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第五-10
34. 私の性格上、こんな辛いことがあっても表面上は平気に、気丈に振る舞ってきました。
親にも打明はしませんでした。
しかし、この一連の嫌がらせが続くことで受けた精神的なショックは相当なものでした。この虐めの事件から数ヵ月後、先ほどお話しした父のガン発見、入院、手術、そして死亡に至っています。
入院している父、看病にあたっている母に、いらぬ心配をかけぬよう、私がしっかりしなきゃという思い一筋で、何とか必死で学校に通っていました。そんな無理をずっとしてきましたから、学校が楽しいとか、行きたいから通っている、そういう状況には程遠いものになりました。
その頃にはもう、学校に行くことの楽しみ・喜びというものより、勉強ができる・できないなど、その比較のために同じ仲間同士でも蹴落とし合う、戦いのようなムードが醸成されていることにうんざりしていました。私への虐めも、こうしたことさえなければ、絶対になかったのです。ならば私が表彰されなければよかった、そうなのでしょうか。それはそうではないと思います。その時には、別に私のような目に遭う人がでたでしょう。誰かはいつも表彰されているからです。誰かはいつも妬み、つまらない思いをする。誰かが出来なかったこと、失敗したことによる反対側のものとして意識されるのだとしたら、その表彰される誰かは、同じ目に遭うのです。でも更に、私が感じたのは、虐めた誰かだけが悪いのではない、ということだったのだと思います。
後に父からもらった絵本から、本当に目から鱗が落ちるように、このことは思うようになりました。
35. 父の死は、それまでずっと、「私がしっかりしなきゃと」、張り詰めていたものが一気に崩れた大きなきっかけでした。
父が亡くなってから、親戚だけでなく、本当に沢山の人たちから「お姉ちゃんがしっかりするんだよ」、「お母さんを支えるんだよ」と言われ続けました。
私は私で、気丈に振る舞い、私がやらなきゃと、その声に答えるように、闇雲に、手伝いをする毎日でした。
でも、私にはもうこれ以上踏ん張り続けることはできませんでした。当時、9歳の子だった私にとって、父がいない疎外感・喪失感は、突如世界が崩れ落ちてしまったように、絶大のものでした。私の友人達も、子供ながらに非常に気遣ってくれて、とてもありがたかったです。でもその気遣いが余計に辛い気持ちを思い出させることになり、大好きな友達と一緒にいることが、それもとても辛いと思うようになりました。
そして学校へはますます行きたくなくなっていきました。