子供たちからの声

このサイトは、紀藤弁護士・HTPのメンバーたちのために、言われもない虐待の疑いをかけられた子供が、
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第3-11

【黒磯での生活】
1 今回のメンバーで、私が死んでも許せない人物、それはKkです。当然、紀藤弁護士にしても、Yyにしても、絶対に許せません。中でもKkだけは、本当に許せない。なぜなら、あのメンバーで唯一Kkは、私がどれだけ幸せに暮らしていたか、実際に知っています。Kkの娘の素行の悪さに私と弟がどれだけつらい気持ちを味わっていたか、これも知っている筈です。Kkとの暮らしのことを、それが虐待だというのなら、本当にそのとおりです。それが、事実です。私と一緒に児童相談所へ連れ去られた2歳の男の子、T君のことにしても、一番可愛がっていたのはKkだし、もっと言えばT君のお世話をいいわけに、トシオフィスの仕事はさぼっていました。どんなに泣きまねしようが、演技をしようが、私はKkの嘘を絶対に暴いてやる。本当にそう思っています。

2 平成15年4月5日栃木県黒磯市にあるアパートに引っ越しました。私が次の年の4月7日、連れ去られた部屋です。引っ越してきた日には、トシオフィスのスタッフのTmamaさんと旦那さん、T君(私と一緒に児童相談所に連れ去られてしまった赤ちゃんです。当時1歳。この子は幼児だからと8ヶ月もTmamaさんと離ればなれにされました)は先に引っ越してきていました。

3 私達の後に引っ越してきたのがKk(以下、Kkと呼びます。)と娘のDちゃん(当時9歳。私の一歳年下でした。)でした。部屋は1階の102号室でした。Dちゃんも私達と同じく、もとから不登校でした。このことは死んでも忘れないで欲しいです。Dちゃんが不登校になった理由は私はわかりませんが、Dちゃん自身の意思で行きたくないから行っていないようでした。誰も行くななんて言ってません。

4 黒磯に行った私と弟の一日のスケジュールは大体こんな感じです。9時か9時30分頃に起きてきて、10時頃に朝ご飯を食べ、13時か、14時くらいにお昼ご飯を食べ、20時過ぎぐらいに夕食を食べます。寝る時間は24時〜2時の間でした。昼間はKkさんのお部屋(102号室)でDちゃんとT君と4人で遊んでいました。T君の面倒は、ほとんどKkが見ていて、私達は隣でその様子を見ていましたが、自分達(子供達)だけで面倒をみたことは一度もありません。T君に何かあったら、たとえばオムツを換えなきゃいけないときとかは、必ず、大人の人に電話する事になっていました。ただ、お水をあげるとかの私達ができることはお手伝いみたいな感覚でやっていました。

5 Kkは30分おきぐらいにトシオフィスの事務所からやってきては、遊んでいたり、散歩に行っていたり、「この人本当に、仕事してるのか?」と私は思ったほどです。Kkは「男の子が欲しかったんだぁ。」と言って、T君のお世話を楽しそうにしていました。

6 天気のよい日はマンションの周りを自転車でぐるぐるまわったり、裏の林で遊んだりしていました。弟は、「早く補助輪なしで、自転車に乗りたい。」と言っていたので、遊び感覚で教えていたら自転車を補助輪なしで乗れるようになり、弟は嬉しくて少し雨が降っている日でも自転車乗りをしていました。しかし弟は、近所の男の子達に自転車で追い掛け回されたり、からかわれたりして、ついには転んでしまい、一緒に遊ぶのをいやがっていました。私は、「Kちゃんを、いじめるのはやめろ。Kちゃんに謝れ!」と言って、謝ってもらい、「Kちゃん大丈夫?痛かったでしょ?家に帰って消毒しよう。」と言って、Kちゃんの手を引き、家に帰って、手当てをしてあげました。それからは、姿を見ると、さっさと家に帰るようになりました。

