子供たちからの声

このサイトは、紀藤弁護士・HTPのメンバーたちのために、言われもない虐待の疑いをかけられた子供が、
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また、この事件のように法律を利用した事件について考えていくサイトです

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第4-2

第12 【保護所での生活】

1 私が、宇都宮市の一時保護所に着いたのは、夜10時過ぎでした。一時保護所の門が閉まっていたので、「あら、閉まっているわ。」と言ってNさんが鍵を開けていました。保護所の中は真っ暗で、職員室だけ、明かりがついていました。私とNさんと2人で、職員室に向かい、ドアをノックしました。中から女性の職員が出てきて、職員さんと、Nさんは何か話していました。話が終わると、「今開けますね」と言われ、とりあえず中に入り、近くの椅子に座っていました。職員の人が「少し待っていて下さいね」と言うことだったので、しばらく待っていると、Nさんが「じゃあ、私はもう帰るね」と言いました。私はまた一人ぼっちになるのが嫌で怖くて、「やだ!!もうちょっとここにいて!」と言いました。だけど、「私はここの職員じゃないから、もう帰らなきゃいけないんだ。また明日来るから待っててね。」と言っていたのですが、「やだやだ!!一人にしないで!少しだけでいいからそばにいて、怖いよ…」家に相談所の人が来ただけで怖かったのに、今度は見ず知らずの所で、また一人ぼっち…とてつもない恐怖でした。結局、Nさんはタクシーに乗って帰ってしまいました。

2 こんな所に来て本当に帰れるのだろうか。と言う不安、友達も親も誰もいないと言う孤独感に襲われ、絶望的な気持ちになっていました。しばらくすると、職員の人が戻ってきて、「ごめんね、こんな暗いところで待たせちゃって。ここの説明をするから、ちょっと来てね」と言われたので、ついていきました。ドアの上に「面接室」と書かれた部屋に案内されました。まず最初に「名前はシャーマンちゃんでいいのかな?」と聞かれ、「はい、そうです」と答えました。「私は、シャーマンちゃんの担当のAYと言います。シャーマンちゃんの脇に置いてあるのが、保護所で使うもので、着るものは、ジャージで、2着と、歯磨きセットと、タオル類です。あと、一日の流れが書いてあるしおりを渡しておくね。あと携帯電話は使えないから、持ってるのなら先生に渡してください。」と言うことだったので、持っていた携帯を渡し、渡されたしおりに目を通したのですが、しおりの内容にギョッとしました。朝6時半に起きて、2階の掃除、その後グラウンドでの散歩で、終わると、ミーティングをして、3時ごろまで、自由勉強をします。勉強が終わると掃除、毎週木曜日だけ、「所外学習」として、アスレチックや博物館を見学に行ける日でした。その後の時間はフリータイムで、テレビを見たり、グラウンドや体育館で遊ぶなどして過ごし、夜7時に日記を書き、小さい子順にお風呂に入り、小さい子は8時に、小学生は9時に、中、高校生までは10時に2階の居室で休む。というスケジュールでした。

3 説明が終わったので、部屋に案内されました。部屋は2階にあり、相部屋でした。10時を過ぎていたので、もう寝ているはずの時間でしたが、皆起きていて、部屋に入るなり、「わー、新しい子だー!!」「新入生だ!新入生!!」などの、いろんな会話が飛び交い、歓迎会みたいなものが開かれ、部屋は一瞬にして、騒がしくなりました。「名前は?」とか、「どっから来たの?」とか、いろいろ聞かれました。部屋は賑やかでしたが、『どんなに楽しくても、一人ということは変わらない。果たしてこの先、私はやっていけるのだろうか…』私の気分は晴れることはありませんでした。突然、歓迎会の途中で、同じ部屋の子が、「あっ!そうそう、そう言えばさぁ、あと2人来るらしいよー。確か、女の子だって言ってた。」と言っていました。『あ、もしかして』私はなんとなく、心当たりがありました。あの2人、妹1ちゃんと、MEちゃんです。でも、まだ噂の段階だったので、『もしかしたらただの噂かもしれない、違う子かもしれない。』と、思ったのですが、私はその話を聞いて、寂しさが少し薄らいだようでした。

