子供たちからの声

このサイトは、紀藤弁護士・HTPのメンバーたちのために、言われもない虐待の疑いをかけられた子供が、
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第六

49 平成9年秋
この頃から、父の調子が悪くなり始めたことは、私はよく覚えていません。ただ、一つだけ覚えているのは、父がご飯を残してしまった事があり、普段なら私が残したものも食べてしまう程沢山食べるはずなのに・・・?と疑問に思った事はありました。まさか、死んでしまうような癌になっていたとは、思いもよりませんでした。

50 平成9年12月
私は、父と母から「お父さんは、病気になっちゃったから、入院するよ。」と聞きました。「えぇ!!」と姉と二人で驚きました。「おなかを手術するけど、すぐに帰ってくるから。」と聞いて私は「すぐに帰ってくるのはいいけど、おなか切っちゃうなんて、大丈夫かな。」と心配になってしまいました。

51 平成10年1月
父は新潟の市民病院へ入院しました。1月4日が手術の日でした。手術はとても長く、八時間もかかって、私と姉はずっと待っていました。待ちくたびれて寝てしまい、「終わったわよ」と母から聞いた時にはもう外は真っ暗でした。母は、とても深刻な顔をしていて、その時はどうしてそんな深刻な顔をしていたのか、全くわからなかったのですが、後から聞いた話だと、母は私たちを呼びに来る前に医者から父の容態の事を聞いて、愕然としていたのだそうです。
父の病気は「スキルス性胃癌腹膜播種」という病気で、末期の相当ひどい状態だったそうです。手術をしたお医者さんの話では、もうすでに胃全体に砂を撒いたみたいにガンが広がっていて、手のつけようが無かったそうです。胃を切らずにそのまま閉じるか、それとも胃をすべて取ってしまうか、麻酔が切れる限界まで、お医者さんはずっと悩んだ末に、胃を全部取ってしまうことを決めたそうです。
それぐらい、父の病気は深刻な状況で、もう助からない、大変なものでしたが、私は父がそんな大変な病気だなんて全然わかっていませんでした。手術後も父が入院しているのは「病気でおなかを切った傷口が治るのを待ってるんだろう。」と思っていました。
父のお見舞いに行くのはすごく楽しみで、父はいつもの明るい顔で迎えてくれていました。私は病室中を遊び回っていて、病室にある物は何でも遊び道具にしていました。

52 平成10年2月10日頃
なんと、父が突然退院して、家に帰ってきました。大好きな父が帰ってきて、それはもう嬉しくて飛び上がって喜びました。ところが、いつも通り「わーい、おかえりー」と言って抱きついたら、「おなかが痛いからやめて!」と止められてしまいました。抱きつきたくても、抱きつくことが出来ません。私はどうしたらいいのかわからず、台所で呆然と立ちすくむしかありませんでした。今まで、そんなことは初めてだったので、「お父さんに抱きついちゃいけないなんて、お父さんの病気って、そんなに大変なものなんだ!」と、すごくビックリし、泣き出しそうになってしまいました。
父が家に帰ってきたのは嬉しかったのですが、癌になる前のような生活は出来なくなったことがわかりました。外に一緒に出かける事は出来なくなり、あれだけ食べるのが大好きだったのに、食べた物を吐いてしまったり、「おなかが痛い」といって寝込んでしまったりの毎日でした。私は父がどうなってしまうのだろう、いつになったら元気になってくれるのだろうと、不安と心配の毎日になってしまいました。そんな父が、具合がよくて起き上がっているときは、父が楽しめるようにと幼稚園での話をしました。でも、父の具合はどんどん悪化して、不安と心配は、ますます増えていくばかりでした。

