑顔を向け、部屋にヘアブラシを忘れたから、探してほしいと言われたそうです。
母は内心、「しまった、やられた。油断してしまった。」と思いながら、「私が見る限りは、ございませんでしたが、もう一度探してまいります。」と言うと、
「そうですか、それではもう一度探してみて下さいね。」
と、笑顔で返し、足早に去っていったそうです。
最後に母を見て、「してやったり」の笑みを浮かべたAさんの顔が、今でも目に浮かぶ、本当に悔しい。と、母は今でも悔しさをにじませながら話します。
この出来事は、妹達のもとへ児童相談所が現れる、ほんの1時間前の出来事だったそうです。
13.このように、めまぐるしく私達の状況が変わる中、私とぶたママさんは急いで支度を済ませ、1階に下りました。
支度を済ませた私にスタッフのYさんが心配して
「ブーちゃんマン、出かけるの?」と声をかけてくれました。
Yさんも、元々は幼稚園の保母さんをされていた方で、私達子供のお世話をとてもよくしてくれた一人です。
子供を喜ばせることが大好きで、私達の誕生日には、必ず手作りのかわいらしいバッグやお洋服をプレゼントしてくれた方でした。
私は、
「ちょっと子供達を連れて帰りにいきます。大丈夫、すぐ帰ってきますから。行ってきます!」
と、まるで桃太郎が鬼退治にでも出かけるような気持ちでYさんに別れを告げ、ぶたママさんと児童相談所に向けて出発し、猛スピードで車を走らせました。
そうして車で移動する道すがらにも、ぶたママさんと私は子供達をどう取り返すかを考え続けていました。
ぶたママさんは、「とにかく、どんなに幸せにあんた達が暮らしていたか、これがしっかり伝えられたら、児童相談所の人たちなら絶対わかってくれると思うよ。」と言っていました。
私も本当にそれはそうだと思いました。
いったいどうして、こんな誤解を招いたのかわかりませんが、周りの大人が言うのでなく、当の本人である私が、子供を代表して暮らしぶりを言えば、絶対に児童相談所の人達はわかってくれる、普段子供に接している人達なんだから、誤解だってすぐにわかってくれるだろうと思っていました。
実際のところ、児童相談所がどんなところなのか、詳しくは知りませんでしたが、児童相談所はその名のとおり、私達の味方になってくれるんだばかり信じていました。
母は母で、会社からの連絡に、急いで那須に帰るため、飛行機の手配をしていましたが、どうしても明日になってしまうが、朝一の便が予約できた。という連絡が入りました。
この日、お母さんと一緒ではない子供は、私と妹1と下の妹だけでしたので、もしかしたら、私達3人姉妹だけは、真実を伝えても、お母さんがいないという理由で、保護されるかもしれない。でも、実際には、私達の家は母のいる屋久島であり、那須には遊びに来ているぐらいの気持ちでいましたから、全員、親と一緒に暮らしている、そう言っても過言ではありません。この事実までも、しっかりと伝えれば、一時保護なんて誰もしないだろう。すぐに帰ってこれるだろう。いずれにせよ、事の真実をしっかりと当の本人である私の口から伝えることが先だと、私もぶたママさんも思っていたのです。
14.実際は、あの弁護士とYyのでっちあげた話は、そんな甘い考えも吹き飛ばすもののようでした。児童相談所は何を吹き込まれていたのか、紀藤たちの話を完全に信じ込んでいたようで、いくら当事者である私が普通に暮らしていたと伝えても、全くこちらの言い分を聞きませんでした。彼らはアイランドセルフトレーニングで何か変な考えに染まり、変な教育観を持っているのだと理解していたようでした。
実際に私たちが屋久島のホテルで母と暮らしている姿、那須でも幸せに暮らしている姿を知っている筈のYyよ。その事実を知りながらも、お前はビジネス(彼らはこの事件のことを「ビジネス」と呼んでいます。)のためになら、子供までも利用する、そんな人間なのだ、今はそんな思いで一杯です。
15.移動中、私の携帯電話には、MASAYAさんからも連絡が入りました。
ハイランド・トシオフィスから、子供達が全員無理やり連れ去られた状況下で、唯一残った私のことを心配して、
「ブーちゃんマンは大丈夫なのか?!」と電話をかけてくれたのです。
不安と怒りで焦燥しきっていた私は、思わず泣きそうになりました。自分が乗り込んで、子供達を取り返すんだ!と息巻く傍ら、内心ではものすごく怖く、不安で仕方が無かったのです。
