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第五
38 気がつくと、児童一時保護所に着いていました。もう夜中だったので薄暗く、背筋がぞぞーっとしました。ハイランドだったら、私達が帰り着くといつも暖かい光に溢れていて、安心できる、見るだけでもホッとするのですが、「こんな所に泊まらなきゃいけないなんて・・やっぱり家に帰りたかった。」と余計に悲しくなってしまいました。Iさんは「じゃあ、また来るから。」と言ってさっさと帰ってしまいました。私と姉は取り残され、とりあえず一時保護所の建物に入りました。職員室から職員さんが出てきて、面接室で私達に色々説明をしてくれました。私はもうへとへとに疲れきっていて、何をどう説明されたのかはほとんど覚えていません。
それから職員さんは私と姉の身長・体重を測り、さらに顔と全身の写真まで撮りました。保護所に入った子は皆撮るものだということを後から聞きましたが、それにしても、最初から最後まで、私達は完全な被虐待児扱い、全くそんなことをされることなんて、何もしていないのに、とても屈辱的な気持ちを味わいました
小6の女の子が10時頃入ったと職員さんから聞き、「小6ならMEちゃんではないな。やっぱり家に帰れたんだ。」と思ったことだけは覚えています。一時保護所の服に着替えて、私と姉は居室に案内されました。私は倒れこむように布団にもぐり、「今日だけだ。明日には帰れる。」とおまじないのように、自分に言い聞かせながら寝ました。
これが、私が一時保護所へ「連れ去られる」までの出来事です。
39 保護所での暮らしぶりを書く前に、まず私がどんな人間か、どんな経緯があって、ホームオブハートで暮らしていたかを、詳しく書きたいと思います。これを読めば、私達がまったくもって幸せに暮らしていたこと、父を亡くし、学校の子にいじめられ、不登校になってしまうくらい、深く傷ついてきた心を、MASAYAさんやぶたママさんやスタッフの人達にとても大切に育ててもらって、本当に癒され、幸せに生きれるようになったことがよくおわかりいただけると思います。そして、この事件で、いかに紀藤達が真実を、うそで塗り固めているのかが、ハッキリとわかっていただけると思います。
40 私の生い立ちについて書きます。
私は平成4年2月17日生まれです。その当時、母と父、そして姉は茨城県つくば市に住んでいました。私が生まれた時、父はつくば市のM化学株式会社というところに勤めていたそうですが、私が物心つく頃には、新潟県新潟市へ引っ越していたので、つくば市に住んでいた頃の記憶は殆どありません。私は少し身体の発育が遅く、なかなか大きくはなりませんでした。赤ちゃんの頃の私の母子手帳を見ると、ぐんぐん伸びた姉と比べ、伸びが遅かったのです。姉や周りの友達はどんどん大きくなっていくのに、私だけチビチビとしか大きくならないなんて、ずっと子供のままな気がしてとても嫌で嫌で仕方がありませんでした。姉はどんどん大きくなって、新しいお洋服もいっぱい買ってもらえるのに、私は姉のお下がりすら大きすぎて着られないぐらい、チビだったので、姉のことがうらやましくてしかたがありませんでした。
私は早く大きくなりたくて、ご飯を山盛り食べたり、牛乳をいっぱい飲んでみたり、野菜が苦手だったのもあって、肉や魚ばっかり食べていたのに、それでも全く背が伸びませんでした。でも、母はそんな私の発育について、「自分の父の姉も小柄な方だし、祖父母も非常に小柄だったから似たのかな?」と思っていたので特に心配しないで、のびのび育てていたそうです。 母の話では、母方の私にとっての曾祖父やひいひい祖母は、とても小柄な体格の人だったそうです。姉から聞いた話でも、私の曾祖母もとても小柄な人だったと、聞きました。だから、私は生まれつき、母方の曾祖父と曾祖母からの遺伝で、小柄に育つ体質だったのかも知れません。