53 平成10年3月末
お父さんは身体の具合がとても悪くなってしまい病院に再入院してしまいました。「また入院しちゃったね。」としょんぼりした気持ちで姉と話していました。確かに、もう死んじゃうんじゃないかと思うぐらい、父の具合はとても悪くなっていたので、仕方なかったんだと思ったけれど、やっぱり家に父がいないことは、父が大好きな私にとっては一番つらくって、とても寂しいことでした。「お父さん、早く良くなって、帰ってきて欲しいな・・。」私は、そう願うしかありませんでした。前のように、私達は父のお見舞いに毎日行くようになりました。お医者さんのおかげか、家にいたときよりも父は元気になり、普通に歩くこともできました。
この病院は家のすぐ近くにあったので、毎日夜遅くまで父の病室にいました。父は私と姉を病院の屋上にいつも連れて行ってくれて、楽しく遊びまわる私達を眺めてニコニコしていました。あと、病院の売店にも連れて行ってもらい、ジュースやアイスを買って4人で病室で食べました(父はアイスやプリン程度なら少しは食べることが出来ました。しかし、最期のほうではもう何も食べられませんでした。)姉は積極的に父の看病を手伝っていました。私もものすごく手伝いたかったのですが、「まだ小さいからいいよ」とか、「遊んでていいよ」と言われ、させてもらえないことのほうが多かったので、姉のことがうらやましくて仕方がありませんでした。

54 ある日、家にとても大きな宅配便が届きました。「何だろこれ?」と私が不思議そうに見ていると、母は「これ、お父さんが「子供達に、最後のプレゼント」だから、買ってやれって言ってた絵本だよ」と言いました。「絵本?!それもお父さんから?!」と、嬉しくなった私と姉は、早速荷物をあけました。箱の中には20冊もの可愛い絵本が、大切そうに入っていました。表紙を見ると「愛と勇気の物語」と書かれています。そして、松田賀江さんの描いた絵が描かれていました。「これはね、賀江さんが書いた絵本なんだよ」という母の言葉に「へー、素敵な絵本だなー。」と思いました。この日から、毎晩寝る前に一冊絵本を読むようになりました。

55 平成10年6月24日
私が学校から帰ると、またまた突然、父が家に帰ってきていました。私はビックリ仰天しましたが、すぐに病院に戻らなくちゃいけないと言う事を聞き、ガッカリしました。「もしかして、身体の具合が良くなったから退院したんだ!」と思ったのに。私はしゅん・・と肩を落としました。後から聞いた話ですが「もう一度だけでいいから家に帰りたい。」と父が言って、お医者さんからOKをもらって来たのだそうです。母がカメラを持ってきて、私と父の2ショット写真を撮りました。これが、父の最後の帰宅でした。この時の写真を見ると、父は昔と比べてとても痩せているのがよくわかります。食べることがとても好きだった父は、もう何も食べられない状態でした。それでも、私は父が帰ってきてくれただけで、本当に嬉しかったです。あまり覚えてはいませんが、3月末に再入院する直前は、本当に具合が悪く、もう死んじゃうんじゃないかと思ってしまうぐらいひどかったので、お医者さんの治療のおかげで、父は元気になり、家に帰ってこれたことがなにより嬉しかったです。せめてあと30分待てば、姉が帰ってくる時間なのに、病院に戻る時間が来てしまい、残念なことに父は病院へ戻ってしまいました。後から帰ってきた姉は私の話を聞いて、「私も会いたかったー!」ととてもガッカリしていました。

56 平成10年7月末
私と姉は、習っていたバレエの発表会を終えた後、福島県の祖父母の家に行くことになりました。理由は、父がこれまでの6人部屋から個室に移ることになり、母が病院に泊まることも多くなるだろうし、夏休みだから、ということで決まったそうです。福島の祖父母宅で父方の祖母は、とても厳しいおばあちゃんで、「箸の持ち方がおかしい。」と、食事のたびに「持ち方はこうよ、直しなさい。」と言うのですが、私はもう癖がついていて、祖母の言う「正しい持ち方」ではうまく箸が使えません。他にも姿勢がどうのとか、いちいち何か言ってくる祖母のことが私は嫌いでした。祖母は「外は危ないからおばあちゃんと一緒に出かけないとダメよ。」というのですが、昼間、祖母だけが出かけて、私と姉で留守番することが多かったので、姉はそんな祖母のことも気にせず、しょっちゅう私を外に連れ出してくれていました。家の真隣にある公園で、姉から「お父さんは胃を取ってしまったけれど、使っていれば伸びてくるんだって。」と聞いたのですが、6歳の私にはさっぱりわかりませんでした。

