子供たちからの声

このサイトは、紀藤弁護士・HTPのメンバーたちのために、言われもない虐待の疑いをかけられた子供が、
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第五-11

36. 私の母は母で、父の8ヶ月の闘病期間中(母は早期に、絶対に治ることがなく、進行が早いものと知っていました)、父の体の具合さえ良ければ、せめてMASAYAさんのコンサートや屋久島のホテルに連れて行きたいと願って、必死に看病を続けていました。
刻々と衰弱してゆく父の病室に、小型のテレビデオを持ち込み、昔のMASAYAさんのコンサートビデオを父と一緒に見、父が喜んでくれることが、当時何よりの幸せな時間だったそうです。父は意識を失わず、苦しむ表情も見せずに、笑顔のままの穏やかな最期を迎えました。
現実の死へとなったとき、母のショックも相当なものでした。精神的なよりどころであった父を喪い、これからは女手一人で娘2人を育てていかなくてはならない、という現実的な不安。それに加え、祖母との関係もあり、母は相当に心細い思いをしていたと思います。
祖父母との関係については後に詳しく書きますが、この頃の母は、そうした境遇の変化により、私達にこれまでよりもっと厳しくなり、私と妹に、「学校に行きなさい、しっかりしなさい。」と強く言うようになりました。その一面母は、普段の生活の中でも父を思い出してしまうのか、写真の前で泣いてしまう人でもありました。
そんな生活の中、私は、学校を休みがちになってゆきました。気持ちの上では、母をこれ以上心配させたくない、父の写真の前で泣いている母の力になりたいという思いから、何とか学校に行かなければと思ってはいましたが、もうこれ以上自分の気持ちに蓋をし、我慢をし続けてまで、学校というところには行きたくないという気持ちの方が強く、週に何度か学校を休むようになりました。母は母で、何としてでも私を学校には行かせようと、あの手この手を尽くしていました。

37. 父が死んでから、母は祖父母からは人が変わったようだと言われたことがあるそうです。
学校を休みがちになっていた私たちを見て、母は祖父母を心配させまいと思い、娘達が学校に行っていれば、祖父母は安心するだろうということから、私たちをなんとしても学校に行っていて欲しかったのだと後に母から聞きました。そんな母を見ての祖父母の感想なのでしょうが、祖父母は祖父母で、学校に行かないのはお前の責任だ、父がいなくなったばかりに・・・と、これも誰もが考えがちのことでしょうが、責めていたのです。
母は女手一人になったプレッシャーから、一人で何でもやりきることに躍起になっていて、どうして私が学校に行きたがらないのか、私の真意はいったい何かを、わかる余裕は余りにありませんでした。
私は私で、自分が混乱している中、母に「何故学校に行きたくないのか」をなかなか伝えることが出来ずにいました。その半年ほどの間に、母と私の間にはとても大きなすれ違いが生じていたように思います。
妹の妹1にしても、学校に通わなくなった理由も、私と同じく、学校で背が低いことをからかわれて、そのことでやはり虐められていたことが原因です。私の妹は遺伝の関係があり、もともと背丈が小さいのです。
その事実を知っている母や私は、妹1の背の低さのことを特に気にも留めず、妹1のことを育ててきました。そのうち、大きくなるだろう、という気持ちでした。
実際、妹1は特にアレルギーもなく、病気にもならず、大変丈夫な子に育ちました。一生懸命に食事もしています。食べないなどということではないのです。しかし、妹1本人は、自分が背が低いということを誰よりも悩み、気にしてきました。妹1は自分でも、人と違うということに気づいていますし、そんな子が人から、からかわれてしまいます。すると余計に、妹1は自分の背丈のことを気にします。妹1は、自分が小さいことを気にしだし、いじめられた日は泣きながら家に帰ってきていました。妹1も、父が死んだ後、何とか母の力にならなきゃと、思っていました。妹1は、私にも増して本当にお父さんっ子だったのに、その父が突然いなくなってしまった寂しさと、学校でのいじめに耐え切れず、学校に通うことをやめてしまいました。子供にするならば、義務として学校に行かなければと思いつつも、わざわざ心を傷つけるために通うという矛盾です。
そんなある日、ついに私は母に「私が学校に行かないのは、いまの学校の現状が、比較と戦いに明け暮れた戦場でしかない現実、そのため、世の中で少年犯罪が増えていて、ちょっとでもむかつくことがあれば、それこそナイフで刺しかねない状態だからだ!お母さんは何もわかっちゃいない!」と、心情をすべて打ち明けました。私の言葉は、相当のショックだったのでしょう、母は泣き崩れて「本当にごめんなさい、ごめんなさい。」と、私や妹に頭を下げて謝りました。私たちが、不良だからとか、不真面目だからとか、勉強をしたくない、怠けたいからなどでは全くないこと、学校という集団の中で、私も妹1も、標的にされていたこと、そんな中私たちが通学をしなければという思い、母に心配を掛けたくないという思いとで引き裂かれるような気持ちで苦しんでいたことをわかってくれました。
これは今もそうだと思いますが、ある虐めの存在を指摘して、やるなと言ったからと言って解決するものではありません。
母が学校に行って、私たちをいじめた犯人捜しや、注意を先生からして貰ったところで、終わるような問題ではないのです。
仮にかたどおり、そのようなことがされたとして、私たちがにこにこと笑って同じ学校に通うことができるでしょうか。母も少なからず、単純にその学校だけの問題ではないこと、手術をするように、問題を簡単に解決することが出来るものではないことを理解してくれました。それからの母は、無理矢理に学校に通わせようとすることは二度と言いませんでした。
母は、自分が働きに出ている間、困ることがないように、冷凍食品を買い込んだり、働きに出ている母といつでも直接連絡が取れるよう、携帯電話を購入するなどしました。
こうして、私と妹1は新潟にいる頃から、普段家にいることが多くなったのです。
このように、私や妹1が不登校になったのは、母が株式会社ホームオブハートに就職する遥か以前のこと、そして私達が学校で受けた心の傷から来ていますし、これが子供と子供の関係の築かれ方に深く関係しています。これまで信じていた学校を基準とした生き方への失望にあります。これは、私と妹1という人間が自分を守るために決めたことです。ですから、株式会社ホームオブハートであれ、MASAYAさんであれ、このことには誰一人として関与してなどいません。
私は私の意志で、学校に通わないことを選択していた、それだけのことです。
勘違いしていただきたくないのは、自分が怠けようとしたり、勉強が嫌いだったり、不良のような生活をしたいからでは決してありません。



第五-12へつづく

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最終更新:12月18日

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