子供たちからの声

このサイトは、紀藤弁護士・HTPのメンバーたちのために、言われもない虐待の疑いをかけられた子供が、
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また、この事件のように法律を利用した事件について考えていくサイトです

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第十三

92 5月6日、私は精神的に疲れ果てていて、とうとう熱を出してしまいました。朝から、なんかのどが変だな。とは思っていたのですが、どんどんのどが痛くなり、しまいには40度の熱が出て、急いでタクシーに乗り病院に行って薬をもらいました。保護所の布団の中で、私はハイランドで風邪をひいた時の事を思い出していました。私が2階の子供部屋で寝込んでいたとき、MEちゃんがチョコレートを持って見舞いに来てくれたり、スタッフのTさんが「1階で寝た方がいいよ。床暖房がついててあったかいからすぐ治るよ。」とすすめてくれたので、実際に寝てみたら本当にすぐ治ったことなどの懐かしい思い出と共に、涙が出てきて、「早く帰りたい・・・」とますます思いました。しかし、ここは宇都宮。いくら帰りたいと願っても、すぐに帰れるものではありません。私はハイランドの思い出を胸によみがえらせ涙しました。ある朝、姉が「私さ、こんな夢を見たんだ。」と言ってきました。姉は、私達3人で保護所を脱走し、夜道を歩き続け、遂にハイランドへ帰ってこれた。という夢を見たそうです。私もシャーマンちゃんも嬉しくなって、「わぁーそれ正夢じゃない?」「もう本当にやった方がいいんじゃない?」と口々に言いました。いざとなったら、本当に脱走出来るように、どこから脱走できるかを3人で探して3〜4箇所見つけたりしました。

93 やっと、児童相談所のケースワーカーのTさんが来ました。そう、待ちに待った、私達の今後どうなるかの結論が出たのです。私は「やっと皆の元へ帰れるー!!」と喜びました。しかし、その結果というものは、私達を、絶望のどん底に突き落とすようなものでした。まず姉が呼ばれ、私の番が来ました。私は意気揚々とTさんとの面接室に行きました。Tさんは「元気に過ごしてた?」と言ってきたので、心の中では「こんな少年院のような所に入れられて、元気でいられるわけないでしょ。」と思いながら「いや、私、すごくひどい風邪にかかっちゃったんですよ。今は治ったけど。」と答えました。Tさんは咳払いすると、「長い間いろいろと、話し合った結果・・・」「まず、ホームオブハートには、帰れない。」と、言いました。「・・・っえ?!」Tさんのありえない発言に、私はショックを受けました。Tさんは紙を一枚出し、その紙を私に見せながら、そこに書いてあることを言い始めました。3つの選択がある。
1、母と暮らす。ただ、母はホームオブハートを辞めなければならない。別にアパートを借り、そこに暮らす。
2、「N学園」という施設に入る。
3、祖父母、又は里親の所で暮らす。

私は、思いもよらない最悪の選択に、溢れる涙を止められませんでした。「絶対帰れる。MASAYAさんやぶたママさんやスタッフの人達、MEちゃん達の元へ、絶対帰れる。」そう信じて、ほとんどそれだけを支えにして来たのに、何でこんなことになってしまったのでしょう。そんな訳ない!!私はそこで幸せに暮らしてきたのに。なぜ?!実態を知らない人達に、何でそんなことを言われなきゃいけないの?!そんな思いが、心の中ではじけていました。私達がこんなひどい思いを味わうことになったのは、Yy、あなたたちの悪企みのせいです。本当に許しがたい。本当にひどい。
私が泣き止んでくると、Tさんは「この話は、君の選択どおりには進まないかもしれないけど、5月31日にまた来るから、それまでにどうするか、考えておいてね。」と言いました。私はただ、頷くしかありませんでした。

94 そのあと、皆で相談しあって、姉とシャーマンちゃんと私で、N学園を見学しに行くことになりました。そのことを、姉が保護所の先生方に話すと、全員とても驚いて、「何でブーちゃんマン達がそんなところに行くの!?」と口々に言っていました。先生だけでなく、保護所に居る子達からも「すごくひどい所だよ。」とうわさで聞いていたので、「よっぽどひどい所なんだろうな・・」と正直思っていました。

95 5月28日 N学園の見学をしてきました。N学園の見学のことは、姉の陳述書にとても詳しく書いてあります。私はあんな刑務所のような所は、二度と思い出したくもありません。私達のハイランドでの幸せな生活と、あまりにもかけ離れた、普通じゃないN学園の生活は、「こんな所にいる子供達、かわいそう・・・」と思ってしまいました。そしてN学園の見学をした翌日、姉がすごい熱で、倒れてしまいました。私が熱を出した時のように、姉はタクシーに乗せられて急いで病院に連れて行かれました。きっと、ホームオブハート帰れなくなったショックと、N学園のあまりの尋常のじゃない所だった、というショックのせいで、熱を出してしまったのだと思います。私とシャーマンちゃんは心配で、二人で姉の所に行きました。姉と私とシャーマンちゃんで、例の3つの選択について、必死に話し合いました。もう、私達の選択はただ1つ、母と暮らすこと。それしかありません。もしもN学園行きになったら、その時こそ、みんなで脱走しようと3人で誓いました。

96 そして、Tさんが私達の答えを聞きに来ました。まず姉が行き、次に私の番が来ました。姉に「ガンバって!!」と声を掛けられ、勇気がでてきました。「私は母と暮らしたい。」そう言うと、Tさんは「わかったよ。ただ、君の選んだ方には、いかないかも知れないよ。」と言いました。「いいです!」と私は答えました。脱走すればいいんだから。Tさんがちゃんとわかってくれたか、心配で仕方がなかったのですが、無事に私の意志を受け取ってくれたと思います。Tさんは「また決まったら、お母さんと一緒に来ますからね。」と言って、去っていきました。そして、私達はTさんが最終的な答えが出る時を、せめて私達が望む方向にいくことを願って、待ちました。