57 平成10年8月29日
この日は父のお見舞いの日。私と姉は「わーい、お父さんに会えるー!」と胸を躍らせながら車に乗り込みました。父はいつも通り元気そうで、MASAYAさんのCDを聞きながら、楽しくおしゃべりしました。私は、父のベッドにぶら下がっていた袋を見つけて父に「これ何?」とたずねると「おしっこを取っている袋」だと言われました。「こんなもので取っているのかー。」と不思議に思いました。私達は「お父さん元気そうだったねー。」と話しながら、久しぶりに新潟の家に帰りました。夕方、家に帰ってくつろいでいた所に、母が素っ頓狂な声で「病院に行くよ!!!急いで支度して!!!」と叫ぶように私達に言ってきました。またしても突然の事で、何が起きたのかもわかりませんでした。「お父さん、何があったんだろう。」もしかして、父が死んじゃうんじゃないか。と思うと、怖くなって胸がドキドキしてたまらなくなり、車の中で少し泣いてしまいました。もしかして、お父ちゃんが死んじゃうんじゃないか。という予感がして、とっても心配で心配で、胸が痛くなりました。私達は大慌てで病院に向かいました。

58 父は、いつもの父にしか見えなかったのですが、周りの緊張した、深刻な雰囲気の中、姉と私は父の手を握りました。「もしかして、死んじゃうの?」私は涙が堪えきれなくて、泣き出してしまいました。母は父の枕元に近いところに座っていました。父に「もう何か言うことは無い?」と尋ねると「いや、もう何にもないよ」とニッコリ笑った父でした。私は、これで父に会えるのが最後だなんて、夢にも思いたくなかったです。また、元気になってほしかった。もう一度、一緒に大好きなチョコアイスを食べたかった。一緒に公園に行きたかった。もうちょっとだけでも一緒に暮らしたかった。そう思うと涙が止まらず、私は姉の横で父の手を握りながらワンワン泣きました。いままで、小さい頃大好きで見ていた「となりのトトロ」のお母さんのように、お父さんはきっと帰ってくる。と思っていました。でも、その願いはかなわず、お別れの時が来てしまいました。午後7時39分に、父は亡くなりました。私と姉で泣きながら父の着替えを手伝いました。胸にぽっかりと穴が開いたような、そのショックは今でもはっきりと覚えています。当時私は小学1年生で6歳、姉は小学校3年生で9歳でした。霊柩車を待っている間、眠くなってしまった私は「眠くなっちゃった。ここで寝る。」と言って、父の眠っているベッドにもぐりこみ、一緒に寝てしまったそうです。母は、その光景を見て、涙が止まらなかったそうです。

59 平成10年9月
父のお葬式や父の会社のデスクの整理などが続きました。私は父が何の仕事をしている人なのか、全く知らなかったので化学者だったと知った時はビックリしました。家でお父さんの思い出の品とかを母に見せてもらって、お父さんがどんな人だったかを初めて教えてもらいました。父の葬式などをしている間は、学校は休んでいました。父の死は私には相当のショックでした。また学校に通い始めたのですが、最初笑う事もできませんでした。学校に行っているときも、帰っているときも「家に帰っても、父は帰ってこない。」と思うと、泣き出してしまう事が、いっぱいありました。

第七へつづく

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最終更新:12月18日

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