7 私達3人は不登校児だったので昼間はそれぞれのお部屋で遊んだり、どちらかの部屋に行って遊んでいました。私、弟、Dちゃんの3人とも、何か作ることが大好きなので、空き箱でおもちゃを作ったりお菓子の本を見ながらクッキーやホットケーキを焼いて楽しんでいました。

8 5月に入ってから、Eさんという人が、近くのK病院という病院に勤めることになり、Kk宅に同居するようになりました。私はEさんのことは全く知りませんでしたが、お母さんやKkたちの知り合いだったようで、いつも楽しそうにおしゃべりしていました。Eさんが引っ越してきてからは、Kk宅になかった電化製品が置かれるようになりました。Kkはとても貧乏だったのか、必要最低限の家電すら何も持っていませんでした。だから今までは私の家まで洗濯機・浄水器・掃除機を借りに来ていたほか、テレビを見に来たり、CDまで聞きに来ていたのに、Eさんが来てからはKk宅のリビングにEさんが持ってきたTVが置かれたので、Kk親子は好きなビデオをみたり、EさんのCDプレイヤーで音楽をかけて歌ったりしていました。休みの日にはEさんにうどん作りを教えてもらいました。みんな顔中粉だらけになりながら楽しく作りました。みんなで食べた時に、途中で切れていたり、太さがバラバラだったりと、かなり不恰好だったので、おいしいかどうか分からなかったのですが、お母さん達や、Tmamaさん、Eさんは、「おいしい!」と言ってくれた、とても嬉しかったです。

9 5月の中旬に、Eさんが「那須岳に、山登りに行きませんか?」と言ってくれました。私と弟は、「行きたい!!」と叫んで、山登りに行くことが決まりました。お母さんからOKをもらい、私と、弟と、Dちゃんと、Kkと、T君と、Eさんといっしょに、那須岳に登りに行くことになりました。朝の4時に起きて、4時半に出発すると言うことだったので、早めに寝ました。翌日、朝の4時に起きて、お弁当とか、必要な物を準備して、出発しました。私と弟は生まれて初めての山登りだったので、とてもわくわくしていました。ロープウェイもありましたが、今回は自分達の足で登ることにしました。でこぼこ道だったり、くねくね道だったり、岩だらけだったり、緑でいっぱいだったり、赤い土だったりと歩いていくごとに、いろんな景色が楽しめました。T君は、赤ちゃんなので、Kkがおんぶをして登っていましたが、空気が薄いので、途中でKkとT君は、待つことになりました。私達は、頂上の近くまで登り、休憩所でお弁当を食べて、少し休憩してから少し降りて、Kkと合流して、カセットコンロとやかんを取り出して、緑茶を飲みました。朝の心地よい澄んだ風が吹いていてすがすがしい気分でした。私と弟は、お母さん達にお土産で、那須岳の石を拾って帰りました。

10 6月の末ぐらいから、夕飯は3家族一緒に食べるようになり、Kk宅で17時ぐらいから、私達子供3人と大人が1人ついて、今日は何を作りたいか相談しながら作っていました。私は、お手伝いは好きだし、料理を作るのも大好きだったので、みんなが、おいしい!と言って、食べてくれるのは、とても嬉しかったです。時々Eさんが夕食作りを手伝ってくれたこともあります。だいたい、20時〜21時にご飯を食べて、22時ぐらいに、子供みんなでお風呂に入るようになりました。みんなと入ると、とても楽しかったです。

11 だけど私は、Dちゃんのことが嫌いでした。なぜなら、物を盗んだり、意地悪をするからです。分かっているだけで、今までバッグ2点、お金 2千円、カチューシャ1個、シルバニア何点かが捨てられたり、一部、Dちゃんが自分のものとして持っていきました。その他にも、捨てられたか、盗まれたものが他にもあると思いますが、あまりにも多すぎて、何がどうなってしまったか、わからなくなってしまいました。Dちゃんに物を貸すと、貸したままなかなか返してくれません。、耐えかねて、Dちゃんに「早く返して。」と言っても、知らん振りして返してくれなかったり、返してくれたとしても、壊されて悲惨な状態になっていました。特に、私が一番気に入っていた、ピングーのバッグをDちゃんに盗まれたときは見るも無残な悲惨な状態になって私のもとに返って来ました。この時のバッグは取ってありましたので、写真にとって後ろに付けておきます。この出来事はいやな思い出として、いまだにはっきりと覚えています。