そんな私に、MASAYAさんは落ち着いた声で、「いいか?ブーちゃんマンが一番年も上だし、今まで本当に幸せに暮らしていたこと、心豊かに暮らしていたこと、そのことをしっかり言って、わかって貰って来るんだぞ。いいね、事実を伝えれば大丈夫だから。」
と言いました。
この言葉を聞いて、「あぁ、こんな騒ぎを起こされて、MASAYAさんの運命、ぶたママさんの運命、子供達の幸せまで、すべて私にかかってる。本当にわかってもらえないと大変なことになる」そう思いました。
私は更なる決意を固め、「はい、ちゃんと言ってきます。」と答えました。
MASAYAさんは、最後に「がんばれよ。」と言って、電話を切りました。
その言葉には、お父さんを突然のガンで亡くし、そのお父さんの代わりとして、これまで自分の娘のように大切に育ててきてくれた私達への思い、言葉では表現しきれない深い思いが籠められていたと思います。私はその言葉に勇気付けられました。
16.まもなく児童相談所に着こうかという頃、これまでぶたママさんの車の助手席に座っていた私は、後部座席に移動しました。児童相談所の周辺にはすでに、マスコミ関係らしき人物、カメラを構えた人物が沢山彷徨いていたためです。
私とぶたママさんは、こうして午後7時頃、ようやく児童相談所に辿り着きました。既に児童相談所建物近くで私たちを待っていた児相の人が裏口へと誘導してくれて、私達は建物の中へと入りました。
「ついにここまで来た。」私の胸は更に高鳴りました。
一体この建物のどこに子供達はいるんだろう。今はどうしているんだろう、と建物内を見渡し、子供達のいる気配がないか、探りましたがわかりません。
職員の人に案内され、部屋のドアを開けると、そこには妹1と、MEちゃん、係の女性らしき人(この人は心理判定員だったことが後からわかりました)が座っていました。
妹もMEちゃんも真っ青に青ざめて、絶望的な表情でしたが、部屋に入った私達を見上げ、突然現れた私たちにやっと安心したような顔をしてくれました。
後に妹1に聞きましたら「この時とても安心した、これまで心細かったから、すごく勇気付けられた」と言っていました。
17.私は係(心理判定員)の女性に、「私はこの子(妹1)の姉のブーちゃんマンです。」と言い、そして妹1とMEちゃんには、
「ごめんね。遅くなって。怖かったでしょう。もう大丈夫だからね。」と言いました。
女性は私に「どうして来たの?」と質問しました。私がぶたママさんに連れられて息せき切って来るのは、彼女には変なことに思えたのでしょう。
「虐待だなんて嘘だから、妹達を返してもらいにきました。」と、答えました。
ぶたママさんは部屋に入る直前に別の職員に呼ばれてしまったため、一瞬、妹1とMEちゃんの顔を見、違う部屋に行ってしまいました。
私は部屋のソファーに座ると、心理判定員の女性から
「ご飯は食べた?これ、食べる?」と、妹達が食べていたコンビニのおにぎりなどを差し出されました。
私は児童相談所へ向かう途中、今晩はどうなるか判らないし、腹が減っては戦はできぬと、ぶたママさんとコンビニに立ち寄って、腹拵えはしていたので、断りました。
続いて、女性は「ご飯はけっこう食べるほう?」と聞いてきました。私は「食べますよ。おかげで最近ちょっと太っちゃって〜。痩せたこともありましたけど。」と、つい見栄を張って言ってしまいました。
すると、その心理判定員の女性は驚いたような顔をしています。
「痩せたって、これぐらい?」と、頬に両手をあて、げっそりやせたジェスチャーを見せました。
「えぇ?!まさか。そんなんじゃないですよ、本当に少しだけ。」
と答えました。
その時、私は初めて、「ああ、この人は、私達のことを、ご飯を貰えない、虐待された子供だって思ってるんだ。」と、かの弁護士、Yyらの策略の酷さを思い知りました。こんな些細な話しですら、過剰に反応するこの人達の誤解を、私一人で今晩どうやって解けばいいのでしょうか。ただ違うといっても、虐待されているから必死に否定するんだと、余計疑われるばかりなんだろうと思いました。
この人達は、私達の発する言葉・一挙手一投足すべてを観察しているんだと考え直して、くれぐれも要らぬ誤解を招かぬよう、慎重に言葉を選びながら、会話をするように気をつけるようにしました。こんなことって、子供が大人にしなければならない配慮だったのでしょうか。
