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第2-2
3 私が赤ちゃんの頃は、あんまりにもうるさく泣き喚くので、「うるさい!」と怒鳴ることも多かったそうです。でも、だいぶ大きくなって、落ち着いてきた頃から、休みの日にはよく外で一緒に遊びにいきました。
私も、お父さんのことが大好きでした。
お父さんは病弱なのにタバコは大好きだったので、よくおつかいを頼まれました。
頼まれるたびに、私は喜んでお母さんと一緒に近くの自動販売機へ行ってお金を入れていました。
お父さんがお気に入りだったタバコの名前はいまでもはっきりと覚えています。
しかし、そんな幸せな日々は長くは続きませんでした。
平成9年、お父さんは突然、肝細胞ガンという病気に罹っていることがわかり、九州のがんセンターと言う病院へ入院してしまいました。
入院した時にはもう手遅れで、末期の肝臓ガンで、お母さんはお医者さんに「ご主人はもう持たない。長くて1ヶ月だろう。」と言われてしまったそうです。
お母さんから聞いた話を元に詳しく書いておきます。
平成9年2月16日頃に、お父さんはかかりつけのお医者さんから、がんセンターで精密検査を受けるように、と言われて帰ってきたそうです。2月20日にがんセンターへ行き、「即、入院して下さい。」と言われたが、仕事のことが気になっていたお父さんはその場では入院せず、5日後の25日に入院しました。2月28日か29日に検査結果が出たので、お母さんはお医者さんに呼ばれ、お父さんの病名を告知されました。
「大変言いにくいのですが、ご主人は長くてあと一か月です。ご本人への告知をしましょう。」
お母さんは目の前が真っ暗になってしまったそうです。
お父さんに告知することは、あと1カ月しか時間がないのならあまりにも短すぎてできない、告知したほうがいいか悪いか、自分だけでは決められないとお医者さんに言って、帰ってきたそうです。
3日後に、お母さんは、お父さんとお母さんの家族、お父さんの会社の社長さんと一緒に、もう一度病院に行き、お医者さんの説明を受けました。
そして、お父さんに病気のことを知らせるか、みんなで相談したそうです。
お父さんの会社の社長さんは「彼の精神的なものを考えると、あと一カ月なら告知はしない方がいいだろう。」と言ったそうです。
お父さんのお姉さんも「博幸(お父さんの名前です)は強い子じゃないから、あまりにも残酷すぎる。」と言っていたそうです。
お母さんは迷いに迷いました。
なぜなら昔からお父さんと「もしお互いがガンになってしまったら、必ず告知してね。」という約束をしていたから。
そのほうが、残りの人生を有意義に心残りなく過ごせると思っていた。
でも、あまりにも時間がなさすぎたから・・言うのをためらっていたそうです。
お母さんはいまでも「これでよかったのかと、思うことがある。」と言っています。