   平成14年5月、Kk親子が引っ越してきてから少したった頃のことです。私はもともとバッグを集めることが好きで、いくつかお気に入りのバッグを持っていましたが、その中でも一番気に入っていたブルーのピングーのバッグが私の宝物でした。このピングーのバッグは、昔ミスタードーナッツの景品で貰ったもので、とても使いやすく、一番大切にしていたバッグでした。ある日突然、部屋からそのバッグが無くなってしまったので、一体どこに行ってしまったのだろうと、探していました。どんなに探しても見つからないので、お母さんと弟も一緒に、家中をいくら探しても見つからなかったのです。そんなときに、たまたまKk宅に遊びに行くと、見覚えのあるバックがリビングに置かれていたのでよく見ると…捜し求めていた私のピングーのバッグです!『あれ?探してもないと思ったらこんな所に。なんでこんな所に在るんだ?』と不思議に思った私はDちゃんに、「これ、私のだよね?」と聞くと、「え?違うよ。Dちゃんのだよ。」とシラを切るので、「えっ!?だってこれと同じやつ私持ってるし、Dちゃん持ってなかったじゃん。」と問い詰めました。するとDちゃんは涼しい顔で、「これは、Dちゃんの誕生日の時に友達からもらったんだよ。ほら、Dへって書いてあるでしょ?」、と指を指した先には、無残にも、油性マジックで「Dへ」と取っ手のところに大きく書かれたバックの姿が…私は唖然として、言葉が出ませんでした。続けてDちゃんは、「シャーマンちゃんが見たことないのは、見せてなかったからだよ。」としゃあしゃあというので、私はもう我慢ならんとブチッっと頭の中で切れる音がし、『何だこいつ〜!嘘なのが見え見えなんだよっ!!』と腹が煮えくりかえる思いを味わいました。明らかに犯罪者の一歩手前です。平然と嘘をついて、人を陥れる手口、だれかに似てますね。

12 たとえもしも、誰かがプレゼントしたとしても、プレゼント自体に油性のマジックで名前を書く人なんて見たことがありません。どんなに返してといっても、Dちゃんは断固として私のバッグを返してくれず、その日はそのまま帰り、お母さんに相談しました。どうしてDちゃんはあんないじわるをするのだろう、本当に酷すぎる、という気持ちをようやく明かすことが出来ましたが、それでも、私の悔しい気持ち、悲しい気持ちがまぎれるわけがありません。だって、私が一番大切にしていた物を盗まれ、汚されてしまったのですから。それから3日ぐらい経ったある日、突然Dちゃんが家に訪ねていきました「ごめんなさい。シャーマンちゃんのを、持っていきました。ごめんなさい」と謝って、例のバッグをようやく返してくれました。謝ってくれたのはよかったのですが、何しろ油性のマジックで大きく「Dへ」と下手な字で書かれているのです。どうにか消そうと頑張りましたが、消えませんでした。私は、泣きながら、土下座してまで謝っているDちゃんを見て、『きっと反省しているんだろうな。』と思い、許してあげました。でもそれはそのときだけでした、それでもなお、その後反省することなく、物を持っていっては、自分のものにしてしまうのでした。Dちゃんには本当にあきれました。ふと気がつくと、Dちゃんに「あとで返すから、貸してね。」と言われて貸したものさえ、あたかも自分の物のようにDちゃんの小物入れに入っていたり、引出しに入っていたりしました。貸したことを悪気なくうっかり忘れちゃったのなら、まだ話がわかります。しかし、Dちゃんはそうではありません。そのことを問い詰めると、「え?これはDちゃんのだよ。何言ってるの。」とシラを切るのです。

