子供たちからの声

このサイトは、紀藤弁護士・HTPのメンバーたちのために、言われもない虐待の疑いをかけられた子供が、
日本中の沢山の人々に真実を伝えるために、立ち上げました。
また、この事件のように法律を利用した事件について考えていくサイトです

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第五

1. 私は、平成元年4月2日生まれ。父母双方の祖父母にとって、私は初孫でした。
それこそ目の中に入れても痛くないほどに、祖父母らからは可愛がられ、父母、祖父母皆から大切にされてきました。

2. 私の記憶にある父は会社員でした。しかし、私が生まれた当時の父は、T大学理学部の文部教官で、有機化学の理学博士号をもっていた化学者でした。父は平成3年3月末でT大学を退官して、M化学株式会社(つくば研究所)に就職しました。

3. そんな化学者の一方で、父は高校生の頃から福島の雄大な山を油絵で描いたり、ウルトラマンやゴジラなどの特撮が大好きで、自分でプラモデルを買い集め、部屋に飾って喜んでいました。お酒を飲んだり、煙草を吸うこともなく、いたって真面目、純粋な父でした。また、大変な読書家で、特に「老子」や「荘子」についての本を愛読していました。小さい頃の記憶ですが、私はそんな父のことが大好きでした。

4. 父母の「セミナー」との出会い
私が1歳ぐらいの頃、母が友人の結婚式に出席する時に新幹線で知り合った「木下」さんという方との偶然の出会いから、私の父母はワーナーエアハードの「フォーラム」というセミナーに参加するようになったそうです。
仙台から茨城県のつくばに引っ越してからも、父と母はワーナーのフォーラムに足を運んでいました。私も母とは何度か一緒に東京の会場に行ったことがあったと思います。そのときには大勢のおじさん、おばさんが席に座って、話を聞いている会場で、母に「しぃっ!静かに。」と注意されながら遊んでいたり、会場の片付けで慌しくしている人々の間を走りまわっていた微かな記憶が残っています。
当時のことは、まだ私が1〜2歳の頃ですから、あまりよく覚えてはいません。でも、母はその会場で親しくなったおじさんやおばさんと、とても楽しそうに話をしていましたし、父も帰ってくる時に、満面の笑顔で帰ってきましたから、私は子供心に、「お父さんとお母さんがお友達に会える、とても楽しい集まりなんだなあ。」、という風に思っていました。
母が私を連れて行くたび、親しい人たちは皆、私のことを自分の子供のように可愛がってくれました。来るたびに「また大きくなったねー。」と、頭を撫でて貰ったり、手をつないで一緒に遊んで貰ったりしたこともあり、私も母のフォーラムについていくことは苦ではありませんでした。

5. 父は主に一人で参加していましたので、父とそうした場に行ったことはありません。
しかし父が帰ってくる日、私は母と上野駅までお迎えに行っていたのを覚えています。駅のホームで父を待ち、父が新幹線から降りてくると、私は決まって「お帰り!」と大きな声を出して父に駆け寄っていました。
母が妹を妊娠して、だいぶお腹が大きくなって移動がつらくなってきた頃から、母はセミナーに通うのをやめたそうです。自然に私も会場に行くことはなくなりましたが、父は継続して、フォーラムに通っていたそうです。

6. 翌年2月17日、妹の妹1が生まれました。私も父も、妹1の誕生をとても喜びました。
父はすっかり妹1を溺愛し、いつも私と妹1を連れて出て、近所の人に声をかけられては嬉しそうに照れていました。
私はどちらかというと標準よりも少し大きめな子供でしたが、妹1は、逆に小さい頃からずっと人よりも小さめな子でした。この原因はおそらく母方の曽祖父や高祖母がとても小柄な人でしたし、母も小柄な体格ですから、おそらく遺伝的なもので、本人の健康に問題があるとか、病気ではありませんし、ましてや食事が少ないためなどでは一切ありません。実際、妹1は身体は小柄ですが、見かけによらず、本当によく食べる子で、時には私以上に食べることもありました。妹1自身も、背がなかなか伸びないことを気にして、ご飯をたくさん食べれば大きくなれると思って頑張っていたようですが、食べた分だけ背がぐんぐんと伸びた私に比べ、一向に背がどんどんとは伸びてゆかないままでした。
母は妹1の成長に関して特に心配はしていなかった。と話しています。
一口に小柄、といっても標準ラインの中で小柄だったわけで、よく食べよく寝、めったに風邪もひかない健康優良児でしたので、この子の個性として、今は小柄だけれども、そのうち伸びる時期が来るだろうと、見守っていたそうです。

