子供たちからの声

このサイトは、紀藤弁護士・HTPのメンバーたちのために、言われもない虐待の疑いをかけられた子供が、
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また、この事件のように法律を利用した事件について考えていくサイトです

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第十二

87 4月8日 朝、天井のスピーカーから大音量で音楽が流れ、びっくりして飛び起きました。隣で姉も飛び起きて、「うっわぁー、ここの子供達はこんな起こされ方をしてるのか・・・。」と嫌な気持ちになりました。さらに、服を着替えてドアの外に出ると、なんと昨日、日赤病院で会ったシャーマンちゃんが目の前にいました!!「え−−−!!シャーマンちゃんだーーー?!?!」と叫ぶと、シャーマンちゃんも「おぉ!!ねずちゃん?!?!」と目を丸くして言いました。何でシャーマンちゃんもここにいるのか、疑問がわいてきました。私達は、「母親が屋久島で仕事をしていてそばにいなかったから」ここに連れてこられたのに、シャーマンちゃんはお母さんがちゃんとそばにいて一緒に暮らしていたのに保護所に連れてこられてしまったなんて、もうわけがわかりませんでした。
私と姉とシャーマンちゃんは児童保護課の課長さんに呼ばれ、「しばらくは外に出ないで欲しい。カメラが来ているからね。申し訳ないけど、少し我慢していてほしい」といわれました。「カメラ」と聞いて、私が連れ出された場面を思い出し、「こんな宇都宮にまで撮影しにくるのか・・・」と背筋がゾッとしました。「こんなところにいたくない、早く帰りたい。」と思った私は保護所の先生に「私はいつ家に帰れますか?」と聞いてみましたが、「私にはわからないから、児童相談所の人に聞いてね」としか答えてくれず、さらに不安で不安で仕方がありませんでした。
しばらくして、児童相談所のOさんがやってきました。Oさんは、私の担当になったそうです。「こんな短い間しかいないのに、担当がつくんだ〜。別にいらないんじゃないかな?」と思ったのですが、「まあ、こういうものなんだろうな。」と考え直しました。
私はOさんに「いつになったら帰れますか?」と聞きました。Oさんは「あー、3日間はここにいてもらいます。」と言ったので、私はビックリしました。「今日だけだって言ってたのに、なんで??!」と聞き返しました。するとOさんは「いろいろ聞きたいことがあるからだよ。」と言いました。
仕方なく、私とOさんは私の今までの暮らしのことについてさらにくわしく話し、「じゃあ、また来るね。」とOさんは言って、去っていきました。その後、私はプレイルームで外を眺めていると、姉が「ねぇ、すぐ帰れるって、AKさんは言ってたけど、、帰れるのかな。」と不安げに言ってきて、私も「そう言ってたはずだよね・・・。」と顔を見合わせるしかありませんでした。

88 4月10日 とうとう、保護所に連れ去られて3日も経ってしまいました。私は今日こそ、もう充分話したから、帰れるだろう。と児相の人が来るのを心待ちにしていました。まず、姉が呼ばれて、面談室へ行くのを見送りました。しかし、姉は泣き顔で帰ってきました。普段、姉は自分の感情をあまり表には出さないので、泣いて戻ってくるなんてよっぽどなにかがあったんだろうな。と不吉な予感がしてきました。次に私が呼ばれたので、児童相談所のOさんが待つ「面会室」に行ってみると・・・いやな予感は的中していました。Oさんは、真剣な顔で「もう少し、ここにいてもらうことになりました。」と切り出してきました。私は唖然としてしまいました。いったいこの人は何を言っているんだ?と耳を疑いました。「ど、ど、どうしてですか?!?!」と訳を聞くと、Oさんは「もう少しホームオブハートでの暮らしなどの話を聞かなきゃいけないからです。」と言い、「あと、身体検査や心理テストをしてもらいます。」とも言いました。まるで、頭に雷が落ちてきたような、大きなショックを受けました。すぐに帰れるって、思っていたのに。だって、私達は虐待されてなんかいません。普通に幸せに暮らしていただけです。ハイランドでも、「必ず子供を帰してくれること」を条件に、私達は来ただけです。その条件すら破っておいて、ぶたママさん達だって、あんなに必死に頭を下げて頼んだって、欠けらも聞かないで、もう少しここにいろ。なんて、ひどい。私達が何でそんなことまでしなければいけないのでしょうか。私は「そんな!もう充分話したじゃないですか!それになんで心理テストなんてやらなきゃいけないの!?」と猛烈に抗議をしましたが、「さっちゃんたちには申し訳ないけど、どうしてもなの。」とOさんが何度も言うので、仕方なくあきらめ、家に帰れなくなったことにガッカリして、何も言えずにいると、Oさんが「昨昨日の続きなんだけど・・・」と言って、ハイランドでも暮らしのことをいろいろと質問してきました。私は質問に答えながら「でも、必ずハイランドに帰れる。もう少し待てば・・・」と祈るような思いでいっぱいでした。