13 Dちゃんは私のものを欲しがり、勝手に文具などを家にもって帰っていたり、大事な本のカバーを外して勝手に持って帰っていました。私は「どうしてこんなことをするのだろう…」と悲しくなりました。私が一番びっくりしたことは、Dちゃんは物だけでなく、お金まで盗んでしまう子だったことです。事件の始まりは先ほど書きました「ピングーバッグ事件」の後、6月下旬から7月上旬頃だったと思います、Dちゃんが私の家に遊びに来たときでした。ちょうどその日は、お母さん達が、お昼の間お出かけをするためにお昼ご飯用に、私はお母さんからお小遣いで、2人分で3、000円、DちゃんはKkから1、000円、もらいました。お母さん達の見送りをした後、Dちゃんは、すぐにコンビニへ買い物に行ってしまい、私達は、家に帰りました。私達はお母さんと別れた後、貰ったお金をお財布にしまい、テーブルの上に置いておきました。後で買い物に行くから、無くならないようにお財布にしまっておこうと思ったからです。ちゃんとお母さんから貰った3、000円を、お財布にしまいました。しばらくして、Dちゃんがお菓子の入った買い物袋とお釣りのお金とレシートを手に持って、「さっきのお金、もう全部使っちゃって、お昼ご飯分のお金無くなっちゃったよ。」と言いながら遊びに来ました。Dちゃんの手には110円程度のお釣りしか残っていませんでした。そう言って、買ってきたお菓子を早速食べ始めたDちゃんと、私と弟は「お母さん達、何しに出かけたんだろうね」などと雑談をしながら過ごしました。少しお腹が空いてきたので、もう一度Dちゃんに、「本当にお菓子しか買ってきていないの?」と私が聞くと、Dちゃんは買い物袋の中身を見せてくれました。本当に、お菓子しか入っていません。「うわー何馬鹿なことをやってしまったんだこの子は。全く、しょうがないなぁ」と見かねた私は、「そっか。じゃあ、私たち2人分にしては3、000円はちょっと多かったから、Dちゃんの分も買ってこようか?」と聞きました。Dちゃんは喜んで、「えっ。買ってくれるの?ありがとう!」と言っていました。私と弟でコンビニに出かける準備をし、Dちゃんは「じゃあ、私は部屋で待っているね。」と言って家に帰りました。支度が終わり、テーブルの上に置いておいたお財布を手にとって、中身を見るとなぜか2、000円しか入っていません。いつの間にか1、000円無くなっていました。「あれ?おかしいな。確かに3、000円入れたはずなのに…」弟が横にいたので、「Kちゃん、お金が無くなっちゃった!」というと、弟もビックリしていました。無くなった1、000円の行方は弟にもわかりません。私は最初、家にいっしょに居たDちゃんがいつものように盗んだんじゃないかと思いましたが、確かな証拠もないのにDちゃんを疑っちゃ悪いな。と思い直して、家のどこかに落としたのだろうと、弟と2人で家中を探しまわりました。それでも見つからないので私は、無くしてしまったのかな。と思って諦めて、買い物に行きました。私と弟はDちゃんが好きそうなお弁当を選び、3人分のお弁当を買って帰りました。家に帰ったDちゃんに買ってきたお弁当を届けるために、Dちゃんの家を訪ねると、出迎えたDちゃんが「実は家を探したら、まだ1、000円あったんだー。だからお昼ご飯買っちゃった。」とうれしそうな顔を浮かべて言って来ました。さっき、使いきってしまったと自分で言っていたのに…「おこづかいよ。」と渡されたお金も1、000円だけだったことも実際に目の前で見ていましたから知っていました。ですから、嘘であることは明らかです。『またDちゃんが盗んだんだ!』と思いましたが、わたしは「そうなんだ。でも、私達もDちゃんのお弁当、買ってきたよ。」と言って買ったお弁当を渡しました。そして「ところで、そのお金、どこにあったの?さっきお菓子買っちゃったから無くなっちゃったんじゃないの?」と聞くと、「ううん、最初から2、000円貰ってるよ。」と平気で言ってのけるので、私は「こいつは完全に嘘つきだ。」と思いました。私と弟は、憂鬱な気持ちで、家に帰り、お弁当を食べました。ご飯を食べながら、なんとなく弟が言っていたのですが、弟はDちゃんがお財布からお札を抜き取るところを見てしまったそうです。そして、「絶対に言うなよ」とDちゃんに脅されていたため、知らない振りをしていた。ということも聞きました。ご飯を食べ終わったあと、お母さん達が、帰って来ました。お母さんが家に帰ってくるなり、お母さんに「お母さーん。Dちゃんにお金盗まれちゃったのー。」とKちゃんは泣きながら言いました。お母さんはビックリして、「えっ!シャーマンちゃん、Kちゃん、何があったのか教えて。」と聞かれたので、何があったのかを話しました。お母さんは、「ちょっと待っててね。Kkさんと話してくるから。」と行って、出ていきました。ばらくして、お母さんが帰ってきました。「お金、返してもらったから。」と言っていました。まさかお金まで盗む子だとは思ってもみませんでした。