4 確か、夜中の12時過ぎだったと思います。部屋に、AOさんとは別の人で、女性の研修生の人が入ってきて、「早く寝なさーい」と言いに来ました。その時に他の子が、「あと2人来るんだって?マジで来るの?」と聞いたところ、「んー私もあんまり知らないけど、姉妹だって言ってたよ。」と言っていました。私は思わず、「もしかしたら私、その2人知っているかもしれない。多分、友達だと思う…」と言ってしまいました。さすがに夜中の1時には皆寝静まりましたが、私は一人で、ずっと起きていました。『私は、何でここにいるんだろう…何でこんなことになってしまったんだろう。帰りたいよ、お母さん…』悲しくて、怖くて、周りの人に、気づかれないように泣いていました。

5 翌日、憂鬱な気分で、朝を迎えた私は、廊下に出ると、妹1ちゃんと、ブーちゃんマン(当時15歳)に会いました。
「Sちゃん!!ブーちゃんマン!!」
私はSちゃんとブーちゃんマンの所ヘ走って行き、
「会いたかったよー。一人で寂しかった。」
私は、Sちゃん達に抱きつきました。私達は昨日あった事を伝え合いました。Sちゃんは、私と会った後のことを話してくれた。
「シャーマンちゃんに会った後、児童相談所に行って、いろいろ話した。話していたら、お姉ちゃんが来てくれたんだ。とても心強かった。」
ブーちゃんマンは
「私は、配送センターに居て、この事を知って、ぶたママさんと駆けつけたんだけど、私も捕まっちゃったよ。でも、シャーマンちゃんのことも心配だったから、会えてよかった。」
私はSちゃんとブーちゃんマンに聞きました。

「MEちゃんは!?どうなったの?ここには居ないみたいだけど」そのことは、Sちゃんが話してくれた。「MEはね、大丈夫、家に帰ったよ」いろんな意味で私は『ほっ』としました。友達が、無事に帰ったこと、側に友達が居てくれること、それだけで安心できました。それに、ブーちゃんマンは、私達より年上で、とても頼もしく、心強い存在でした。
ブーちゃんマンが、もしいなければ、どうなっていたのだろうか。いてくれて良かったと、感謝しています。

6 その日は、みんなで、外に行く日だったようで、私達3人は、保護所に残りました。みんなが出かけてすぐに、保護所の課長さんに呼ばれました。
「今日は、みんなで出かける日だったんだけど、カメラを持っている人が外にうろうろして居るから、これからしばらくは、外に出ないで下さい。」
私はその言葉に動揺しました。カメラマンがいる…いつ撮られてもおかしくない、いつ撮られるかわからない。とても不安でした。数日間は中で過ごしました。それからしばらくは、外に出る時は、周りを見渡し、カメラマンが、いなければ外に出る生活。保護所に来た数日間はカメラマンの目を気にする毎日でした。

7 保護所での生活は、最悪なものでした。私達以外に保護所にいる子供は、おこずかい稼ぎに、シンナーを売っていたり、お父さんが人殺しで、お母さんが精神病に罹っていたり、その他いろいろな事情を持っていましたが、どれも私の想像をはるかに越える、裏の世界が広がっていました。そんな子供達に囲まれて生活していると、いつか、自分も頭がおかしくなるんじゃないかと思いました。私達はそれぞれ担当の心理判定員の人が違っていて私はNさんでしたが、Sちゃんと、ブーちゃんマンはそれぞれ違う人でした。

8 保護されて3日目の4月10日、児童相談所の人との『面談』と言うものを受けました。まずはブーちゃんマンが行きました。しばらくして帰ってきたとき、なんと泣き顔で帰ってきました。ブーちゃんマンの身に何があったのかはわからなかったけど、次は妹1ちゃんの番、そしていよいよ私の番が回ってきました。久々に会う、Nさんが言った言葉は信じられない言葉でした。その言葉は
「シャーマンちゃん、家にはしばらく帰れないよ。」
唖然としました。
「えっ?ちょっと!約束が違う!!一週間って言ってたよね!?これ以上延びるのはやだ!家に帰る!!」

私は早く家に帰りたかった。この話をされた時、涙が出そうだったけど、私はぐっとこらえました。
「もう少しシャーマンちゃん達のことを調べたいから、もう少し待ってて欲しい。」
と言われました。なんだそれは、どういうことだ、という気持ちを抑えながら、その日の面談は終わりました。保護所の部屋に戻ると、3人で集まって、今日の面談のことについて話し合いました。私は
「ねぇ、どうする?延びるんだってよ?こんなとこ、いたくないのにね。」
妹1ちゃんは、
「もう帰れないのかなぁ、早く帰りたい。みんなに会いたい。」
と泣きそうになっていたし、ブーちゃんマンは、
「私さ、3日で帰るって言われたんだよね。それで今日言ってやったんだ。『もう3日経ってますけど、帰れるんですよね?』って聞いたら、『いいえ、帰れません。もうしばらくここにいてもらいます』って言われたんだよ。泣いちゃったよ。」
私は疑問に思い、ブーちゃんマンに質問しました。
「あのさ、結局私達、どうしてここにいるんだ?」
その質問に、妹1ちゃんもウンウンと頷く。ブーちゃんマンは目を丸くして、
「えっ!もしかして、2人とも知らないってやつ?」
ウンウン知らない知らないと大きく頷く、私と妹1ちゃん。ブーちゃんマンはなぜか知っているみたいだったので、教えてもらいました。