97 翌日の6月1日。なんと、私の母とシャーマンちゃんのお母さんが、TさんとAKさんと一緒に一時保護所に来ました。何の事かと思えば、母と一緒にこれからの事について、報告しに来たそうです。とても早く決まったので、私は驚きましたが、とても嬉しくって飛び跳ねながら、一時保護所の隣に建っている、中央児童相談所に皆で入りました。面接室に通され、皆で並んですわりました。AKさんが「えー、これから、お母さんと、暮らせることになりました。」といった時、私達は「やったーーー!!!!」と思い切り叫びました。とりあえずお母さんの元に帰れる。この2ヶ月間、ずっと待ち続けて得たこの喜びは、例えようのないものでした。私は、母と一緒に暮らせる。という望んだ選択が叶ったのは、嬉しかったのですが、もしかしたら、今までそうだったように、また話が変わってしまい、N学園行きになってしまった、「・・・何てことが起きたら、どうしよう。」と不安になってしまい、保護所にいる間は最後まで、安心することはできませんでした。

98 翌朝、保護所に来たときの洋服と、上着を返してもらって、保護所にいる間中、ずっと付けていた日記や、何枚も書いた、イラストなどももらって、退所式をして、玄関に行くと、私の母と、Mmamaさんが待っていました。まるで、この様子は「リトルトリー」とまったくおんなじだな。と思いました。冒頭にも書きましたように、私達の身に降りかかった出来事のすべてがまるで「リトルトリー」のお話とそっくりでした。この「リトルトリー」という物語がどんなお話かといいますと、両親を亡くしたインディアンの少年「リトルトリー」は、インディアンの祖父母の家で暮らすことになりました。山小屋のなかで、沢山の犬達に囲まれ、リトルトリーは沢山の冒険をしながら、幸せに心豊かに暮らしていました。夜には祖母が本を読んでくれて、町に降りた時に図書館に通うことが楽しみでした。そんな幸せな生活が、ある日突然、「祖父母は子供を育てるには不適切」というとんでもない言いがかりをつけられ、リトルトリーは一人孤児院に連れて行かれてしまいます。リトルトリーは、着ていたインディアンの服を着替えさせられ、長かった髪を切られ、「リトルトリー」という名前すら、白人の名前に変えられてしまうのです。周り全員がクリスチャンで、彼はすっかり厄介者扱いされ、ときには体罰まで受けてしまいます。これまでの幸せな生活とは真っ逆さまな暮らしの中、リトルトリーは一人でただ夜空を眺め、ふるさとの祖父母を想う毎日でした。おじいちゃんや友人のインディアンのおかげでようやく孤児院から出ることができたリトルトリーは、履いていた革靴を脱ぎ、空高く放り投げ、はだしで山へ帰っていくというお話なんですが、この時の私も、まったくおなじ気持ちでした。

99 車に乗ると「やっと、保護所から出れた〜。」と安堵感で胸が一杯になりました。本当は、ホームオブハートで元通りに生活することが、一番の望みでしたが、悲しいことに、それは叶いませんでした。でも、まずは母に会えたこと、一緒に暮らせることが、やっとつかめたわずかな希望の光でした。私達の車は、近くの焼肉屋さんのお店の前で止まりました。「あれ?どうしてここで止まったのかな?」と思ったその時、なんと!MEちゃんとぶたママさんが、私達の方に走ってきました。私達も無我夢中で抱きつきました。2ヶ月間、ずっと会えなかった分、喜びで一杯になって、涙が溢れました。この感動を、言葉にできる文字が見つかりません。ここまで呼んでいただいている皆さんなら、この時の私の気持ちもわかると思います。

100 こうして私達は、ハイランドや豊原の家ではなく、別のところに借りたアパートに母と暮らすことになりました。そして、母は私達に、今まで児童相談所とどんなやりとりがあったのかを話してくれました。姉の陳述書に詳しく書かれていますので、私は、この話を聞いて当事者である私がどんなにビックリしたか、悲しかったか、について、書いておきたいと思います。

まず思ったのは、児童相談所の所長さんとMASAYAさんのやり取りの内容、自分達が泥をかぶってでも児童相談所と私達を守ってくれたことには、感謝してもしきれないぐらい、嬉しかった。本当に嬉しかったです。完璧にN学園行きに決まってしまったのに、それを根底から覆してくれた、その力は本当にすごいとおもいました。会社だって、マスコミが大勢押し寄せ、ただでさえ大変な状況なのに、MASAYAさん達は私達をN学園行きから救おうと、もう感謝と涙でいっぱいでした。そして、なんで、あんなに、私達の保護期間が長かったのか、途中からOさん達がほとんど来なくなったことも、合点がつきました。そして、母が児童相談所から聞いていた私の様子が、とんでもなく事実と違っていて、私はずっとOさんに「早く家に返して欲しい」と散々言ったつもりです。姉はIさんだけでなく、課長さんにも言うぐらい、ずっと伝えてきたはず。なのに、母には「子供さん達は保護所で楽しくやっていますよ」などという報告がされていたそうです。
これは、私達も同じで、まさか5月の上旬にはN学園行きの話が出ていたなんて、かけらもきかされませんでしたし、決定すれば、強制的に入園させる、という、ほとんど虐待決定と変わらない処置が待っていたというのです。
私も姉も、顔面蒼白になりました。これではリトルトリーどころの話ではありません。私達の様子すら、母には何にも伝わらず、母の様子も私達にはかけらも知らされませんでした。本当に、ひどすぎる話です。

第十四へつづく

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最終更新:12月18日

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