89 一時保護所に保護される何日か前に、会社が誰かに訴えられている、どうやらYyがやっているらしい。という話を何となく小耳に挟んでいました。私は「えぇーーー!!あのYyさんが??!!何でぇ?!?!」とびっくりしました。私の言う「あのYyさん」とは、屋久島に来たり、会社がまだ麻布にある頃、トシオフィスの人達のための、研修会というものに参加していたり、いろんな場面でちらっと見た事があります。私が知っている範囲で、Yyさんについて書きます。
Yyは、ホームオブハートでやっていたツアーなどにいつも来て、とても嬉しそうに参加していました。ツアーの秋頃に、外で降り積もったふかふかの落ち葉のベットに座り、皆で夕日を見ていたときに、「こんな所にいられるなんて・・・幸せですよね。」とYyの隣にいた誰かにしみじみと言っていたのを見た事があります。たぶん、冬から、ぱったりと来なくなっていたので、どうしちゃったのかな、とは思っていたのですが、まさかこんな悪徳紀藤弁護士と手を組み、なんの罪のない人を、悪人に仕立て上げ、訴えて、お金を取るようなあくどい企みを着々と進められるような人になっていたなんて、Yyは本当にどこで道を誤ってしまったのでしょうか。

90 話を保護所でのことに戻します。この日から、夜寝る前に私と姉とシャーマンちゃんでこっそり作戦会議を開いて、どうやったらこの収容所のような生活から脱出できるか、考えるようになりました。もう帰れないんじゃないかという不安から、悲しくなって、毎日毎晩泣いてしまいました。この作戦会議で「普通にしていよう。」という作戦に出る事にしました。本心は「早く帰りたい。」という思いでいっぱいでしたが、そう正直に言っても、そのことをちゃんと児童相談所の人達は理解してくれないんじゃないか。と、逆に、変に思われてしまうのが怖くて、もし、そう思われてしまったら、ますます家に帰してもらえなくなってしまうんじゃないか、と不安でいっぱいでした。だから、正直な思いを口に出すことが出来ませんでした。私はごく普通に振舞い、一緒に保護されている子達と仲良く遊んでいました。ただ、頭はMASAYAさん達の事や、いつになったら帰れるのかという不安で一杯で、昼間は外で、シャーマンちゃんとブランコをこぎながら、その頃のMASAYAさんの新曲だった、「海とつながる場所」を口ずさんだり、夜は布団の中で、MASAYAさんやぶたママさん達はあれからどうしているのか、考えたりしていました。しかし、私達は全く無力で、何の手がかりもなく、本当に閉じ込められているだけで、何の情報も教えてくれない、まさに監禁というのがピッタリな状態でした。私は、Oさんが来る度に、「まだ帰れないのですか?一体どうして帰れないのですか?」としつこく聞き続けました。しかし、いつも答えは「ねずちゃん達が、幸せに安全に暮らせるようにやってるみたいだからねー。」としか言ってくれず、心配と不安は、どんどんつのるばかりでした。私達から幸せを奪っておいて、私達から安全を奪っておいて、「ねずちゃん達の幸せが」・・・ふざけています!    そして、最初は10日、次は15日とどんどん退所する日にちが延びていき、しまいには「まだです。いつ出れるかはわからない。」と言われてしまい、他の子たちが一人、また一人と退所して行き、私達だけ取り残されてゆく。そんな日々を、私達は結局2ヶ月間も過ごし続けたのです。

91 4月22日 私達3人は、Tさんとシャーマンちゃんの担当の中野さんと一緒にG大学附属病院に身体検査をしに行きました。まず、私達の身長を測ったり、心理テストなどをすると、なぜか、私だけ別の部屋に通されました。中にはA先生という人がいて、「こんにちは。ちょっと背が低いだからいろいろ教えてください。」と言われたので私は児童相談所の人に聞かれた時のように、今までの暮らしのことを話しました。なんと、A先生も、児童相談所の人達がそうだったように、私を虐待された子供として見ているようで、私は「この人も私の事を「虐待された子供」だと信じてしまっているなんて。」と、とてもショックを受けました。A先生は「ちょっと身体を見せてください。」と言って、私の身体チェックをし、私の両腕にある火傷の痕を見つけ、私に「腕の傷は何?」と聞きました。この腕の火傷の痕というのは、私がお菓子を作っていた時に、焼きあがったお菓子を取り出そうとして、天板を出した時にうっかり腕を当ててしまってできた火傷の痕でした。私は「お菓子を作っていた時にできちゃった火傷です。」と答えました。この時の私の心はかなりハラハラドキドキしました。お菓子作りは私の大好きな趣味ですが、それを「お菓子を作らされた子供」などと見られてしまうのではないか。と不安になったのです。A先生は、何だか納得しない様子で「そう・・・」とだけ言いました。そして、「これからどれぐらい成長するか診るので、左手のレントゲンを撮ります。ちょっと待っていてください。」と言って、どこかへ行ってしまいました。私はそのままその部屋で、A先生を待ちました。私は先生を待ちながら「レントゲンまで撮らなきゃいけないなんて、背が低いことってそんなに大変なことなのかな?」と疑問に思っていました。しばらくして、A先生が「レントゲンを撮りますよ。」と私を呼びに来ました。私は立ち上がり、ドキドキしながらレントゲン室に行きました。レントゲンを撮り終わり、私はほっとしながら「どんな結果が出るかな。」と、不安な気持ちになりました。こうして、無事検査が終わったので、児童相談所の人とお昼ご飯を食べてから、保護所に戻りました。

第十三へつづく

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最終更新:12月18日

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