「連れていかれた本人が知らないとは。しょうがない、説明すると、私達がここに居る理由は、紀藤正樹って言う弁護士が居て、その紀藤弁護士が、私達が虐待を受けているって嘘の通告をしたから、児童相談所が私たちを調べなくちゃならなくなって、ここに居るんだよ。この事に、Yyと、Kkも絡んでる。」
私と妹1ちゃんは、思わず顔を見合わせ、
「「えぇーーーーー!!」」
と叫びました。ブーちゃんマンは慌てて、
「シー!!声がでかい!!」
私は慌てて
「ごめんごめん。でも、まさか、ねぇ?」
まさか、あのKkがこの事件に絡んでるとは、思いにもよらなかった。Yyといえば、私はハワイでの怖い思い出しかないので、『やっぱりYyは怖いオババだ。』と思うだけでした。でも、Kkは違います。少なくともKkは私がどんなに、幸せに暮らしていたのかを知っているはず。それなのに、「虐待されている。」なんて嘘をついたというのです、ヒドすぎる話です。でも、『確かにKkなら、あり得る話だな。』とも、思ってしまいました。だって、あれだけ嘘つきで、インチキ親子ですから、光景が眼に浮かびます。その日から私達は、3人で集まって、『どうやったら早く帰れるのか』を話し合うようになりました。妹1ちゃんは、毎晩布団の中で泣いていました。そんな妹1ちゃんを私とブーちゃんマンで励まそうと「あいつら絶対に許さないぞ!!」と、口々に言い、元気付けました。

9 保護所では、3食を「給食室」で食べることになっていました。昔から相当な大食漢だった私は、一食で9合分のご飯を一人で全部食べたこともありますし、カレーを大盛り2杯おかわりをして、それでもなお足りず、3杯目をよそおうとしたときに、スタッフの人に「シャーマンちゃん、幾らなんでも、もう止めといたら?」と止められて、しぶしぶやめたほど、食べるのが大好きでした。
家では、それぐらいおなかいっぱいにご飯が食べられたし、このとき私は、小学6年生で、日に日に背が伸びていました。
成長期を迎えて、今までに増して食べ盛りだと言うのに、保護所のご飯は、小学生用の浅いお茶碗にちょこんとご飯がよそわれていて、明らかに、私には少なすぎました。私にとっては、一口分です。特に私はおかずをご飯で食べることが好きだったので、完全に少なすぎます。またおかずも「さんまとサツマイモの煮付け」といったおかしなおかずが出てきて、魚が大嫌いな私は一口も食べれなかったりと、とにかく全てが私には全然足りませんでした。そのため私は、夜寝る前にはお腹が空いてしまって、眠れませんでした。夜中に部屋を見回りに来た保護所の人に、「お腹空いた。」と言うと、同じ部屋にいた子達みんなが、「私もー。」と言っていました。同じ部屋にいた子はみんな、成長期の3〜5年生の子達でした。成長期の子がお腹を満たすには、あの幼児用のお茶碗に1杯では少なすぎるのです。でも、ご飯の量が決まっているのか、おかわりしようとしても、もうご飯が無くなっています。私以外にも大抵4〜5人がおかわりをするのですが、少し残ったご飯とおかずをみんなで等分するので、一人一口分のおかわりでした。

10 児相の人が来た時、必ず最後に「なにか困っていることは無い?」と聞いてきます。保護所に来たばかりの頃は、「別に無い。」と答えていましたが、あまりにもご飯が足りず、ひもじい毎日だったので、耐えきれず、毎回「ご飯が足りない。」と言うようになりました。そのかいあってか、ご飯の量は少し増えました。が、私にはまだ毎日がひもじかったので「まだ足りない」「まだ足りない」と言い続けました。でもそれ以上増えることはありませんでした。こんな事件が起きる前は、私は毎日幸せにご飯を食べていました。保護される直前も、お腹一杯ご飯・味噌汁・おかず2品、食後のデザートにいちごのショートケーキを平らげた後でした。大食の私が「もう食えない。」と思うぐらい、たっぷり食べていたのに
「シャーマンちゃんはご飯を貰っていないの?」
と、質問される滑稽さ、わかりますか?私にとっては、この保護所生活こそ、「ご飯を食べさせてもらえない」生活そのものでした。ほんとに悲しかった。ひもじかった。