14 これまで書いているように、Dちゃんは、弟に対して脅したり、罪を擦り付けるようないじめをするようになりました。私はDちゃんが弟の物を隠している姿を、何回も見ました。弟が悲しむ前にとり返そう、と思い「Dちゃん、さっき、隠してたでしょ。見てたんだから。」と言っても、「えー?Dちゃん知らないよ?Kちゃん(弟のことです。)が、どっかやっちゃったんじゃない?」これには頭に来ました。どんなに証拠を付きつけても、「知らない」と嘘を言うばかり、それどころか、自分より小さい子に罪を擦り付けようとする行為、本当に頭にきました。どんなに言っても反省することもなく、堂々と嘘をつくばかりで相手にしていたらきりがないので、あきらめて家に帰りました。幸い、私は、私の家の中で隠しているのを見ていたので、どうにか探し出して、無事に元の場所に返しました。Dちゃんの陰湿ないじめは留まることなく続きます。弟は家にある空き箱を使って工作をしたり、歌を歌うことのが大好きで、好きなアーティストの歌を歌ったり、私とお母さん限定でしたが、自作の歌を作って素敵な声で歌って聞かせてくれました。大好きなだけあって弟はかなり歌が上手く、私とお母さんは、「すごーい!!上手ー!!この歌、Kちゃんが作ったの?すごいじゃーん!!そのうちデビューできるんじゃないの?!」と、私とお母さんに絶賛され、誇らしげに笑っていた弟に水を差すようにDちゃんは、「おまえに歌は似合わない、歌を歌うな。」と言いました。弟はすごくショックを受け、落ち込んで泣いていました。私はDちゃんのいない所で、「私の前でだったら、歌っていいよ。Dちゃんに見つかんなきゃ良いんだから。」弟は、小さく頷きました。それから弟は、Dちゃんの前では歌わなくなりました。Dちゃん自身も、ポルノグラフィティの「アゲハ蝶」という歌が好きで、近所迷惑になりそうなものすごい大音量でその曲を流し、すっかりノリノリでアイドル気分で歌っていたのですが。

