トップページ>公開陳述書
第2-3
4 私は、お母さんから「お父さんは病気になっちゃって、今病院に居るんだよ。」と言われていたのですが、幼かった私は、お父さんがどんな病気なのかも、何もわかってはいませんでした。
私達は、毎日のように病院へお見舞いに行きました。
病院の売店で私と弟はお菓子を買い、お父さんに封を開けてもらったり、お父さんと一緒に焼きプリンを食べたりして、とても楽しいお見舞いでした。
私にはお父さんは、いつもの元気なお父さんにしか見えなかったので、絶対にお父さんは帰ってくると信じていました。
あれだけ、身体が大きいお父さんだから、すぐに良くなる、また一緒に遊べる、お父さんは絶対に良くなると信じて疑いませんでした。
しかし、実際はお父さんの病気は本当に酷く、もはや手遅れで治る可能性はほとんどなかったそうです。
お母さんの話では、主治医の先生に、何か治療法はないのか、と相談しても「良くなる可能性はほとんど無い。」と言われてしまったそうです。「では、私の肝臓の一部を取って移植できないのか。」とお母さんは聞きました。
でも「ご主人のがん細胞はたいへん範囲が大きくて、しかも大きな血管の根本の所なので、無理です。」と言われてしまったそうです。
お母さんは諦めきれず、「では、ほかの可能性はないのでしょうか。」と聞くと、「血管造影剤を使う方法があるが、かなり身体のダメージが大きい。ご主人は体力が落ちているので、このために寿命を縮めてしまうことになるだろう。」という答えだったそうです。
お母さんは「なるべく、痛みを取り除いてあげる治療をしてください。」とお医者さんに頼み、お父さんの看病を続けたそうです。
入院してから、2週間くらいすると、痛みのために眠ることが難しくなってきて、いよいよモルヒネと言う、痛みを取るための薬を使うことになりました。
お父さんはモルヒネを使い始めると、食べたり、排泄たりすると、お腹を圧迫するために、肝臓を圧迫して眠ることが出来ないくらい、痛くなってしまい、食べたり排出したりするのが、難しくなったそうです。
モルヒネを使っているために、だんだんろれつが回らなくなってきて、お父さんとお母さんは、お互いの言葉を理解するのに時間がかかり、言葉のキャッチボールが難しくなったそうです。
だから、簡単な会話、食べたいか、食べたくないか。ほしい物は何かあるか、ないか。それだけしか出来なかったそうです。
お父さんが死んでしまう3日前、お昼頃にお見舞いに行きました。
帰る前に、お父さんから洗濯物を受け取り、「これ。(洗ってきて)」とお父さんは言いました。
私達は、「じゃあまた来るね。バイバイ。」と手を振ると、お父さんも手を振って病室を出ました。
この時の会話が、最後の言葉でした。
私は、覚えていませんが、その日の夕方頃、病院から、お父さんが危篤だと電話が来たそうです。
お母さんは、お父さんのお姉さんに電話をして、病院に行きました。
お父さんは、ナースステーションの隣の集中治療室に移動していて、危険な状態だったそうです。
看護婦さんに「何かあったらこれを押して下さい。」と、ナースコールを教えてもらって、お母さんと、お父さんのお姉さんと、私と弟で、病院に泊りこみでお父さんを見守っていました。
それから3日後の平成9年3月27日の午前4時過ぎに亡くなってしまいました。
入院してから約1ヶ月後、当時、私は4歳2ヶ月。弟は、1歳8ヶ月でした。