11  「解放」されてから、また私は思う存分ご飯を食べられるようになりました。
この拉致監禁が始まった当時はブーちゃんマンに見下ろされていたのに、見る見る間にブーちゃんマンが小さくなっていき(私が大きくなっているのです。)今ではブーちゃんマンよりも大きくなりました。ブーちゃんマンには「うわー凄くたくましい人がいる!!あの頃はあんなにちっちゃかったのに…」と言われてしまいます。

12 4月22日、私達は、宇都宮市の大学付属病院へ身体検査を受けに保護所を出ると、保護所の駐車場にカメラを首から下げた人がうろついていたので私達は保護所の裏から見つからないように出ました。私とSちゃんは、「何であんな所にあんなやつがいるんだ!!」「嫌になっちゃうね。」と口々に言いました。

13 4月中ずっと、面会ばかりで疲れました。今までの生活を聞かれて、普通に話していても、変な意味にとられたりして、少しも気を抜けず、私達は終わるとぐったりして帰ってきました。心理テストもたくさんやりました。家と人と木の絵を書く、と言う内容のもので、その書いた絵によって、私達のことがわかるらしいのです。「もしかしたらこの、「絵」次第で私達は、帰れなくなってしまうんじゃないか」と不安にもかられたし、「こんなので判られてたまるか!」と言う気持ちもありました。心理テストだけで私達を分かった気になっている大人達には、呆れた。保護されて、心理テストを受けさせられて、普通に喋っても、変な意味に捉えてくる。気を使わなきゃいけない。早く帰りたかったから、面会では、必死に答えました。早く帰れる道は無いかな。なんていうことを、ずっと考えていました。

14 ある日ブーちゃんマンが、「私、こんな夢を見たんだ。」と言って、夢の内容を教えてくれました。私たちが保護所のフェンスを登って脱走し、タクシーに乗って、家に帰った。と言う内容のものでした。私とSちゃんは、
「本当に脱走したほうがいいんじゃない?」
「正夢かもしれないよ?」
「本当にやったほうがいいのかもしれないよ、そのほうが、早く帰れるしね。」
と、本当に脱走を考えたほどでした。

15 次の日、私達3人は保護所の課長さんに呼び出されました。課長さんは、
「今日、お母さんに会えるよ。」
と、教えてくれました。私達はとても嬉しくってたまりませんでした。私達は面会の時間が来るのを、遠足前の子供みたいに待っていました。面会の時間が来た時、はしゃぎながら向かいました。私達はそれぞれの部屋に入りました。部屋には、懐かしいお母さんと児童相談所の課長、秋葉さんがいました。児相の人の監視のもとの30分きりの面会でした。いろいろ、お母さんと話をするものの、なんだか、後ろが気になってしかたがない。
「プライベートにも関わるのか、この人達は!!」
正直そんな気持ちでした。いっぱい話したいことがあるのに。お母さんといつものように接したかったのに。
人に見られていると、ギクシャクしてしまって、「変な親子」に見られたくない。きっとそう思われたら、終わりだ。と私は、そう思いした。しかし、せっかくの30分の時間を無駄にはしたくなかったので、気を取り直してお母さんと話をしました。お母さんは、今まで福岡に住んでいたときに撮った何千枚もある写真の中からいくつか持ってきた写真を見せてくれました。それを見ながら、動物園や、公園や、運動会や、お祭りや、ありとあらゆるところに一緒に出かけたこと、お誕生日にケーキを作った時の写真、今は亡きお父さんと海に行って遊んだ時の写真等を見ながら話しました。なんだか嬉しくって、冗談を言ってみたり、少しでもお母さんの気持ちが軽くなったらな。と思って、いろんな面白い話をして、お母さんを笑わせようとしていました。お母さんが
「お家の近くにどこまでも続く大きな公園を見つけたんだよ。今度、シャーマンちゃん達が帰ってきたら行こうよ。」
私は
「ほんと?いつか行ってみたいね。その公園すごく大きいの?どんなところ?」
お母さんは、いろいろ説明してくれました。
『早く帰って、みんなと行きたいな。その時は、ブーちゃんマンたちも誘ってお母さんが見つけた公園に行きたい。早く帰りたい。みんなに会いたい。』
そんな話の繰り返しになりました。後ろで秋葉課長さんが、口を開きます。「もう時間です。」
あっという間に、30分が経った。普通なら、言いたいことや、やりたかった事が出来て、すっきりするんだと思うけど、私は、やり残した複雑な気分だった。Sちゃんやブーちゃんマンも同じ気持ちだったらしい。
「人に見られて、普通に話したり、接したり出来なくて、心残りがある。」
と言っていた。その夜は、夢を見ました。退所して元の生活に戻り、みんなでその公園に行って遊んでいる夢です。