15 Dちゃんは私やお母さんのいない所で、弟のことをいじめていました。私が家のゴミを捨てに行っていない時に、「おまえは物が多すぎる、全部捨てろ。」と弟を脅していました。弟は大切なバッグや、大事にしていた人形、おもちゃ、本など、沢山の物を捨てさせられ、その上、私の大事なシルバニアファミリーなども一緒に、捨てさせられていました。私が、「何で捨てたの?あんなに大事にしていたのに。」と聞いても、「僕が捨てたかったから捨てたんだ。」と、力なく答え、「本当に?!」ともう一度聞くと、「もう、いいんだ。」と諦めたように答え、自分で清掃センターのおじさんのところへ持って行ってしまいました。私のシルバニアファミリーについてはDちゃんも一緒になって、「そうそう、Kちゃんがこれいらないから捨てるって言って、シャーマンちゃんの物を捨ててたよ。ヒドイよね。」と嫌味たっぷりに弟のことを見ながら私に言ってきました。私は、生まれてからずっとそばにいるので、弟のことは性格や趣味も知っています。弟はそんなことをする子ではありません。Dちゃんがいなくなったとき、私は、弟の様子がおかしい事に気が付きました。「どうしたの?言ってごらん。怒らないから。」突然、弟は泣き出しました。「Dちゃんがね、「おまえの家は物がたくさんあるから捨てろ。」って、「捨てなかったら殺す。」って言ってたんだ。」「どうして言ってくれなかったの?」と聞くと、「Dちゃんが「言ったら殺す。」って言ってたから。怖くて言えなかった。…」私は、弟の頭をなでて、「怖かったんだね。Dちゃんはヒドイね。Dちゃんに近づいちゃだめだよ。Dちゃんの言ったこと、聞いちゃだめだからね。」Dちゃんが許せませんでした。『弟を脅すなんて!!許せない。』大切な物を、脅して捨てさせるなんて。友達だと思っていたのに、耐えられません。これまで何度も、ひどい目に遭ってきましたが、「友達だから」と全部許してきました。なのにこの仕打ち。もう耐えられません。これは、平成14年の夏の始め頃でした。

16 嫌なこととは、続くものです。後日、Dちゃんの家に遊びに行くと、Dちゃんが、「ねぇ、見てみてー。」と言って、持ってきたものは、なんと、捨てられたはずの私の大切な、シルバニアファミリーです。私は、開いた口がふさがりませんでした。まさか盗まれていたとは。私はDちゃんに、「それ、私のだよ。」と言うと、「違うよ、Dちゃんのだよ。少しだけど、持ってるんだ。」と言っていました。これには、はらわたが、煮えくりかえりました。泥棒だ。欲しいものは、何でも盗んで手に入れる。こんなことを、何のためらいもなく平気でやってのける。『血も涙もない、悪魔のような奴。』後で聞いた話では、親のKkさんもDちゃんと全く同じように泥棒を繰り返していたそうです。私達子供の前では、Dちゃんが物を盗んだら、「Dちゃん!なんでこんなことをするの!謝りなさい!!」と言っていたので、『お母さんはまともなのに、何でDちゃんはこんなことをするんだろう。』と思っていました。が、それは間違いでした。私はすっかり騙されていたのです。お母さん達の間でも、貸したお金は返ってこない、貸したものが、まるで自分の物のように、家に置きっぱなし。Dちゃん(もう犯罪者同様なので、Dちゃんと呼ばせていただきます。)に似た行為をしていたらしいのです。やはり蛙の子は蛙、と言うように、泥棒の子は、泥棒だったのです。私達は、Kk親子を、避けるようになりました。弟は、Dちゃんにずっと怯えていましたので、Dちゃんに会わないように、少しでも姿を見たら部屋に帰ったり、遠くのほうで遊んだりして、かばうようになりました。

17 それでは、ここで、Kkさんについて、私が知っている限りの事を、書こうと思います。Kkさんは、同じトシオフィスのスタッフの、Tmamaさんから、T君をKkさんの家で預かっていました。私と弟が、Kkさんの家で、Dちゃんと遊んでいると、30分置きぐらいの頻度でT君の様子を見に来ては、遊んだり、散歩に出たりと、とにかくしょっちゅうT君と遊んでいて、私は、「この人仕事してるのかな?」と思いました。Kkが、仕事場にいることもありましたが、T君のお世話を理由に、仕事から抜け出してくることが当たり前になってしまいました。私からすれば、Kkさんこそ、Dちゃんに自分の洗濯の全てをやらせるなどの、お母さんとして信じられないことを強要していました。私は、Dちゃんから聞いています。毎回、ものすごい量の洗濯物を抱えて、私の家に洗濯機を借りに来たDちゃんの姿が、あまりにも大変そうでしたので、少し手伝ってあげたこともありますが、Dちゃんは好きで洗濯をやっているのではなく、「お母さんがやれって言ったから、Dちゃんがやっているの。」と、言っていました。私より身体が小さいDちゃんが洗濯物を干すのはとても大変なことで、Dちゃんはベランダの手すりによじ登って洗濯物を干していました。そんな光景を偶然見た私のお母さんは「Dちゃん危ないよ!!」と注意したそうです。他にも、これは後から聞いた話ですが、KkはDちゃんに対して、ひっぱたくなどの体罰も与えていたそうです。私のお母さんは、私達にそんなことを絶対にしません。ですから、最初聞いたとき、ビックリしました。どうも、Kkは元不良だったらしく、相当ガラが悪いらしいのです。たしかに、Dちゃんの意地悪な性格、Dちゃんに対するKkの態度からして、思い当たる節が沢山あります。

