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第五-8
31. 最後まで父のことを気に掛けてくれていたNTさんにお礼を言うのに、NTさんが当時勤めていた、屋久島のホテルへ、私たち3人は行くことにしました。
生まれて初めて飛行機に乗り、父がずっと行きたがっていた屋久島へ私達はゆくことになったのです。
屋久島は生憎の悪天候で飛行機が着陸できず、鹿児島に1泊することになってしまいましたが、やっと辿り着いた屋久島は、想像していた以上に美しいところでした。
島中が鬱蒼と生い茂る森に囲まれていて、本当に緑溢れる風景、そして真っ白いコテージが立ち並ぶ姿も美しいホテルでした。
ホテルに到着すると、真っ先にNTさんが迎え出てくれました。
母は、NTさんに深々と頭を下げてこれまでのお礼を言っていましたが、そのあとも長い間、母とNTさんは話しこんでいました。
きっと父の最期の様子や、父が最後までMASAYAさんのことを尊敬し、感謝していたこと、そんな父とMASAYAさんの橋渡しをNTさんがしてくれたことを、父は常々感謝していたこと、それをNTさんに伝えていたんだと思います。
私と妹1はホテル内を探検することにして、建物のところどころに残された、松田賀江さんが描いたイラストを見つけては、妹1と「あ、こんなところにも!かわいいー!」と宝探し気分で歓声をあげていました。
母とNTさんとの話が終わり、私達は当時屋久島に勤めておられたSOさんのガイドで、あの白谷雲水峡へ観光に出かけました。
びっくりするほど、森の中は瑞々しくて、都会育ちの私達は大変驚きました。
また、海辺にも行って、濃いブルーの海に、「新潟のあの緑っぽくて濁った海は一体何だったの??」と私は驚きました。
楽しい旅行の帰り道、私と妹1は「また、屋久島に行きたい。」と言いました。微笑みながら母は頷いていました。今思い返してみると、父が亡くなってからは、こんな風に3人揃って笑いあうようなことは一度もありませんでした。この旅行で本当に久々に、笑顔を取り戻すことができました。
32. 平成11年1月、母は父が勤めていたM化学の関連会社に就職し、私と妹1は、いわゆる「鍵っ子」状態になりました。
この後、私は学校に通わなくなりました。
私達が不登校になっていることをよいことに、それが私の母やMASAYAさんから私達への児童虐待なのだとして、紀藤弁護士、Yy達は、母やホームオブハートが、私たちを学校に通わせないなどとしてこの事件をいわば肴、というよりも頭のおかしな連中のセミナーなどという印象づけに使われたのが、今回の事件です。
私たちの話は、おかしな宗教みたいなものだとして、裁判で使われ、私達は私たちで長らく自由が奪われました。
その間(かん)の、そしてその後の幸せを、全てもぎ取られました。
事実を陰湿に言い換え、捻じ曲げ、言葉尻で無実の人を陥れるなどという、人間のやることとは思えない、全くもって信じ難いことなので、全ての誤解が解けるよう、私がどのようにして不登校になったのか、詳しく述べておきたいと思います。
少し話が前後しますが、我慢して読んでください。
なぜ、父の最後のプレゼントを私や妹1が読んで感動したのか、なぜ学校なんかに行きたくなかったのか、それこそ自分が車で送り迎えをしてでも学校に行かせようとしていた母の態度が変わったのかも、わかって貰えると思います。
でもこれは、人の痛みを無いものとして、言いくるめてでも生きていけるような人には決してわからない事かも知れません。
いや、全く理解はできないことでしょう。