16 5月に入ってからは、4月とうって変わって、全くと言って良いほどに相談所の人は来なくなりました。状況を聞いても何もわからない日々が続き、たまに来る相談所の人に聞いても、「今は言えない」とか「今決めているから待っててね。」といわれるだけで、一切の情報を遮断された感じでした。私は、ストレスのせいなのか、小さいころによくなっていた足の痛みが再発し始め、頻繁に痛むようになりました。ですが私は、みんなに知られまいと、明るく振舞いました。

17 私達がいる間に、何人の子が、退所したのか、入所したのか分かりません。1週間ほどでみんな、退所していきます。その様子を見るたびに、自分達だけ取り残されていきます。
「私達って本来これくらいの期間で退所してたんだよね…」
とつらい気持ちになりながら、見送ります。私はよく、保護所にいる子に
「ねぇ、シャーマン達ってさ、何でここにいるの?」
と聞かれました。『私も知りたいよ。』と思いながら、
「さぁ?何でだろうね。学校に行ってないからかな?」
と答えると、
「えー!そんなんでここにくるの?それは絶対無いと思うけど。」
というのです。
「そうだよね。そんなんじゃ来ないよね。でも、それ以外心当たりが無いんだよ。」
実際に心当たりが全くありません。ここにいる子達は、聞くと必ず、みんなスリ、万引き、家出と、犯罪をしている子達と、後は、両親や親戚に虐待された子しかいないのです。そんな時の夜は、『何で私はここにいるんだろう』と、考えてしまいます。だけどやっぱり考えても、答えが出ない。唯一、あるとすれば学校に行っていないと言うこと以外、まったく心当たりが無い。ここに来た理由、ここにい続ける理由がさっぱりわかりませんでした。

18 5月26日、私達3人は、児相のケースワーカーのTTさんがやってきて、結論が出たといいました。結論の内容はこうでした。
「まず、シャーマンちゃんは、トシオフィス内ではもう暮らせない。」
「え!?それ、どういうこと!?家はトシオフィスとは関係ないのに、何で帰れないの!!」
「トシオフィスは、たとえ家と関係してなくても、シャーマンちゃんの生活に影響しちゃうからだめなんだ。」
そして、私に3つの選択を迫りました。
   1. お母さんが会社を辞め、黒磯以外の場所に引っ越して一緒に暮らし、適応指導教室に通う。

   2.児童自立支援施設「那須学園」(全寮制)へ送られる。

   3.佐賀の祖父母の元へ送られる。
の3択でした。TTさんは、那須学園に行くことをかなりしつこく、すすめてきました。
「僕は那須学園に行くのをすすめるよ。学力も上がるし、シャーマンちゃんの為になる。おじいちゃんとおばあちゃんの家に行くのは、あまりおすすめはしない。お母さんと暮らすのはおすすめしない。お母さん達は会社を辞めなきゃだめだから、また仕事を探さなきゃだめだからね。お母さんに、会社辞めて欲しくないでしょ?だから、那須学園が良いと思うんだ」
TTさんは続けて、
「今度来る時までに、決めておいてね。那須学園は、見学できるけどどうする?それは明日までに、決めておいてね。」
と言って、面談は、終わりました。
19 私達は集まって、話し合いをしました。
「お母さん達に、会社は辞めて欲しくない。でも、帰りたい。もう一度、一緒に暮らしたい」
「那須学は嫌だよね。」
「みんな『あそこに行ったらもう終わり』って言ってたよね。」「じーちゃんばーちゃんちには行きたくないよね。」
と議論しました。議論の結果、「那須学には、行く気はないけど、見学には行ってみよう。」みんな同じ意見でした。