18.一番下の妹と、トシオフィスのTmamaさんのお子さんのT君(2歳)は、大田原の日赤病院に連れてゆかれていて、会うことは出来ませんでした。
また、こちらに来ているとばかり思っていた、シャーマンの姿も見えませんでした。シャーマンはきっと別の部屋にいるんだとばかり思っていましたが、後でシャーマンは、「一時保護所」に直行で連れて行かれてしまったことが判りました。
19.そうこうするうちに、部屋の扉がノックされて、今度は私だけが呼ばれて、別の部屋へ移動しました。私が通されたのは、ちょうど職員室の隣の部屋で、これまでよりも広い部屋でした。一体、何を言われ、何を聞かれるのかと思いながら、部屋に入ると、そこで私を待っていたのは、児童相談所の課長のAKさんでした。AKさんは、今回妹達を保護した理由について話し始めました。
「あなた達が虐待されている、という通告がありました。」
「児童相談所は、虐待ありとの通告があったら、すぐに子供を保護するように動かなくてはならないことになっています。だから、今日はこちら(児相)に泊まり、いろいろ検査を受けて欲しいんです。それが済んだら、家に帰れますから。」
ということでした。私は内心、「なんて人たちだ。完全に紀藤やYyらの作り上げたでっち上げの通告を信じきっている。どうにかして誤解を解かないと。」という怒りと屈辱感から私は、「そんな『虐待』通告は、すべて嘘、虚偽のものです。私達はまったく虐待なんかされていません。私たちは互いに助け合いながら、自由に暮らしてきました。だから、妹達を家に帰してください。」と大きな声で言いました。
また、私自身の生い立ちについては、「もともと私は不登校です。小学校5年生の時から、虐めにあって、学校には通っていません。でも、今学校に行っていないのは、私の意志で決めていることです。私の父は、ガンで亡くなりました。その父の遺志を継いで、母は株式会社ホームオブハートに就職しました。私達姉妹は、スタッフの方々から大変かわいがられて育っています。もう家族同然の存在です。おかげでお父さんの死への辛さも乗り越えることが出来たんです。」、「明日、私の母が屋久島からこちらに来ます。それからでもいいじゃないですか?!今日は一旦帰ります。帰して下さい」
と、精一杯の私の想いを伝えました。とにかく、事実を伝えるしかありませんでした。
まさか、国家機関が嘘の話をそのまま信じ切ってしまうとまでは、とても思い至りませんでした。
事実をすべて伝えればきっとわかってくれる、と私は無我夢中で話し続けました。
20.ところが、終始、AKさんは手を組み、うつむき加減で私の話に耳を傾けながらも、「いや、だから、通告があったら、たとえそれが嘘でも保護しなくてはならないんです…。」と言うのです。
私は絶句しました。「嘘の通告でも保護しなきゃいけない?」そんな法律だったなんて。
じゃあその法律を悪用して、わざと嘘をついていたらどうするのよ?という疑問がよぎりました。
さらに続けて、AKさんは
「ダメなんだ。どうしても。今日はここ(一時保護所)に泊まって欲しい。これは法律で決まっていることです。変えることは私たちにも出来ません。
「お母さんが来て、お母さんと話をしたら、帰してあげるから、ね。」
そう諭されました。実際には私たちが同意しようがすまいが同じなのです。私は悔しくて、悔しくて、唇を噛み、手を握り締めました。
そんな馬鹿なことが。
どうして、事実が、真実が通らないのか。私は、妹達を家に帰すために児童相談所に乗り込んだのに、自分まで一緒に「保護」されて自由を失ってしまう結果に身が震えました。虐待なんてその欠片もない。だから、当事者である私が、きちんとどんな生活かを話し、理解してもらえればすぐに帰してもらえると信じていました。
児童相談所の人は子供の味方、きっと私たちの思いをわかってくれると思っていたのに、まさか、その児童相談所の方が、自分たちの喝上げや私怨のために嘘をついた人たちの言った、事実無根のことを信じてしまう。それが嘘でも構わないのだ、とまで言う。全く信じられないことでした。
21.私が何を言おうと、頑として変わらないAKさんとのやりとりに、私はため息をつき、遂に根負けをしました。
