子供たちからの声

このサイトは、紀藤弁護士・HTPのメンバーたちのために、言われもない虐待の疑いをかけられた子供が、
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また、この事件のように法律を利用した事件について考えていくサイトです

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第五-3

16. 再入院により、父は家にいたときよりも、容態が安定しました。私は再び、父の看病を積極的に手伝いました。
私達がお見舞いにゆくと、父はいつも、売店や屋上に連れて行ってくれ、お菓子を買ってくれたり、屋上で遊ぶ私達をニコニコと笑いながら、眺めていました。それは、まだ元気だった頃、必ず日曜日には公園やデパートに連れて行ってくれた父が、病院の中だけれども、せめて私達が喜ぶのであればという精一杯の思いから、きつい身体を引きずりながらも、連れて行ってくれたのだろうと、今の私にはわかります。
平成10年7月末、ついに父は個室の病室に移ることになりました。その7月末に私たち姉妹が習っていたバレエの発表会があり、父も見に来てくれると言っていましたので、張り切って練習していましたが、発表会の数日前、お見舞いに行った時、父から「ごめんね。やっぱりお父さんは見に行けない。でも、しっかり頑張ってくるんだよ。お父さんはあとでビデオで見るからね。」と言われました。私も妹1もとてもがっかりしましたが、父の言葉通り、一生懸命これまで練習してきた成果を出しました。その矢先に、父が個室に移ることを、母から聞いたのでした。

父の看病のために母も病院へ泊まることが多くなることから、私と妹1は福島県の祖父母の家に預けられることになりました。
私も母と一緒に泊まりこみ、父の看病をしたいと、母に何とか一緒に泊まれないかと頼みました。
でも、病室は狭く、母一人分のスペースしかないからと言う母の答えに、しぶしぶ祖父母宅に行くことを呑み、身支度をしました。

17. このようにして、父の実家も、母の実家も同じ福島県にあり、お互いの距離も近かったので、母が父の看病に病院に泊まり込んでいる間、私達はそれぞれの家を行ったり来たりして過ごしていました。
父方の実家にいた時は、祖母と私と妹1の3人でした。父方の祖父は入院していたのか(祖父母の中で、私が一番大好きだったのは父方の祖父でした)、一緒にいた記憶がありません。祖母は大変厳しい人で、家に来た私達に、「子供だけでの外出は危ないから絶対禁止!必ず、ばーちゃんと出かけましょう。」と言い、その他、箸の持ち方から姿勢まで、厳しくしつけられることが沢山ありました。
でも、祖母は日中出かけていることが多かったため、私と妹1は2人でよく外を出歩いていました。
祖母宅の近くにあった、よく昔父と遊んだ覚えのある小さな公園で、コンビニで買ったジュースやお菓子を食べながら「お父さん、早く良くならないかな〜。」と妹1と話しながら、遊んでいました。
母方の祖父母の家では、祖父母が畑に連れて行ってくれたり、軽トラックの荷台に乗せてくれたりしましたので、どちらかというと母方の祖父母の家にいる方が好きでした。
そんな生活をしながらも、父の見舞いに、2週間に1度、新潟に帰ることにしていました。
その間、何か楽しいことがあれば、父宛に手紙を書き、父からの返事を楽しみに待っていました。

18. 当時は本当に小さな子供でしたので、父の容態について、何もわかっていませんでした。
まさか父の身にいつどんなことが起こるかわからない、などという状態にまで至っていたとは、知りませんでした。
私には、自分がお父さんの看病をしてやれなくて、悔しい。なんでお母さんばかりがするのか、ずるい、という思いがありましたが、妹1は本当に幼くて、まだ小学校1年生になったばかりでしたから、父の病気のこと、まさか父が死んでしまう病気にかかっているということは私以上にわかっていませんでした。
そんな妹に、私が話していたのは、父から教えられた、「お父さんは胃を取ってしまったから、ご飯が食べられなくなってしまったし、お腹が痛くなってしまった。でも、胃を使っていればいつかは元通りになるんだ。」ということでした。妹1とは、お父さんが元気になるように2人で頑張ろうねと、話していました。

19. 一方、父は母に「子供達は、僕が死んでも充分生きていける。あの子達は、一生可愛がられて育つ。子供達は、僕の自慢の娘だ。」と話し、「自分は弱虫で、勇気がなくて、MASAYAさんのような生き方ができなかった。こんな身体になって、初めて賀江さんの気持ちがよくわかった。無我を学ぶことがどれくらい大切なことか、ようやくわかった。僕が死んだら、MASAYAさんのところに行ったらいい。だけど、本当にどうするかは、あなた(母)が自分で決めなさい。子供達にも、好きな道を歩ませなさい。」、「本当は、僕は化学者なんかじゃなくて、もっと人と関われる仕事がしたかった、福祉の仕事とか、MASAYAさんのCDや松田賀江さんの絵本を売る、ショップを開きたかった。」そんな話を、母に言っていたそうです。
今、母はこれが父の遺言であり、一番心から願っていたことだったと、父の様子を振り返り、話してくれます。
父は本当にMASAYAさんの生き方・松田賀江さんの生き方を尊敬していました。父は、自分もMASAYAさんや賀江さんのように生きれたらと、常々願っていながらも、そうは生きられなかったと、病室でMASAYAさんの音楽を聞きながら、涙を流していたそうです。
そんな父の姿を思うと、父の夢を叶えてやりたかった、父が本当にやりたかったことを、元気なうちにやらせてあげたかった、と悔やんでも悔やみきれない思いで一杯です。



第五-4へつづく

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最終更新:12月18日

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