20 次の日に、TTさんが来たので、那須学についての返事を出し、今度那須学園に見学に行くことになりました。那須学に見学することを、ブーちゃんマンが、保護所の先生達に話していました。ブーちゃんマンの話しだと、先生方は「何でそんな所に行くの!?」「ブーちゃんマン達は、そんな所に行く必要はないのに!何かが間違ってる!!」と言われたそうです。

21 那須学に見学に行く当日、TTさんと3人で、タクシーに乗っていきました。那須学に行く途中、私は質問しました。
「那須学ってどんな所?すごい緊張してきた。」
と言うと、TTさんは、
「那須学はね、たか〜い塀に囲まれた中にポツーンと建っているこわ〜いとこだよ〜。」
と、言っていたので、
「ええっ!?やだーそんな所に行きたくない!」
ですが、実際に行くと違っていて、塀に囲まれてはいませんでした。
「ふざけんなっ!!こっちは真剣なんだぞ!!」
と、TTさんに、みんなで蹴りをいれました。ですが、那須学園は噂に聞いたとおりで、窓には鉄格子とセンサーが付いていました。まるで監獄のような所だと思いました。。

22 髪型は肩まで、服装は指定された制服、その他持ち物も何もかもが指定されたものしか使えず、外に買い物に行くのも1〜2ヶ月に一回あるかどうか、と那須学園の人が言っていました。(一時保護所ですら「所外学習」として週に一度しか公園などに遊びに行くことができません)また、部活動があって、それは必ずやらなくてはならないのですが、部活中は「笑っちゃいけない」「あるいちゃいけない」、と地獄の特訓のように練習しているそうです。

23 私は、ここで生活すること=監禁されるようなものだと感じました。見学から帰り、3人でどうするか相談しました。次の日に、一人一人決めてくることにしました。次の日、頭を付き合わせ、意見を言い合った結果、みんな同じ意見でした。
「お母さんの所へ帰る。たとえ会社を辞めることになっても、帰る場所は家だ。」
児相の人が来て、「決まったかな?」と言うことだったので、
「うん。私はお母さんの所に帰りたい。」
といいました。すると
「分かった。シャーマンちゃんはそれで良いんだね?だけど、この意見が通るかは、分からないから」
そう言われた。ビックリして、
「どうして!?子供のためにあるんじゃないの?児相って物は。」
「うん。そうなんだけど、シャーマンちゃんたちが、本当に幸せになるのかを、審議会で決めるから。」
納得いかない。私達が幸せかどうかなんて、私達が一番知ってます。他人に決められる筋合いなんて、毛頭ない。私が黒磯にいたときは、自分のことは自分で決めてきた。保護されてからだ、他人に決められるなんて。審議会から答えが出るのに、かなり時間がかかりました。

24 6月1日突然、課長さんに私達は呼び出されました。
「今、お母さん達来てるから、会いに行ってきな。」
と言われて、3人で会いに行きました。会議室のような部屋に行くと、TTさん、秋葉課長、お母さん達が居ました。もう一度会えた喜びでいっぱいでした。秋葉課長さんが、
「今日、お母さん達が来ているのは、審議会で結果が出たからです。明日、退所することになりました。」
私達3人は、嬉しくって、はしゃいでいましたが、TTさんだけがむっとしていて、腕を組んで、座っていました。まるで、「何で那須学に行かないんだ。」と言っているかのようでした。そして、まるで釘を刺すかのように、
「ただし、今後ホームオブハートや、トシオフィスに、子供達が行ったら、すぐに那須学園に、行ってもらいます。」
これには、面食らいました。みんな、こう思ったそうです。
『なんだとこいつ〜、そんなに私達を那須学園に入れたいのか!?』

25 面会が終わり、保護所にいるみんなに、知らせてきました。みんなは、喜んでくれました。その日は結構すんなりと寝れた気がする。だって、明日帰れるんだもん。明日が待ち遠しかった。

26 6月2日、今まで見ていただけの、退所式の日でした。しかし今日は『私達』の退所式です。やっとこれで帰れるんだ。迎えが来るのが待ち遠しくって、まだかまだかと時計ばかり見てしまい、落ち着きませんでした。そしてついに、ブーちゃんマン達のお母さんと、私のお母さんが、迎えに来ました。一番幸せな瞬間だった。ずっと願っていたことがついに、叶った瞬間でした。今まで私達は、生きる気力を失った顔をしていただろう。笑ってもそれは、心の底から笑っていないから。保護所の先生達も、こんな幸せそうな顔をした私達を見たことがなかったと思います。

第5-1へつづく

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最終更新:12月18日

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