41 私が生まれる前の話ですが、父と母はもともとワーナーエアハードという人のセミナーに通っていたそうです。私の母と姉の陳述書には詳しく書かれていますが、私が知っている範囲で、セミナーに通うようになったきっかけについて、書きたいと思います。
私の姉が1歳のころ、母は友人の結婚式に向かう途中の新幹線で、「Kさん」という人と出会ったことをきっかけに、ワーナーエアハードさんのことを知り、セミナーのことを知ったそうです。母は私が生まれる直前まで、通っていたそうですが、私が生まれると忙しくなってしまい、セミナーには行かなくなってしまったそうです。父はいつも一人で通っていたらしく、つくば市に住んでいる間は通い続けたそうです。父は、このセミナーで感じたこととして,「僕のやっていることは地球を汚染してしまっているような気がする。」,「緑の地平線を作りたい。地球をパラダイスにしたい。だから、あえて僕は化学者をもう少し続けてみようと思う」と、しみじみ母に伝えていたそうです。そして母が妊娠したので、「今度生まれてくる子には、自分で名前をつけたい。」と言って、考え始め、ようやく1つの候補に絞り込んだところで、「よ」の字の漢字をどう書くか、何日間も悩んでいたそうです。「最初は「祥(しあわせ)」を「与える」で「祥与」にしたかったんだけど、どうも座りが悪い。だから世の中の「世」にするよ。世の中をパラダイスに。祈りをこめて。」と、母に満面の笑顔で言ったそうです。母から聞いた話では「祥」という字を選んだのも、父のこだわりのひとつだそうです。
42 平成4年7月、父の転勤で私は新潟県新潟市に引っ越しました。この頃から父と母はMASAYAさんのセミナーも受けていたそうです。MASAYAさんのセミナーに通うようになったきっかけは、ワーナーのセミナーに昔から参加していた先輩の人から、MASAYAさんのセミナーのことを紹介してもらったそうです。父の部屋は「荘子」「老子」「タオ」についての本が何十冊と並んでいて、他にも「気」とか「ハンドパワー」などなど不思議な本がいっぱいありました。父はその本を読むことが好きで、枕元には二〜三冊は必ず積まれていて、休みの日はごろ寝しながら読んでいました。MASAYAさんは老荘の思想的な話をしている人ですが、父もそのような話にすごく興味を持っていた人だったそうです。だからこそ、父はMASAYAさんのセミナーに参加していたのだと思います。
43 それから、父はものすごくMASAYAさんの音楽が好きで、家には何枚もCDがあり、どこかへ出かける車の中でも、MASAYAさんの音楽をかけていた記憶があります。父は音楽が好きだったのか、部屋には沢山のCDがありましたし、休みの日には私達を連れてTSUTAYAやタワーレコードにCDを買いにいっていました。父のCDコレクションはいろんなものがありましたが、その中でも格別に気に入っていたのは、MASAYAさんのCDシリーズでした。車の運転席の脇の物入れスペースにはMASAYAさんの音楽をダビングしたテープが山のように入っていました。
MASAYAさんの音楽と同じぐらい、松田賀江さん(のりのりさん。以下賀江さんと書きます)の絵やポエムが好きで、賀江さんの挿絵とポエムが描かれたポストカードが、トイレや廊下に飾ってありました。
44 父は仕事が休みの日は自転車で、前に私、真ん中に父が乗り、後ろに姉の3人乗り(となりのトトロに出て来るお父さんのように)をして、近くのショッピングセンターや公園などに連れて行ってくれました。父はとてもやさしく、おもちゃを「買ってー」とねだると「いいよ。好きなの選びな」とにっこり笑って買ってくれる父でした。一言で言えば、「超子煩悩パパ」でした。父も気に入ったぬいぐるみを見つけたら、すぐに買ってしまう面白い父でした。(「僕に似てる。」と笑いながら「猫バス」の大きなぬいぐるみを買っていたことがありました。)