18 平成15年7月の終わり頃、Kk宅に行くと、なにやら賑やかになっていたので「どうかしたのかな?」と行ってみると、どうやら引っ越すらしいのです。Dちゃんのお父さんも一緒に手伝っていました。私は、喜んで手伝いをしました。そして、Kk親子は引っ越していきました。どこへ引っ越したのかはわかりません。私と弟は、Kk親子を見送った後に、私は弟に「今日は、パーティーにしよう。2人だけの。」と耳打ちしました。弟の頭には最初、?マークがついていましたが、意味がわかったのか、「うん!」と言って、2人でコンビニへ走って行き、いつもより多く買い物をして、「Dちゃんがいなくなったパーティー」をして、喜んでいました。でも弟は、Dちゃんがいなくなっても怯えていて、心に出来た深い、見えない傷があり、心を閉ざし始めていました。Kk親子がいなくなってからしばらくたった平成15年11月10日、弟は佐賀にある、母方のおじいちゃんおばあちゃんの家へ行ってしまいました。私は悲しくて、その日は一日中泣いていました。大切な物を失って、気づいたことがあります。弟がいつもそばにいて気づきませんでしたが、初めて私は、弟に支えられていたんだな。と思いました。 19 今でも、時々電話で弟と話します。弟はパソコンのやりすぎで目が悪くなり、メガネをかけているそうですが、元気に暮らしているようです。毎年、弟の誕生日とクリスマスにはお母さんと一緒にプレゼントを買いに行き、宅急便で送っています。お母さんの話では、「帰ってくる気はあるの?」と聞くと、「まぁ、帰るつもりはあるよ。」と言っているそうです。弟が帰ってから、2ヶ月位後の1月9日に、MEちゃんと、ぶたママさんと、MASAYAさんとで、イチゴ狩りに行きました。最初は、MEちゃんと1回も話したことがなかったので、どうしたら良いのか分からず、ぶたママさん達に、「あはは。なんか喋ってて良いんだよ。」と言われるのですが、2人して固まっていました。でも、イチゴ狩りをする所につくと、いつのまにか喋っていました。イチゴは甘くって、とてもおいしかったので、みんなに持って帰りたいな。と思ったのですが、残念なことに、持って帰れないところだったので今日あったことを、お土産にして帰りました。

20 それと、私はトシオフィスのスタッフの皆さんのおかげで、挨拶もろくにできなかったのに、ちゃんと挨拶ができるようになりました。何度も練習してくれたり、一緒にお片づけをして自分で出来るように指導してくれました。私が人の目を見て話すことが出来ない、暗くていつもふてくされている私でしたが、自分でも分かるくらい、福岡に居る時と見違えるほど明るくなり、よく笑い、なんでも自主的に自分でやるようになれたと思います。ちょうど、小さい頃からの足の痛みも、治ってきているのか、ごくたまに痛くなる程度になっていました。私はみんなといるのが、とても幸せでした。

【T君について】  T君はとても健康食品が好きで、ひじきや、切干大根、特に納豆や、めかぶが大好きで、3食かかさず食べていました。T君はよく納豆でねばねばになった手でいろんなところを触るために、Tmamaさんは「わー!!顔中がねばねばになってるー!!」と言いながら、T君の顔を拭いていました。私はTmamaさんとT君とで、近くの川や、林に散歩に行くこともありました。

第4-1へつづく

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最終更新:12月18日

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