子供たちからの声

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第五-15

42. そんな風に、新潟から、東京麻布に通う日々が続く中で、OMさん、私の母から、「アイランドセルフトレーニング」に参加してみたらどうか、という話がありました。
本来のトレーニングより、だいぶ縮小した形で行われるので、正式なセミナーというのとは少し違う、ということでしたが、このトレーニングは私にとって初めてのものです。
死んだ父や母が受けていたセミナー、父があれほど感動していたセミナーがどんなものか、父の死後、母からある程度聞きました。
私の記憶にも残っているのですが、父がMASAYAさんのそれを受けた時、父は「本当に目から鱗だった。」と晴れ晴れとした顔で帰ってきました。死の直前、父は何よりも「“自分を見つめること”から自分は逃げてしまった。」と言って悔やんでいた。という話を母から聞いて、父も受けて感動したものなら、自分も受けてみたいなと思ったことがこのセミナーに参加する大きなきっかけでした。
私は、母と共に申込書を書き、参加申し込みをしました。妹1はまだ小さいからということで、セミナーに参加させず、別の場所でMEちゃんと遊ばせるつもりでした。
でも当日に急遽妹1も同席していいよと言われ、親子3人で参加することとなりました。
日程は、平成11年8月末からの3日間でした
。当時、私は学校のこと、友達のこと、勉強のことであれこれと悩んでいました。
本当は行きたくない。という気持ちを持っているのに、この気持ちをうまく母に伝えることが出来ずに、しぶしぶと学校に行く生活をしていました。
母の「学校に行きなさい!」という声に、はっきりと「自分は行きたくない。」こと、その理由をきちんと言わずに、ムッとしながら、母の要望に答えているように過ごす自分に、本当に嫌悪感を抱いていました。
そのために、悩みに悩んで一時はもう死んでしまいたい、自殺してしまいたいとまで思っていました。私は母の希望を思って、自分の気持ちは脇に追いやって生きていました。
母の希望を入れたいというのも自分の気持ちですから、自分の気持ちを全て殺していた、とまでは言いませんが、私の本当の気持ちは母の希望する「学校に通い、良い子になること」ではありません。もう学校には戻りたくない。あの戦いの人生はもういい加減にしたい!というのが本音でした。
相反する2つの気持ちの葛藤に、悩み続けていました。

43. 3日間のセルフトレーニングを受けて、私が感じたこと。
それは、私は小さい頃から大人の目を気にして、認められるように生きてきたことでした。
そのために競争をして、勝ち負けでの順位付けを信じ、大人も負かすほどの戦いを作り出すような人間になってしまったのではないかということでした。そして、自分と比べて、小柄で可愛らしく生まれた妹1のことが羨ましく思い、自分の弱さ、出来ないところを責めて、勉強が出来るようになれば、父や母、祖父母に認めてもらえる、私が頑張っていた理由は、そういうことだったのではないかと気づきました。
これが誰かに示された結論ではありません。自分のことは、自分でしか見つけることは出来ません。自分が自分を偽り、或いは真の方向に導いていく、誰にとやかくいわれてどうできるものではないと思います。
最終日に、何かの反面としての在り方や、誰かの希望や誰かへの義務感からなどではなく、私は人として、本当はどう生きたいんだろう。どう生きたいと思ってきたんだろうと考えました。その時、父の最期の言葉が浮かびました。父が最期に残してくれたもの。無我を学ぶことが、人生で何よりも一番大切なことと言っていた、父の言葉の本当の意味に、初めて気がつきました。最終日、私は大きな紙に、私の「生きる目的」を大きく書きました。
「私は、父の死や、沢山の痛みを許して、抱きしめて、生きていきます。」とマイクの前で宣言しました。
そのトレーニングはほんの数人の参加者でしたが、共に3日間を共にした参加者の方たちは、私のそれまでの悩みがどのようなものであったのか、もう既によくわかっています。
参加者の方に抱きしめられる中で、私はこのセミナーの「卒業証書」を受け取りました。セミナーを終えた翌日は、ちょうど父の一年目の命日でした。父が出来なかった分まで、自分を見つめて生きよう、そう思いました。
その後も、私たちは本当にホームオブハートの様々なイベントに参加しました。
おそらく、皆勤賞だったのではないかと思えるぐらい、本当にたくさんたくさん、参加しました。
こうした多くのイベントで、私はホームオブハートの社長のぶたママさんや、当時17歳だったBさんと知り合い、本当の家族のように親しく過ごしました。

参加したイベントの内容は、当時伊豆と那須にあった、ホームオブハートの美術館にお花を植えに行きながら、皆で釣りに行ったり、キャンプをしたり、時には貸し別荘に泊まることもありました。
MASAYAさんの運転する船に乗って海へ釣りに行って大量の魚を釣って、キャンプ場に持ち帰り、皆で焼いて食べました。
もの凄く大量に釣れてしまったため、参加者と、MASAYAさんたちで分けて持ち帰りましたが、それでももの凄い量の魚でした。
ほかにも、伊豆の海辺にある生簀で、大量のアジや鯛を釣って、貸し別荘でMASAYAさんがおいしい骨せんべいを作ってくれて、MEちゃん、私と妹1は、大喜びで食べました。現在の私の特技の一つに、魚料理があります。特に魚を綺麗にさばく腕前がプロ並みなどと、ホームオブハートのスタッフの方から好評なのですが、上達した理由は、この釣りあげた大量の魚をBさんと一緒に、大急ぎでさばき続けたことがいい練習になったのだと思います。

泊まり先がキャンプ場だったときは、ホームオブハートの社長のぶたママさんが、私と妹1とMEちゃんの3人分の水鉄砲を買ってくれて、3人でキャンプ場の脇にある川へ行って遊びました。夕食のあとに、皆で花火大会をしたり、温泉に入りに行ったりもしました。
こういったイベントの最後に、MASAYAさんのコンサートが入ることもありました。
会場は大体美術館や、近場でMASAYAさんのCDを売っているお店などでした。
会場の準備もお手伝いさせて貰えましたが、皆で大騒ぎをしながら、コンサートの準備をするのも、とても楽しいことでした。
今でもすごく印象に残っているエピソードは、那須に行った時、コンサートを終えた後、MASAYAさんが突然「ラーメン食べに行く人〜!」と言い出したことがあります。
皆疲れきっていましたが、私は夜型人間でまだまだ元気いっぱいでしたので、「は〜い!」と手を上げて、MASAYAさんとMEちゃん、Bさんと私の4人で、ラーメンを食べに行きました。
4人でラーメンと餃子を食べながら、Bさんが「実はね。私はあなたのお父さんのこと、知ってるんだよ。」と言われて、私はビックリ仰天してしまいました。偶然にも、Bさんは父が受けたMASAYAさんのセミナー(セルフトレーニング)で、父と同じグループになった女の子でした。
実習の中で、父は涙で顔をぐちゃぐちゃにして、おいおい泣きながら、自分は本当に間違っていた。とBさんに伝えていたそうです。
父は、途中からセミナーに通うのをやめてしまいましたが、Bさんはそれからも続け、MASAYAさんの子供として育てられていました。こんな不思議な出会いがあるんだねと、私とBさんは気が合い、私はBさんのことを本当のお姉さんのように慕うようになりました。



第五-16へつづく

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最終更新:12月18日

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