…しかし、本当に悲しく、屈辱的なことですが、妹1はこの身体の小ささから、「ご飯を食べさせて貰っていない」という虐待の証拠を疑われました。
妹はただ人より身体が小さいという理由だけで、虐待児を見る目にずっと晒され続けたのです。どんなに妹1が説明しても、食事が満足に与えられていないと、本気で疑った目にさらされ、疑った言葉を浴びせられたのです。私も妹も本当に人一倍食べて皆を驚かせていたのが事実であるのに、ただ身体が小さめなだけなのに、嘘を本気で真に受けて、信じ込んで、精密検査まで受けさせられています。本当に心外甚だしいことです。
父にも、母にも、私にも、妹1には自明のことですが、児童相談所から連れて行かれた医大の教授は、一体どこに目を付けているのでしょうか、妹1は低身長症の可能性があるという結論を出してしまったそうです。
一体何を診ていたのか、恥を知れと言いたいところですが、実際には予断と偏見、そして放送局の番組作りによる報道、或いはこれ以外の結論を出すことが単に周りの状況から憚ったのではないでしょうか。馬鹿も休み休み言って欲しいところです。
私達姉妹だけでなく、いつもご飯をお腹一杯、ご飯を好きなだけ食べていたシャーマンも、保護所の少ない食事で、毎日毎日、本当に「ひもじい」気持ちを味わいました。
シャーマンは、食べる時には、一回にご飯を7杯も食べることもある子です。育ち盛りの日々を、とても辛い気持ちで過ごしました。保護所では、食事の量が年齢別に分かれており、一番食べるシャーマンに、小学生用のとても小さなお椀で食事があてがわれていました。一応、お代わりは出来たのですが、他にもシャーマンのように食べ盛りの子が沢山います。だから、シャーマンはいつもお腹を空かせていました。
私たちにいろいろな家庭の事情があるように、体も人それぞれ、どれくらい食べるかも個人差があります。今までは自由に、いっぱいご飯を食べて育ってきた子が、とても食べたいのに、食べられない。そんな生活を、誰が強いたのでしょうか。
これがどんなに辛いことなのか、好きなだけ食べて太っている人たちには判らないでしょう。

7. 一時保護所での生活で、私達はこれまで手にしていた自由、食事、恵まれた自然の中にある家から引き離され、完全に隔離された空間内で、沢山の大人たちに、その動向が監視されながら、暮らしていたわけです。
私達の自由と幸せは全て、奪い去られました。以前の暮らしと比べてどちらが、自由を剥奪しているのでしょうか。紀藤弁護士、Yy、Kk、あなた達のやったことは、人権侵害そのものでしかない。
…話が脱線してしまいましたので、戻します。

8. 平成4年、父の転勤で、私たちは新潟県新潟市へ移り住みました。
その年の冬、父と母はワーナーのセミナーで知り合った人から、MASAYAさんのセミナーを紹介され、MASAYAさんがトレーナーを勤めるセルフトレーニングのセミナーに参加したそうです。母がどれくらい参加していたか、まったく印象に残っていませんが、父は何度か足を運んでいました。
セミナーから帰ってきた父は、目をキラキラと輝かせながら、「MASAYAさんのアイランドセルフトレーニングは、本当に素晴らしかった。我の強い自分にも「本質」っていうのがあるんだなって思えた。僕の中にも本質があるって。あれが一番うれしかった。」と母に言っていたそうです。
そして父はMASAYAさんのセミナーで、父のアシスタントをしていたNTさんという人から、よく電話をもらっていました。NTさんから紹介してもらって、やはりセルフトレーニングのトレーナーでもある松田賀江(のりえ)さんのポストカード、MASAYAさんのCDを買っていました。
父はそのCDを部屋や車の中でずっとかけていました。母にはいつも、「MASAYAさんの音楽はとてもすばらしい。だけど、僕はセミナーでのMASAYAさんのほうがMASAYAさんらしいと思うんだよな〜。」と嬉しそうに笑いながら言っていたそうです。
父の車には、MASAYAさんのCDをダビングしたカセットテープや、MASAYAさんのラジオ番組「素直な自分に戻りたい」のカセットテープが、沢山積まれており、車を運転するときは必ず聞いていました。音楽もそうですが、父は本当にしょっちゅうMASAYAさんのラジオを聴いていました。MASAYAさんのラジオの中で、何か共感するところがあるたびに、「う〜ん、本当にそのとおりだな〜」としみじみと運転しながら独り言を言っていました。
そんな父ですから、テレビでMASAYAさんの音楽が流れるたびに父は「おー!!MASAYAさんの○○(ここで父は曲名をしっかり言い当てます)が流れてるー!!」と叫び、つられて母もやってきて「おお〜!」と叫び、私と妹1は、お父さんが喜んでいるから一緒に喜ぶという、本当に単純ですが大変な騒ぎによくなっていました。
私もそうでしたが、妹1は本当にお父さんっ子で、父が家にいるときはべったりくっついていました。
普段、父は7時頃に家に帰ってきましたが、「ただいま〜」と言いながら父が入ってくるなり、私と妹1はすかさず玄関に行き、妹1は思いっきり父に抱きついていました。私は朝に弱く根っからの寝ぼすけでしたので、仕事に行く前の父に会えることは、数えるくらいしかありませんでした。
しかし、妹1は父と同じぐらいの時間に起き、仕事に出かける父を見送り、後から起きてくる私に「あのね、今日はね、お父さんとバイバイしたんだよ〜」と嬉しそうに話しかけていました。

9. 親子4人で幸せな生活を送っていましたが、平成9年秋の終わり頃、突然父が胃ガンだということがわかりました。
私自身、「父がどこかおかしいのでは?」と感じたことがありました。
私が小学校2年(平成9年)の秋頃、初めて回転寿司に連れて行ってもらった時のことでした。とにかく食べることが本当に大好きで、沢山ご飯を食べた後にもチョコレートやアイスクリームなど、甘いものを欠かさない父が、たったの4皿でお寿司を食べるのを止めてしまったからです。
「もう食べないの?」と私が聞くと、「うん、もうおなかいっぱい。」と答える父の様子を、とても不思議に思った記憶が残っています。父はその後人間ドックを受け、胃ガンと診断されました。その時点では既に時遅く、スキルス性胃ガンだったそうです。
翌年(平成10年)1月、母から父が入院することを伝えられ、あの時食べられなかったのは、ガンのせいだったんだと思いました。



第五-2へつづく

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最終更新:12月18日

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