「だったら、私達を調べればいい。私達は虐待なんて本当にされていないのだから、それを証明します。でも、一日だけ、一日だけにして下さい。」
と、AKさんに言いました。
AKさんは「『一日だけ』になるかはまだわからないから、約束はできないです。」と言って退室しました。
代わりに妹1が部屋に入ってきました。
妹を連れてきた女性の職員さんが、「ちょっと2人で待っててね。」と言い残して、部屋を出て行きました。
私は入ってきた妹に、AKさんとの話の内容を取り敢えず簡単に伝え、今日は一時保護所に行くことになったことを言い、連れて帰る筈だったのに、ごめんねと謝りました。自分が妹達のことを助けるはずだったのに、打ち負かされてしまった、その無力が本当に情けなく、腹立たしくて、憤りはどうにも収まりませんでした。
それでも妹は、「来てくれて本当にうれしかったよ。本当によかった!」と言ってくれたこと、それだけが、私にとっては本当に僅かな、唯一の救いでした。
それから、30分ほども、私と妹1は担当者が帰ってくるのを待ち続けました。
その間、私も妹1も黙ったままでした。突然連れてこられ、これからいったいどうなってしまうんだろうという不安で、お互いに会話をする余裕もありませんでした。
ようやく、先ほどの職員が来て、
「もうすぐ(保護所に)行くから、お別れに。」と、ぶたママさん、BOBOさん、MEmamaさんがいる部屋に案内されました。
そこには、黒いスーツの男性5〜6人に取り囲まれて、目を真っ赤に腫らした、ぶたママさん達がいました。
ぶたママさん達は、私達が来るまで、ずっと児童相談所の人達に子供達を帰してほしい!と、何度も深く頭を下げたり、土下座したり、泣きながら頼んだけど駄目だったと後から聞きましたが、その経過は目を真っ赤にして泣き腫らしたぶたママさん、BOBOさん、MEmamaさんの顔から、もう何をしても駄目だと言われていることが知れました。
22.この部屋の中の様子を目にして、私は涙が溢れてきて、ぶたママさん達のところに駆け寄って、「保護所になんて行きたくない。みんなのところに帰りたい!」と大声で言いました。ぶたママさん達は私達を強く抱きしめて「この子達を連れて行くんですか!?」、「これが、これって本当に法律なんですか!?むごすぎます!」、「子供達を返して下さい!!お願いです!!!」と、泣き叫びました。
しかし、そんな声も空しく、すぐに私と妹1は、取り囲んでいた男達に肩を引かれ、引き離されるようにして別の部屋に無理矢理連れて行かれました。
私と妹1は、部屋から引き離されながら、「やっぱ会わせない方が良かったんだよ。ああなっちゃうからさぁ。そのまま連れてっちゃえばよかったのに。」と軽々しくも話す男性の声を聞きました。
私は、この言葉には本当に怒り、憤りを感じました。
「ぶたママさん達がこんなにまで『子供達を返して』と泣きながら頼んでいるのに、冷たく突き放して、それをまともに聞いてもいない。そして、私達はただのモノのような扱いか。あんたたちは何も本当の事実をわかっちゃいない癖に、何を偉そうに。この大馬鹿野郎!」と思い、「離して!」と大きな声をだして、何とかして、ぶたママさん達の方へ戻ろうとしましたが、男4人に囲まれて、全く駄目でした。
AKさんと部屋に戻り、こんな突然の仕打ちに諦め切れない私と妹1は2人で
「私達を家に帰せ!何にもしていないのにっ!何にも悪いことしていないのにっ!」と訴えました。
しかし、AKさんは「いや、これは法律だから、仕方が無い」と言うばかりで、全く聞いてくれません。なんていう、不条理なんだ。どうして、本当のことが通らないんだと、口惜しくて、最後にもう一度、「私達のことを調べさえすれば、帰してくれるんですよね?長くても3日ぐらいなんですよね?」、「私達を通告した人のこと、多分知っていますよ。紀藤っていう弁護士ですか?それともYyっていう女ですか?もしそうなら、全部嘘ですよ!騙されてます。何を言っているのか知りませんが、どうか信じないで下さい!!」とAKさんに言いました。
AKさんは少しの沈黙の後、「…通告した人がどんな人か、それは言ってはいけないことになっている。でも、ブーちゃんマンさんの気持ちはわかったから。」とだけ言いました。
誰が何を言ってこうなったのかも、きちんと知らされることなく、私たちの身柄は拘束された、これでは日本海での北朝鮮の拉致とどう違いますか?
