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第五-19
50 東京へ、そして那須へ
屋久島に引っ越してから半年以上経った、平成12年9月頃だと思います。
屋久島を訪れたMASAYAさんから、「そんなに学校に行かないなら、こっち(当時東京にあった本社です)に何日か来て、いろいろ勉強したら?」と、お話がありました。
私は「行きたいです!!!!!」と大喜びでした。これを労働を無償で提供させるため、などと思う人があるでしょうか。
学校に行かない子達が、ただ自習する、行かないということはなく、何か社会に結びつくこと、人間として成長できるようにと声を掛けて貰えたこと、なのではないでしょうか。まともな人なら、わかる話だと思います。
でも母は、私と妹1が東京に遊びに行くことを、快く承諾などはしてくれません。母には、父から預かった大事な娘なんだから、自分のもとに置いておきたい、なんとか私と妹1と一緒にいたい、そう思っていたのです。まあ、考えてみれば当たり前の話です。
しかし、私と妹1の、どうしても東京に行きたい、という気持ちからの説得と、東京にはぶたママさんやMASAYAさんもいるからと、ようやく母はOKを出してくれました。私と妹1は、早速身支度を済ませ、東京へ旅立ちました。羽田空港まで、ぶたママさんとMEちゃんとBさんが迎えに来てくれていました。
こうして東京に私と妹1は出てきたわけですが、後に母が話してくれた、面白いエピソードがあります。私ももう11歳でしたから、屋久島から飛行機に乗れば、後は自力で会社まで向かうことぐらいはできると思っていましたし、母もそうでした。
でも、MASAYAさんは、「年頃の女の子にそんなことは絶対にしちゃ駄目だ。」と言って譲らず、私たちだけになったのは、飛行機の中(鹿児島での乗り換えもありましたが)だけでした。こんなMASAYAさんが、私や妹1、そして私の母との間の子供である下の妹を、どうやってスポイル、虐待するでしょうか。
51 東京に移ってから、当時那須にあった松田賀江さんの美術館の引越しの準備のため、新しい美術館のお花植えに週に何回か、何人かのスタッフの方、それからMEちゃん達で出かけていました。
「一緒に行く?」とぶたママさんから聞かれた私達は「一緒に行きたーい!」と言い、一緒に連れて行ってもらいました。私達は広い敷地に沢山のバラの樹を植え、道沿いに色とりどりのパンジーを植え、美術館の飾り付けをしました。ぶたママさん、BさんとMEちゃんと一緒に泊まったパステルカラーの可愛らしい貸別荘の前では、MASAYAさんが作ってくれた「うどん」がものすごくおいしく、やっぱり皆のところに来てよかったと、つくづく思いました。何ヶ月かに1度、私たちが屋久島に帰ったり、逆に母が研修のために東京に来ることもありましたので、特に母と離れていて寂しいとは思いませんでした。
東京の本社では、いつもBさんのお手伝いや、ぶたママさんのお手伝いをして過ごしました。MASAYAさんとは、しょっちゅう外に遊びに行きました。MASAYAさん、MEちゃん、Bさん、私と妹1で、多摩川にハゼを釣りに行ったこともありました。はじめてのハゼ釣りに私と妹1は大興奮でたくさんハゼを釣って帰り、釣ったハゼはBさんがおいしくフライにしてくれて、私と妹1とMEちゃんはおなかいっぱい自分で取ったハゼを食べました。
こうしたことで私が魚の扱いがうまくなったのだと思うのは先に書いたとおりです。