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第五-17
46 母は平成12年の3月末から、屋久島に就職することになり、私達は引越しの準備を始めました。
祖父母には、きちんと「自分は屋久島で暮らすんだ。」ということを話しました。母に対しては相変わらず剣呑な態度を崩せない祖父母でしたが、それが私達孫も希望していることなんだとわかると、少しは安心したのでしょうか、「頑張ってね。」という声を掛けてくれました。
屋久島に発つ2ヶ月ほど前から、私は親しい友達に、屋久島に引っ越すことを伝えて、残りわずかな期間を一緒に過ごすために、1週間に1度行くか行かないかだった学校に、週に3〜4度ぐらいは通うことにしました。
私がいじめられて鬱々と悩んでいるときも、助けてくれた友達に感謝せずにはいられなくて、あれほど行きたくなかった学校に通ってゆきました。責任感が強い子供だったのだろうなと、今では思います。
久々に行った学校で、私と一番親しかった親友も、私と同じ3月末に転校してしまうことがわかりました。
転校してしまう前に何か出来ないかと思った私は、家に沢山あった松田賀江さんのポストカードをクラスの皆にプレゼントすることにしました。NTさんやOMさん、Sさんは何かの折につけて、松田賀江さんのポストカードを父に送ってくれていましたので、家には大量のポストカードが集まっていたのです。
母に手伝ってもらいながら、「プリントゴッコ」で屋久島での住所と、「いままで本当にありがとう!いつかまた会えたらいいね!」という私からのメッセージをプリントしました。詳しい日付はもう忘れてしまいましたが、たしか平成12年3月22日だったと思います。
この日は、学校の終業式の日でした。私からのお別れとして、メッセージつきポストカードをクラスの皆と先生に配りました。カードを配りながら、このポストカードの絵とメッセージは、生前の父が好きだった大切なもので、私もこの絵やメッセージが大好きなこと、母はホテルで働いているから、いつでも遊びに来て欲しいということを伝え、私は学校を後にしました。
47 当時、MASAYAさん達は1〜2ヶ月に1度ぐらいの間隔で屋久島に来て、そのたびにコンサートを行っていました。
私達が屋久島に引っ越してから初めてMASAYAさんが屋久島に来る日は、朝から着くのを心待ちにしていました。MASAYAさん達が到着し、私と妹1は笑顔で出迎えました。
妹1は、昔父によくそうしていたように、MASAYAさんに駆け寄り、抱きついていました。私と妹1は、屋久島のA小学校に転校しました。
しかし、学校には通わず、屋久島の自然の中で過ごすような毎日を過ごしていました。新しい学校に通って心機一転してみたら?と、母や、MASAYAさん、ぶたママさんその他みんなから何度も意見されました(学校に行くな、と言われたことは、一度もありません。念のため記しておきます。)。
しかし、別に勉強は家でもできるし、友達と仲良く遊びたいというような気持ちも、ここでは特にありませんでした。
そんなことをするよりも、何かためになるような新しいことを早くやりたいと思っていましたので、まずは学校に行くことよりもそちらを選択しました。
A小学校の校長先生・教頭先生・担任の先生とは、引っ越してから数日後に母の勤務している屋久島のホテルでお会いし、これまで不登校であったことをお話ししました。
これまでのことをお話しして、先生方は、「学校は、行きたくなったら来ればいいのだから、好きなように過ごしていて下さい。」と言ってくださいました。先生達はホテル内の様子を見て、「いいホテルですね。」と目を細めてくださいました。母からは「いつでもいらしてくださいね。レストランもやっていますから。」とお話ししていました。その後屋久島で行われたMASAYAさんのコンサートには教頭先生が来てくださり、私と妹1の様子に笑顔を向けながら、MASAYAさんの歌に聞きいっていただけました。帰りがけに、教頭先生は母の元に行き、「いやー、本当に癒されました。ありがとうございました。」としみじみと感想を述べられて帰られたそうです。