これが日本の国家機関が、日本の弁護士の資格をもった者に言われて、平気でやることなんでしょうか?
23.児童相談所の裏口にタクシーが着いて、私と妹1は私たちが本当に虐待されたということを微塵も疑わない心理判定員のITさんという女性と、宇都宮にある一時保護所に向け、ぶたママさん、BOBOさん、MEmamaさんやMEちゃんに、さよならの一言を言うことも出来ないまま、私と妹1は児童相談所を後にしました。このとき、時刻はもう7日の0時を過ぎていました。
私の母の話では、母はホームオブハートのスタッフから、この日「子供達を守ることが出来なくて、本当に申し訳ない。」という連絡を貰ったそうです。
妹1はこの日の目まぐるしい出来事にすっかり疲れ果てて、タクシーに乗った途端、眠ってしまいました。
そんな妹1の姿を見て、子供達を家に帰してあげられなかった悔しさ、怒り、自分を今取り巻いている大人達への不信感が募りました。涙は止まらず、「決してこの人達のことは信じないぞ。」と思いました。
お母さん代わりだったぶたママさんたちと引き離され、MASAYAさんからもみんなからも引き離された私が、眠っている妹1の髪を撫でながらどんな思いでいたのか、知ろうともせず、同乗していたITさんは、実にあっけらかんと、「妹さんと仲はいいの?普段何をするのが好き?いつも何してる?」なんて声をかけてきました。
私は懸命に口惜し涙をこらえながら、
「家の手伝いをするのが大好きです。あとは勉強したり、パソコンいじってたり…。妹1は大切な妹です。私は妹1を守るために相談所に来ました。」、「早く家に帰りたい。虐待なんて、全くの嘘です、明日が待ち遠しいです。」そう答えました。
「突然こんなことになっちゃって不安でしょ。ごめんね。すぐに終わるからね」というような励ましの言葉もありました。
でもそれも彼女の今見ている視点、間違った情報からのものに過ぎず、私の気持ちとは全くかけ離れた、遠いところの話でした。突然闇夜に強い力で引きずり出され、自分たちがどうなっているのかわからない、そんな私の気持ちには、何の慰めにもなりませんでした。
私達を取り囲む大人たちは皆、私達のことを本当に虐待された子供だと思い込んでいる。そんな人が、私達の「心理」を「判定」してくれるのです。
この事の重さをひしひしと感じざるを得ませんでした。
24.その日の後のことを続けてお話しする前に、私の生い立ち、そして私の母が何故、株式会社ホームオブハートに就職するようになったかをお話しておきます。
それなくしては、なぜ母が屋久島にいたか、私達が母と離れてでもホームオブハートに来ていたか、今回の事件のことはやはり語れないと思います。
一時保護の間にも、これまでのホームオブハートでの生活についてをお話して来ました。
実際に私たちが体験した真実を語って行く事、実際の私たちの姿を見てもらうことで、すべてを最終的には理解していただきました。けれど、私たちは結果的に2ヶ月もの時間(下の妹、T君に至っては8ヶ月を超えます。)を、児童保護所で過ごす事になりました。
「青春を返せ」、「失われた時間を返せ」とは、まさに私たちの言葉だと思っています。
私は一時保護を脱した後、就職をする年齢になり、今はホームオブハートに就職しています。しかし、これは児童相談所から、それが私にとって一番よいでしょうとお墨付きをいただいての結果でもあります。
私達に虐待があったとしたら、ホームオブハートが本当に変な思想を持っていたのだとしたら、そこへの就職を児童相談所が勧めたりなど、決してしないでしょう。
妹1の出入りも堅く禁じることでしょう。
ましてや下の妹が最終的にそこに帰ることなど、あり得ないことです。
それが、今回の全ての答えです。そう私は自信をもって申し上げたいと思います。
一時保護所、児童相談所同様に真実をわかっていただくには、直接私たちの姿を見ていただくことが、やはり何より1番単純明快、何よりの動かぬ証拠でした。
たとえ時間がかかったとしてもです。「虐待」の通告をしたら児童相談所がその通告に従って保護しなければいけないという法律を悪用され、その犠牲者となった子供達の真実の声を、まずはこの場をお借りして、お伝えしたいと思います。