父は料理を作ることも大好きで、土日の晩ご飯にバーモントカレー、ジャガイモやお肉などの材料を自分で買ってきて、「このレシピが一番おいしいんだ。」と言いながら箱の裏面のレシピ通りに作ってくれました。姉は必ず手伝っていて、アク取りを担当していました。私は遊びながら様子を見にいったりする程度でしたが、もうちょっと背が伸びたら一緒に手伝いたいな、といつも思っていました。私はそんな父が大好きで、父が家にいるときはずっと父にくっついていました。私と姉は、父が仕事から帰ってくると玄関まで飛んで行って「お帰り〜!」と抱きついていました。
45 母についても書いておきます。
私の母も、父と同じく私や姉にはなんでもやらせてくれる母でした。母が掃除機をかけていて、4歳位だった私が「やらせてー。」と声をかけると「はいどうぞ。」と言って、取っ手をもたせてくれる、母でした。母はとてもマメな人で、特に料理が上手でした。いつもおやつは母が手作りしたおやつで、誕生日には美味しいシフォンケーキを必ず焼いてくれました。甘党な父のために、必ず食後にはワインゼリーや梅酒ゼリーなどのデザートを用意していました。私と姉はその頃から料理を作るのが大好きで、母のお手伝いをするのは私の大の楽しみでした。そこで母は、姉に子供用包丁を買ってやり、姉と私と母の3人で料理をすることがあたりまえでした。一番面白かったのは餃子作りでした。母が具を作り、ある程度の分(たぶん、父と母の分でしょうか)を作り終えたら残りは「皮に包むのやっていいよ〜」とボールごと渡してくれました。私と姉はエプロンをつけて張り切って餃子を包みました。食卓には、母がきれいに包んだ餃子と一緒に私と姉が包んだ餃子がおいしそうに並べられ、父は「今日は豪華だねー。」とニコニコしながら食べてくれました。
母はお裁縫も得意で、家にいる間、ビーズを使った小物や手作りのバッグ・リュックサック、髪を結わくゴム、ピエロの形をしたポプリなどなど、を作っていましたので、家中が母の「作品」だらけでした。そんな母の影響か、私は小さい頃「キラキラ」したものが好きで、気に入ったビーズを少し分けてもらって宝物にしていました。また、母のアクセサリーにも興味深々だったそうで、母から「大きくなったら全部あげる。」と言われて喜んでいたそうです。
46 姉についても書いておきます。
姉は大柄で頭がよく、手先が器用でしたから、困ったことがあれば必ず助けてくれる、とても頼りになる姉でした。姉は小さい頃から、家の工具箱を引っ張り出してきて、おもちゃを分解して、また元通りに組み立て直したり、ダンボール箱などをうまく使って凝った作りの秘密基地を作り上げることが大好きで、いつも茶色とか黒とか紺色っぽい感じのシンプルな格好をした姉でした。姉はとにかく、面白い姉でしたから、私はいつも後を追いかけて回っていました。あんまりにも私がしつこくついてくるので姉が走って逃げ出してしまうと、一気に心細くなり「待ってー!」とべそをかいていました。私の泣き声に慌てた姉はものすごいスピードで引き返してきました。
47 姉は、自分では「私はあまり面倒見がよくない。むしろ面倒見が悪かったよ。」と言っていますが、私からすれば、姉は私の様子を気にしてくれる、面倒見のいいお姉ちゃんでした。私が2歳ぐらいの頃に、ビデオデッキの差込口に指を挟んでしまい、抜けなくなってしまったことがありました。普段は母か姉がビデオをセットしてくれるのですが、たまたま母も姉もそばに居なかったので、私は自分でビデオを入れようとして、誤って指を挟めてしまったのです。そこに、「大変だ!」と言いながらすっ飛んできたのが、当時5歳ぐらいだった姉でした。慌てた姉は私の手を思いっきりつかんで引っ張りました。無事、ビデオデッキから指が抜けましたが、指の皮がむけてしまい、血が出ています。私は痛くて泣いてしまいました。そこでやっと、母がこの騒動に気づき、私の指の手当てをして、すぐ病院に連れて行ってくれました。しかし、姉がどうしたわけか、泣いていました。たぶん、私に怪我をさせてしまったからだったと思います。
48 という風に、私の幼少時は、父と母が喧嘩するようなこともなく、姉からも大切にされ、とても幸せに暮らしていました。しかし、こんな幸せな生活が急変する出来事が起こりました。それは、父がスキルス性胃癌で突然亡くなったことです。