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第五-23
56 それでは、話を一時保護された日に戻します。私は不安と怒りから、疲れ切っているのに一睡もできないまま、宇都宮市の一時保護所に到着しました。私達がタクシーから降りると、「それじゃ。」と言って伊藤さんはそのままタクシーに乗って帰っていきました。
あまりに呆気なく彼女は帰ってしまったので、ポツンと取り残された私と妹1はとぼとぼと「保護所」と呼ばれる建物の中に入ってゆきました。時刻はもう真夜中の12時を過ぎています。玄関先は真っ暗で、唯一職員室から漏れる光だけが煌々と室内を照らしていました。職員室の戸が開き、保護所の職員さんが出てきて面会室に案内されました。職員さんと嘱託員のお姉さんから、保護所での暮らし、時間割などについて、説明を受けました。
「ここは、虐待されたり、家出をするなどの、ちょっとお家に問題がある子供達が来るところよ。」という説明を聞いて、私はとんでもないところに来てしまった。こんなところに長居は無用。早く帰らないといけないという思いが強くなりました。
携帯電話まで預けなくてはならないと知り、母やぶたママさん、MASAYAさんと連絡が取れなくなると思った私は「トイレに行きたい。」と言って、面会室を出て、私の母・ぶたママ社長さん宛にメールを打ちました。
内容は、[今保護所へつきました。携帯が使えないようです。(預けなくてはならない)早く帰りたい…]と、とても短いメールですが、せめてこのメールで私達の様子を知り、恐らく今も泣き腫らしているだろう彼女に、直接連絡が取れなくなってしまうこと、そして、私の精一杯の気持ちを知らせて、少しでも安心してくれたら、という思いで送信しました。
57 トイレから戻り、私は携帯電話と財布を施設の人に預けました。そして、着ている洋服をパジャマに着替えさせられ、服も預けさせられました。身長と体重を量り、保護所での服装(ジャージ2着・パジャマ1着・その他タオルやブラシ類)を手渡されたあと、「お風呂、どうする?」と聞かれましたが、心身ともにくたくたで、もうこれ以上誰とも関わりたくない、誰の顔も見たくない、誰とも話したくないという精神状態でしたので、断りました。
そして私と妹1は居室へ案内されました。居室の広さは、大体畳8畳ぐらいだったと思います。すでに中学生の女の子が4人ぐらい寝ていたので、足の踏み場もない状態でした。妹1はすぐに布団にもぐり、まるで死んだように眠ってしまいました。
58 私もへとへとに疲れていましたので、バタリと布団に倒れこみはしましたが、なかなか寝付けず、今日起こったことを冷静に順に思い出してみました。マスコミが大騒ぎで取材をしていたけれど、ぶたママさん達は無事に帰っただろうか、妹1以外の子供達はどうしているんだろう、MASAYAさんや、スタッフのみんなはどうしているだろうか、母は無事に那須に来れたろうか、この先、私達は一体どうなってしまうのだろうか、一体自分たちの身に何が起きたんだろうか、と考えているうちに、疲れで眠ってしまいました。